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視覚的無意識としての近代都市──三つの都市の展覧会をめぐって | 五十嵐太郎
The Modern City as Visual Unconscious: On Three Urban Exhibitions | Igarashi Taro
掲載『10+1』 No.07 (アーバン・スタディーズ──都市論の臨界点, 1996年11月20日発行) pp.154-167

プロローグ──ある空中散歩

一八五八年の冬、ナダールは飛んだ。操縦士のゴダールと気球に乗って。雨まじりの空を八〇メートルほど上昇し、すぐに降下したのだったが。これがただの飛行であれば、気球は一八世紀から実験されていたのだし、すでにブランシャールがドーバー海峡を横断していたのだから、さして特筆すべきことはない。だが、ここで注目すべきなのは、気球に乗り込んだその人、フェリックス・ナダールが写真家だったことだ。気球の放出するガスのために、彼は一八五七年に初めて気球に乗りあわせて以来、幾度も失敗を重ね、とうとうこのときパリ近郊の村、プチ・ビセートルの撮影に成功する。天気のすぐれた日ではなかったが、農家、旅館、憲兵隊兵舎、そして道にとまる絨毯屋の荷車や屋根の上の鳩がしっかりと写っていたのである。かくして気球にのった写真家は、世界初の「映像」を獲得する。それは気球と写真、すなわちふたつのテクノロジーが合体した記念碑でもあった。
今日ではおそらく肖像写真家として知られるナダールだが、「この光景を写真に収めたいという思いは生半可なものではなく、絶対的なものだった」と後に回想しているように、新たな視覚の領野を開拓するのにはきわめて貪欲な人物だったと言っていい★一。彼は「航空写真」の特許を得て、一八六〇年代にパリの航空写真を次々と発表し、それを当時の新聞は大きく採りあげた[図 1]。そして一八六三年、ナダールは三〇〇人の針子が縫いあげた膜材をもつ、高さ六〇メートルの大きな気球「巨人号ル・ジアン」を飛行させ、パリ市民の関心を集める。柳の枝で編まれたゴンドラの部分には、寝台、食料庫、バルコニー、そしてカメラを設置した撮影室、現像の暗室テントを積んだという。結局、この空飛ぶカメラ・オブスキュラは失敗するのだけれども、ナダールは同年に「空気より重い機械による飛行術推進協会」を友人のジュール・ヴェルヌらと創設し、後の飛行機の登場を予告していた。一八八〇年代の終りには、ナダールの息子らが、パリを完全に垂直に俯瞰した写真を撮影している。
それでは一体どのような写真が撮られていたのだろうか? 例えば、その初期、一八五八年に撮影されたパリの航空写真を見てみよう[図2]。いささか傾きがちに、ときには構図からはみでながらエトワールの凱旋門をとらえた連続写真がある。だが、それがただ写っているだけの、あまりにも凡庸な空中写真であることに失望を覚えるかもしれない。しかしながら、これはあくまでも、それから約一四〇年の時間を経過した我々の感覚なのであって、当時の視覚的な衝撃が貶められるべきではない。逆に言えば、そのへたな絵ハガキのような映像を、我々が当たり前のものとして知り過ぎているせいなのである。なぜか。それは写真という本来的に大量複製が可能な媒体を通して初めて、立ち現われてきた映像であり、後に生まれた世代にとっては最初から慣らされてしまったものだからだ。つねに近代都市のイメージにまとわりつき、反復される視覚的無意識。むろん現在は気軽に飛行機に乗れる時代になったわけであるし、ちょっとの出資をすれば、東京やニューヨークの上空をヘリコプターで観光することもできる。それでもなお、われわれは未来都市のように自家用ヘリを持っているわけではないから、自由に俯瞰するわけではなく、圧倒的に写真やTVなどのメディアを介してのみ、その映像を受容しているはずだ。ましてや飛行船もまだ実現していない一八六〇年代、誰もが気球にのって実際にパリを見下ろしていたわけではないことは明らかである。つまりナダールの航空写真は空から都市を俯瞰するという新たな映像を人々にあたえ、確かに衝撃的だったのだが、同時にそれが写真であるがゆえに、イメージとして急速に消費もされていった。
もはや高い塔や山の頂きにカメラの機材を運ぶ必要がなくなった、気球と写真の出会い。これは絵画に代用されるべきものではない。なぜなら、気球は空で停止することが難しいからだ。つまり依然として気球は操ることが容易ではなく、基本的には風まかせの乗物だったのであり、ナダールの「巨人号」も自由気球だったために、遠くドイツにまで飛ばされていたのである。とすれば、時間をかけて真下に広がる風景を描くのではなく、空から瞬間をとらえること。それは写真の方がふさわしい。創始期には数時間を必要とした露出はダゲレオタイプによって二〇分〜三〇分、イーゼリングによって五分、そして一八五一年からはコロディオン湿板法によって最短五秒の撮影が可能になっていた。こうした露出時間を短縮する努力が、航空写真を準備したのである。鳥になって、大地を、都市を、はるか上空から見下ろすこと。おそらく人類が太古から想像し、夢に抱きながら、一度として実現することのなかったヴィジョンが、強烈な視覚的イメージとして共有可能になったのである。そのとき近代都市は胎動していた。それゆえ映像化され、複製され、流布されるという未曾有の視覚体験の根源に、イメージとしての近代都市は刷り込まれている。したがってナダールが気球からプチ・ビセートルの三軒の建物を撮影したことは、近代的な視覚の獲得として記憶すべき瞬間なのだ。

