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サイバーアーキテクチャーのディテール | 本江正茂
Cyberarchitectural Detail | Motoe Masashige
掲載『10+1』 No.16 (ディテールの思考──テクトニクス/ミニマリズム/装飾主義) pp.177-179

サイバーアーキテクチャー。「建築」のようなものだとみなすことで、誰もが了解し利用することができるようになる、情報空間上のデータによる構築物。それは「建築」だから、内部に入れる。内部には、勝手を知りテキパキと用事をこなす人もいれば、どこへ行けばいいかわからずキョロキョロしている人もいる。設計者には思いもよらなかった行動に出る人もいる。多数多様な人々が同時にそれぞれに行動することができるようになっている。
そんな人々の中に、サイバーアーキテクチャーの「ディテール」をじっと見つめている人がいる。細部に目を凝らし、彼は何を見出そうとしているのだろうか?

できあがったばかりの話題の建築物を見に行くと、「ディテールを見つめる人」によく出くわす。見ているだけでは飽き足らず、壁を叩いたり、手摺をゆすったり、サッシュの見付寸法を測ったりしている。まちがいなく建築業界の関係者である。彼らは、ディテールを見つめることで、その建築の作り方を理解しようとしているのだ。ディテールから見えてくる建築の作り方といっても、素材は何かといった即物的なことから、設計者が想定した空間のヒエラルキーといった抽象的なことまで、いろいろな水準があるが、いずれにせよ、ディテールが建築の作り方を雄弁に物語るものであることは論を俟たない。
逆にいえば、建築の作り方に興味のない人はディテールを見つめたりはしないものである。透明感のある建物だな、と感じることは誰にでもあるだろう。しかし、その透明感がどんなディテールによって実現されているか、とは考えない。ディテールを見つめている人は、その作り方を知りたい人である。
しかし、サイバーアーキテクチャーにおいては、そこに見えている「イメージ」にどんなに目を凝らしてみても、その作り方は見えてこない。サイバーアーキテクチャーの「イメージ」は、利用者ごとの表示装置の違いや、その時々の要求の違いを反映しながら、その都度、状況に応じて生成されるものでしかないからである。
サイバーアーキテクチャーにおいては、具体的で知覚可能な「イメージ」と、そのもととなる「モデル」とが、はっきりと区別されている。そして利用者からのリクエストに応じて、「モデル」がコンパイルされ、レンダリングされて、適切な「イメージ」が生成される。ひとつの「モデル」から何通りもの「イメージ」が現われうる。サイバーアーキテクチャーとは、「モデル」から「イメージ」を生成する機構そのものだと言ってもよい。
身近な例として、WWWのソースファイルと表示イメージの関係があげられよう。ソースファイルであるHTML文書には、テキストとさまざまなリソースとの関係だけが記述されている。その HTML文書が、どのような表示イメージとして利用者の前に現われるかは、利用者が用いる表示装置とソフトウェアに、決定的に依存している。
最終的な「イメージ」をコントロールすることこそがデザインであると信じてきたデザイナーには到底受け入れられないほどに、サイバーアーキテクチャーの「イメージ」は、利用者側の環境次第でまったく違ったものになりうるのである。
しかし、逆に「イメージ」がひとつに限定されてしまっているサイバーアーキテクチャーなど、なんの魅力もないとも言える。PDAの小さなモノクロ画面にも、高品位なヘッド・マウンテッド・ディスプレイにも、茶の間のテレビにも、それぞれにふさわしい「イメージ」で現われ、にもかかわらず、いつも同じ「建築」であると感じられるような空間。サイバーアーキテクチャーとは、むしろ、そのようなものとしてデザインされるべきではないだろうか。
「モデル」と「イメージ」を切り離し、「イメージ」が複数であることを許し、しかも「イメージ」の生成プロセスの主導権を利用者側にゆだねてしまうことと引き替えに、サイバーアーキテクチャーは、静的で固定的な建築物の限界を超えた、圧倒的な流動性と遍在性を獲得することができるのである。
サイバーアーキテクチャーの作り方をとらえるためには、「イメージ」の背後にある「モデル」に目を向ける必要がある。見つめるべきディテールは、「モデル」から「イメージ」が生成される機構にこそ見出されるであろう。

