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「日本近代建築」の生成──「現代建築」から『日本の近代建築』まで | 倉方俊輔
The Formation of Modern Japanese Architecture: From "Contemporary Architecture" to the "Modern Architecture of Japan" | Kurakata Shunsuke
掲載『10+1』 No.20 (言説としての日本近代建築, 2000年06月発行) pp.149-163

はじめに

今回の特集もその一環なのかもしれないが、近年、日本の「近代建築」、「モダニズム」に関する議論が盛んだ。例えば、個人を対象とした実証的な取り組みがある。「近代か反近代か」という思想構造の中で、ともすれば取りこぼされていた作業であり、そうした区別を再編することにもなろう。それに伴って、「近代=戦前」/「現代=戦後」という区切りも自明のものでなくなりつつある。現在、進行しているのは、演繹的ではなく、いわば帰納的な態度であるのだろう。
「帰納」が「拡散」でないとすれば、「近代建築」はやはり帰納のよすがのひとつとなると思われる。しかし、「近代建築」という言葉を耳にするとき、感じられるのは目隠しをされて大きな象を撫でているようなもどかしさである。
「近代建築」とは何だろう? 私はここで〈近代建築〉という理念の中心を問うているのではない。戦前・戦後の建築家が意識したとされる「近代建築」とは、私たちの心の中にある「近代建築」像とは、私がいる日本近代建築史学とは、実のところ何だった(である)のだろうか。
 

『日本の近代建築』


この書は、日本で近代建築が形成される過程を扱った、いわば近代建築の史的概観ないしは素描といったものである。時期についていうと、幕末・明治初期から第二次大戦の終結までの期間を取扱う。建築におけるこの約八〇年間は、ちょうど、煉瓦から出発し、鉄とコンクリートがやがて普及し、造型的にも近代建築とよびうるものを確立しようとした時期にあたる。建築の技術・造型そのほか建築のもつあらゆる要素が、この短い期間ほど、めまぐるしく変転する時期はないのであるが、これらを貫いて、日本の建築はつねに近代化を目標の一つとして進んできた。
稲垣栄三『日本の近代建築──その成立過程』(傍点は引用者による)