1──ドーミエの風刺画「軽気球上から写真を撮るナダール」1862

1──ドーミエの風刺画「軽気球上から写真を撮るナダール」1862

2──ナダールによるパリの航空写真

2──ナダールによるパリの航空写真

展覧会1──《都市(LA VILLE)展》

先頃、都市の表象を題材とする展覧会が行なわれた。一九九四年にヨーロッパで開かれた《都市(LA VILLE)展》と、今年の夏、それをもとに再構成された東京での《近代都市と芸術展》である。おそらくこれだけの規模で、近代以降の絵画や写真に表象された都市と、建築家による様々な都市プロジェクトを同時に集めた展覧会は他に類がないだろう。本稿で論じる俯瞰という近代的なまなざしも、《都市(LA VILLE)展》のカタログから示唆を受けたものだが、《近代都市と芸術展》の方では、残念ながら航空の視点や写真の比重が低くなっている。もとより東京展では消化不良を起こしかねないほど膨大な展示物を、やや未整理のまま投げ出したように思えなくもない(時代順ではあるが、テーマ性に欠ける)★二。したがって建築家の都市と芸術家の都市は組み合わせたというよりも、ただ平行して並んでいるのが実際の印象だ。そこで手始めに、この展覧会とカタログをテクストとして、芸術と都市を横断する切断面を提示しつつ、近代の表象を再考していこう。
展覧会では、セルダのバルセロナ拡張計画(一八五九)やオスマンによるパリ大改造の完成を踏まえて、一八七〇年を起点に近代都市を概観する(この頃は日本の明治維新という意味でも興味深い)。先に論じたように、パリの航空写真が登場するのもこの直前だから、おおむね妥当な時期とみなせるだろう。そして一八七〇年代以降の都市プロジェクトを注意深く眺めていくと、ほとんどの作品があたかも飛行機から眺めたかのように描かれていることに気がつく。ほんの一例であるが、地平線の彼方を見通すかのような、L・ボニエの「一九 〇〇年パリ万国博覧会の配置計画」(一八九四)、D・H・バーナムの「シカゴ計画」(一九〇七─九)、サーリネンの「キャンベラ新首都計画」(一九一二)、そしてベルラーヘの「南アムステルダム拡張計画」(一九〇〇─一七)だ[図3]。ちょっと小高い丘や塔の上からの構図とは考えにくい。もちろん芸術側でも、おそらく写真をもとに版画をおこしたH・ブルーアの「気球より見たロンドン中心部」(一八八四)や、J・シャイナーによる水彩の「一八八六年のケルン市」と「一八九六年のケルン市」などを初期のものとして挙げられよう。こうした俯瞰は、ジャンルの枠を越えた都市に対する認識のフレームのひとつとして、特に建築家を強く束縛したのである。最もわかりやすい例、アウトの「ロッテルダムの公営住宅」(一九三一─三二)では、御丁寧にも画面の枠内に飛行機の翼が水彩で描かれている[図4]。これをほぼ同時期に撮影されたドランシーの航空写真(一九三四)と比較すると、こうした構図をアウトが下敷きにしていたことは明らかだ[図5]。またS・ヤシンスキの「ブリッセル中心部官庁街の計画」(一九二九)やL・ヒルベルザイマーの「ベルリンの新オフィス街計画」(一九二八)は、フォト・モンタージュによって既存の航空写真にプロジェクトをはめこむ[図6]。さらに航空運輸を含む交通ネットワークの問題を考察したE・エナールの「飛行機から見た未来都市」(一九一〇)には飛行船と飛行機が描かれ、ダイナミックな構図によるV・マルキの「航空機から見た建物」(一九一九)も題名が空の視線であることを明記していた。丹念に観察するならば、数々の図面に気球や飛行船が浮いている。例えば、明らかに飛行する物体の視点から描かれたE・エブラールらの「国際交流センター」の新都市(一九一二)やL・クリエの「ラ・ヴィレットの新地区案」(一九七六)には飛行機[図7]、D・A・アガシュの「キャンベラ新首都計画」(一九一二)やF・オットーの「未来派の首都」(一九六三)には飛行船、そしてG・フィリオーニの摩天楼(一九三一)やH・ホラインの「渓谷の都市」(一九六四)にはヘリコプターが飛んでいる。要するに、当初から「航空写真は近代性の表現と親密に結ばれていた」のであり、その表現形式は当然、都市プロジェクトに反映されていたと考えられよう★三。それは計画が古典的なものであれ、アヴァンギャルドなものであれ、共通するフレームとして機能しており、近代都市を構想する視覚形式だった。
ところで一九世紀初頭には、三六〇度のスクリーンをもつ円形のパノラマ館が初めて登場し、カメラ・オブスキュラによって精緻に描いた、やや中空から見下ろしたパリの市街を見せていたという。おそらくナダール以降の航空写真的な都市認識の祖型は、ここに求められるかもしれない。そして一九〇〇年のパリ万国博覧会では、円環状につないだスクリーンに一〇台の映写機によって「シネオラマ・エアバルーン・パノラマ」という気球映画を催している(この時、ナダールの回顧展も行なわれた)★四。しかも布をドーム天井に張り、上部に観客席を設け、気球から都市を眺める仮想体験が味わえるよう演出されていた。おそらく一八九五年に有名なリュミエールが工場から出る労働者や「列車の到着」を撮影したように、他の表現分野と比べて移動する対象こそが、初期の映画が最も本領を発揮するテーマであったことは想像に難くない。すでに一八八 〇年代から建物の屋上から見たリーズの大通り(一八八八)や、グリーンによって道路を歩行する人物(一八九〇)がフィルムとして撮影されている。発想を逆転させれば、今度はカメラ自体が移動するだろう。リュミエール社は一八九六年の時点で列車にカメラをのせて、リヨン市の洪水をパン(=パノラマ)撮影したり、ヴェネチアの街を舟から撮っている。移動するヴィークルは、本来的に絵画というメディアにとっては不向きなはずだ。場面を描くのに、あまりにも時間がかかり過ぎるからだ。したがってそのメディアは写真や映画にならざるをえない。次に移動する気球から都市をフィルムで撮影するのは、必然的な展開だった。かくして映画のパン撮影は、一九〇〇年のパリ万博における実験的な映像展示を契機に流行したようである★五。また万博自体も格好の撮影の対象になったようで、「エッフェル塔のパノラマ」は、上昇するエレベーターからだんだんとパリを俯瞰していく。ちなみに「エッフェルの怪人」、サントス・デュモンが幾度も飛行船を製作してはパリの空を飛んで、エッフェル塔のまわりを周回して市民をにぎわせたのも、ちょうどこの頃である。そして一九一〇年代の初めには、映画において航空機から眺める大鳥瞰のショットが登場したのだった。

