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ドラゴン・シティーズ──生の未来 | ディヤン・スジック+松原弘典 訳
Dragon Cities:The Raw Future | Deyan Sudjic, Matsubara Hironori
掲載『10+1』 No.04 (ダブルバインド・シティ──コミュニティを超えて , 1995年11月10日発行) pp.150-159

青と白のへこんだ船尾に中華人民共和国の赤い国旗をはためかせながら、珠海ジェット・フォイルは一五分おくれで九龍のチャイナフェリドラゴン・シティーズターミナルを出発する。「サンダーバード」風の外見は、フェリーをスプートニク時代の汚い遺物のように見せているが、世界で一番新しいメトロポリス──のたうつ怪物のような都市、まだ爆発的な誕生のただなかにある都市、そしてまだ名前のない都市──の間に合わせの大量輸送システムとして命を長らえている。タバコを手放せない通勤者達は、プラスチックのライオンキングや安物の目覚まし時計を世界中に溢れさせようと香港が中国の特別経済区に建てた工場を経営するために、珠江をひっきりなしに横断する。河の両岸に家族を持つ者もいる、中国の女性は香港の男性が後に残してきた妻よりもいまだに将来の希望が持てないでいる。
フェリーにはちらほらと西洋人も乗っている。彼らは有利な基盤品製造の取引を求め、あるいは中国ののし上がりつつある大立者タイクーン達──中国の経済で現金がなんの意味も持たなかった五〇年間のあとで、やっと交換レートや信用状というもののややっこしさを発見しはじめている──にハイテク機器を売りつけようとしているのだ。別の方向からやって来るのは、軍の工場で作られた海賊版のCDの詰まったスーツケースを重そうに運んでいるやり手のティーンエイジャー達と、書類かばんと携帯電話にしがみついた白い靴下をはいたマフィアというよりはヤッピーに見える本土のギャング達だ。
河の両岸は、ニューヨークとニュージャージー、ロンドンのテムズ川の北岸と南岸のように複雑に連結されており、また互いにぎこちない関係にある。ますます富裕な香港は最近の一〇年間で少なくとも三五万の職を国境の向こうの低賃金経済に輸出し何十億ものドルを投資する一方で、中国の輸出の四分の一は香港を経由する。香港が中国の管理下に戻る二年前に、珠海はすでに巨大都市になっている。それは、水と国際的な境界線を越えて、制御不能の四方八方に広がるインクのシミのような都市である。このままいくと、この一〇年の間に四千万人規模になるだろう、そして、やはり四千万人──ターボチャージされた新しいメガロポリスの世代を示す水準人口──に向かっている上海やジャカルタに追いつかれなければ、メキシコ・シテイや東京ー大阪[東海道エリア]を抜いて、世界で一番巨大な都市になるだろう。ヨーロッパの大半の国家よりも多い人口を持つ都市が、大ロンドン市ほどの面積の中に収まっている。我々が伝統的に都市を見るのに使うあらゆる参照点がここでは無効化する。かつては歩行者の忍耐力によって都市の地理は規定されていたが、それは鉄道と自動車の通勤者に合わせて拡大した。しかし四千万人の都市というのはまったく異なった種類の有機体である。都市が活動的な独立体であるために必要な擬集力を保つことができる限り、国家(ネーション・ステート)を余分なものにするのは、そうした都市の経済力なのである。
香港と深圳しんせん、一九七〇年にはまだ何もない農地だったが、経済特別区に指定され今日ではマンチェスター、ミラノ、あるいはボストンの大きさになっているこれらの都市は、溶けて混じり合ってひとつの都市スープになっている。深圳には市民の金もうけ用のカジノとしての株式市場と、お楽しみ用には二階建バス程の大きさのエッフェル塔とシドニーのオペラハウスのミニチュアが散在したシュールなテーマパークがある。そして珠江の七〇マイル上流の広州にまで、真空状態に穴が開いて空気が流れ込む時のようなスピードで、並行して湾の対岸で荒れ狂っている都市化の火嵐に合わせるように、あまり知られていない深圳の双子都市珠海も巻き込みながら、マカオまでのいたるところにコンクリートの高層建築や工場の倉庫やホテルの連続した帯が姿を現わしているのだ。
これは混沌とした光景という以上に、中国の資本主義再発見の産物の例である。珠海は現代都市の未来の象徴、都市とはいかなるべきものかという欧米の概念からの決定的な移行である。爆発的な経済を燃料としてアジアはロンドンのサイズの新都市を六カ月ごとに建設している。ヨーロッパは後塵にまみれ、金持ちがルイ・ヴィトンやエアバスを買いにゆくだけのきれいなよどみになり下がってしまった。新しいアジアの都市は、絵葉書の中のトスカーナの山岳都市、あるいはパリの大通りにさえも、そこに見られるヨーロッパの理想にいささかも負うところがない。それらは濃く、なまで、混沌としており、そして巨大だ。そこにはショッピング・モールもスカイスクレーパーもエアポートもビジネスパークもあるが、こうした表面的には馴染みのあるランドマークはみな、西洋のオリジナルとは何かとても異なったものへと転換されている。ここでは建築家は光沢のある白いタイル、ミラーガラス、クロームに目がない。公共空間、理想的な計画、美しいスカイラインはほとんど存在しない。しかしある意味ではほかのあらゆる地域で時代後れになってしまった「高さ」をアジアは崇拝する。結果として、世界で最も高いビルがごく短い工期でクアラルンプールに建てられる。だが上海が今世紀末までにそれを追い越すだろう。
一生のうちに人口が二倍、四倍になる都市で生活することがどのようなものなのかヨーロッパは忘れてしまった、そこでは測量技師のグリッドが空き地にくさびと糸で割られ、低速度撮影の写真を思わせるような速さでスカイスクレーパーのスカイラインが急速に姿を現わすのだ。しかしこれはまぎれもなく太平洋のへりのあたりで──ロンドンやパリが一九世紀に世界で最大の都市になった時以来見られない──建設ブームの中で起きているのだ。現在ヨーロッパやアメリカが内陸都市の荒廃に頭を痛めていることなどこうした事実の前ではとるに足らないことのように思える。

