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建築のオペレーション・フィールド ──あるいは、サイバースペースの記法と慣例 | 菊池誠
The Operating Field of Architecture, or Notation and Convention in Cyberspace | Kikuchi Makoto
掲載『10+1』 No.03 (ノーテーション/カルトグラフィ) pp.126-135

0:チップのなかの空間


((-1 . <Entity name: 60000264>) (0 . INSERT) (8 . AME_FRZ) (5 . 36) (2 . AME_NIL) (10 1.0 1.0 1.0) (41 . 1.0) (42 . 1.0) (50 . 0.0) (43 . 1.0) (70 . 0) (71 . 0) (44 . 0.0) (45 . 0.0) (210 0.0 0.0 1.0))
──あるCADシステムにおける辺の長さ1の立方体のデータの表記。


それは、コンピュータの記憶空間の中に作られた簡単なデータ構造体だ。表示画面に見えているのは、たとえば立方体を表現するグラフィックスである。その構造化されたデータの表現形式を、仮にスクリーン上に呼び出して見るならば、((-1 . 〈Entity name: 60000264〉)……以下上記のとおり、となる(読者の中にご存知の方も多いと思うが、このデータは某社製CADソフトウェアで定められた表記法を持っている)。データが、構造化されていると言ったのは、左括弧と右括弧で括られる数値や文字記号列のひとまとまりが、また複数のそれらが入れ子になっているありさまが、〈リスト〉の形式をなしているからである。かつて、一九五〇年代という電子計算機の歴史のはじまりと同じくらい古くから、計算機に人間の知能と同じ役割を果たさせようというアイディアがあった。リストは、その人工の知能の研究用に作られた、あるプログラミング言語で扱われる汎用のデータ構造である。
歴史的な経緯はこの際無関係だとしよう。それでもここに見られるデータの表記、つまり文字と数値の並びは、それが(あの悪名高い括弧の羅列によってだが)構造化されていることを、つまりそれが読まれるべきものであることを、またなんらかの操作によって内容が改変されうるものであることを、示している。極言すれば、この場合CADシステムとはブラウン管に映し出される映像を見ながら、さまざまな形状を対話的に形作っていくための応用ソフトウェアなのではない。CADシステムは、むしろデータ・オブジェクトの構造体を生成し、複数のそれら構造体からなるデータベースを保持し、定められた指示体系に則ってこのデータベースの改変を受け付ける、一種のプログラミング環境である。
今やありふれた日々の仕事の道具であるCADシステムを使ってわれわれがやろうとしていることは、建築物──建築家が職業として携わる生産過程の最終成果品──の似姿をブラウン管にディスプレイされるものとして生産すること、ではない。コンピュータに支援されて作られるものは、とりあえず設計対象の形状を表わすデータであるが、そうであるにせよそれはある種の構造を持ったデータベースの形を成していく。CADシステムを操作するということは、このデータベースを操作することにほかならない。

このデータベースの中身を人間が読める記号群として、つまり文字や数値の集まりとして、覗き見ることはできる。それは上にも記したように、やがて出来上がる建築の似姿というにはあまりに異なる外貌をしている。建築を生産するに先立って紙上で行なわれるシュミレーションたる設計図にも、それは似ていない。そして、そこに並んだ文字や数値による記号表記は、それ単独では完結した意味を持っていない。その並びかたのシステムにCADシステム側で決めた慣例とでもいうべきものがあって、この慣例が表記に意味を補う。                                                                                               

ヴァーチュアル・リアリティ・システムのヘッド・マウンテッド・ディスプレイに表示される〈仮想空間〉。人工現実感の研究初期にはメモリ容量や計算速度といった使える〈資源〉の制限から、この図のようにワイヤーフレームだけで仮想空間が表現されていた。だが、最近のシステム・キッチン・メーカーが作る、多色の〈リアル〉なヴァーチュアル・キッチンよりも、この素朴な画像のなかにいっそう奥深い空間を感じるのはなぜだろう。