3──H・P・ベルラーヘ「南アムステルダム拡張計画」(鳥瞰図)1900-17

3──H・P・ベルラーヘ「南アムステルダム拡張計画」(鳥瞰図)1900-17

4──アウト「ロッテルダムの公営住宅」1931

4──アウト「ロッテルダムの公営住宅」1931


5──ドランシーの航空写真 1934

5──ドランシーの航空写真 1934

6──L・ヒルベルザイマー「ベルリンの新オフィス街計画」1928

6──L・ヒルベルザイマー「ベルリンの新オフィス街計画」1928

7──E・エブラール他「国際交流センター」(鳥瞰図)1912。下にプロペラ機が見える

7──E・エブラール他「国際交流センター」(鳥瞰図)1912。下にプロペラ機が見える

空を飛ぶ、未来派とコルビュジエ

G・リスタの『航空絵画のヴィジョン』によれば、絵画の領域では、一九一〇年以降、航空ショーのポスターが都市を俯瞰する構図をもちいており、さらに第一次世界大戦によって画家たちは空からの視線を導入するようになったという★六。未来派や渦巻派はダイナミズムを求めて航空絵画を描く。デペーロやドットーリらは操縦室に乗り、空からのスケッチを試みたのである(写真ではない!)。サンテリアも「屋根は利用されなければならない。……ファサードの重要性は削減されなければならない」と主張し、垂直方向への関心を示していた。一九二九年には未来派航空絵画宣言が発表される。
「われわれ未来派は宣言する。
一.飛行の不安なパースペクティヴは比類なき新しい現実を構成する。そこには地上的パースペクティヴによって伝統的に構築された現実と共通するものはまったくない。
二.この新しい現実の諸要素にはいかなる不動の点もなく、同じ絶え間ない動きから構成されている」、と。
未来派航空絵画宣言には、視覚の前線を切り開く意欲がみなぎっている[図8]。
しかし、もともと印象派とナダールの関係を考えれば、モネが「カピュシーヌ大通り」(一八七三)で斬新な俯瞰図を描いたのも、写真の映像に触発された可能性が強いのだから、当初から絵画は写真や航空の技術に影響されていたといえるだろう(第一回展はナダールのカピュシーヌ大通りのアトリエで開かれたのではなかったか)。
こうした視覚の変容は、単に伝統的な透視図法の否定だけで説明できるものではない。一八四四年に世界初の写真集『自然の鉛筆』を刊行したタルボットは、建物上階から見下ろした街の写真について、こう語っている。「なにしろこの装置は、それが見えるものはなんであれすべて記録するので、たとえ煙突の口や煙突掃除人であっても間違いなく、まるでベルヴェデーレのアポロン像に対するのと同じような公平無私な態度で詳細に描写するだろう」、と。この驚きはひとえに、人間の眼であれば無視するであろう、些細なディテールすら記録してしまう透徹した機械の眼に向けられている。そして機械の眼によって徹底した俯瞰が実現したことも付け加えるべきだろう。写真が絵画にもたらした影響のひとつとして「鳥瞰」を重視するシュテルツァーによれば、写真以前の時代に、これほど完全な俯瞰は描かれなかったという★七。つまり一五世紀以来、確かに高い視点から風景画や室内画は制作されてきたけれども、実際は一部だけが俯瞰になっており、残りは水平の眺めに切り換わっていたのだ。例えば、一六世紀のオランダの風景画家パティニールの場合、湖は俯瞰により広大さが示されるが、山はそういかないので水平に描かれている。またロッソの磔刑図では、キリストは斜め上から見下ろしているのに、他の人々は普通に横から見ている[図9]。おそらく人間の視覚は、完全な俯瞰が見慣れないものであり、また見下ろした縮寸が困難であるゆえに、透視図法の原理を一貫することができなかった。だが、写真の登場により、強制的な視覚の枠組から逃れて、我々は初めて純粋な俯瞰を映像として手に入れたのである(ポロックに言及する、R・クラウスの水平性と垂直性の議論を想起させないか)。そしてシュテルツァーが指摘するように、人類は前景のない浮遊した映像の世界に突入した。その原風景はまぎれもない近代の都市だった。ナダールのパリ航空写真、また現存する最も古い写真は、一八二六年に撮影され、手前に屋根のようなものが見えるやや俯瞰的な構図をもつ、家の窓から何気なく眺めた街である。