稲垣栄三は『日本の近代建築──その成立過程』(以下『日本の近代建築』)初版のはしがきで三つの〈近代〉を区別し、それらの関係を明確に定義している★一[図1]。

1──稲垣栄三『日本の近代建築──その成立過程』初版

1──稲垣栄三『日本の近代建築──その成立過程』初版

日本における〈一、近代建築〉を見定めるためには〈二、近代=「幕末・明治初期から第二次大戦の終結までの期間」〉を考えなくてはいけない、そして日本の〈二、近代〉の内実は〈三、近代化〉であったというのが著者の判断である。作業の前提を示して、『日本の近代建築』は「近代日本の建築」を一五の〈章立て〉で描いていく。
本書は終戦の一四年後、一九五九年に発刊された。「執筆と準備に四年を費やした」(初版はしがき)というから、一九五五年頃、まだ二〇代の著者によって作業が始められていたことになる。その時までに、すでに近代日本の建築に関するいくつかの論考を著し★二、それと併行して白川郷の合掌造り民家を対象とした研究成果を発表している★三。フィールドワークと史料読解に基づいて、大家族制度を中心とした社会的背景と建築の関係を、村落経済・住居形態・村落組織の三面から追求した論文である。前者の諸論考が『日本の近代建築』の前提となっていることは言うまでもないが、隣接する学問の諸成果を広範に渉猟しつつ、社会的な諸関係の交通を「建築」という場で見出すという後者の有り様も、やはり『日本の近代建築』に接続している。本来、隣接する学問は無限の遠方までぼんやりと連なる。それと対象の固有性を取り結ぶのは、あたかも自然であるかのように構築された綿密な〈章立て〉である。
『日本の近代建築』はいまだに近代日本の建築の基本図書として存在している。しかし、「日本近代建築研究者」と呼ぶには、著者の研究範囲はあまりに幅広い。新たな方法論を導入した〈民家研究〉、魅惑的な拘束力でいまだに論議の中心である〈神社研究〉★四。初出の媒体・単行本ともやや目に留まりづらいが、論理によって非論理の領分を描き出すかのような独自の〈保存論〉も忘れてはならない★五。大学においては日本と西洋をつなぐ視点を持った新たな世代の西洋建築史研究者を輩出した。その幅の広さは、やや逆説的な言い回しだが、一七人の研究者が寄稿した退官記念論文集に、近代日本の建築を対象とした論文が一本も含まれていないことに象徴されている★六。
戦後建築の記述可能性をめぐって昨年交わされた議論をここで引用する★七。「歴史家というのはどの時代まで客観的に判断できるのですか」という石山修武の問いに、一九五〇年代の「現代建築史研究会」を共にした磯崎新は『日本の近代建築』を例に「一〇年前はすでに歴史の範疇です」と答え★八、自らの通史のタイトルを(おそらく意識的に)同名にした藤森照信は「さぼった部分が見えてくるにはやはり五〇年かかると思う。一〇年ではそれがまだ見えてこない」と異論を述べた★九。
一〇年か、五〇年か、そもそも単なる時間的距離の問題であるのかはひとまず置いておいて、消去できないのは『日本の近代建築』では一四年間でそれが可能になっているという事実だ。近代日本の建築を一冊にまとめた包括的な通史としては、『日本の近代建築』が最初のものであり、その後の四〇年の歳月は事実関係の知識を飛躍的に高めている。また、一九七九年の再版時に著者が追記したように、「いわゆる近代建築を見る視座も評価の基点も、この間に激しく揺り動いた」ことも疑いない。しかし、幕末から一九四五年の建築を考えたとき、私たちは『日本の近代建築』が根本的に欠いた章、あるいは不必要な章を見出すことができない。その後の多くの努力は、論理によって凝縮された各章をより精緻にしたと言うこともできる★一〇。なぜこうした成果が可能になったのか?
しかし、「なったのか?」と意気込んでみたところで、最終的には「個人の資質」という以外には無いだろう。だから少し迂回をしたい。本論では『日本の近代建築──その成立過程』の成立過程を省察していく。歴史化とは単に時間的距離の問題ではなく、そこに固有の歴史性=戦争が関わっているに違いない。考察は私たちを繰り込み、やがてここに戻ってくることになろう。
 

「過去」という自然

近代日本の建築が意識的に顧みられるようになったのはいつ頃からだろうか。
一八八六(明治一九)年に建築家の高原弘造が工学会で講演を行ない、明治初期の煉瓦造建築五八棟の名称と設計者を列挙している★一一。話の大部分は自らの建築の解説であり、リスト冒頭の「辰ノ口勧工場」(辰ノ口大蔵省金銀分析所、明治四年竣工)も技術的な先駆として言及されている。「辰ノ口勧工場」は以後も東京初の煉瓦造建築として取り上げられることになる。しかし、この講演自体からは、時代区分の意志も〈現在〉との時代的差異の認識も確認できない。それは〈同時代〉意識と呼ぶにふさわしい。
一九〇六(明治三九)年に辰野金吾は洋風建築を六つの時代に分けて示し
た★一二。「亜米利加時代」→「英吉利時代」→「仏蘭西時代」→「伊太利時代」→「英吉利時代」→「独逸時代」という流れは、日本で活躍した外国人技術者の国籍に対応している。幕末以後の建築に関する時代区分としてはこれが現在伝わる最初であり、『日本の近代建築』第四章においても導入部に用いているくらいだから、これ以降、明治期に関する時代区分の進歩には乏しかったともいえる。工部大学校第一期生として国内で初めて建築教育を受け、最初の建築学の教授となった自らの設計作品を述べてから、辰野金吾は講話を以下のように結ぶ。

