世界軸1──一八七五年
宗教的人間にとって
空間は均質ではない。
──M・エリア─デ★一
その日、あらかじめ屋敷は入念に掃除されていたのだが、
物語として場所を決定する過程を見るならば、これは必ずしも特殊なものではない。例えば、ヤコブが夢に神の声を聞き、「畏るべきかなこの場所は。こここそ神の家であり、天の門だ」といって、石の枕を記念碑に建てたり(『創世記』二八)、モルモン教徒の放浪の末、ブリガム・ヤングが「ここがその場所である」と宣言し、現在のソルトレイク・シティを決定したように。あるいはホフマンの小説、『クレスペル顧問官』の主人公が、敷地の庭をうろうろしながら、突然、「ここだ、ここ」と叫んで、設計図もなしに建設するべき特別な家の各部の場所を発見するように。特にクレスペルは視覚力を抑制し、その最中は盲人のごとく行動しており、目隠しをした天理教の信徒と同様、聖なるものの顕現は目に頼るべきではないことを示している★三。見るのではなく、秘儀。つまり、空間における裂け目、聖なる場所の開示には何らかの儀礼的なふるまいがつきものなのだ。
こうした類例を他にあげることはいくらでも出来るだろう。しかし、ここで注目すべきなのは、突如、あらわになった強力な
1───明治20年当時の屋敷
プレ・テクスト
はじめにテクストがあった。天理教は多くの宗教がそうであるように、教典となる重要なテクストをもっている。明治二年以降、教祖の中山みきが神からの天啓を自動筆記した『おふでさき』や、明治二○年から後継者の飯降伊蔵が天啓を記録した『おさしづ』などである★四。が、とりわけ興味深いのは、そこに高山(社会的上層)や谷底(社会的下層)をならして平らにするといった空間的なイメ─ジが頻出するだけでなく、きわめて具体的な空間に対する指示が見られることだ。
これらは明治二年から明治四○年までに書かれたものであり、それ以降、天理教は常にテクストの解釈を通して、実際の建設に関わっていった。テクストは現実の建築に対し、無視できない影響力をあたえたのである。例えば、甘露台の形状については、大工の飯降伊蔵に雛形をつくらせながら、明治八年の『おふでさき』で「このだいをすこしほりこみさしハたし 三尺にして六かくにせよ…このだいもたんゝゝとつみあけて またそのゆへハ二尺四すんに」と記され、これをもとに正六角形の台を一三段に重ねた柱型の構築物[図2]を据えている。また明治二二年の『おさしづ』では「四方正面鏡屋敷」の概念が示されたことから、神殿は大正二年の北礼拝場、昭和九年の南礼拝場[図5]、昭和六一年の教祖百年祭をひかえた東西礼拝場の増築を経て、四方向から中心の甘露台を囲む平面を完成させる[図3]。さらに明治四○年の『おさしづ』における「甘露台は雨うたし」、「地から上へ抜けてあるもの」などの記述から、神殿の屋根は甘露台の上部のみ開けられ、明治二一年の指示通りに「一間四方」を天窓としている。そして昭和二九年に開始し、今なお進行しているおやさとやかた構想[図4]は、神殿を中心とする、一辺が約八七二メ─トル(=八町)の正方形の線上を、すべて連続した建造物によりつなぐという壮大な都市計画であるが、これも教祖の言葉「八町四方は神のやかたと成るのやで」を形象化したものだった。
2───甘露台
3───教会本部神殿平面図 東(1984)西(1981)礼拝場は、竹中工務店による、中心の真座に甘露台を置く。
4───おやさとやかた構想(1954-)内田祥三+奥村音造+中山正善
5───神殿の南礼拝場(1934)前の広場。手前は露店の屋根。祭りをひかえ、まちが高揚している。
世界軸2──九九九九年
天理の線状都市には塔が欠如し、水平的な要素ばかり強調されているが、おそらく中心の甘露台が実際の高さに関係なく、天と接続する仮想の垂直線として機能している。ぢばとは抽象的かつ絶対的な地点なのであり、そのため方位に吉凶はなく、東西南北のどれかに優位性をあたえることもない。そしてモスクがメッカを向いているように、天理教の地方教会[図6]はおおむね敷地に関係なく、甘露台の方角に向かって建っている★五。つまり、場所が絶対的になると、方位は相対的になってしまうのだ。また、あくまでも甘露台は対称形であり、一方向だけに正面性を生みだす顔をもつイコンではないからこそ、「四方正面」の神殿を導き、世界中のどこから礼拝しても正面になるのである。こうして天理教の神殿は、四方向の信者たちが甘露台越しに視線を交わしあう、個性的な宗教空間を実現する(中心の甘露台は掘り下げた真座より立ちあがり、礼拝場の床レヴェル上に少し突き出ている)。また、それほど天井の高くない礼拝の空間に、柱の林立するさまは、モスクを想起させないでもない(畳とカ─ペットの敷き方の方向もほぼ同じ)。