予想されるように、近代の航空写真は、すぐに武器としての性格を露にした。というよりも、逆に戦争によって航空写真は本当に重要視されたのである。つまり「第一次世界大戦においてようやく、軍事目的のために、その眺めが普及する」のだ★八。気球に乗ったナダールの頃は八〇メートルから四五〇メートルの高度であり、真に垂直に見下ろした写真はなかったようだが、飛行機の登場と第一次世界大戦は一八 〇〇メートル以上もの高さからの航空写真を可能にしている。もっとも空からの正確な俯瞰が戦争や地図作成に役立つことは、ナダールもすぐに思いついていた。「写真はただちに映写機を使って拡大される。将軍の眼前に戦場のすべてが再現される。軍事行動は最大もらさず検討でき、戦を有利に導くためのあらゆる優越が保証されるのだ」と、彼は書き残している。実際、一八七〇年の普仏戦争でナダールは軍事気球隊を組織し、勇敢にもプロシア軍の陣地を偵察していたのだ。ガルニエによる「工業都市」(一九〇一─四)の全体配置図のリアリティは、もちろん実在の地形をモデルにしたことも原因だろうが、航空写真を参照したかのようなドローイングだからこそ持ちえたのである[図10]。また雲のあいまに見下ろすシュペーアの「大ベルリン計画」(一九四一)や丹下健三の「大東亜建設記念造営計画」(一九四二)も、明らかに飛行機の高度を意識して描かれたものだ(しかも後者は富士山という日本的な構図であり、神の視線と解釈できなくもないが)[図11]。やはりシュペーアの計画を映像化した『石による言葉』(一九三八)は、冒頭に飛行機からのショットを用いている。そして空からの視線とは、空からの攻撃を暗示するものに他ならない。一九〇〇年代、メリエスの映画は空から落下する砲弾のショットを繰り返し、G・グロスの「爆発」(一九一七)は都市の空襲に対する不安を劇的に表現し、A・ロドチェンコのフォト・モンタージュ「未来の戦争」(一九三〇)は飛行船からの爆撃を題材としている(すでに一九一五年には軍用ツェッペリン号によるロンドン爆撃が行なわれていた)。空襲の危険性は戦時中、都市のデザインにも影響をあたえた。つまり空に対して建物をカモフラージュする必要が生じたのである。例えば、アメリカの軍事工場では屋根の上に偽の街並みを描き、中国の南京ではすべての建物を灰色に塗ったり竹で擬装の大建築を建てたり、日本では防火のために軍事的に重要な建物の周囲の家屋を強制的に排除していた★九。破壊の後、様々な再建案が提出されたが、例えば、L・バザンらの「シュリー・シュル・ロワール市復興計画」(一九四一)など、ほとんどのものが飛行機(=爆撃機にもなりうる)からの俯瞰によって構想されている[図12]。すなわちこれは二〇世紀の宿命であるが、破壊と建設は同じ視線によって構想されているという皮肉が、はからずも明らかになってしまう。
飛行機の文明を謳いあげた建築家、ル・コルビュジエも忘れてはならない。彼は初めて飛行機に乗った一九二八年以前にも、「エッフェル塔の一〇〇、二〇〇、三〇〇メートルの相つぐ展望台において、水平の視線は無限の拡がりを与えられ、そして我々は、それから衝撃をうけ影響される」(『ユルバニスム』一九二四)と高い視点への関心を示していたし、同書の理想都市では四つの摩天楼に囲まれた中央駅の上に飛行場、下に車の道路を配していた。「三〇〇万人のための現代都市」(一九二二)のスケッチにも、さりげなく航空機は飛んでいる。おそらくコルビュジエにとって、空からの俯瞰のイメージは、明晰な都市の構想に欠かせないものだった。「鳥瞰によって、精神の行動に重要な革新──明晰な展望──平面で──整理された──がもたらされた。すなわち、平面(二次元での知識)が最高度に詳細化され、断面は現われない(三次元寸法──高さの消滅)」(『三つの人間機構』一九五九)。まったくの垂直視線である。そして『四つの交通路』(一九三九)では、パリの下宿で初めて飛行機の轟音を耳にした一九〇九年の出来事を語りながら、陸路、鉄路、水路に続く、第四の空路について論じる。「飛行機というものは空路を生みだしただけでなく、この新しい交通路の高さによって初めて都市計画にその責務の緊急さと広大さを自覚させ、さらに都市に隠された巨大な傷跡を露にした結果、壮麗さのあらゆる可能性を秘めた事物の新たな次元をも自覚させることができた。飛行機は我々に鳥瞰をもたらしたのである」。そして「飛行機は、人間が都市を建設したのは人間を満足させ、幸福にするためではなく、人間を犠牲にして金を稼ぐためである、ことを暴いた」と、飛行機の視点から都市を批判し、こう訴える。「飛行機は見た。飛行機は告発する。われわれも今は写真乾板に記録された証拠を握っている以上、どんな犠牲を払ってでも都市を救わなければならない」、と。例えば、ある時、サン・パウロに到着したばかりのコルビュジエは、パイロットにこう頼んでいる。「サン・パウロの中心地に向かってまず地上すれすれに飛んでくれたまえ。都市のプロフィールをつかみたいのだ」[図13]。他にもアルジェやチャンディガールの上空を飛び、そして彼は都市の設計を行なう。確かに多くのスケッチは、そのまま飛行機の窓から見た大地の姿を思い出させる。つまり彼は新しい時代の視覚形式をはっきりと認識していたのである。「飛行機は、高所にたって、新しい意識状態、現代の意識状態を創設する」のだ。