今日の建築を見ると英仏独伊、勝手次第に用ひられて実に錯雑した有様であります、然らば日本の建築は退歩したかと云ふに決してソウでない(…中略…)。
我国に就ても段々と各国の型が這入つて来て種々錯雑したものが自から進化する中には立派なジャパニース、ナショナル、アーキテクチユアが出来るだらうと思ふ、又出来なければならぬ之を努むるのは我々工学者の任務だろうと思ふのです。


当時の建築家の自意識が読み取れる一文だが、高原弘造の論説と比較した時、先の時代区分とあわせて、ここで〈現在〉との時間的差異の認識が生まれていることが特筆される。講演はもともと東京朝日新聞社落成の際に行なわれたもので、新聞掲載に加筆訂正して建築学会の機関誌『建築雑誌』に転載された。「過去に於ける変遷の跡を記録し置くの要を認め」、まずは「斯道の先輩の見聞及実歴を乞ふて之れを本会に蒐収する」という建築学会役員会の決定があったというから、こうした認識はひとり辰野金吾だけのものではなかった。ただ、近代日本の建築が(教師であれ反面教師であれ)積極的な創造の手だてとして考えられているわけではない。時代的な懸隔を認めながらも対象に自律的な価値が発生していない。〈同時代〉から一歩を踏み出したこのような状態を、ひとまず〈近過去〉と名付けておこう★一三。
こうした流れは一九一一(明治四四)年の造家学会設立二五周年を記念した特集「回顧二十五年」でより明瞭となる★一四。中村達太郎は前述の高原弘造や辰野金吾の講演に触れた後、幕末から明治前期を「土木技師時代」→「外国建築師時代」→「邦人建築技師時代」の三つに区分した★一五。辰野の講演が一種の「様式史」であったのに対し、工部大学校ができる以前の外国人技師や日本人設計者、建築材料の開発者に重きを置いているところに中村達太郎の個性が表われている。同論では、高原弘造が新橋停車場の設計者を調査していたことや、明治二四年に取り壊された「辰ノ口勧工場」の煉瓦の性質を辰野金吾が実験した事実が明かされ、意識の底流がより明らかになる★一六。現在に至るまで、組織や雑誌の設立から切りのいい数字が、明治以降の建築の総括を促してきたことも知れよう。
その後いくつかの小論が散見されるものの、近代日本の建築に関するまとまった著述は昭和期を待たなくてはならない。代表的な成果に『明治工業史 建築編』(一九二七)★一七、堀越三郎の『明治初期の洋風建築』(一九二九)★一八、『建築雑誌』に連載された「明治建築座談会」(一九三二─三三)★一九がある。
『明治工業史 建築編』は一〇巻からなる『明治工業史』のうちの一冊である。中村達太郎が中心となって明治後半から準備が進められ、一九二七(昭和二)年に公刊された。本の前半には建築学の発達に関する事項、後半に主要建造物の資料が収められている。「宮殿建築」(各地の離宮や御用邸)に独立の章が与えられ、明治以降の寺社も多く収録するなど、取捨選択の仕方に戦後との違いが見出せる。全体としては、「工業史」という枠組みの作業であるため、「船舶」、「土木」などの他巻と同様、事項を列記した文書資料といった性格が強い★二〇。
『明治初期の洋風建築』で堀越三郎は、『明治工業史 建築編』を「官公建築の記録に詳しけれど、市井一般の民間建築事情に粗なる所あるは、此の種の書として已むを得ざる所なる可し」と評している。「市井一般の民間建築事情」は文書資料だけでなく、図像資料からも明らかにされる[図2]。最も特徴的な「三大民営建築の復原」の章では、図面からパースを起こす透視図法の過程を逆さにたどり、写真から平立面図を製作している[図3]。著者は小林清親を始めとした浮世絵の収集家として知られる。本書は日本初(戦前期で唯一)の近代日本の建築史を対象とした博士論文★二一となるのだが、研究というよりディレッタントの営為に近い印象を受ける。「これをある人評していわく、錦絵や写真を寄せ集めても学位論文になるのか」★二二という逸話ももっともと思わせる。