礼拝場ではほとんど空間的/社会的な差異を設けず、甘露台に対してはどこもが平等な場をしつらえている。これもモスク的なのであるが、神社建築の系譜からも考えてみよう。例えば、三輪山[図7]を御神体とするために本殿をもたない
6───河原町大教会神殿配置図(1989)。1954年以来、竹中工務店は天理教の多くの仕事を手がけている。
7───天理市の脇を、かつて飛鳥と平城京を結んだ大和の官道が走る。特に現在、山の辺の道と言われる市の南はほとんど農地であるが、古代の史跡も多い。左は崇神天皇陵、遠くに神の宿る三輪山が見える。
8───天理から南に下りた桧原神社は、山を御神体とし、三つ鳥居があるのみ。
言霊──一八三八年
「我は元の神・實の神である。この屋敷にいんねんあり。このたび、世界一れつをたすけるために天降った。みきを神のやしろに貰い受けたい」という声が、天保九年、齢四一歳の中山みきの口を通して語られたとき、初めて
ある。
分裂──一八九二、一九一九年
だが、言霊の力を自在に操り、言語遊戯に尋常ならぬ才能を示したのは、明治二五年に始まる大本教の出口王仁三郎であった。彼は大正八年、綾部に言霊閣も建設するのだが、後に八一巻にも及ぶ『霊界物語』を口述しながら、宇宙論的な言霊学を展開し、めくるめくスピ─ドで十万もの歌を詠む。そして掛詞を多用した予言的な「いろは歌」や大本教で推奨したエスペラント語習得のための語呂合わせの暗記本も驚くべき短期間に作成してしまう。さらに大本の事件を雛形として日本の歴史がそれを繰り返すことを指摘し、日本の各島と世界の大陸のかたちの類似などを発見する。メタフォリカルな思考。語源的にメタファ─とは(意味の)移動に他ならないが、これは高速度で横断し、跳躍する思考だ。もともと大本教の開祖は出口なおであったが、出口王仁三郎は自らを聖師と名乗ることで教団に二つの極をつくり、新たな遠心力をあたえるとともに、それまで本拠地だった綾部に加え、大正八年、亀岡城跡を第二の中心地として購入する。彼は神々にはじまる森羅万象を霊系/体系に分けつつ、
第一の極は、出口なおの開教した「天地の神々が経綸する地の高天原」(神々の集う、ミル・プラト─?)の綾部、そこは梅松苑と呼ばれ、日の大神様の聖地として祭祀の本部である[図9]。そして第二の極が、出口王仁三郎ゆかりの亀岡は天恩郷であり、月の大神を主宰神とする宣教の本部なのだ。これは亀岡と綾部という相互に代補する二極の中心をもつバロック的な聖地である。だとすれば、天理教はひとつの柱をめぐる教義体系であり、不動の中心を代理していくものといえるだろう。なぜなら明治二一年、天理教が東京府知事から初めて教会設置を認可されたときも、それが東京市下谷区の本部になったために、同年の『おさしづ』では、「あちらにも本部と言うて居れど、何にも分からん。ぢばに一つの理があればこそ、世界は治まる」と幾度もうながし、急いで教会本部をぢばに移転するよう要請したからだ★八。つまり、ぢばの固有性を強化するために、奈良と東京の二つに引き裂かれようとした中心を統合する力が発動したのである。だが、大本教の両聖地は明快な幾何学的スキ─ムを拒否するかのように、そして速度と変成の男(であり女の)、出口王仁三郎の意図が加わって、魅惑的な建築群はとらえどころのない様相をもつ。やがて振動する神道、大本教のダイナミズムは、自己の微小な分裂を次々と誘発し、あまたの分派教団(生長の家、世界救世教、松緑神道大和山など)を生みながら、後の新宗教に多大な影響をあたえていく。
9───昭和10年当時の綾部神苑。大本教、第一の聖地。
都市化1──一八六四〜一九五四年
昭和二九年四月一日、天理市は六つの町村が合併して発足し、宗教都市として本格的に出発する。そのとき二代真柱の中山正善は、いつか天理という言葉の由来が転倒し、人は先に天理市の名があって、天理教と呼ぶのだと間違える日が訪れるかもしれないと語っているが、確かに今や、ここがかつてひなびた村であり、丹波市と呼ばれていた時代があったことも忘れ去られようとしている。幾層もの年月の重なりの中で、やがて起源に関わる記憶は失われてしまう。まさに宗教が都市を形成する原動力となった、現代の寺内町というべき天理のまちが歩きはじめた、その最初の一撃を★九。