ヴァーチュアル・リアリティ・システムのヘッド・マウンテッド・ディスプレイに表示される〈仮想空間〉。人工現実感の研究初期にはメモリ容量や計算速度といった使える〈資源〉の制限から、この図のようにワイヤーフレームだけで仮想空間が表現されていた。だが、最近のシステム・キッチン・メーカーが作る、多色の〈リアル〉なヴァーチュアル・キッチンよりも、この素朴な画像のなかにいっそう奥深い空間を感じるのはなぜだろう。

ところで、私たちがコンピュートする時間の中でもっとも〈空間〉を感じるのは、ブラウン管上のデータのグラフィックス画像を見ながら、アプリケーション・ソフトウェアを対話的に用いているときではない。アプリケーションの内部に用意されたプログラマブルな拡張機能や、あるいは当のアプリケーションから言えば外部にある別のプログラミング環境を用いて、バイパスでデータ構造体に直接アクセスし、操作しているときである。CADそのほかのアプリケーション・ソフトウェアのマン — マシン・インターフェイスは従前の(人手による、と、とりあえず言っておこうか)作業のモデルがすでにあって、道具こそ異なれ、キーボードとポインティング・デバイス、つまりはマウスだかディジタイザだかと画面に散りばめられたメニューを使って従来通りの作業を再現=代替しているに過ぎない。このことは、実は最近のマン — マシン・インターフェイス研究の、つまりいかに機械を人間に近づけるかという試みの大きな成果ではあるのだが、そうではあってもそこに空間を、ある種奥行きのようなものを感じることはない。それに対して先程バイパスで、と述べた、データ構造体への直接のアクセスにおいてはCADシステムの側で定めるデータ構造化の慣例にひとまず従わなければならない。その慣例の組み立てられ方に、ある種の空間を感じるのである(今、とりあえず感じるという語を使ってしまったが、たとえば私たちは、すでにデータ量1メガバイトの三次元モデルを、軽く〈感じ〉、10メガバイトのモデルを重く〈感じ〉はじめている。メガバイトという単位は、どう見ても重力加速度とは関係がない、にもかかわらずである)。
デジタルな仮想の空間における記法と慣例の組み立てが、仮に比喩として、あるいは記憶の便法として現実の物理空間における現象の概念やその名を用いて行なわれていたとしても、そこでわれわれが直面することになるのは新しい種類の空間、未開拓の地平である。ついでに言ってしまえば、メガバイトがガルの代わりに重力加速度の単位になるような、空間である。

この記法の空間は、もっぱら再現的であることを目指そうとしているのではないという点で、一見、純粋にニュートラルなもののようにも思われる。マイクロ・プロセッサ・チップの中に生起するフリップ・フロップの空間は、物理的には、単なる電気信号の明滅パターンに過ぎない。フリップ・フロップには、いかなる意味づけも価値づけも、あらかじめなされてはいない。まったくの、フラットな、意味の真空地帯。確かに、その通りだ。
だが、いったんそこで記号に、つまりフリップとフロップの並びに、なんらかのはたらきをさせようとするならば、この空間が、保持と変換、そして消去の、操 作 の 場オペレーシヨン・フイールドとして組み立てられていることが前提になる。オペレーション・フィールド、辞書によれば、戦場、である。あらゆる種類の戦略と戦術、ロジスティックスがそこに持ち込まれるだろう。無垢な記号の群れが漂流するのは、背後から記号たちを支え、書き換え、ときに消し去る操作の体系が作る空間の中なのである。

記法と慣例。記号化のはたらきと意味づけの作用。新しい、未開拓の空間の中における……だが、それは、かつて見知ったことのある光景であるような気もする。                                                                                                                                       

タートル・グラフィックス言語のコマンド・ラインとタートルによる描画。 少なくともこの仮想世界の〈亀〉にとって左側のコマンド・ラインと右側の描画とは等価である。

タートル・グラフィックス言語のコマンド・ラインとタートルによる描画。
少なくともこの仮想世界の〈亀〉にとって左側のコマンド・ラインと右側の描画とは等価である。

1:建築のシニフィケーション


もし私がダイヤモンドを指差して「これ」と言えば、この語はやはり「このもの」を意味するであろう。しかし精神はそこに「硬くて輝くダイヤモンドという(このもの)」なる意味を付加し補うであろう。それが葡萄酒の場合には、精神はそこに液体、味わい、色合い、その他の種々の観念をつけ加えるであろう。
──『ポール・ロワイヤル論理学』第一五章★一。