上海、浦東地区(写真=松岡一久)

上海、浦東地区(写真=松岡一久)

珠海フェリーが発着所を離れるにつれてポケベルの規則正しいさえずりは徐々に聞こえなくなるが、仕事熱心な人達がビュッフェでお粥やミネラルウォーターを買うために並びながら携帯電話にがなり続けている。誰かがサウス・チャイナ・モーニング・ポスト紙を読んでいる、見出しに「一九九七年への不安から教科書がキャンセルされた」とある。香港の船着き場は、船のコンテナをひとつずつ運ぶためのクレーンがデッキにくくりつけられた小さなボートでいっぱいである。フェリーはそうした小さなボートの後ろを、アメリカのクルーザーやギリシアのピレウスからきた液化ガスのタンカーなどといった大型船の間を抜けて通ってゆく。水辺は一インチごとに──丘の上の帯状にのびた高層アパートに見下ろされながら──ドックのがっちりとした塊やコンテナターミナルで埋めつくされている。水上は交通であまりに混み合っており、停泊中の船は都市の一部、巨大なタールマック舗装の埠頭と同じようなものになっている。少し外に出たところで、フェリーは香港島と赤鱲角を結ぶ半分建設中の吊り橋──赤鱲角の空港の滑走路部分は海上の埋め立て地に建設されている──のそびえ立つコンクリートの橋脚を回り込んでいく。この橋は、最後の重要な植民地へのイギリスからのお別れの贈り物、新空港のための準備のひとつである。
しかしこの狂乱的な建設でさえ、常識外れの珠海の世界にはほとんど何の準備にもならなかった。つまり五億台の自転車の地でありながら警察官はランドクルーザーを乗り回し、金箔張りの窓枠の中に青いベルベットを着たホステスたちが気を惹くようにウロウロしている友 誼フレンドシツプカラオケ・バーの外には、白塗りのリムジンが永遠に停められている。マカオのナンバープレートをつけた黒いサーブが高速道路を徘徊する、これが中国なのだ。
「発展のみが唯一の道」、英語で書かれた住宅と同じくらい大きな広告板は、珠海の市長が自分の町を他の中国の都市と連結するために輸入したがっているフランスのTGVを描いた子供じみた挿絵で飾られる。任期が残りわずか二年となった市長は、北京の病身の指導者鄧小平との個人的な親しさなどは役に立たない資産になるだろうと痛切に気付いて焦っている。
珠海は、その手で山をも動かした英雄的な農民達を描いた古いソヴィエトのプロパガンダ映画と[アラスカの]ユーコン地方のゴールドラッシュ・タウンのもっと安っぽい部分の交わったところだ。新しい空港、高速道路、鉄道をつくるために丘陵を爆破している爆音がいつも轟いている。あたりは御影石を切り出している男たちと破石片でいっぱいだ。珠海市では毎晩クロームやガラス貼りのホテルの外にティーンエイジャーの売春婦の行列ができ、彼女たちは昼にはショッピング・モールやフードコートに出没する。
その感じはまるで歴史的な事実──アメリカの東海岸と太平洋をつないだ大陸横断鉄道完成の記念の握手、冬宮の襲撃、硫黄島でのアメリカ国旗の掲揚──などが写った色あせたセピア調の写真の中をぶらぶらと通りぬけているかのようだ。いまだになまの暴力的な場であるとはいえ、これはシリコンバレーやインターネットよりも未来の姿である。チャイナ・デイリー 紙は香港資本のラッキーパール玩具工場の支配人が、かつての従業員を殴って死なせ逮捕されたニュースをコメントなしで報じる。犠牲者は自分が歩けなくなるような事故にあった後に解雇され、その後冬の石炭を乞おうと加害者のところを再訪したところ、自身の持っていた松葉杖で襲われたという。