ぢばが明らかにされた庄屋敷村は三島地区に属したが、それは伊勢詣りの街道沿いに発達した宿場町であり、かつ室町中期から市場町で栄えたという丹波市の北東の隅に位置していた。元治元年(一八六四)に建てられた最初の勤め場(祭儀の施設)は、三間半に六間でわずか二○人強を収容するものだった。しかし、単なるペリフェリ─に過ぎなかった三島や川原城は、天理教の拠点として、教団の成長とともに拡大する。信仰が広がると、各地の信者が講や組をつくりながら、団体で参拝を行なったからである。当時の新宗教のひとつである金光教は、参詣に時間を要する「取次」があったために、宿泊施設が必要となり門前町化を加速させたようであるが、天理教も明治一五年には、教祖の家の前にその分家による中山旅館や豆腐屋の経営する村田旅館が開業し、やがて軒先に各地の講社の提灯を下げた指定旅館的な宿も発生している。そして明治二○年に教祖が亡くなった後は、およそ一○年おきの節目に行なわれる教祖年祭をばねに、まちは断続的に膨脹を繰り返す。
翌年の教祖一年祭は四○○人未満の一農村に三万人もの参拝者を集めたが、当然、数軒しかなかった信者用の宿では収容できず、近郊の宿屋や民家を借りるというパンク状態におちいったため、明治二九年の教祖一○年祭の一○万を超える信者に対しては、大人数を泊められる八つの詰所が初めて設けられた[図10]。詰所とは各地方の教会ごとに信者を収容する施設であるが、明治末までに三一を数え、その後も増加を続け、現在、母屋を含めて軽く一五○近くある。そのため信者は普通の宿を使うことがなくなり、天理市には一般の旅館がほとんどない。こうして主に和風の瓦屋根をのせた詰所や母屋がときには連なり[図11]、また散らばっているさまは、天理市に特有な景観を構成する。さらに天理市の地図を見ると、市内に点在する詰所についた日本各地だけでなく世界の地名が一枚の紙の上に集合し、ちょっとした日本地図、あるいはデフォルメされた世界を投影したかのようである。なお、詰所という名称は、東本願寺の門前にあった七○ほどの参詣の宿泊施設が先であるから、それを参考にしたとも言われている★一○。
10───明治30年当時の教会本部の周辺
11───西右第五棟(1981)は南海大教会信者の詰所。右隣の西右第四棟(1983)は憩の家という名の病院。
経済
もはや三島は丹波市の周辺ではなかった。三島は後の天理の中心となる新たな核を形成しながら、まちの産業構造すらも変質させていく。例えば、ほとんど戸数の変化がなかった付近の農村に比べて、三島は明治一五年の六七戸が大正二年に二九二戸と急激に増え、人口も六倍以上となり、丹波市に逆転している。それに少し遅れて、三島と西側の駅をつなぐ地域、川原城でも大正二年から昭和三○年の間に戸数は実に十倍の伸びを見せており、現在は天理本通り、すなわち駅前から神殿に続く一キロメ─トルに及ぶア─ケ─ド付きの商店街[図12]の導入部になっている[図13]。ここは門前町として商店が並び、
ところで天理市とは、誕生の前年に施行された町村合併促進法を受けた、新都市誕生ラッシュのひとつだったが、その基本理念に「理想的宗教都市の実現」を掲げたという点で他の都市とはまったく異なっていた。事実、天理教なしに天理市の存在はありえなかったかもしれない。なぜなら、合併の成立にあたっても、天理教は経済的援助を行ない、旧町村の赤字補填、市庁舎や周辺の学校の建築補助など、総額三億四○○○万円を助成しているからだ。また国鉄と近鉄の統合問題でも、教団は昭和四一年の教祖八○年祭の混雑をにらんで、地元分担金の一○億円を負担し、天理駅の完成を間に合わせている★一一。企業町には市民税の半分をまかなうトヨタや松下もあるが、毎年、天理教は寄附金(宗教法人として免除された税金分をあてる)というかたちで援助し、昭和三八年度の天理市の一般会計歳入で総額七億九○○○万円中二億三○○○万円と約三割を占め、最近でも『平成七年度 予算案の概要』によれば、全体の一割近くの一五億円である。他にも、固定資産税や祭りなどによる臨時収入を考えれば、市に対する教団の貢献度は決して少なくない。こうした寄附金は主に都市計画事業に使われ、都市計画委員会にも天理教が参加している。おやさとやかた構想、そして「理想的宗教都市の実現」には相方の協力体制が必要とされてきたのである[図16]。その背景に天理教の経済的な影響は大きいだろうが、教団は政治には関与していないようだ(以前は議員に候補者を立てたこともある)。しかしながら、六万を超える人口の三割が信者であると言われ、その所有地は市街地化区域の一七パ─セントながら都心部に集中する、天理教はこのまちに大きな影を落としている。
12───駅と神殿を結ぶ、天理本通りの長いア─ケ─ド。黒い法被姿信者が歩き、天埋教関係の店、みやげ物屋が続く。
13───天理市地図(平成7年)南北に走るJR線の駅を降り、東に向かってア─ケ─ドの商店街を抜けると、神殿前の広場に到着する。そこが大体、正方形の城壁都市の中心にあたる。
14───商店街の呉服屋。マネキンは天埋教のおつとめ衣を着用する。