ヴィクトル・ユーゴーはかつて、印刷された書物の出現とともに、伽 藍カテドラルが死んだと述べた。ヨーロッパ中世都市の形成期に、中世都市の住民の集団的記憶の保存場所であった伽藍は、印刷術の発明とともにその役割を終えた。集団的記憶の保存場所は、以後書物の中に移ったからだ。石の中に刻まれた記憶に代わって、紙の上に印された記憶。だが、石が紙に、物語=歴史の媒体が建築からテクストに代わったということ自体はたいしたことではない。
「文字を使用するものと文盲との近代における一大区分は、ルネサンスとともに建築物にまでおよぶに至った。自分の切り刻む石の性質を熟知し、また部下の仕事師たち、自分の道具類、自分の仕事の伝統を知っていた石工の頭は、パラーディオを知り、ヴィニョーラを知り、ヴィトルヴィウスを知る建築家に道を譲ったのだった。建築は、建物の外面にこころの喜びを刻み、その痕跡をのこそうとする努力をあきらめて、ただ文法的正確さと表現の明晰さの問題になってしまった」(ルイス・マンフォード)★二。
歴史家マンフォードが憂えているのは、建築が物理的な世界(リアル・ワールドと、現代の仮想現実の研究者たちなら呼ぶだろう)から離れて、書かれたもの、テクストの世界の中に移ってしまったことであるのだろう。石の重みと触感に、学識と表現の文法が取って代わった。だが、それは当初から予定されていたことではなかったか。建築が、Archi-tecture、つまり技術を統べる技術として始められたからには。

「実に、すべてのものには、特に建築には、この二つすなわち意味が与えられるものと意味を与えるものが含まれている。意味が与えられるものとは、それについて語られるよう提示されている事物をいい、意味を与えるものとは、学問の理に従って展開された解明をいう」(ヴィトルヴィウス『建築書』I-1-3)。

アンドレア・パラーディオ、ヴィッラ・ロトンダ。建築家自身の著わした『建築四書』に載せられた図版。その後、あらゆる建築家にとっての規範のひとつになる〈理想的ヴィッラの数学〉。

アンドレア・パラーディオ、ヴィッラ・ロトンダ。建築家自身の著わした『建築四書』に載せられた図版。その後、あらゆる建築家にとっての規範のひとつになる〈理想的ヴィッラの数学〉。

すべてを古代ローマのヴィトルヴィウスに帰するのはフェアではないかもしれない。ヴィトルヴィウスの著わした『建築書』は、その大部分を建築物を作るに際して必要な、プラクティカルな技術の記述に当てているからだ。だが、少なくとも彼の『建築書』の〈再発見者〉たちは、この書物を、さらなるテクスト(あるいはインターテクスト)として建築を〈書く〉ための口 実プレテクストとして用いた。ユーゴーやマンフォードが想定した時期(ヨーロッパのルネサンス)を起源とすると言い切れるかどうかはわからないが、建築はもともとテクスト、思念の織られた〈織物〉だったのである。
書かれ、たえず書き直され、そしてもっぱら読まれるべきものとして構想された建築。たとえばパラーディオはヴィチェンツァに建てられた円と正方形の平面を持つヴィッラ・ロトンダにおいて彼の思念の小宇宙を作って見せた。その作品なしには、以後の建築の歴史の中にパラーディオの文化的遺伝子が残ることはなかっただろう。が、一方彼が編んだ『建築四書』という書物、そこに盛られた文字通りのテクストと彼の建築を図解するドローイングの集成がなければ、やはり彼の文化的遺伝子はその後に残ることはなかったであろう。さらにこう言ってよければ、ヴィッラ・ロトンダそのものが現実の土地の上に建つ石、レンガとスタッコの物理的構築物であるよりは、一個の書物、つまりもっぱら読まれるべきものとして構想されたもののように思われる。
一八世紀の建築家クロード = ニコラ・ルドゥが遺した最良の作品はおそらく彼の著わしたテクストと図版からなる『芸術、風俗および法制との関係の下に考察された建築』という書物であり、さらに、二〇世紀、近代建築の旗手ル・コルビュジエの最も重要な作品はアルテミス社刊行の「全作品集」であると言っていいかもしれない。ちなみに、ル・コルビュジエの絶筆となったテクストは「思惟のほかに伝えるべきなにものもない」と題されていた。