富はここで作られている。それは中国が、一九八八年ごろからフランス産ブランデーの、他に追随を許さない最大の輸入国になったという事実を説明しうるかもしれない。中国銀行珠海支店の隣の店にはブランデーでいっぱいのショーケースがある。レミーマルタンは、ヴィンテージ・カーのパナールのような形をしたボトルに入ったものが一本二八一三元=二六五ドル、フランスのシャトーのミニチュアのような形をした白いリモージュ焼のボトルに入ったものは五二五〇元で売られている。中国本土のどんな農民が一年でこれだけ稼げるだろうか! 広州から珠海までの高速道路には、中国人を閉じ込めておくためではなく、必死の思いで貧しい中国内地から入ってこようとする移民を排除するために一〇キロごとのチェックポイントがあるのも納得がいく。運のよい者は、非熟練労働者として働くために珠海に入ることを許され、産業革命当時の運河や鉄道を建設したアイルランド人を思わせる状況を耐えるのである。
彼らは珠海国際空港などといった巨大建設現場に群がる。赤鱲角から一〇分たらずの飛行時間のところにあり、ロンドンのガトウィック空港と同じ年間千二百万人の乗客をさばくよう設計された空港である。現在珠江流域に建設されている四つの最新の空港のひとつで、それは新旧中国の対比を象徴してもいる。建設中は、掘立て小屋のスラム街が滑走路を呑み込んでいた。それは、二千人の労働者の三年間の住まいであり、彼らはヘルメットの防護さえなしに、極めて危険な立地条件の中にいたのである。技術者達は自分の製図板のすぐ脇に蚊帳をつって事務所の中で暮らした。しかしこの空港は、ヨーロッパでも他のどこよりも進んでいる最新のドイツ製消火設備とアメリカ製の給油システムを備えており、それらは必要のない時にはタール舗装の下に消えてしまうのである。
七〇マイル離れた広州は国内移民を締め出すのにそううまくいっていない。何千ものそういった人々は、追い詰められた表情と栄養失調のうつろな目をして路上にいる。さらに何百人もが毎日鉄道駅に着く。広州は革命以後の中国で初の西洋式のホテル白天鵝賓館があるのを誇りにしている。ニクソンはこの街がまだ外国からは広東と呼ばれていた時にここに宿泊した。そしてこのホテルには、新しいアジアが提供しうる公共領域に最も近いものになるだろう、特殊なロビーのひとつがある。「みすぼらしい格好の人の入場お断り」ドアに英語で書かれた警告。そんなことはお構いなしに毎晩アトリウムに多くの人々が殺到するのも驚くことではない。緑色の制服を着ていながら平服のシャツとネクタイもしめた人民解放軍の男が、包装された全く同じプレゼントでいっぱいのショッピング・バッグをかかえてやって来る。人々は自然石から落ちる四〇フィートの人工の滝を口を開けてぼんやりと眺める。巨大な真鍮製の鳥籠の前、怪物じみた鯉でいっぱいの池にかかる伝統的な橋の上、小さなパゴダの脇で互いに写真を撮りあう。女性は岩の陰で子供に乳をやる。ふわふわした白いドレスを着た幼い少女達が繁茂した植物に驚く。しかし彼らは宿泊客専用のバー を示す赤い太いロープを越えることは決してできないし、オレンジ風味の冷たい鳥の砂肝を注文するゆとりもない。外では大気汚染が目を傷め、きつい塵が喉をかきむしる。空港への道で、ホテルのシャトルバスは、リビングルームの窓から数インチしか離れていないところを通る二階レヴェルの高架道路の網の目のように都市をおおっている中を走り抜ける。その道は、モトローラや中国ファッションのネオンサインに囲まれており、ファッション市場は明らかに、オーガスタ(マスターズ・トーナメント)風の英国紳士服スタイルといったものに支配されている。