2──小林清親が描いた第一国立銀行 出典=『明治初期の洋風建築』

2──小林清親が描いた第一国立銀行
出典=『明治初期の洋風建築』

3──第一国立銀行の復原図の作製経過 出典=『明治初期の洋風建築』

3──第一国立銀行の復原図の作製経過
出典=『明治初期の洋風建築』

「明治建築座談会」は建築界の長老が集結して開かれた[図4]。工部大学校第一期生の曾禰達蔵を筆頭に、建築史学の開拓者である伊東忠太や関野貞、中村達太郎等のべ二十余名。開催の背景としては上記二書の刊行以外に、時代考証に関心が深い大熊喜邦が建築学会会長であったことも影響しているかもしれない★二三。豪華な顔触れだけに生き生きとした伝承史料となっているが、内容は散漫であり、それらを思い出話以上に整理しようという意識は見られない。

4──第3回明治建築座談会の様子 出典=『建築雑誌』1933年10月号

4──第3回明治建築座談会の様子
出典=『建築雑誌』1933年10月号

こうして見ていくと、完全とは言えないにせよ、文書史料・図像史料・伝承史料を軸とした成果が戦前期に出揃っていたことが分かる★二四。しかし、現在の私たちがこれらの成果を、歴史観において競合する主体とみなすことはほとんど無い。むしろ、物(客体)に近く、見慣れたフィルターがかかっていないので発見性=利用価値が大きいということになる。当時においては関連しながらも別のジャンルの事件であったと思わせるほどに三者の隔たりは大きく、それらをひと括りに「日本近代建築史」の祖先とするのは遡行する私たちの観念だろう。
戦前期において注目しておきたいのは、「明治建築」という言葉の一般化である。『明治初期の洋風建築』に収録された写真の多くが宮武外骨の所蔵であり、『明治事物起源』もたびたび参照されている。建築界の中で孤立したような堀越の作業が、同時代の明治文化研究の流れと同期していることが分かる★二五。
今ではあまり耳にしなくなったが、「明治建築」という言葉は意外と長い寿命を持つ。戦後初期の日本近代建築研究は「明治建築」に分類されていたし、一九六〇年代から始まる建築学会の取り組みは「明治建築」に対するものだった★二六。その系譜が明らかに連続するのは、「明治文化に関する博物館」(財産法人明治村総則)として昭和四〇(一九六五)年に開村した「明治村」までだろう。一九四〇(昭和一五)年、取り壊された鹿鳴館[図5]を惜しみ、「明治の博物館にすればよかった」と新聞で訴えた谷口吉郎が、戦後、名古屋鉄道に呼びかけて実現した野外博物館である★二七。「明治建築」は昭和戦前期に確立した「明治文化」概念の建築版に当たる。そのころ、すでに「明治」は〈同時代〉でも〈近過去〉でもなく、〈過去〉に属していた。「明治建築」に抱く慈愛の情は、後述する「日本近代建築」研究の動きと連動しつつ、むしろ社会的にはより強い役割を果たしてきた。しかし、それが直接に「日本近代建築研究」を生みだしたわけではない。

5──ジョサイア・コンドル《鹿鳴館》(1883) 出典=「鹿鳴館の建築家  ジョサイア・コンドル展」カタログ(東京ステーションギャラリー、1997)

5──ジョサイア・コンドル《鹿鳴館》(1883)
出典=「鹿鳴館の建築家  ジョサイア・コンドル展」カタログ(東京ステーションギャラリー、1997)