建築はあらかじめ、非物質化されていた。そして、おそらくたえず非物質化されている。あたかも、言語のように。

2:分節化


メモリー不足のため実行できません。
──あるウィンドウ・システムのエラー・メッセージ。


かつて、ルネサンス以降のヨーロッパ建築を統べる古典主義様式のことを、歴史家ジョン・サマーソンは、建築のラテン語であると呼んだ。建築は言語で書かれた書物のようであり得たし、またそうなることを欲してもいた。言語は、意味を担うために、分節化される。
「欲望が増大し、仕事が複雑になり、光が広がるにつれて、言語は性格を変える。それは一層正確になるが、情熱を失う。それは感情を観念に置き換える。それはもう心では語らず、理性で語る。まさにそのゆえにアクセントは消え去り、分節化が広がる。言語は正確で明瞭になるが、それだけ長たらしく、重く、冷たくなる」(ルソー)★三。
だが、この一八世紀啓蒙主義期の思想家が述べるプロセスは必然ではないだろうか。ルソーは何らの慣例にも規則にも則らない叫び声を言語の自然状態だと考えていた。が、われわれが用いることのできる記号(この場合なら音素だが)は有限で、少ない。記号で表わされるものと、記号との結び付きを保持すべき記憶の容量もまた少ない。この、用いることのできる資源の希少性と、他方でそこに担わさなければならない意味の豊饒との間に生じたギャップを、ルソーが分節化と呼んだ、言語を言語たらしめるはたらきが埋めることになった。叫び声は感情を伝えたかもしれない。だが、概念を伝えるためには、あるいは世界を記述するためには、名前が必要だった。冒頭の、仮想の立方体がシステムによって60000264と名指されたように、である。
名指すことが始まり、名指すことに必要な資源の少なさと、名指されるべきものの多さとを橋渡しするために、資源の分節化と結合の技術が生み出された。プラトン主義者で同時に、微積分という動的な世界を記述する技術を、その記法の面から推し進めたライプニッツは、結 合 法アルス・コンビナトリアを、すべての学に先立つ普遍の学だと見なしていなかっただろうか。
「例えば、機械の模型が機械そのものを表出したり、平面上の遠近法的投影図は立体を表出したり、記号が数を表出したり、代数方程式が円やその他の図形を表出したりする。これらの表出に共通することは、表出そのものの諸条件を考察するだけで、表出されるべきものの特性を認識できることである」★四。表出するものは、模型であり、投影図であり、記号、方程式であり、そしておそらくは地図や言葉である。

名指すことが始まれば、分 類クラシフアイすることが続く。希少な資源を用いて、世界を記述しつくすためには、記法の経済的側面つまりは効率の問題を捨て置くわけにはいかない。共通の要素を持つ個物を類として集め、類を名指し、個は類の名の下に、固有の、類とは差のある分だけを記述する要素とともに保持する。その様子はちょうど現代のある種のプログラミング言語の持つ仕様に似ている。
記法は意味を担うために作り出される。それは、より効率的に自らのはたらきをまっとうするために、分節化され、クラシファイされていくだろう。そうすることで無限の意味に対抗し、また無限の意味の方に向かって開かれるだろう。だがそのとき、それはまた「長たらしく、重く、冷たく」なってもいくのである。「長たらしく」、そう、たしかに複雑に……。