上海、陸家嘴地区(写真=松岡一久)

上海、陸家嘴地区(写真=松岡一久)

千マイル離れた上海の古い中心地区にはいまだに幻覚を覚えさせるようなヨーロッパ建築が混在している、一見J・G・バラードが育った一九三七年のままだが、毛沢東がそれを引き継いだ時にもともとの密度の一 〇倍まで詰め込まれた。しかしあの上海は急速に消えつつある。ここは国際的な居留地として成長し、欧、米、日の人間によって発達した街だ。上海の最初の億万長者は可能な限りの土地を買い、富を増やしていったイギリス人の建築家だった。ここでは今でもパリの第二共和制大通りとアールデコの映画館、ハーフティンバーのイギリス式邸宅やドイツ風の乳製品店の痕跡を見ることができる。川沿いの外灘(バンド)の建物群のスケールはリヴァプールの埠頭を思い出させるが、しかし黄浦江はマーシー川より幅が狭い。そしてバンドの古典主義はよりマッシヴだ。かつて香港上海銀行のものだったロビーには、ニューヨーク、ロンドンや東京を描いた、消えかかってはいるがまだ堂々としたフリーズが壁に残っている。銀行はその建物を取り戻そうと交渉しているが、今は共産党の地方本部になっている。五〇年後に[やはり香港上海銀行の]タワーがノーマン・フォスターによって香港に設計されたが、当時それと同じぐらい冒険的なデザインだったものを取り戻したがっているのである。外ではジョギングパンツの上に白い手袋とスーツとネクタイをつけたシュールな着こなしの男がフォークリフトをあやつって石炭を裏口から搬入している。明らかにそれは飛行機のパイロットに見劣りしない職なのだ。
バンドのランドマークに現われ始めた小さな真鍮のプレートから判断すると、市はその財産を気にかけ始めた頃からまさに、新しい建物の津波に呑み込まれてしまっている。珠海があらゆる先見性のないまま都市化していったのに対し、同じように速く発展している上海は、都市は仕事と資金を生み出す巨大なマシーン以上のものであるという意識でその未来を築こうとしてきた。技術者出身の市長は、リチャード・ロジャースに、新しいビジネス地区である陸家嘴──カナリー・ワーフの八倍以上の四千万平方フィートの開発であり、計画人口は五〇万人──のマスタープランについて相談した。結局中国側はロジャースにその労をねぎらい、自分達のやり方で計画を進めていく。最もロジャースを驚かせたのは、彼が上海に行く度にそのスカイラインが変化していることだった。彼がマスタープランに従事している時でさえ、そこで扱おうとしていた都市景観が、六〇階建の高層建築や高架高速道路や橋、地下鉄のシステム、テレビ塔などの新しい群れによって変形させられていた。
シンガポールは新しい上海を形成するのに加わろうとする試みにもっと長けていた。彼らは街のすぐ外に実際上は経済コロニーとなるものを建設することで中国政府と合意に達した。これはリー・クワン・ユー首相が国内でもやろうとしたのとまさに同じ方法であり、住宅、ホテル、工場、オフィスなどを持ち、こぎれいで秩序だっていて、シンガポールの法、建設基準と税制にのっとり、資本主義にとって安全なものである。今世紀末までの計画人口は二五万人である。
上海では、すでにどこにでも一九七〇年代のアメリカ・スタイルの下見板張りで、小さな列に並んだプレハブ住宅からなる郊外住宅地ができている。これらはスラムではなく、ぎらぎらの広告板が約束しているような芝生やゴルフ、そして健康温泉スパが証明するような特権的な、囲い込まれた住宅地なのであり、そこでは小さな部屋二つの事務所が月八七〇ドルで貸し出されている。他の住宅開発区ではもっと目立つアプローチさえある。古北「新地区」は、クロームと真鍮でできた古典的な彫像を載せた頂部を持ち、表面をコリント式の柱で支えられた独自の凱旋門を持っている。
あらゆる正当なメトロポリスはその内部に貧富の両極端を持つ。ロサンゼルスにおけるその第一世界としての航空宇宙産業の工場と第三世界としてのスペイン語通用地域(バリオ)、ロンドンにおけるスピタルフィールズとナイツブリッジの間の橋を掛け渡せないほどのギャップがこれにあてはまる。しかしこうしたくっきりとした不連続はどこよりアジアの急成長中の都市において明らかになる。都市が表象すると考えられている共同体の利益が、全く相容れない二つの生活が隣接する住区にでなく、ひとつの建物のなかでお互いに向き合った時にどんな意味を持ちうるのか? 新しい上海のボンド・ストリートになると宣言している淮海中路の美日百貨メゾン・モードには、四階上にはももひきを干した洗濯紐がかけわたされていながら、ショーウインドウにはイヴ・サンローランやサルヴァトーレ・フェラガモやマンダリナ・ダックが並べられている。少なくともさしあたっては、隣にあるメルセデスのショールームの外には路上バイク修理屋がぐずぐずしている。一方で未完成ではあるがそびえ立つような三階建ての立体交差の断片が泥の中から伸び出してきている。