8──T・クラーリ「都市への急降下」1939

8──T・クラーリ「都市への急降下」1939

9──ロッソ・フィオレンティーノ「十字架上のキリスト」

9──ロッソ・フィオレンティーノ「十字架上のキリスト」

10──T・ガルニエ「工業都市」(配置図)1901-04

10──T・ガルニエ「工業都市」(配置図)1901-04

11──A・シュペーア「大ベルリン計画」(鳥瞰図)1941

11──A・シュペーア「大ベルリン計画」(鳥瞰図)1941


12──L・バザン他「シュリー・シュール・ロワール市復興計画」(鳥瞰図)1941

12──L・バザン他「シュリー・シュール・ロワール市復興計画」(鳥瞰図)1941

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13──コルビュジエによるサン・パウロの計画。右下に飛行機が見える

13──コルビュジエによるサン・パウロの計画。右下に飛行機が見える

展覧会2──未来都市の考古学

一九九六年、都市をめぐるもうひとつの展覧会《未来都市の考古学》が開催されていた。これは鵜沢隆の監修により、ルネサンスから現代までの実現されなかった都市プロジェクトを展示したものである。その注目すべき起点となるのは、一五世紀のピエロ・デッラ・フランチェスカ派による理想都市だろう[図14]。時代の新たなテクノロジーである透視図法を駆使して描かれた絵画は、画布の中心に置かれたモニュメントに向かってすべての線が収束し、中央を格子のある広場としている。同じ構図は、一六世紀にセルリオの『建築七書』が舞台美術として表現した理想都市にも受け継がれている。いずれもきわめて前面性の強いものだ。かつてパノフスキーは『象徴形式としての遠近法』において、パースペクティヴという表現の枠組を時代精神に関連づけて論じていたけれども、結局、「視野のピラミッド」が極端に上を向いたり(虫瞰)下を向いたり(鳥瞰)することはあまり想定されていなかったし不都合だったはずで、人間の眼の高さから見たものを前提としていたのだといえよう。またルネサンスの戦争都市は、幾何学としては美しいものだが、まだ空からの攻撃を考慮する必要はなかったし、ほとんど水平方向に飛来する砲弾のみが重要な問題だった。つまり水平の視線が都市を規定していたのである。そしてもっと古くから存在する平面図とは、実際に見られるものではなく、きわめて理念的な存在であることにも留意しておこう(あるいは神の視点?)。
《未来都市の考古学》展では、次なる時代の折り目を一八世紀のルドゥーによる「ショーの理想都市」(一七七三─七九)に設定している ★一〇。この有名なドローイングは、やや斜め右方向に俯瞰しながら遠くに地平線を望み、しかも画の中心と都市の中心線は一致しない[図15]。つまり空からの視線なのだ。これは影響関係を説明できないので、ほとんど歴史の偶然としかいえないだろうが、世界初の気球が飛んだのも、この頃だった★一一。一七八三年六月五日、モンゴルフィエ兄弟が熱気球の公開実験を行ない、すぐにパリの上空でも別の人物によって飛行が成功した。そして同年、最初の有人飛行が国王の前で繰り広げられたのである★一二。当時はデュ・バリー夫人と親密に関わり、王室建築家の称号を得ていたルドゥーだから、これを知らなかったとは思えない。もちろん写真などはなかった。けれども実際に人間が気球にのって眼下を見渡すこと。そうした想像を多くの人間が共有できるようになったことの意味は大きい。したがって「ショーの理想都市」の視点が気球からのものだと仮定してみるのは、あながち的はずれなことではないかもしれない。そして空からの視線を意識して、ルドゥーは全体を円形にデザインしたのだとも考えられよう。もはやルネサンスのように、幾何学的な都市は防御を目的としていたわけではなかったのだから。鳥瞰図に寄せられた「広大な円環がわれわれの目の前に開け、展開する。それはすべての色彩を輝き立たせる新しい地平である。強力な天体は豪胆にも自然をみつめる」という彼の文章は、まさに上昇する気球からの描写として読めないだろうか。ちなみに、これ以前にも、例えばフィッシャー・フォン・エルラッハの『歴史的建築の構想』(一七二一)に、バビロンの都を斜めに俯瞰する構図は存在していたし、空から望む都市の地図などがなかったわけではない。だが、それを実際に見ることができたものは誰もいなかった。想像と理論だけがとらえた視界でしかなかった。ともあれ《未来都市の考古学》では、「ショーの理想都市」をCGの画像によってヴァーチュアル体験できるようにしていたが、歩行モードのみならず飛行モードの操作が可能になっていたのは興味深い。ある意味で空中からのシミュレーションは、この理想都市の本来の見え方を復元しているようにも見えるからだ。
《未来都市の考古学》は他にも多くのCGが展示されており、ヴェスニン兄弟の「レニングラード・プラウダ・ビル・コンペ案」(一九二四)、レオニドフの「レーニン研究所」(一九二七:気球の形態が建築化している)や「重工業省コンペ案」(一九三四:CGのみ飛行機が登場する)などで、空を旋回する視野を見せてくれていた。おそらくこれが真に近代以降の視覚体験だったのである。つまりルネサンスのパースペクティヴがもつ静的かつ舞台装置的な前面性に比べて、飛行する物体は視覚の中心を分裂させたのであり、カメラはどこからでも撮影可能な装置として遍在する視点をもたらしたのだ。ここでも《未来都市の考古学》展とカタログをテクストにしながら、飛行機の問題に触れておこう。例えば、メーリニコフによる「重工業省コンペ案」(鳥瞰図、一九三四)には飛行機が描かれているが、そのダイナミズムはまさにそうした飛行機からのまなざしによって生まれている[図16]。そしてレオニドフの「モスクワ文化宮」(一九三〇)には飛行船、シチューセフらの「クリストファー・コロンブス記念塔」(一九二九)には飛行船と飛行機、ブラムの「線状都市」プロジェクト(一九三四)には飛行機、ライトの「ブロードエーカー・シティ」(一九三四─三五)には円形をした謎の飛行物体(UFO?)が浮かぶ。ヘンドリックスの「摩天楼に架かる空港計画」(一九二〇頃)と未来派のT・クラーリによる「都市の空港のための計画」(一九三一)は、いずれもコルビュジエと同様、都市に空港を設置するものだ(後者のオリジナルは《近代都市と芸術展》で出品された)。またフラーは「ワールド・タウン・プラン」(一九二七)で飛行船で軽量金属製の住居塔を運ぶことを提案していたし、クルチコフらは「飛行都市」(一九二八)を構想している★一三。カタログに収録されたガヴィネッリの論文「『ユー・トピア』から『ノー・トピア』まで」は、来世紀に向けての、空と宇宙への都市ヴィジョンを指摘している★一四。そのとき都市は重力や上下の概念が根底からくつがえされることになろう。