3:モードレスな空間


世界なんて一瞬で変わる。
──あるソフトウェア・メーカーの広告コピー。


かつて空間の排他性に注目したのは社会学者のゲオルク・ジンメルだった。国家のように空間と密接に結び付いた排他原理──国土は二重に統治され得ない──にもとづく集合概念と、他方に宗教のように原理的に非空間的である、したがって非排他的である──望むらくは?──集合概念のことを、彼はどこかで触れていた。ジンメルはまた西欧の歴史における個人主義の系譜に関して透徹した洞察をものした思想家でもある。一九世紀の、ジンメル名付けるところの「唯一性の個人主義」に見られる、かけがえのない唯一の個人という概念は空間の排他原理とおそらくは相補なうものであるのかもしれない。「唯一性の個人主義」はまた個がネーション・ステートという一九世紀にあっては新興の、そして確かにある種の普遍的な力の波及の前で無力化していった過程を表現しているのでもあろうが。

今、私がこの原稿をタイプするのに使っているコンピュータのオペレーティング環境はモーダルではない。私は好きなときに原稿を書くことを中断して、現在の作業状態をそのまま抛っておいて、ワードプロセッサを終わらせることすらなく、別の、そう、たとえばゲーム・ソフトの中に入っていくことが出来る……そして今、ここに、中断前の状態と何ら変わることのない場所に戻って来られる。モーダルとは、つまり仕事タスクを入れるスロットがひとつしかないことだ。そこには排他原理がある。私の手近に今いるもので別のたとえを借りよう。寒さを感じているイグアナは寒さのことしか考えられない。空腹を感じるためには、寒さをいったん忘れなければならない。空腹でもなく寒くもないイグアナの脳のスロットには単に〈OK〉というデフォルトのアイドリング信号が入っている。
マーヴィン・ミンスキーは、(イグアナのでなく)人間の精神のメカニズムを社会にたとえた。心は、それぞれさまざまな考えを担う複数のエージェントからなる社会を成している。つまり、スロットが多数ある。その結果、精神は全体としてモードレスになる。そこでは排他原理がはたらかない。モードレスということはもっぱらマルチ・スロットであるということに等しい。
同時並行でいくつものスロットが明滅する。そう、たしかにものごとは複雑になり続けている。

与えられた整数の列から奇数だけを取り出してその和を求めるというある小さなプログラムの実行状況を示すコンピュータ・スクリーンの上の映像。プログラムのソース・コード(右上)と流れ図(右下)、そしてメモリ空間の内容(左中)や用いられている変数の有効範囲=プログラムのブロック構造(左下)を示すさまざまなウィンドウが開かれている。

与えられた整数の列から奇数だけを取り出してその和を求めるというある小さなプログラムの実行状況を示すコンピュータ・スクリーンの上の映像。プログラムのソース・コード(右上)と流れ図(右下)、そしてメモリ空間の内容(左中)や用いられている変数の有効範囲=プログラムのブロック構造(左下)を示すさまざまなウィンドウが開かれている。

4:迷宮としてのネットワーク


あなたにとっての世界となるシュールリアリスティックなアドヴェンチャー。
──コンピュータ・ゲームMYSTのCD-ROM表面に印刷された、ゲームの副題


ネットワークの分配器ハブのトラフィック・ランプが痙攣的な速度で明滅している。情報がケーブルの網目の中を高速に流れていることを示すしるしだ。情報とはすなわち交通の問題であることを告げる赤い発光ダイオード。

今、ワードプロセッサの、またCADシステムの窓を開いている同じディスプレイの中に、ゲームMYSTの窓が開かれている。美しいグラフィックスで描かれる孤島の埠頭に降り立つところから始まるこのゲームのプレイヤーは、最初ゲームの目的を知るためだけにも、この島をさまよい歩き、そこここに仕掛けられたガジェットに触れ、その結果何が起こるのかを見ていかなければならない。島は、迷宮であり、そして実は書物でもある(世界が書物と等価であるということは、このゲームの制作者たちの強いメッセージであるかのようだ)。迷宮の中をさまようこと、そして書物を拾い読みブラウズすること。
ところで、このMYSTは、私のコンピュータではない、ネットワークの結線の向こうにある別のコンピュータの固定ディスク記憶装置から、私の機械の主記憶装置にロードされたプログラム実行モデュールによって動いている。またその窓の中に現われるMYST島のさまざまな情景は、やはり私のものではない、結線の向こうの機械のCD — ROM駆動装置の中に装填されたCD — ROMの中に貯えられており、1シーンごとに私の機械の主記憶装置だか、ビデオ記憶装置だかに転送されて、画面に表示されている。これは十分に、複雑なことだ。少なくともMYSTの迷宮そのものと同じくらいには複雑なことだと言ってよいだろう。