アジア・ウォッチャーたちはどれだけ速く上海が変わったかという目印として、数年前にオープンし、軍が一部経営している『マッドマックス』風のディスコ、上海JJについて語りたがる。どんなに中国が洗練されたか見るといい。ポスト・ホロコースト風こそが、くしゃっとしたビロードとまぶしい真鍮製のシャンデリアよりも贅沢さを表わすお洒落なものだという視点すらものにしている。しかし、上海はつねに流行に敏感だった。黒い濡れたように見えるホットパンツ、四分の三丈のテディボーイ風のベロアのドレープ・ジャケット、ボブ・ヘアー、スポーツ用のゴム底で鋲のついたアンクル・ブーツというのがたった今人気があるものである。しかしバンドに一九二〇年代に建てられた和平飯店は昔のJJ現象を見てきた。一階のジャズ・バー には今も暗くチューダー朝風の梁があり、その上には色あせたパリの三〇年代風のスーツが飾ってある。
上海の爆発的な未来を見るのに最高の場所は和平飯店の九階の中華レストランだろう。そこは犬がメニューの特別の呼び物で、かつては街で最も威容を誇った装飾の施された天井からは料理の皿に水が落ちてくる。クロークで上着を脱げばほこりを防ぐために白いカバーがかけられる。そこからの眺めは、ピクニック・バスケットを持って戦争を正面観覧席から眺めるために、騎兵を追ってクリミア戦争にのこのこと出掛けていった食屍鬼のような英国貴族を思いおこさせる。行き来するはしけの列と一緒に、泥鼠色の川の向こうの正面に巨大な力スーパー・パワーが形をとっていく様子を見ることができる。こここそがリチャード・ロジャースがマスタープランに関ろうとしていたところだ。彼は、上海の石油と車とエアコンへの依存を軽減するために市電とトラムのネットワークを利用するという計画を立てた。ロジャースは会社員は自転車で仕事にいけと説得するのが北西ヨーロッパの文明度の高さであると主張しようとしたのに対し、市長代理が上海は自転車をなくそうとあらゆる手段を講じていると説明したことによって深く懲らしめられた。彼らにとって自転車とは、迷惑で、都市がしきりに抜け出したいと望んでいる過去の貧困を思い出させるものだった。「我々が西洋で学んだ教訓を彼らに説明しようとすることはできる、しかし彼らが実際に彼ら自身で火傷をして痛い目にあうまで、それは何の意味もないだろう」とロジャースは悲しげに語っている。ハイテクで緑豊かなユートピアに代わって、上海最大のビル街は六〇階建のポストモダン・オフィスビルの森であり、それは四〇〇メートルの高さのシャフトに三つの球が串刺しになっているおかしなテレビ塔の周りに群がっている。陽が暮れるにつれて照明があふれ、ご機嫌なピンクや緑や黄色の影が次々と果てしなく混じりあい、ネオンの輝きにどっぷりつかる塔である。日没後にはいまだに真っ暗になる中国の残りの部分とは違って、上海には、燃やすことのできるエネルギーを持った社会の確かな印であるネオンや街灯や車のヘッドランプやオフィスビルの蛍光灯が急速に現われてきている。
ジャカルタは、上海よりも数十年前に社会主義経済への忠誠を投げ出した。すでにこの都市はソヴィエトの計画した勝利主義者たちの網の目状の大通りの上に、不法占拠の掘立て小屋の上から噴き出すように、きれいな仕上げの高層オフィス・タワーの覆いをかぶせている。市政府はすでに約千八百万の人口があることを認めており、楽観的なことに、望んでもいないが抑えようもない人口爆発に対して、どのように受け皿を作ってゆくべきかよくわかっていないことを認めている。ジャカルタの最も目に見える成長は、衛星郊外都市の中産階級の住宅にある。そこには開発業者が、地域に欠くことのできない中心だとしてカントリークラブと、カリフォルニアでやったのと同じようにトイザラスのネオンをぶら下げた巨大なショッピング・モールをプレゼントする。外国からの開発業者はジャカルタに投資したくてたまらない。しかし多くは、これが測り難く困難な都市だと気がつくのである。この街はアメリカやヨーロッパで理解されている感覚での「中心」を単に持っていないのだ。高速道路を走り回ってみると、まるで一晩であちこちに高層ビル群が出現しているかに見える。どちらがジャカルタの将来の丸の内でどちらが六本木なのかはじき出すのに、資産価値を決定するには所在が重要だと教え込まれた開発業者は、これではどうしたらいいというのだろうか?