14──ピエロ・デッラ・フランチェスカ派の理想都市。15世紀

14──ピエロ・デッラ・フランチェスカ派の理想都市。15世紀

15──C・N・ルドゥー「ショーの理想都市」1773-79

15──C・N・ルドゥー「ショーの理想都市」1773-79

16──メーリニコフ「重工業省コンペ案」1934

16──メーリニコフ「重工業省コンペ案」1934

航空写真から戦後の絵画へ

近代以降の都市は、記憶としてのモニュメントやメタファーとしてのウィトルウィウス的身体を喪失しつつ、不安的な状態を迎えていた★一五。またアグレストが指摘するように、もはや都市は統一されたものではなく、断片化された身体として表象される★一六。そこで、ばらばらになった都市の全体的なイメージは機械化された眼が代理することによって得られる。航空写真はそれまで見たことがなかった都市の全体像をつきつける。つまりわれわれは写真という他者のまなざしを介して「見知らぬ自己」を発見するのだ★一七。あたかも初めて肖像写真を見せられた人間がとまどうように、写真こそが近代都市の無意識的な全体性を支えてきたのである。B・コロミーナは写真を含む近代のマスメディアこそが近代建築が生まれた本当の場所であると言っていたし、ベンヤミンは『写真小史』(一九三一)で建築は本物よりも写真の方が理解しやすいと語っていたけれども、同様の指摘は都市にも当てはまるものだろう。数々の研究書、建築雑誌、旅行ガイドによる写真の反復。ほとんどの場合、建築と都市は、膨大な写真情報の洪水の後にしか体験できなくなってきている。こうした状況を踏まえつつ、再び《近代都市と芸術展》から、さらに戦後の絵画による都市の表象を探ろう。
スタールの「屋根」(一九五二)やコルネイユの「白い都市」(一九五五)は、明らかに完全に垂直な都市の俯瞰から触発された作品であり、その視覚がもたらす対象の変容を利用して、素朴な抽象化を試みたものだ[図17]。またM・ボイル「ロンドン市街──赤い石畳の研究」(一九七七─八〇)やR・エステス「バルセロナの眺め」(一九八六)は、ともに写真のもうひとつの特徴である、微視的な細部の記録という手法を模倣する。つまり前者はひょっとすると実物よりも街路を大きく再現しており、一分の一を超えた顕微鏡的なリアリズムの世界、そして後者は人間の眼による現実ではなく機械の眼を再現しようとした航空写真的なリアリズムの世界なのだ。一方、G・リヒターの「都市風景SL」(一九六九)や「都市風景PL」(一九七〇)は、ありがちな航空写真の構図を思わせる灰色の絵画を描き、その凡庸さが都市を空から俯瞰することへの強烈な皮肉になっている[図18]。やはり一九六〇年代以降に起きた近代都市論の転回も、簡単に言えば、空から見る都市計画への批判だった。幾つかの都市の上空を飛んだ体験にもとづいて書かれた磯崎新の「見えない都市」(一九六六)は、ただ茫漠と広がるロサンゼルスについては「全貌を航空写真におさめるなど無意味に近い」と述べている。ここで彼は都市の姿が消去したことを宣言し、もはやテレビ的な記号によってのみ知覚される次世代の都市の姿を描いていたように思う。このような方向性は、状況主義者のドゥボールによる精神地理学的な地図「裸の街」(一九五七)や、看板や番地の記号が騒がしく踊るデュビュッフェの「ボン・ヌーヴェル通り」(一九六二)などにうかがうことができる[図19]。だが、一九九〇年代の作品を見ると、俯瞰的な表現にも新たな様相があらわれている。薄れゆく残像のような都市、ジュノヴェスの「生命の点」(一九九一)。歴史的地名のネットワークがぼんやりと浮かびあがる、クィツカの「トリノ」(一九九一)。無数に光る点の集積になった都市、シュヴァリエの「都市風景」(一九九二)。「シミグラム」という方法により偶発的な生命力をあたえられた地図、コルディエ「大都市のトポグラム」(一九九二)[図20]。これらは現代的に俯瞰の構図を蘇生させながら、新たな都市の無意識を掘り起こしていく試みなのである。

