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四畳半を通して都市に住む | 鈴木明
City Life from a Four-and-a-Half Mat Perspective | Suzuki Akira
掲載『10+1』 No.05 (住居の現在形) pp.74-77

4+1/2展の趣旨

私はこの展覧会を通じて「現代都市に住むこと」の重要性や意味を考えたい。私はいまも東京に住んでいることもあって、もっとも慣れ親しんでいるし、一番詳しい都市である。しかし、この展覧会の目的は東京の住まいの紹介にあるのではない。また「四畳半」という小さな部屋の美学を、外国に普及させようというのでもない。
東京は現代の大都市の一例に過ぎない。四畳半は都市に生活するために確保されたもっとも小さな、しかし考えようによっては無限の可能性を持つ部屋と考えて欲しい。
現代都市の持たざるをえない欠点、たとえば居住環境の劣悪さは、程度の差はあれ、世界中の大都市に共有される問題である。しかし、その欠点をカバーして余りある便利さも現代都市にはある。都市生活者ならだれでも、そのような工夫を生活のために行なっているはずだ。
そこで本展覧会の出品者としては建築家だけでなく、ジャーナリストや社会学者といった建築や都市のユーザー、批評家にお願いした。それぞれの立場からの四畳半を考えてもらおうという主旨なのだ。ユーザーの立場から考えられた四畳半は、トロントの人々にも有効な都市の部屋のヒントを与えてくれると信じている。
この章では日本における四畳半の部屋が持っている社会的な意味や役割が形を変えながら現在に到るまでの歴史を紹介する。

四畳半とは

四畳半は日本人なら誰もが思い浮かべることのできるもっとも標準的な居住単位であり、かつ、もっとも小さな部屋である。
四畳半は伝統的な日本家屋の部屋に繰り返し現われ、そして現代の日本の住宅の中にも受け継がれている。しかし、伝統的な「四畳半」を設定することで伝統的な日本の住まいを必要以上に評価しようというわけではない。四畳半は日本の住まいの歴史の中で、固定した価値や美学に定められるのではなく、多様な現われ方を演じてきたことに注目すべきなのである。
四畳半は茶室というもっとも洗練された美学の舞台にもなりえるし、もっとも下層の住民が住む家、つまり木賃アパートの一室にもなりうる。そして、四畳半は茶室の洗練された儀礼の舞台になりうるし、朝昼晩の食事の席になるかと思えば、蒲団を敷いて寝る寝室にもなるという機能的な部屋なのである。
「起きて半畳、寝て一畳」の言葉にもあるとおり、畳は人間の尺度を基準に作られている。同じように四畳半も人間の身体のスケールに対応しているが、人と人が出会い、会話を伴い、団欒をおくるための基本的な、そしてある動作にとっては最適の空間を与えてきたのである。                                                      

四畳半の様相

四畳半の様相

条の四畳半

条の四畳半

木造アパートの四畳半

木造アパートの四畳半

四畳半の原形をたどる

鴨長明の方丈(約3.0m四方)は歴史に残るもっとも古い四畳半と言っていいだろう(当時は畳も普及していなかったのだが)。そのうえ、この住まいは恒久的な住居というよりは仮設的なものだったらしい。その家の構造や大きさに、機能性、必要性以上の意味があるわけではないが、最小限のモノに囲まれて、人知れずひっそりと暮らすことの悦楽という日本人の生活感をすでに確立していた。
日本家屋の内部を構成する部屋は、基本的にはすべて畳敷きの床面であり、その畳の枚数で広さに変化が作られるが、基本的にはどの部屋も広さ以外は同じ仕様である。
また部屋と部屋の間は襖で仕切られることが多く、その開け閉めによって、複数の部屋が連結統合され、さまざまな使い方が可能となる。冠婚葬祭といったハレのイベント時には、普段の応接間やリビングルームが、大規模なミーティング・ルームに仕立てられることもある。これも、畳というひとつのモデュール、単一の素材が作る部屋だからこその活用形なのであある。
ところがそのような日本家屋の部屋にあって四畳半の部屋だけは日常生活のための部屋として使われてきた。
江戸時代に確立された茶道の舞台となった茶室は喫茶のための、すなわち茶を飲むことを媒介とした「もてなし」の様式化である。これも基本は四畳半の部屋から始まっている。部屋の中心につくられた炉と、それを囲んだすべての畳にその部屋での人の動作が映し込まれているが、まさに接客のミニマルな部屋といえる。
売春の、あるいは密会のための部屋が四畳半であったりするのも、男女のいとなみがこの四畳半の濃密ではあるが適度な広さを必要としていたに違いない。
さて、庶民住宅を江戸時代の長屋に見てみよう。これは木造平屋の集合住宅であるが、四畳半の部屋をリビング、ダイニング、そしてベッドルームとして変幻自在に使い回し、最小限でつつましい暮らしを可能にしたのである。落語話しの多くはこの長屋の暮らしを舞台としているが、この都市住宅の貧しい原形は、あくまでも閉鎖的で独立した家ではなく、地域のコミュニティを前提に成り立つ住まいであったことを証明している。