ここにはオールド・シティとウォーターフロントがあり、水辺にはジョセフ・コンラッドやロバート・ルイス・スティーブンソンなら喜んだような、夥しい帆船が密集し、それには堅木──熱帯雨林から切り出され、紛れもなく便座に加工されにいく途中である──がうずたかく積み込まれている。植民地主義の遺物があり、それはオランダ風の段々破風の家、一九二〇年代からのコンクリートのモダンな公共建築、そして、ひんやりした黒いなめらかな石の床や、いきいきした緑の庭を望むアーケード、ずっと昔に死んだ総督やら提督やらの肖像画がずらっと並んだ廊下に囲まれた中庭のついた一八世紀の建造物などである。かつてのオランダ街は巨大な都市部のちっぽけな街角にすぎないが、インドネシアの富の全体の七〇パーセントを所有していて、そしてここには下水処理施設が通っていない。新しいイギリス大使公邸ですら、優雅に生物によって分解できるとはいえ汚水槽に頼っているのだ。
幾万人もが不法占拠の小屋の中に住んでいる都市であり、一方でインドネシア・センターにはハードロック・カフェとプラネット・ハリウッドの支店がある。イスラム教の都市ではあるが、ショッピング・モールでは──アジアのどこのモールでもそうだが──クリスマスをキリスト降誕の情景よりもミッキーマウスと、そしてプラスチックの雪で祝う。インドネシアの中国人は、何百万の人が殺された一九六〇年代の虐殺の後、全員がインドネシア式の名前を持たなくてはならなくなったにもかかわらず、ジャカルタにはまだ中華街がある。生き残った人々は今もなお自分の子供に広東語を教育することを禁じられ、あるいはまた少なくとも公式的には中国語の看板を出してはいけないことになっている。服装倒錯者や性転換者が、夜にえものを求めてうろつくエリアがあり、彼らは近くの大使館街の道へとすべりこんでいく。人々は高架線路の下の箱の中に住んでいて、これは雨が降るといつも洗い流されてしまう。そしてここでは雨はよく降るのである。
ここもまた、すらっとしたポストモダンのタワ──ー四〇階や五〇階の高さで、ニューヨークやメルボルンからやってきた若く才気に満ちた建築家が設計した──の都市である。ジャカルタ・ファイナンシャル・クラブはそのうちのひとつのペントハウスにあり『バットマン』風のモダン・スタイルに仕上げられている。オーストラリア産のワインでいっぱいの保存庫と、ダイニングルームの天井から下げられ巧みにライトアップされたカヌーがそこの自慢だ。ブルックス・ブラザーズのスーツを身にまとったインドネシアの新しいエリート達がここでコカインをやりながら、外の地上の無限に拡大していく様を眺めている。
市の南部への開発は中止された。大統領の娘が所有する利益率の高い空港までの新しい有料道路が、ゴミの埋立地によって自然排水が妨げられるためにきまって水浸しになる、という環境上の要因のためらしい。ジャカルタの東部と西部には七万五千人用の職住近接の分譲地が、新しい中流階級を受け入れるためにいっぺんに生み出されてきている。計画法の変更により郊外に建つタワーも六〇階の高さにするのが可能になった。そのような郊外では、ゴルフコースが望める住宅が二〇万ドルする。中華街の商店主はこういったところを好む。彼らはインドネシアは今まで自分の富を見せびらかすには不安定すぎると感じ、シンガポールに持ち出して蓄えていたのだった。熟練した大工が一日にたった五ドルしか──しかもそこから彼はジャワの田舎に離れて住んでいる家族のために送金するだけの金も貯めなくてはならない──稼げない国では、社会的な緊張が大きいままである。
開発は必死のビジネスであり、贈賄や買収の進むこってりとした雰囲気の中で行なわれる。巨大な開発業者は、秘密裏に匿名の名義人を通じて、一平方メートル当たり一〇ドルで土地を買いあさる。二〇〇ヘクタールの土地をまとめると、政府に五〇〇ヘクタールまでの土地の開発マスタープランの登録許可を申請することができる。一度受理されれば、計画対象地域に入った人は、その開発業者以外には土地を売ることができなくなる。魔法の法令は、土地の価格を一平方メートル一五〇ドルまで引き上げるが、これは開発業者の払った値段の一五倍である。同じ敷地に道路と排水が通れば、一平方メートル四〇〇ドルになり、商業的に開発されれば一平方メートル七〇〇ドルにもなるのである。