15───唯一のポルノ映画館。丹波市劇場に旧い地名が残されている。市内にはパチンコ屋もあるが、俗なる施設はいずれもおやさとやかたの外である。
16───北左第4棟(1975)千鳥破風が交互に前後し、合間にトップライトを配する、岳東・鹿島両教会の信者詰所。手前は駐車場に続く、天理教の団体バスの専用道路。インフラストラクチャ─も天理教とのかかわりが深い。
緑地──一九五五年〜
しかし、富田林市の場合は違う。ここにはPL教団の本部が置かれているが、最初からあったわけではなく、以前の教団名ひとのみちを戦後に改名した後、鳥栖、清水と移転し、昭和三○年に現在の場所に落ち着いた★一二。そのいきさつはこうである。昭和二五年、富田林市は誕生すると、翌年に「観光と田園工業地帯」の指針を決め、次に住宅の確保にのりだす。昭和二七年に結成された西山開発委員会による市営住宅の建設、近鉄や南海の住宅計画。そして市は府営住宅を誘致するかたわらで、開発が困難な羽曳野丘陵地帯の山林については、当時の教主の友人が有力者だったこともあり、その紹介でPL教団に誘致を行なう。羽曳野は初代教祖の「永遠の大本部は山を控え水を控えた広袤三○○万坪以上の土地でなければならぬ」という条件にかない、PL教団は九九○ヘクタ─ルを買収し、信者の努力により聖地錬成、すなわち開墾が進められた。ニュ─タウンとの対比が鮮やかなPLの聖地[図17]は、ここに始まるのである[図18]。
PLは都市化の過程が面白い。最初に丘を緑におおわれたゴルフ場にして、それから随時、各施設をつくるのだが、先に婦人会館ができ、後から正殿(破風のないパルテノン)[図19]や大平和祈念塔(白いガウディ)[図20]が完成しているからだ。ゴルフ場の中の宗教都市である[図21]。それは広大な緑の環境の中に、学校、病院、幼稚園、PLランド(現在はない)などを配するが[図22]、とても歩行するスケ─ルではない。ニュ─タウンらしく、PLの敷地内は車か専用バスを使わなければ、施設間の移動は困難である。逆に駅から一五分で神殿、三○分も歩けばまちを縦断できる天理市に、車は不要だ。また、一般の領域と分かち難く詰所が埋もれている散開型の天理教(もちろん強い求心性をもっているが)に比べて、PLは決められた領域内でしか建設されず、ニュ─タウンにおいて閉ざされた場を形成しており、聖地へのアクセスも限定されている。富田林市の財政上でも、歳入の一パ─セント前後ある寄附金は、開発者寄附金と緑化推進寄附金であり、PL教団によるものではない。つまり、誘致はされたものの、その後は花火大会以外に、両者は強い関係を持続してるわけでない[図23]。
17───ニュ─タウンと大平和祈念塔(1970)
18───富田林駅からPLとは反対側に歩いて10分。16世紀中頃に成立した寺内町がよく残る。右に見えるのが、かっての宗教自治都市の中核となった興正寺。富田林では新旧の宗教都市の対比も面白い。
19───緑地の向うにPL本部正殿(1959)と脇殿が見える。
20───塔の見上げ。スケ─ル感を喪失するような彫塑像。当初はピカソに依頼する予定だったが教祖自ら粘土で造形したものを、日建設計がそのまま実体化させたからである。
21───塔の足元もPLゴルフ場である。
22───和風ブル─タリズムの第一錬成道場(1963)
23───PLの花火に対し、「路上の露店出店を禁止する」という警察の通知。神殿の前に露店が並ぶ。天理の祭りとは対照的。
都市化2──一九五五年〜
他の日本のユ─トピアにも一瞥をあたえておこう(アジアではベトナムのカオダイ教が面白い)。東北は青森の山奥に、「神垣の里」の建設をめざし、天峰閣・五光館を中心に全寮制高校や教団の発電所も備えて共同生活を営んでいるのが、昭和五年設立の
しかし、残念ながら東北や九州のユ─トピアにしても、必ずしも建築的な表現には至らず、結局は村なのであって都市的とは言えない。それに対し、天理は前述した内田祥三+奥村音造+中山正善のおやさとやかた構想[図24]という大きなフレ─ムを、市に昇格するにあたって作成したことにより、明確な都市像が結実する。正方形に囲む一棟ごとに、内側に一棟分を突起する行為を繰り返し、布留川を跨ぎ[図24]、道路を横断しつつ、神殿のまわりに建ち並ぶ、城壁都市。全部で六八棟=(九+八)×四に及び、一周は約三・五キロメ─トル=八七九メ─トル×四になるメガストラクチャ─の現実的なプロジェクトは、おそらく世界的にも類例がないはずだ。しかも東側の山に向かって傾斜する大地に対し、人工的なス─パ─フレ─ムは、おおむね西棟は八層、東棟は五層、南北は七層として高さをそろえている(ただし、四隅と