鴨長明の方丈の想像図

鴨長明の方丈の想像図

さまざまな利休茶室

さまざまな利休茶室


四畳半切席(炉)

四畳半切席(炉)

中心のある部屋(上)テレビのある部屋(下)

中心のある部屋(上)テレビのある部屋(下)



江戸時代の長屋の平面図。四畳半だけでなく、それぞれ入口、押入、台所が付いている

江戸時代の長屋の平面図。四畳半だけでなく、それぞれ入口、押入、台所が付いている

サロンの変化

現在われわれがもっている、あるいは記憶の中にある四畳半の原風景は、「お茶の間」、すなわちリビングであり、サロンとしての部屋である。ここで家族が集まり、あるときはチャブ台、あるいは炬燵を囲んで団欒の一時をおくる。この正方形の、中心をもった部屋の真ん中に、丸い小さなテーブルを置き、あるいは正方形の炬燵を囲んだ家族の団欒は、しかしながらほとんどの人にとって想い出に過ぎない。ここで何が話し合われたかを思いだそうとしても出てこない。もはや現代人にとって遠い過去のような気がする。
四畳半に展開された家族団欒、すなわち戦後の核家族化に対応したサロンであった。しかし、そんな家族団欒も1960年代の後半、すなわち高度経済成長期を境にして、大規模に変化することになる。
象徴的な変化は、小さなテレビがこの四畳半のコーナーにセットされた時に起こった。オリンピックの東京開催をきっかけとしてテレビは各家庭に爆発的に普及した。身体的なスケールで家族の会話を保障してきた部屋の中に、テレビは直接外部世界の情報を流し込んだ。同時にテレビは唯一外に繋がる系を独占していた父親の特権を、物の見事に奪い去ってしまったのである。
けっして均等ではなかった家族の集まりも、皆がテレビの前に並ぶという構造に変化してしまったのである。四畳半の中で、かつて君臨した父親の居場所は、やがて来る高度経済成長の残業旋風の中で空席化し、テレビは、その後家庭のコミュニケーションの中心に位置することになっていく。
このようなサロンの崩壊に直面したあと日本の住まいには、四畳半に変わる決定的なサロンはいまだに登場してこない。日本の現代建築家の住宅設計は、この中心を欠落した、すなわちサロンのない平面プランをめぐって、その後30年に渡って紆余曲折を展開するのである。                                             

中流家庭の茶の間としての四畳半

中流家庭の茶の間としての四畳半


木造アパートでの住まい方のあれこれ (重村力『都市住宅』1973年2月号)

木造アパートでの住まい方のあれこれ
(重村力『都市住宅』1973年2月号)

メタボリズムと都市住宅

1970 年代に結成されたメタボリズム・グループは新陳代謝という生物学の概念を建築と都市に適用した。工業化された建築技術を用いて、建築と都市を固定したものではなく、常に更新を可能とし、柔軟に成長していく組織であると定義したのである。都市の軸や建築のコアといったインフラストラクチャー(基幹的施設)に、個別の機能を持たされたカプセルを付加するというシステムが作られた。
黒川紀章による《中銀カプセル・マンション》はその例である。ホモ・モーベンスと名付けられた都市人は、地上や地縁から解放され、そして家族からも解放され、カプセルの中で自由を獲得し、あらゆる活動を行なうというものだった。しかし、ビルトインされたオープンリール・デッキ、大型の電卓、アナログのダイアル式電話といった、今から見れば陳腐な「最新技術」でどのような活動を行なうことができたのだろうか? もちろん、このようなカプセル・マンションの構想も、当時それほど都市化が差し迫っていなかった東京では定着しなかった。
まだまだ郊外住宅への夢が東京人を支配していたのである。しかし、その居住空間のミニマリズムは、のちの「カプセル・ホテル」や「ワンルーム・マンション」に姿を変え発展解消していくのである。もちろん、それを支える「インフラストラクチャー」は当時の建築家が考えたようなブルータルな「コア」や「ストラクチャー」とは姿を変えて後に現われるのであるが。
一方、メタボリズム以降の日本の現代建築家は都市住宅派というグループを形成する。彼らのほとんどが誇大妄想的な都市改造プロジェクトから疎外され、しかたなく親や親戚、あるいは同年代の小家族のための小住宅デザインを活動の中心に据える。その結果として都市の中に快適な、「核家族」のための住宅を次々に発表していくのである。
皮肉なことに、大都市の構造そのものを動かすことから退却したこれらの若い建築家のほうが、都市と住居の問題に、リアリティと責任をもって向き合うことにならざるをえなかったのである。
そのグループのもっとも代表的な住宅が東孝光による《塔の家》である。現在では東京のもっともファッショナブルな町、青山に建っている。内部のリビングルームは平面にすればたかだか四畳半程度だが、垂直に拡がる高い「吹抜け」は、失われてしまったお茶の間の復権を感じさせたのである。
若い建築家は「コンクリート打放し」と「吹抜け」を武器に、都市に住む小家族のための住宅を次々に作りだしていく。安藤忠雄による《住吉の長屋》もこの吹抜けが外部化した一例と考えることもできよう。
現代のわれわれからみれば、このように住宅のリビングが、なぜここまで外部から閉ざされ、荒々しい壁に囲まれているか理解しがたいが、当時の都市のドラスティックな変化に対する防御の姿勢の現われと理解できよう。
しかし、吹抜けのお茶の間で家族が新しいコミュニケーションを発見するのも束の間のこと、都市は新しい次元に突入する。