もし、サイバーアーキテクチャーの片隅で「ディテール」をじっと見つめている人物が、その手に「レンズ」をもっているなら、彼が目を凝らし「細部」のむこうに見出そうとしているのは、また別のものであるかもしれない。
一六一〇年、ガリレオ・ガリレイが、望遠鏡で月を見た。くっきりとした映像として見えた月の表面は、当時の哲学者たちが主張していたような、滑らかで一様な完全な球面などではなく、起伏に富んだ傷だらけのものであって、それは地球の表面となんら変わりなかった。ガリレイは、その観察からの反省によって、地球もまた月と同じ天体であるという認識を得た。月の「細部」を見つめることによって、地上と天界の星々とがつながったのである。
同じ頃、ロバート・フックが顕微鏡でダニや蚤を見て、その精密かつ入念に創造された姿に目を見張り、大量の美しいイラストに描いた。卑しいちっぽけな虫けらの世界に、驚くほど精緻な構造があることが見出されたのだ。
それまで人々は、肉眼では見ることのできない世界があるなどということには思いもよらないでいた。気にする必要もなかった。しかし、望遠鏡と顕微鏡という光学技術によって、見知っていたはずの世界に潜んでいた、驚くべき「細部」が発見されてしまった。見えてしまったのだ。そこから逆に、人間の知覚には、いわば〈裸眼の地平〉とでも言うべき限界があること、そして何千年もの間、その閉じた世界の内側にずっと閉じこもっていたことに気がついた。そして、遠い星から小さな虫まで、「細部」が果てしなく垂直に連続しているという、新たな世界像が得られたのである。
さて、建築はあくまで〈裸眼の地平〉のうちに建っている。「肉眼では見えないほど小さな建築」などというものはありえない。「建築」の細部は無限ではない。柱頭の彫刻がどんなに精密で繊細であっても、どんどん拡大して見ていくと、ある倍率から先は、ただの石の表面でしかなくなってしまう。それはもはや「柱頭の彫刻」ではない。細部を凝視していく視線は、どこかで「建築」を突き抜けて、素材そのものの性質へ、マテリアルの地平へと到ってしまうのである。
にもかかわらず、「レンズ」をもって建築の細部を凝視しようとする営みは、やむことがない。このズームインによって「建築」を突き抜けて到達したマテリアルの地平もまた、「建築」の地平と継目なく連続していることが確信されているからである。だからこそ、マテリアルの地平での探究の成果を、そのまま逆にズームアウトして、建築に適用することができるのである。新素材の開発が、建築を変えてしまうことがあるのは、両者が連続しているからにほかならない。
チャールズ・イームズらの『パワーズ・オブ・テン』に鮮やかに示されていたような、果てしなく連鎖する細部の垂直な連続性。そのちょうど中程にあたる〈裸眼の地平〉に、「建築」は建っているのだ。
一方、あらかじめ標本化されている情報を扱うデジタルの世界には、こうした垂直な連続性は見られない。ひとつの画像データを「虫眼鏡ツール」で拡大していったところで、一つひとつのピクセルが大きく表示されるばかりである。そこには、今まで見えていなかったものが、次第に目の前に姿を現わしはじめ、新たな知覚の地平が切り開かれていくという興奮はない。
では、原理的に有限なデジタル情報にもとづいて構築されている以上、サイバーアーキテクチャーには、果てしなく連鎖する「細部」の連続性、などというものはないのだろうか。驚きをもって発見されるべく、まだ見ぬ「細部」が潜んでいるということはありえないのだろうか。
先に述べたように、サイバーアーキテクチャーとは「モデル」から複数の「イメージ」を生成する機構であると考えることもできる。生成される「イメージ」は利用者側の環境に依存しているので、「モデル」の設計者の意図を超えた多様性をもってしまう。
もちろん、あらかじめ表示装置を限定し、すなわち利用者の多様性を認めずに、かつ生成されるイメージの振れ幅をできるだけ小さくすべく設計すると、経験されるサイバーアーキテクチャーに、安定的で完結した全体像を与えることもできる。それは同時に、設計者が最終的な「イメージ」をも十分に制御しているという意味で古典的な作品性をもつ。そのようなあり方が望まれる場合も多いに違いない。それは「閉じたサイバーアーキテクチャー」と呼ばれるであろう。
しかし生成される「イメージ」の多様性を積極的に肯定する方向で、「開かれたサイバーアーキテクチャー」をつくっていくこともできる。「モデル」と「イメージ」が分離されていることを利用して、利用者側の環境の情報を積極的に参照しながら、レンダリングを行ない、多数多様な「イメージ」をその都度生成させることができるからだ。「イメージ」は画像とも限らない。たとえば、視覚障害者のためには音像による建築としても生成しうる。どのようなイメージが最適であるかは、利用者側の状況によって千差万別だから、設計者があらかじめすべてを用意しておくことは不可能である。「イメージ」の細部のありようの決定権は利用者にゆだねられている。
サイバーアーキテクチャーのイメージ、それぞれは平板であり、レンズを用いて凝視するに耐えるほどの奥行きも深さもない。しかし、視線を転じて、周囲の広がりに目を向けてみると、同じ「建築」の中にいながらも、他の人が知覚しているイメージと、私のそれとがまったく異なっていることに気づく。サイバーアーキテクチャーは、無限のヴァリエーションを生成しながら世界に広がり、果てしなく連鎖する細部の「水平な」連続性をもつものとなるのである。

>本江正茂(モトエ・マサシゲ)

1966年生
東北大学大学院。東北大学大学院准教授/都市・建築デザイン、環境情報デザイン。

>『10+1』 No.16

特集=ディテールの思考──テクトニクス/ミニマリズム/装飾主義

>チャールズ・イームズ

1907年 - 1978年
デザイナー、建築家。チャールズ&レイ・イームズ事務所主宰。