しかしながら、先に最終図が示されたおやさとやかたも、昭和三○年に第一期工事として五棟が竣工したのを皮切りに、平成七年までに二四棟が完成し、ようやく全体の三分の一を越えたに過ぎない[図27]。これまでのペ─スを維持したとしても、少なくともあと七○年はかかる計算になり、今後も建設資金(毎年、教団の歳出の一割から二割を占める)、市との折衝、土地買収などの問題を解決しながら、ゆるやかに進められるだろう。未建設の部分については、用途も未定であるらしいが、現在までに収容された施設の傾向を述べておく。最初に着手された東棟の方は別席場(取次人より、教えを聞く場)の宗教施設や博物館、次いで西棟は病院などの公共施設、南棟は教庁に小学校や大学の文教施設、遅れているのは北棟で詰所が入っている。おそらく残りも、主に詰所を移転しながら、おやさとやかたに組み込むのではないかと思われるが、これはフ─リエのファランステ─ルさながらに、単一的な外観に、様々なビルディング・タイプを詰め込んだユ─トピアの構築体である(ル・コルビュジエのユニテをその系譜に位置づけるならば、実はおやさとやかたも多くのピロティをもっており、フ─リエ→ル・コルビュジエの帝冠式と解釈できる)。
24───東右第四棟(1979)。講習課の建物は布留川にかぶさり、ルドゥによる河川管理人の家を思い出させる。
25───真東棟(1955)のピロティ。甘露台の真東四町の地点に鎮納された銘石がある。おやさとやかたの起工した1954年に据えられた。
26───真南棟(1992)。ウィ−ンのカ−ル・マルクス・ホフのように、本部神殿、南門より続く真南通りを跨いでいる。
27───南右第3棟(1985)、ここは高安詰所。コンクリ─ト剥きだしの断面が、接合される日を待つ。
肖像
おやさとやかたの設計者に名を連ねている三人の男。彼らをつなぐ糸はそれより二○年前に結ばれ、天理教の建築・都市にとって最大の貢献者となった。まず中山正善は東京帝国大学で宗教学を専攻した二代真柱であり、内田祥三らの助けを借りながら、テクストに示された空間を解釈しつつ具体化するのに、ずっと意識的だった人物である。次に内田祥三は東京帝国大学建築学科の教授であったが、昭和七年頃に天理学園の設計を頼まれて以来、関野貞らと昭和普請の設計顧問に参加するなど、天理との縁が深く、作品集の刊行では中山正善が陰のプロモ─タ─になったという★一四。確かにおやさとやかたの案に、内田好みのシンメトリックかつメガロマニアックな造形を認めることは難しくない。例えば、東大キャンパス計画案の後方[図28]に見られる、内側に突起物をもつ口字型平面という独特な形態の感覚は、スケ─ルこそ違えど、おやさとやかたに類似している。また一期工事のみで終わったものの、おやさとやかたの南、現在の天理図書館付近に、彼は小学校から大学までを含む、天理学園の大計画[図29]を立てているが、これも東大キャンパス案に似たものだ。おやさとやかた構想は、その発展的解消としても考えられる。さらに天理教が早くから不燃のコンクリ─ト造を取り入れているのも、彼の指示によるものだろう。
そして奥村音造は本席飯降伊蔵の子孫にあたる天理教の信者であり、昭和九年に東京帝国大学の建築学科を卒業するとすぐに、中山正善から仕事を依頼された内田祥三のすすめで、昭和普請の建築技術部に勤める。以後、彼はずっと天理教の建築に関わるのだが、おやさとやかた構想も、彼が中心に発案し、中山や内田と相談しながら決定したものである★一五。彼の回想によれば、一万人の別席場の設計を命じられたことが出発点であり、百人収容の百部屋を多層に重ねようと考えているうちに、「八町四方」の東の線が敷地を通ることに気付き、別席場をその一部にした最終案に変えたという。塀長屋をモデルとし、非常用通路としてのバルコニ─が連続する外観[図30]。また増築前の当時、神殿と教祖殿はきれいな対称形の回廊で結ばれていたが、その回廊を拡大したイメ─ジも重ね合わされている。つまり、内側の回廊と外側のおやさとやかたは、入れ子になっており、実際、上層の回廊(下は通り抜けできる)を歩くと、ちょうど、アイレヴェルで各棟の屋根がきれいに連なって見え、軒下にならぶ提灯の明りがともる夜景が特に幻想的である。そして北側の丘にある教祖の墓からは、あたかも教祖の視線を意識したかのように、「ここら辺り一面に、家が建て詰むのやで」という言葉通りにまちが一望できる[図31]。それでは天理の風景に最も特徴的といえる、その千鳥破風が連続する入母屋の屋根はどこから来たのであろうか?[図32]
28───東大キャンパス案、内田祥三(岸田日出刀画、部分)【
29───天理学園構内計画図、内田祥三