記法をめぐる思惟は、複雑さの概念に立ち還る。複雑さは、しかし、それ自体捉えきれないものではない。仮にあるオブジェクト・データを万能チューリング・マシン上のnステップからなるプログラムによって算出することが出来るとすると、nのうち最小のものがこのオブジェクト・データの複雑さを記す量である。OK、単一のオブジェクトに関してはその通りであるだろう。だが、ネットワークで結合されたオブジェクトの群れに対しては?

テッド・ネルソンは世界の誰もがアクセスすることのできる、そして世界そのものと同じくらい意味に満ちたデータベース・ネットワーク、Xanaduを構想した。Xanadu、桃源郷。そこにはいかなるユーザーもがアクセスできるが、そのデータは実際にはひとつの場所にあり、ユーザーが手に入れるのはデータそのものではなく、どこにそのデータがあるかを示す指標ポインタだけである。データはそれが使用される際にコピーされるのではない、ただシステムの中ですべての情報がリンクしているに過ぎない。こうしてこのデータベース・ネットワークにおける過度の複雑さの問題は回避されるかに見える。ネットワークの容量もまた希少な資源であって、言語のときと同じくふたたび名指すもの=ポインタの分節化と結合法によって救われねばならない。だが、その名前あるいは指標によって、データの実体がいつでも呼び出されるとするならば、名前空間と実体空間の間に見掛けの上での違いはない。そして名前あるいは指標と実体との間に張られる重層的なリンクの網目は、やはり迷宮のように見える。

「実体はどれもが一つの全体的な世界のようなものであり、神を映す鏡もしくはむしろ宇宙全体を映す鏡のようなものである。(…中略…)実体は、宇宙において過去、現在、未来にわたって生ずることのすべてを、混雑した仕方によってであれ表出している」(ライプニッツ)★五。宇宙は実体の数だけいわば倍加される、という考えはほとんど、量子論的不確定性のパラドックスに対置された並行世界仮説のように響く。「同じ街も異なる角度から眺めると全く違って見え、パースペクティブに応じて倍加されるのと同じように、無数の単純実体があることによってそれだけ多くの異なる宇宙があることになる」(ライプニッツ)★六。

コンピュータ・ゲーム MYSTの中に出てくる島の地図。だが、この地図では表わしきれない複雑な迷路の中をさまよわなければならないことは、MYSTプレイヤーなら誰もが知っている。

コンピュータ・ゲーム MYSTの中に出てくる島の地図。だが、この地図では表わしきれない複雑な迷路の中をさまよわなければならないことは、MYSTプレイヤーなら誰もが知っている。

電力制御プログラムのヴィジュアライゼーション。コンピュータのメモリ空間の中に作られたネットワーク。 結節点の形で視覚化された各プログラム・モジュールはお互いに通信しあいながら同期的に、または非同期に動いていく。

電力制御プログラムのヴィジュアライゼーション。コンピュータのメモリ空間の中に作られたネットワーク。
結節点の形で視覚化された各プログラム・モジュールはお互いに通信しあいながら同期的に、または非同期に動いていく。