では、何が生みだしたのか。先を急ぐ前に戦前期の日本建築通史を見ておきたい。「日本建築通史」という言葉は通常、江戸時代以前の日本建築の歴史を指し示す。しかし、戦前期の日本建築通史の多くが明治以降の叙述を含んでいる。しばしば考えられるように「日本建築」が確立して「日本近代建築」が付け足されたのでなく、「日本近代建築」の研究としての成立が、「日本建築」との分離を決定的にしたと考えることができるだろう★二八。近代の宗教建築に対する扱いが大きいなど評価軸の違いは認められるが、一定の事実関係がこれら戦前期の通史によって整理されていたことは見逃せない。日本建築通史の成り立ちに影響した同時代の思潮、いわば建築における「カノンの形成」をめぐっては、既にいくつかの論考が提出されている★二九。ここでは「日本近代建築史」との関わりから二つの事柄を指摘しておく。
第一に明治以降(=近代)の建築は「近代建築」と総称されていない。該当する章のタイトルは「現代(明治─大正)」(佐藤佐)★三〇、「現代」(藤島亥治郎)★三一、「明治時代以降」(大岡實)★三二、「現代」(足立康)★三三とまちまちである。大岡實は同じ『高等建築学』シリーズの『第二巻 西洋東洋建築様式』★三四も手掛けており、ここでは二〇世紀の建築を「近代建築」と呼んでいる。では、西洋の「近代建築」については共通理解があったかというと、これも怪しい。岸田日出刀「欧州近代建築史論」★三五はバロックから書き始め、これは戦後になるが、田辺泰『西洋近世建築史要』★三六は「近世建築の出発」をアール・ヌーヴォーに求めている。すなわち、戦前期においては、一方で(国際様式[インターナショナル・スタイル]を中心に理解される)「近代建築」をそう呼ぶという合意は形成されておらず、他方、日本の明治以降の建築を「近代建築」と呼ぶことはなかったのである。
第二に日本建築の「近代」(明治以降)ならぬ「現代」は、多く「混迷」として認識されている。「明治大正時代は建築界における過渡期」(佐藤佐)という把握は、「現代」を四期に分けて「模倣期」から「自覚期」へというストーリーを描き出した藤島亥治郎を経て、足立康の次の言葉に代表されるだろう。

現代の日本建築は混沌として居り、未だその帰趨するところを知らぬが、吾々は日本建築史を省みて、必ずや近き将来に於て、真の日本建築が誕生するであろうことを確信する★三七。


私たちはここまで、いわば「日本近代建築史学史」に沿ったかたちで、歴史的事象を拾ってきた。その他に、代表的な建築史機関誌である『建築史』(建築史研究会、一九三九─四四)の戦前期に、明治以降の日本建築に関する論考が一編も無いこと。建築にまつわる事物の分類である『建築雑誌総目録』(一九三六)★三八に「日本近代建築」ないし「明治建築」の項目は設けられておらず、辰野や中村や大熊の論考は「I 歴史 2 日本 1 概論」に収容されていることを挙げておこう。以上を発達史的に捉えれば、「日本近代建築史」に関わる研究の量が少なく、まだ独立の項目に至らなかったと解釈されるかもしれない。しかし、戦前期の経緯が明らかにするのは、研究の未発達というよりは、戦前と戦後の認識の断絶である。
これを『日本の近代建築』と比較すると明白だが、第一に時代範囲の問題として〈「(日本)近代建築」=幕末・明治初期から第二次大戦の終結まで〉という了解が形成されていない。明治以降は多く「現代」と称され、〈現在〉と切り離されていないし、近世と質的に異なるものとして対象化されてもいない。第二に記述の方法として、近代建築運動と連動しようという意志は見られない。(幕末・明治初期から第二次大戦の終結までの)「近代建築」と(国際様式を中心に理解される)「近代建築」を区別するというやっかいな問題も回避されているように思えるが、この予想が当を得ているかどうかは後に検討する。
一九二六(昭和初年)から一八六八(明治初年)を引いた五八年間という間隔は、終戦時から現在までにほぼ等しい。一定の時間的距離が、資料の収集や聞き書きを要請する。ここまでは極めて当然の成り行きと言えよう。〈同時代〉的な価値基準(新しいもの/新しくないもの)を脱して、〈近過去〉として対象化され始めるまでに三〇年。認識が整理され、〈過去〉として自律的な価値を帯びるまでに六〇年。乱暴に記せば、〈三〇年〉と〈六〇年〉が認識の変容の目安になりうる。しかし、それは〈歴史〉ではなく、自然の摂理のようなものである。私たちは、その上に立って、断絶点に目を向けなければなるまい。生真面目に遡行する「日本近代建築史学史」では不十分なようだ。