30───東左第3棟(1955)参考館(博物館)の3階。バルコニ─が続き、軒下には各地方教会の名を記した 提灯が並ぶ。
31───北の御墓地より町を見下ろす。教祖の目には予言通りの都市が映るだろう。
32───駅前の公衆電話にも、天理スタイルの屋根がのっている。
構築物1
もちろん、これも奥村の手によるものだが、本人の弁によれば、雨仕舞や耐久性、環境を配慮したうえで勾配瓦屋根と決まり、先に内田が設計した学校をモデルにしたという。確かに昭和一二年の天理中学校[図33]が、今回調べた限りでは、天理スタイルの屋根をもつ最古の作品である。例えば、大正一五年の天理外国語学校はいわゆる白い箱であり、昭和五年の天理図書館[図34]は、当時の天理時報で「端麗な近世式容姿」と紹介されているように、和風屋根とはまったく縁がない。おそらく、この時点で教団はまだ全体的なデザイン戦略をもっていなかったのだろう。ところで内田が和風の屋根を手掛けたのは、これが最初ではない。昭和八年の東方文化学院東京研究所が、企画者の強い意向により大小の寄棟屋根を組み合わせた意匠になっており、それを見た中山が「ああいう気持ちのもの」をと言って、内田に頼んだのである。ただし、東方文化研究所に千鳥破風はなく、入母屋でもないから、厳密には大小の寄棟屋根の構成法が踏襲されたというべきだろう。
さらに直接の影響関係を考えずに千鳥破風の起源を求めれば、城郭建築よりも古い、中世神社の連棟社殿(神の共同長屋)に遡る。例えば、住吉大社本殿[図35]は、横方向にのばした
その他、屋根を中心に見ていくと、黒住教や弁天宗の本殿[図39]は表現主義風、霊波之光教会の天使閣は城郭のコピ─、日蓮正宗の大石寺は横山公男の設計による構造表現主義、そして妙智会や立正佼成会はモダン・ストゥ─パ風である。建築家では大谷幸夫、ミノルヤマサキ、清家清も新宗教に関わっているが、世界救世教の教祖岡田茂吉のように、ル・コルビュジエを参考にしたという例もある。ちなみに、天理教の地方教会の屋根は、一定した形式がなく、教祖の生家[図40]と同じ大和の民家風や正面性を強調する善光寺型が多い。
33───旧天理中学校(1937)、内田祥三
34───天理大学附属図書館(1930)京大の坂静雄+島田良馨による設計。
35───住吉大社本殿(1370)、山口県
36───霊友会釈迦殿(1975)、竹中工務店、東京港区巨大な構造体を分節するひだ。
37───世界真光文明教団本殿(1988)の設計過程、鹿島建設、静岡県
38───教祖ジョセフ・スミスの細かい指示の書き込まれた、聖なる都市の設計図。
39───ゲン・プラン、弁天宗本殿(1965)茨木市
40───右が教祖中山みきの生家。神殿の南、約2.5kmの小さな三昧田村に位置する。
41───天理村配置図
42───城壁のある村落計画(1933)、内田祥三
43───岐阜の高山市の外れに崇教真光の世界総本山・元主大神宮(もとスおおかみのみや)(1984)が建つ。遠くからでも、屋根の棟木中央に置かれた大きな赤い棟玉が目を引く。教団は詰所や自前の食堂を設けていないので、祭りが市をうるおす。
移植──一九三四、一九三五年……
詰所の集まる天理市が世界を凝縮した点であるならば、反動的な力として、それは布教する宗教の宿命でもあるのだが、今度はユ─トピアの雛形を世界各地に拡散しなければならなかった。増殖するユ─トピア。大本教の出口王仁三郎はモンゴルに理想の宗教王国の建設を企てたことがあったし、PL教はブラジルにおいて「PL大通り」や「人生は芸術である通り」をもつアルジャのまちに南米聖地を築いている(しかも富田林市と姉妹都市である)。また移民の子が始めたモルモン教は、教祖の細かい指示により、新大陸に一マイル(=一・六キロメ─トル)四方の「聖なる都市ザイオン」[図38]を構想し、さらにこう述べている。「他も同様の方法で区画し、終末の日には世界中をこれで満たし」なさい、と。こうしてユタ州には一○以上の都市が同じ計画でつくられたのである★一六。そして天理教は早くも明治二○年代に海外布教を開始し、明治三一年に最初の台湾教会をつくり、戦前は昭和一○年前後にピ─クに達し、満州や朝鮮を中心に年間約四○の教会を増設する。だが、とりわけ都市論的に興味深いのは、昭和七年に天理教がハルビン郊外に二三万六七○○ヘクタ─ルの土地を購入し、計画的な天理村の建設を行なっていたことである。
その基本立案によれば、一部落につき約五○戸を想定し、中央を公共施設にあて、半分は神殿、残りが小学校、事務所、診療所、工場、倉庫等になっており、全体は長方形の平面、防衛のため壁に囲まれ、東西に門を置くというものだった[図41]。昭和九年の第一次移民、四三戸二○五人により、実際に建設された