見たところそこにも「多くの異なる宇宙がある」かに思われるMYSTには攻略マニュアルがあって、MYSTの世界をさまざまにブラウズして歩く際に見つかるゲームを解くための手掛かりのありかが記載されている。言ってみれば旅行案内書か地図帳のようなもの。それと同様にネットワーク・ソフトウェアやオペレーティング・システムのマニュアルには、やはり迷宮と呼びたくなるそれらシステム・ソフトウェアの中をブラウズしてまわる際に必要な手引きが記載されている。おそらく迷宮という言葉はコンピュータの中にある空間のたとえとして、かなり当を得たものなのだろう。迷宮をさまようものには俯瞰の視角はない。俯瞰で得られるはずの見通しを、頭の中で組み立てなければならない。そうでなければ、手引書に頼らなければならない。だが、私の手元のMYSTのマニュアルには封印がしてあって、「この封印を開いてゲームの興味が失われたとしても、当社は一切の責任を負いません」と書かれている。ブラウジングという行為はとりあえず地図なしで始めるべきものだと、封印は警告している。地図はブラウズするものの頭の中で組み立てられていくのである。                                                                                                                                                          

テッド・ネルソンの著書『ドリーム・マシンズ』から、Xanaduシステムのテクニカル・デスクリプションと題された部分の1ページ。ネルソンの手にかかると、書物もまたハイパー・テクストであるかのような姿形を与えられる。

テッド・ネルソンの著書『ドリーム・マシンズ』から、Xanaduシステムのテクニカル・デスクリプションと題された部分の1ページ。ネルソンの手にかかると、書物もまたハイパー・テクストであるかのような姿形を与えられる。

コンピュータの中にプログラムされた遺伝子によって〈進化〉した仮想の虫たち(リチャード・ドーキンス 『ブラインド・ウォッチメイカー』から)。

コンピュータの中にプログラムされた遺伝子によって〈進化〉した仮想の虫たち(リチャード・ドーキンス 『ブラインド・ウォッチメイカー』から)。


人工知能研究開発用マシンの代名詞的存在だったSymbolicsのオペレーティング・システムのユーザー・インターフェイス画面。 Symbolics社はこのオペレーティング・システム(ソフトウェア環境と社自身は呼んだが)にGeneraという名前を与えた。類(genus)の複数形だが、この名はまた遺伝子(gene)と天地の創世を記する書物(Genesis)を想い起こさせる。

人工知能研究開発用マシンの代名詞的存在だったSymbolicsのオペレーティング・システムのユーザー・インターフェイス画面。
Symbolics社はこのオペレーティング・システム(ソフトウェア環境と社自身は呼んだが)にGeneraという名前を与えた。類(genus)の複数形だが、この名はまた遺伝子(gene)と天地の創世を記する書物(Genesis)を想い起こさせる。

5:レシピ──あるいは創世記


1. e4        e5
2. Kt f3        Kt c6
3. B b5
──一五世紀のチェス定石書写本に記された序盤の定石のひとつ。


都市の遊歩者、迷宮をさまようもの、あるいはネットの中のブラウザーたち……地図が、彼らの頭の中に組み立てられていく、その組み立て方と同じものが計画の技術に、そのひとつのパラダイムになりうるだろうか。彼らに共通するのは俯瞰の視点を持たないことだ。ある時点で、ひとつの光景があり、その光景を記憶すると歩を進める。次の光景が現われると、ひとつ前の光景との違いを記憶し……あとはその繰り返し。
私が用いているCADシステムには操作の履歴を記録するメモリー領域があって、施した操作を何段階にも前にさかのぼって、以前の状態を復旧することができる。操作の履歴のひとつひとつのステップはある状態空間とひとつ前の状態空間との違い、差分を記している。ちょうどチェスの対戦を記すスコアのように。あるいは、前に述べたXanaduにあっては、情報がリンクされる際のリンク情報を差分ファイルと呼ばれる形にすることで、情報へのアクセスと変更の経歴を蓄えることが考えられている。
CADシステムの中に作り出されるデータ構造体は一種の模型である。それは最終的な構築物との間に、部分と部分の一対一の写像関係を持っている。ちょうど、地図が現実の土地との間に一対一の写像関係を持っているのと同じように。だとすると、先に差分ファイルと述べたものは何なのだろう。
生物学者のドーキンスは料理法レシピと設計図を比較した上で、遺伝子は設計図というよりはレシピに似ていると述べた。「料理法というものは縮尺模型ではないし、出来上がったケーキの記載でもないし、どんな意味でも一対一対応を表わしていない。それは、正しい順序で従えば、結果としてケーキが出来上がるような一組の指令なのだ」★七。
設計図は出来上がった世界の似姿である。が、レシピ=差分ファイルは世界の生成の過程を捉えようとする。現在、目の前にある形そのままではなく、過去から未来への時間の広がりの中で世界がどのように変わっていくかについての簡略なメモ。あるいは、世界をどのように変えるかを記すコンパクトな「一組の指令」。世界の創世を記す書物のようにも、それは見えなくはない。そう言えば、はじめの方でデータ構造体に直接アクセスして操作すると述べたコンピュータ・プログラムもまた同じく「一組の指令」である。
だとすれば、その「一組の指令」こそがデザインされなければならない場合というものもあるだろう。とりわけ、わたしたちが置かれた状態空間あるいはオペレーション・フィールドが迷宮の様相を呈しているときには。そしてそのとき、建築の、都市のデザインとは最終生産物と一対一の対応関係を持つ設計図の、模型の問題であるよりは、それを産出する──私のコンピュータは最初に〈算出する〉という語を私に提案した──ことが出来るレシピを作ることだと言っていい。「歴史上初めて建築家はオブジェクトの設計ではなくオブジェクトが生成しそして時間のなかで変化する際に従う原理の設計を依頼されることになる」★八。