17──ニコラ・ド・スタール「屋根」1952

17──ニコラ・ド・スタール「屋根」1952

18──G・リヒター「都市風景SL」1969

18──G・リヒター「都市風景SL」1969

19──デュビュッフェ「ボンヌ・ヌーヴェル通り」1962

19──デュビュッフェ「ボンヌ・ヌーヴェル通り」1962

20──P・コルディエ「大都市のトポグラム」1992

20──P・コルディエ「大都市のトポグラム」1992

展覧会3──都市を抹消し、交通開放系の裸体を想像せよ

最後に筆者も関わったある展覧会について紹介したい。一九九五年二月に本郷のNICOSギャラリーにて行なわれた、エディフィカーレ建築同人展『都市を抹消し、交通開放系の裸体を想像せよ』(南泰裕+槻橋修+五十嵐太郎石崎順一+奈尾信英)である[図21]。もちろんこれは小さな展覧会ではあったが、現在から振り返ってみれば、本稿で論じた俯瞰を含めて、都市といかなるまなざしで向きあうのかについての問題提起がなされていたように思う。簡単に展覧会の概要を説明したい★一八。会場は、一万分の一から一分の一まで一〇倍ごとに拡大する五つのスケールの世界によって、五つのエリアに分けられている。そして各エリアは左回りに展開し、最後の一分の一の世界では都市を映像化したTVモニターが仕掛けられ、再び一万分の一の世界に戻ってスケールが循環する構造をもつ。各スケールでは都市のモデルを構想しながら、原─都市的なものを探求するのが狙いである。この展覧会を通して興味深かったのは、スケールと視線の高度が相関しているのを考えさせられたことだった。つまり一:一〇〇〇〇の第一位相、交通と集約を抽象的に表現する都市的スケールの世界から、一:一〇〇〇の第二位相、街区的スケールの世界までは、俯瞰的な構えから都市を表現せざるをえない[図22]。おそらく第一位相のさらに外側には、吉本隆明がいう無限の宇宙の彼方から見下ろす垂直の世界視線が存在し、第一位相の内側から第二位相にかけては、近代以降に獲得した飛行機の視線が対応するはずだ。一:一〇〇の第三位相は、純粋な建築的スケールの世界である。ここでは立方体を構成する四つのピラミッド(理性)と吊り下げられたバベルの塔(錯乱)が対をなし、自律した構築のゲームを繰り広げる[図23]。ある意味では最も建築家には見慣れた世界であり、それゆえ古代から作られてきた二つの建築の祖型が選択され、この両極のあいだにすべての都市の建築活動は展開されるのだ。
展示における視線の高度は低くなる。ミッシェル・ド・セルトーが、ワールド・トレード・センターの一一〇階からマンハッタンを眺める眼によって作られる全体性、すなわち都市計画的な視線を批判していたように。彼は高所から降りて、都市を歩くことを提唱していた。そうした日常生活的な実践は新たな都市の現実を露にするだろう。一:一〇の第四位相において遭遇するのは事件だ。観賞者は一転して暗室に入り、人物の写真、「立入禁止」と記された等身大の鏡、点滅するフラッシュが錯綜した空間に置かれる。鏡に埋め込まれた電球の列に光がゆっくりと走り、断続的に背後からフラッシュがつき、暗闇の中で親子、友人、飼い主とペット、電車で偶然に隣席するサラリーマンなど、様々な人間の関係を写真によって瞬間的に目撃するのだ。一:一の第五位相、身体的スケールの世界では、さらに光を遮断した暗室が続く。したがってここでは地下のイメージが重なる。たぶんこれも、忘却の彼方にある近代の都市認識の起源に刷り込まれていたものだ。なぜなら、あのナダールは一八六一年にパリの下水道、カタコンベを撮影している。それは電気というテクノロジーが可能にした、人工照明による世界初の地下撮影だった。空に向かったのと同じまなざしで、ナダールは新たな視覚を切り開くために、都市の地下ネットワークを対象としたのである。彼によれば、「地下世界は……写真術の無限の広がりを開拓してくれるだろう」。ともあれ最後の原寸大の世界では、鉄格子の窓枠、廃墟と化したサラエヴォの図書館・ヴィデオの映像が設置されている[図24]。すなわち当時、戦火にあったサラエヴォを想定した鉄の窓枠であり、砲弾に対するバリケードというわけだ。これはいまだ紛争の絶えない都市の現状を告発する。一分の一のスケールで生身の肉体が見えたとき、人種、民族、宗教などの差異は、ときとして都市を戦場に変えていく。ヴィリリオはあるテクストの冒頭において次のエピソードを紹介している★一九。一九六〇年初頭、黒人のゲットーが反乱を起こしたとき、フィラデルフィアの市長は「たった今から、国境は都市の内部を横断する」と宣言したこと。一九六一年八月一三日、東西を隔てるベルリンの壁が築かれたこと。そしてプロテスタントとカトリックを分離するベルファストの道路について。一分の一とはそうした都市内の他者が露呈する限界点であり、すぐれて今日的な都市の問題構制もここに位置づけられるだろう。とすれば、一万分の一から一分の一までの展示による都市の思考実験は、近代以降に展開された都市論を凝縮したものだったのだ。
それにしてもあの風船おじさんはどこにいってしまったのだろうか?
(いがらし  たろう/建築史)