「近代建築」とは何であるのか

分離派建築会(一九二〇結成)から始まった近代建築運動は、昭和に入って転機を迎える。その代表が創宇社(一九二三結成)であり、「第一回新建築思潮講演会」[図6]における岡村(山口)蚊象「合理主義反省の要望」(一九二八)に表われているように、建築の社会的必然性を問題に据え始める。こうした流れは「現代建築のあらゆる反動的傾向」(一九三〇宣言)の打破を宣言した新興建築家連盟(一九三〇結成)に至るが、「建築の『赤』の宣伝」との新聞報道を受けて同年に崩壊。「現代の建築理論は『合理主義』を標榜する」とした日本青年建築家連盟(一九三二結成)が研究活動を引き継ぐも、後身の青年建築家クラブは警察の介入で一九三四年に消滅。日本インターナショナル建築会(一九二七結成)の堅実な活動もこの頃までに終息し、運動は冬の時代を迎える。出版活動に目を転じると、一九二五(大正一四)年に創刊された『国際建築』(一九二八年まで『国際建築時論』)と『新建築』の二誌を中心に海外情報が広く流通するようになり、建築物だけでなく「現代建築五項」(『国際建築』一九二九年六月号:Le Corbusier, メles cinq points dユune Architecture Moderneモ, 1927)などの論文紹介も盛んになった。着実な歩みを示していた新たな造型が閉塞を余儀なくされた戦時体制下、日本工作文化連盟(一九三六結成)編集の雑誌『現代建築』に「MICHELANGELO頌」(一九三九)を寄せた丹下健三は「大東亜共栄圏」関係の二度のコンペ(一九四二、四三)を勝ち取り、前川國男は「覚え書──建築の伝統と創造について」(一九四二)を著した。

6──第1回新建築思潮講演会ポスター 出典=『国際建築』1929年11月号

6──第1回新建築思潮講演会ポスター
出典=『国際建築』1929年11月号

と、以上がざっと日本戦前期の「近代建築」のストーリーである。近代建築運動と呼ぶにふさわしく、さまざまな運動体があり、多くの言説が飛び交っている。
冒頭に引用した『日本の近代建築』のはしがきでは、「近代建築」が(幕末・明治初期から第二次大戦の終結までの)「日本近代建築史」と深く関係づけられていた。その起点を探るために文献を再検討すると、奇妙な事実に遭遇する。戦前期に「近代建築」の議論が交換された形跡が確認できないのである。
「現代建築」、「新建築」、「新興建築」、「国際建築」という用語は一九二〇年代から頻繁に登場する。「機能主義」、「合理主義」といった言葉もすでに存在している。「表現派」、「構成派」なども区別して記されている。だが、「近代建築」という言葉はまれにしか現われない。それも「現代建築」と交換可能な文脈でしか用いられていない。ル・コルビュジエの「近代建築の五原則」は初訳で「現代建築五項」とされていた。蔵田周忠は「現代建築」(『実用建築講座』一九三五)というタイトルの論でグロピウス以降の動向をよく捉えてい
る★三九。前述したように「近代建築史」は時にバロック建築を含んでいた。これらの状況は、戦前期の「近代建築」が「現代建築」と置き換え可能な、単なる「近き代の建築」の意味でしかなかったことを予想させる。
「近代建築」と言うとき、それは直接的には、一九二〇年代(日本の場合は分離派)以降のムーヴメントを指しながら、より広い「近代」の反映であり、その矛盾を解決した(しようとした)ものとして位置づけられる。『日本の近代建築』のはしがきに顕著なこうした「近代建築」概念が、戦前期には別の言葉に託されていた可能性も考えてみる必要があろう。まずは「現代建築」だが、これは「近代建築」と同様に近い時代の建築といった意味でしか用いられていない。グロピウスやル・コルビュジエの作品は「新建築」、「新興建築」と呼ばれることが多いが、これも総称としては「新しい」という意味しか担っていない。この語で示された建築に、現在から見て「近代建築」と言いがたいものも含まれているのはそのためである。また、「国際建築」の語はあまり一般的でなく、一種のスローガンとして扱われている。こうして、私たちは戦後の「近代建築」に該当する言葉を戦前期に発見できないのである。