何千マイルも離れた都市のなかで、無限に多くの人々の生活が驚くべき速さで変わってゆくこの大混乱をわれわれはどう捉えたらいいのだろう? おそらく前を見るのと同様に、後ろを振り向く意味もある。ほんの短い間──例えば一九世紀の四〇年間──当時のマンチェスターは現在の広州、ジャカルタ、上海だった。マンチェスターはそうした都市の最も端的な特徴──ぞっとするようなその汚らしさやまったくの奇妙さと、豊かさの浮き浮きする気分の両方をひとつのスペクタルにとけこませた。それはかつてあったどんな都市にも似ていなかったし、そして以前のどんな都市にもなかった生き方を要求した。それをそんなにもパワフルで驚くべきものにしていたのは、未来を象徴しているように思われるところであった。ラスキンとモリスにとっては未来とは恐るべきものだったのだ。
われわれは、ようやくアジアの都市が、かつて産業革命がもたらしたのと同じ──都市の絶え間ない流動による──加速された変容速度と、畏敬の念さえ引き起こす眩暈の中を進んでいるところだと理解しはじめた。この点では、世界は注目されまた肝をつぶさせるようなものだった。
一八一〇年から一八五〇年までの間、マンチェスターの人口は一〇年ごとに四〇パーセント増加した。その都市は富を築き、田舎からの移民を都市居住者に変換する巨大なメカニズムになった。マンチェスターは工場や鉄道駅や市民大学や準独立住宅を発明した。
アジアの巨大な新しい都市がやっていることは次の世紀に相当する。こうした巨大都市が成熟した時に生活がどのようなものになるのかわれわれはまだ知らない。ただその豊かさの衝撃を思い浮かべるだけである。例えばジャカルタは現在のところ車の保有率は一六パーセントだが、一日の大部分は道路はすでにいっぱいで通りぬけられない。バンコクでは住宅所有者のうち二四パーセントが車を持っているが、あまりに交通渋滞がひどいので銀行は幹部達の車にファクスと簡易トイレを設置するのを慣例にしている。それでもこれらの都市は生気にあふれ、成長を続け、そしてその内部には破 滅カタストロフイの火種と一緒に成功のそれも持ち合わせているのだ。
©Deyan Sudjic, 1995

>ディヤン・スジック(ディヤン・スジック)

1952年生
雑誌「ブループリント」の編集長。ジャーナリスト、編集者、デザイン・建築評論家 。

>松原弘典(マツバラ・ヒロノリ)

1970年生
北京松原弘典建築設計公司主宰、慶應義塾大学SFC准教授。建築家。

>『10+1』 No.04

特集=ダブルバインド・シティ──コミュニティを超えて

>ノーマン・フォスター

1935年 -
建築家。フォスター+パートナーズ代表。

>ポストモダン

狭義には、フランスの哲学者ジャン・フランソワ=リオタールによって提唱された時代区...