21──『都市を抹消し、交通開放系の裸体を想像せよ』展ポスター(デザイン:槻橋修)1996

21──『都市を抹消し、交通開放系の裸体を想像せよ』展ポスター(デザイン:槻橋修)1996

22──1:10000から1:1000の都市(南泰裕)1996 1:10000の一部が拡大されて1:1000のモデルになっている

22──1:10000から1:1000の都市(南泰裕)1996 1:10000の一部が拡大されて1:1000のモデルになっている


23──1:100の都市(槻橋修)1996 アクリルと鉄パイプの模型をワイヤーで吊る

23──1:100の都市(槻橋修)1996 アクリルと鉄パイプの模型をワイヤーで吊る

24──1:1の都市(奈尾信英)1996触覚感のあるオブジェ

24──1:1の都市(奈尾信英)1996触覚感のあるオブジェ


★一──ナダール『私は写真家である』(大野多加志他編訳、筑摩書房、一九九〇年)。ちなみに多木浩二『眼の隠喩』(青土社)でも、ナダールをユーゴーとからめて鳥瞰の視線を論じている。
★二──拙稿「二つの空想の都市美術館」(『新建築』一九九六年九月号)の展覧会レポートも参照されたい。
★三──A. G. ESPUCHE, "LA VILLE COMME OBJET TROUVÉ", LA VILLE, G. P. C, 1994.
★四──伊藤俊治『写真都市』(リブロポート、一九八九年)。
★五──小松弘『起源の映画』(青土社、一九九一年)。
★六──G. LISTA, "VISIONS AE´ROPICTURALES", LA VILLE, G. P.C, 1994.
★七──O・シュテルツァー『写真と芸術』(福井信雄他訳、フィルムアート社、一九八九年)。
★八──ANNE DE MONDENARD, "L, ÉMERGENCE D, UN NOUVEAU REGARD SUR LA VILLE", LA VILLE,G.P. C, 1994.
★九──今井清一『大空襲五月二九日』(有隣堂、一九九五年、三四、六〇-六一頁)。
★一〇──鵜沢隆「モデルとしての都市──ふたつの古典主義時代を中心に」(『未来都市の考古学』東京都現代美術館、一九九六年)。
★一一──磯崎新+八束はじめ他『幻視の理想都市』(六耀社、一九八〇年、一一八頁)にも簡単な指摘がある。
★一二──天沼春樹『飛行船ものがたり』(NTT出版、一九九五年)。
★一三──J・L・コーエン「メトロポリスを生き延びるユートピア」後藤武訳(『未来都市の考古学』一九九六年)。
★一四──C・ガヴィネッリ「『ユー・トピア』から『ノー・トピア』まで」横手義洋・岩谷洋子他訳(『未来都市の考古学』一九九六年)。
★一五──A. VIDLER, "POSTURBANISM", THE ARCHITECTURAL UNCANNY, THE MIT PRESS, 1992.
★一六──D. AGREST, ARCHITECTURE FROM WITHOUT,THE MIT PRESS, 1991, p.190.
★一七──西村清和「写真という物語」(『美学』 一八五号、一九九六年夏)。
★一八──同展のレポートについては、『エディフィカーレ』七号、一九九六年も参照されたい。
★一九──P. VIRILIO, "THE OVEREXPOSED CITY", ZONE, 1/2, 1986.

図版出典
1──田中雅夫『写真一三〇年史』(ダヴィッド社、一九八六年)。
2─8──"LA VILLE" G. P. C, 1994.
9──O・シュテルツァー『写真と芸術』(フィルムアート社、一九八九年)。
10─11──"LA VILLE" G. P. C, 1994.
12──『近代都市と芸術』一九九六年。
13──ル・コルビュジエ『プレシジョン(上)』(鹿島出版会、一九八四年)。
14─16──『未来都市の考古学』一九九六年。
17─20──『近代都市と芸術』一九九六年。
22──『エディフィカーレ』七号、一九九六年(写真は筆者撮影)
23・24──筆者撮影

*この原稿は加筆訂正を施し、『戦争と建築』として単行本化されています。

>五十嵐太郎(イガラシ・タロウ)

1967年生
東北大学大学院工学研究科教授。建築史。

>『10+1』 No.07

特集=アーバン・スタディーズ──都市論の臨界点

>丹下健三(タンゲ・ケンゾウ)

1913年 - 2005年
建築家。東京大学名誉教授。

>ル・コルビュジエ

1887年 - 1965年
建築家。

>ルネサンス

14世紀 - 16世紀にイタリアを中心に西欧で興った古典古代の文化を復興しようと...

>磯崎新(イソザキ・アラタ)

1931年 -
建築家。磯崎新アトリエ主宰。

>五十嵐太郎(イガラシ・タロウ)

1967年 -
建築史。東北大学大学院工学研究科教授。

>石崎順一(イシザキ・ジュンイチ)

1968年 -
近代建築史・都市計画史。東京大学研究員、ペンシルヴェニア大学客員研究員。

>多木浩二(タキ・コウジ)

1928年 -
美術評論家。

>戦争と建築

2003年8月20日