構築物2
新宗教の存在はきわめてポリティカルなバランスの上に成立している。国家が単一であるという幻想が支配的であれば、なおさらのことだ。世直しの思想もさることながら、新宗教の脅威とは日本が実は単一ではなく、内部から分裂していることの言明に他ならない。ゆえに、そこは建築と政治の関係がスリリングに顕在化する場でもある。江戸の宗教弾圧は
明治二九年、天理教は内務省訓令を受けて、「教会新築工事は華美に渉らざる様精々注意すること」という教団改革条項を打ち出しているが、教団は公認を得るために宗派神道に属したことから、建築や儀礼に神道的なものを取り入れる必要があった。それが神社建築に特有な
44───本部神殿の鬼瓦。千木の先端を外削に切る。瓦の中央は教紋「丸に梅鉢」。
切断──一九九五/一九三五年
七月の最終週に天理市を訪れると、まちは「こどもおぢば帰り」を迎えて、にわかに活気づき、縁日のように出店が並び、おやがみさまにありがとうと感謝する歌が流れている[図45、46]。すべての人間はおぢばから出てきたのだから、信者にとってここは訪れるのではなく、帰るところであり、市内のあちこちに「おかえり」の文字が踊る[図47]。バスは全国から続々と集結し、専用列車が天理駅に到着する。巨大な仮想家族のためのホ─ムタウン[図48]。そして「こどもおぢば帰り」の前夜祭は、本部神殿前で鼓笛隊やエレクトリカル・パレ─ドさながらの大行進なのだ[図49]。毎月二六日は天理教の
こうした祭りは時間の均質性に楔を打ち込む。その鼓動は都市の断続的な発展に帰結するのでもあるが。寺院(templum)と時間(tempus)の語源的親縁関係に切断の概念があると、エリア─デは紹介したが、前者が空間の均質性における裂開ならば、後者とは祭礼の時間に他ならない★二○。なぜならば、祭礼は聖なる時間、すなわち原初の時間を周期的に再現し、世界を再生するからである。これは創造的な反復だ。しかし、宗教は受難のときもまた、それが厳しいほど忘れ難い記憶として語りつがれ、反復される。かの有名な大本教の第二次弾圧を本論のエピロ─グとして語るべきであろう。
昭和一○年一二月八日(大本教の考えでは、事件は六年後、一二月八日の真珠湾攻撃により拡大・反復する)、前々からその機会をうかがっていた内務省は、夜明け前にバス一八台で警官三○○人を動員し、綾部と亀岡の両本部で一斉に手入れを行なう。弾圧は信者の大量検挙にはじまり、祭壇は撤去、石造の月宮殿はダイナマイトで爆破、木造建築は柱を切って綱で引き倒すにとどまらず、土地の売却が強要され、取り壊しの費用すら大本教が負担するという厳しいものだった。神域一帯は根こそぎ破壊され、後に教団は解散させられる[図50]。このとき警察が礎石をひっくり返し、さらに日本海に捨てたのは、大本教の徹底的な抹殺を計ったからなのであるが、裏返して言えば、それだけ建築が宗教の象徴たり得たのであり、力をもっていたことの証明に他ならない。そして国家は大本教に対し、布教のために改築した既存の施設は原形に復するよう命じた。つまり、発見された聖地を再び無に帰し、あらゆる建築の痕跡を消去しなければならなかったのである。祭礼の反復を中断させる、狂気の祭り。そして宴の後には何も残らなかった。
45───本部神殿前のパレ−ド(7月26日)
46───駅前の北陸詰所。夏のこどもおぢば帰りを意識し、ファサ─ドの全面をひまわりで覆う。この街ではゆるやかな過剰が随所に現われる。
47─── JR天理駅のプラットフォ─ムよりまちを望む。電光掲示板の「ようこそおかえり」が信者を迎える。その向こうに天理スタイルの屋根が連なる。
48───神殿の近くに、信者専用の大食堂が並ぶ。祭りには何万食も用意し、カレ─ライス専用食堂などがでる。
49───こどもおぢば帰りの前夜祭(7月25日)
50───静寂の亀岡天恩郷、石垣の上は月宮殿跡。戦後、少しずつ再建が進む。
───古代ギリシア人が世界の中心と考えたデルフォイの声域に安置された大地のへそ。ややデベソ気味である。しかし、パルナッソス連峰をのぞむ、険しい山であるデルフォイは信託を授かるにふさわしい雰囲気につつまれている。
註
★一、二○──M・エリア─デ『聖と俗』(風間敏夫訳、法政大学出版局、一九九三)。
★二──教祖の生涯については、『校本 天理教教祖伝』(天理教道友社、一九六六)による。
★三──ここはA・ヴィドラ─がホフマンを論じた箇所とあわせ読むと興味深い。A. Vidler,'Unhomely House', The Architectural Uncanny, MIT Press, 1992.