家の中心としての茶の間が消えた公団住宅の初期の間取り

家の中心としての茶の間が消えた公団住宅の初期の間取り

ワンルーム・マンションとコンビニ

1970年代の経済成長を経て、高度な消費社会が都市を埋め尽くした。家族や地域的なコミュニティを形成しない、そして住宅の中にサロンやテーブルやキッチンを必要としない生活が可能な都市環境が、1980年代の後半になって実現されたのである。
「ワンルーム・マンション(英語の語感では笑いを誘うが)」とは、トイレ、洗面所、バスタブがFRP で一体成型されたバスルームと、小さなキッチンを持つ面積およそ20m2程度のアパートメント(部屋)が集合する鉄筋コンクリート造のアパートをいう。都心部の住宅地域に効率良く建てる(住宅地に3階建てを建てるには高さ10mの建築制限をクリアしなければならない)ために、天井高も2.1mに押さえられている。
このアパートの居住者は家族を形成しない独身者がほとんどである。都築響一の『TOKYO STYLE』(京都書院、1993)に居住者の生態は詳しいが、これを成り立たせるためのインフラストラクチャーが東京にいち早く実現していることがこのような都市住宅の形式を産み出す基盤であったことはいうまでもない。
コンビニエンス・ストアではあらゆる食品、アルコールも含めた飲み物、下着や雑貨、書籍が売られ、電話料金などの支払いもこなせる。コンビニのおかげでワンルーム・マンションの住人は自宅にキッチンや冷蔵庫や着替えを置く必要はない。
コンビニではレジに直結した本部のコンピュータで商品管理がなされている。それに連動したトラックが1日何回もデリバリーする。そんなわけで、コンビニのレジで打ち込まれる都市住人の押入れの中身から、胃袋の中身までのデータが、ネットワーク化されたコンピュータの中にデータとしてインプットされ、分析されているのである。
1960年代に構想された高速道路や高層ビルとブリッジといったインフラストラクチャーとカプセル住居のセットは、かくもしなやかな都市構造に置き換えられて実現してしまった。
このようなインフラストラクチャーが成立した後には、家族という単位もコミュニティも見えなくなりつつある。建築家はこのような見えない都市を先導することはもはやできなくなってしまったし、かといってお茶の間のイメージを提出することもできない。モーバイル・インテレクチャルと呼ばれる個人による、コンピュータ・ネットワークのヴァーチュアルなコミュニケーションの中に、お茶の間でおこるアクティヴィティや都市的な出来事が取って代わってしまったのだろうか。

畳の上にカーペットを敷いた四畳半(公団パンフレットより

畳の上にカーペットを敷いた四畳半(公団パンフレットより

《中銀カプセル・マンション》1970(『黒川紀章作品集』より)

《中銀カプセル・マンション》1970(『黒川紀章作品集』より)