この、新しいオペレーション・フィールドを訪れる(呑み込まれる?)ものたちへのアドバイスとなるかもしれないものをサラエボのプロダクションの制作した旅行案内の中にひとつ見つけた。彼らは、こう薦めている。ここに「来るときには、よく計画を練り、準備すること。それがあなたの人生で一番重大な決定事項になるかもしれないからだ。……今までの習慣は全部捨てること」★九。今までの習慣はそこでは役に立たない。捨てること。さもなければ差分ファイルに書き出して、どこか邪魔にならないところに保管しておいてもよいかも知れない。


★一──『ポール・ロワイヤル論理学』第一五章(南舘英孝訳、大修書館書店、一九七二)。
★二──ルイス・マンフォード『木材と石材』、ただし引用文はマーシャル・マクルーハン『グーテンベルクの銀河系』(森常治訳、みすず書房、一九八六)からの孫引きである。
★三──ルソー『言語起源論』第五章「エクリチュールについて」
★四・五──ライプニッツ「形而上学序説」
★六──ライプニッツ「モナドロジー」
★七──リチャード・ドーキンス『ブラインド・ウォッチメイカー』(中島康裕他訳、早川書房、一九九三)。
★八──マーコス・ノヴァク「サイバースペースにおける流体的建築」(マイケル・ベネディクト編『サイバースペース』所収(NTTヒューマンインターフェース研究所他訳、NTT出版、一九九四)。
★九──FAMA『サラエボ旅行案内』「旅行者へのアドバイスの項」(P3 art and environment 訳、三修社、一九九四)。

図版出典
1──『別冊サイエンス74』(日経サイエンス社、一九八五)。
2──『別冊サイエンス87』(日経サイエンス社、一九八八)。
3──Andrea Palladio, The Four Books of Archi-tecture, Dover, 1965.
4──『別冊サイエンス74』(日経サイエンス社、一九八五)。
5──『日経サイエンス』(日経サイエンス社、一九九三、一〇月号)。
6──Ted Nelson, Computer Lib, Dream Machine, Tempus, 1974.
7──『MYST禁断のヒントブック』(株式会社インタープログ、一九九四)。
8──『ブラインド・ウォッチメイカー』(早川書房、一九九三)。
9──Genera Software 社パンフレットより

*この原稿は加筆訂正を施し、『トランスアーキテクチャー』として単行本化されています。

>菊池誠(キクチ・マコト)

1953年生
芝浦工業大学システム理工学部環境システム学科教授。建築家。

>『10+1』 No.03

特集=ノーテーション/カルトグラフィ

>ルネサンス

14世紀 - 16世紀にイタリアを中心に西欧で興った古典古代の文化を復興しようと...

>ル・コルビュジエ

1887年 - 1965年
建築家。