★四──教典の引用は、『天理教原典集』(天理教教会本部、一九八六)による。
★五──昭和九年一二月九日の『天理時報』によれば、新築される東京教会を皮切りに、これからは海外教会も含めて全教会をぢばに向けて建てると報じている。
★六──The Doctrine of Tenrikyo, Tenrikyo Church Headquarters, 1993. 教会本部による英訳では、I wish to receive Miki as the Shrine of God.となっている。
★七──鎌田東二「神話的想像力と魂の変容」(『現代思想』青土社、一九八三)。
★八──斎藤辰雄「ぢばと教会本部設置について」(『天
理教学研究』一九五○)。
★九──M・シュヴィント編著『宗教の空間構造』(徳久球雄他訳、大明堂、一九七八)は天理市に一章を割いているが、残念ながらわずか四ペ─ジの不十分なものである。基本文献としては天理市編纂『天理市史』(一九五八)の他に、次のものが参考になるだろう。
・西田和男「天理市の研究第一報」(『奈良学芸大学紀要』一九五五)。
・伊藤郷平+梅田幸房「宗教都市の分析法試論──天理市を事例として」(『奈良文化論叢』一九六七)。
★一○──内田春雄「詰所の地理学的研究」(『奈良文化論叢』一九六七)。
★一一──桑原公徳「宗教都市としての天理市の性格」(『花園大学研究紀要』一九七○)。
★一二──『PL三十年史 パ─フェクトリバティ教団のすべて』(芸術生活社、一九七七)。
★一三──『現代の小さな神々』(朝日新聞社、一九八四)。
★一四──『内田祥三作品集』(鹿島出版会、一九六九)。
・『昭和普請』(天理教道友社、一九三六)。
★一五──内田祥三+中山正善「おやさとやかたの建設」(『あらきとうりょう』一九五五)。
・奥村音造「二代真柱様の思い出」(『復元』天理教教会本部、一九七七)。
★一六──J. W. Reps, The Making of Urban America, Princeton Univ. Press, 1965, pp.466-474.
S. KOSTOF, THE CITY SHAPED, BULFINCH, 1991, pp.100-103.
★一七──天理村建設事務所編『移住地建設計画案』(一九三五)。
・天理教生琉里教会編『天理村十年史』(天理時報社、一九四四)。
★一八──『教祖年祭 躍動この一○○年』(天理教道友社、一九八四)の写真史料による確認。
★一九──奥村音造「宗教天理教の建築様式について」(大阪府建築士会会誌『ひろば』一九五九)。
本論の作成にあたっては、井上順孝他『新宗教事典』(弘文堂、一九九四)と、おやさと研究所『天理教事典』(天理教道友社、一九七七)を全般的に参考とした。また天理図書館の貴重な蔵書と、その名は記さないが多くの人とのインタヴュ─がなければ書きあげられなかっただろう。そして宗教建築の議論を重ね、有益な示唆をあたえてくれた酒井一光と、史料の情報を提供してくれた菅野裕子には、この場を借りて感謝の意を表わしたい。
図版出典
1、10──植田英蔵『おやしき変遷史図』(天理教道友社、一九五一)。
2──『かんろだい物語』(天理教道友社、一九九四)。
3──『建築と社会』一九八五年一月号。
4──『おやさと案内』(天理教道友社、一九九五)。
9──井上順孝他『新宗教事典』(弘文堂、一九九四)。
28、29、43──『内田祥三作品集』(鹿島出版会、一九六九)。
35──稲垣栄三『神社と霊廟』(小学館、一九七一)。
37──『建築文化』一九八八年四月号。
41──J.W.REPS, THE MAKING OF URBAN AMERICA, PRINCETON UNIV.Press, 1965.
42──天理村建設事務所編『移住地建設計画案』(一九三五)。
その他の写真は著者撮影。