東孝光《塔の家》1966

東孝光《塔の家》1966

都市の中の部屋

現代の東京の典型的な部屋をこれと指し示すことは難しい。現代の東京ではあらゆる暮らし方が可能であるとしか言いようがない。もちろん、あらゆる暮らし方と言っても留保事項はつく。逆説的だが、ちょっと前まで当たり前だった伝統的な四畳半の暮らし、つまりモノに支配されないつつましい暮らしを、現代の東京で実現するには大変な覚悟がいる。
なぜなら、茶の間である四畳半を埋める安定した家族がない。茶の間に座って家族団欒の一時を過ごすといった暮らしは、いまの東京ではできない。家族を統合する特権的な父権とその庇護に甘んじ、台所と茶の間の間を行ったり来たりして、夫や子供にひたすら奉仕する母から構成されるような家族はもうない。テレビやファミコンにうつつを抜かさず、学校の帰りに塾によらない子供はいないのである。一方で、伝統的な家庭から失われたものに替わる代価はといえば、コンビニのプラスチックな食品や、ユニットバスのシャワータイムだけというのでは情けない。
都市が本来持っていた多様なコミュニケーションの可能性を小さな部屋で実現できるとすれば、都市の中の部屋は裏返されて、部屋の中に都市があることに気がつく。落語の「粗忽長屋」のように家族やコミュニティを媒介せずに、都市をはみ出し、国境を越えることも可能になったのである。自分を取り巻く小さな空間を持った部屋と、膨大なコミュニケーションのネットワークにつながる部屋。実は東京に限らず、都市の部屋はこのようなアンビバレンツなコンディションの中に投げ込まれてしまっている。
5つのグループの四畳半はこのような都市の部屋のコンディションを前提として、デザインされたものである。
(すずき  あきら/建築エディター)

安藤忠雄による大阪《住吉の長屋》1975

安藤忠雄による大阪《住吉の長屋》1975


つれこみ

戦後、公娼制度がなくなり、売春が禁止され、各地の花街はそれぞれいろいろな形で転換した。しかし「特飲街」という形でながく公娼時代の区域がのこり、風俗営業取締法の線にそってカフェー(東京)、料理屋(福岡)、待合(山口)、お茶屋(京都)、あるいは「特殊下宿」といった名で。「自由恋愛」という名目のもとに売春が残っていたことも事実である(『日本のすまいI』西山夘三、勁草書房)。

料理屋の客間

で、折角それを楽しみにして来たのであるから、燭台に替えて貰ったが、その時私が感じたのは、日本の漆器の美しさは、そう云うぼんやりした薄明りの中に置いてこそ、始めてほんとうにはっきされると云うことであった。「わらんじや」の座敷と云うのは四畳半ぐらいの小じんまりした茶席であって、床柱や天井なども黒光りに光っているから、行燈式の電燈でも勿論暗い感じがする。が、それを一層暗い燭台に改めて、その穂のゆらゆらとまたゝく蔭にある膳や椀を視詰めていると、それらの塗物の沼のような深さと厚みを持ったつやが、全く今までとは違った魅力を帯び出して来るのを発見する(『陰翳礼讃』谷崎潤一郎、中公文庫)。

DK

内部については、公営住宅から引き継いだ、いわゆる食寝分離と異性寝というものが原則となりました。それまでは2K、つまりに寝室にキッチンというもので、当時そのキッチンにゴザを敷いて、ちゃぶだいを囲んで一家が御飯を食べたりという光景が見られたりしたものですが、一方、公団はというと、公営住宅になかった豊かさを盛り込んだわけです。それは風呂場とDKに象徴されています。公営住宅では風呂場は贅沢だということでついていなかった。また、DKは住宅の中に団らんの場所をという発想でつくられたもので、後にはL(リビング)に育っていくものですね。
(澤田光英〈元日本住宅公団副総裁〉インタビュー『Ginza Pocket Park News』 #15)

畳の寸法

畳の大きさは、6尺×3尺、すなわち1818mm×909mm。一尺は303mmで肘から手の甲までの長さ。6尺は1間で、1間×1間は、すなわち畳2枚分を1坪(3.3m2)といい、面積の単位として用いられる(厳密に言うと関東と関西では大きさが異なっているが)。
このモデュールは便利で、畳の数で部屋をデザインでき、家を設計できるし、素人でも畳や襖から、瞬時に家の広さを知ることができるのである。

『都市空間のなかの文学』前田愛、筑摩書房
『日本人の住い』E.S.モース、鹿島出版会
『生きられた家』多木浩二、青土社
『四畳半襖の下貼り』
『墨東綺譚』岩波文庫、永井荷風
『浮雲』岩波文庫、二葉亭四迷
『蒲団』岩波文庫、田山花袋
『明治東京下層生活誌』岩波文庫、中川清編

*この原稿は加筆訂正を施し、『4+1/2: The Internal Landscape of Tokyo』として単行本化されています。

>鈴木明(スズキ・アキラ)

1953年生
神戸芸術工科大学大学院教授。建築エディター・建築批評。

>『10+1』 No.05

特集=住居の現在形

>メタボリズム

「新陳代謝(metabolism)」を理念として1960年代に展開された建築運動...

>ミニマリズム

1960年代のアメリカで主流を占めた美術運動。美術・建築などの芸術分野において必...

>都築響一(ツヅキ・キョウイチ)

1956年 -
写真家、編集者。

>TOKYO STYLE

2003年

>多木浩二(タキ・コウジ)

1928年 -
美術評論家。