前川國男序説

以上の事態を前川國男に即して確認したい。

これを要するに新建築家の眼前の急務は、とにかく大衆の啓蒙運動であります。しかしながらもう一度その眼を新建築家の楽屋に向けて見る時、私どもは残念ながらそこに新建築家と称するあまりに高踏的な恐ろしく自惚れの強い芸術家の一団がいわゆる象牙の塔に立て篭もって、合理主義を唱え機能主義を信じ、また中には建築をだしに使って社会改革をさえ行わんと夢見ているのであります。
前川國男「3+3+3=3×3」(『国際建築』一九三〇年一二月号)


ル・コルビュジエのアトリエから一九三〇年に帰国した前川は、同年一二月の「第二回新建築思潮講演会」で演説を行ない、これが彼の最初の公的発言として残されている。「新建築家」の立場から「新建築家と称する」人々を批判し、「合理主義」や「機能主義」といった言葉にも懐疑的である。ここに前川の「近代建築家」的な姿勢を見出すことは必ずしも誤りではないだろうが、「近代建築」という言葉を含めて、現状に代わる理念を何らかの用語で提出していないことは、それ以上に重要である。同論には言辞に対する不信だけが一貫している。前川からすれば、「新建築思潮講演会」を開催してしまうような「政治的」なものも、『国際建築』の写真から最新意匠を読み取ろうとする「非政治的」なものも同じであった。それらはただ外部の反映に過ぎなかった。「3+3+3=3×3」という謎めいたタイトルも、理屈などどうでも良い、要は「建築家」の覚悟であり、「ホンモノ建築」★四〇への行動だという韜晦にほかならない。著名な「負ければ賊軍」★四一も同様に、「近代建築」という言葉が登場しないばかりか、何かの語彙を絶対的な正当性を持つものとして用いていない。戦前期の前川は「近代建築」を錦の御旗にしていない。「建築の前夜」は、太平洋戦争の緒戦で勝利を収めつつあった一九四二年初めに記された。

ただこの場合注目さるべきことは、わが国における建築技術が、いまだ近代的技術の域に達しておらぬという事実である。
資本主義文化にせよ、機械文明にせよ、その矛盾撞着はその発展の最終的段階において生じたものであり、その故にこそこれが「転身」の要請されておる現状にあると思われる際に、建築技術はいまだ近代的技術の域に達しておらぬということは、また建築の現代的蘇生に際してわれわれの前に一つの困難な予備的問題を提出するものと考えねばならない。
前川國男「建築の前夜」(『国際建築』一九四二年五月号)


建築が近代化に遅れた技術であり、日本の建築はさらに欧米に対しても遅延しているという現状認識が横たわっている。端的に言って、前川國男の固有性の中心は、こうした認識に立脚した、いわば「建築の二段階革命論」にある★四二。まずは〈近代的建築技術の獲得〉、後に〈近代的建築技術の超克=真の建築の獲得〉という前川の世界観は戦中期に確立され、以降も継続する。有名な戦後の「テクニカル・アプローチ」にしても、基本的にこの第二段階の言い換えである。昭和二〇年代は第三段階について語ることはほとんどなく、逆に昭和四〇年代以降は第三段階が強調されるというアクセントの違いは認められる。しかし、言説面で見る限り、建築家としては珍しいほどに、前川の世界観にぶれはない。
その上で確認しておきたいのが、一九三〇年と一九四二年の二つの論の間にある〈近代日本の問い直し〉の契機の有無である。「近代日本」の総体を問題に据えるという視座は、〈昭和〉を特徴づける指標であるといえよう。建築の分野におけるひとつの大きな現われが、建築技術・建築生産への注視であった★四三。「近代日本」の「前近代性」あるいは「跛行性」の指摘が、日本に導入されたマルクス主義の強い影響下に開始されたことは言うまでもない。それは必ずしも戦争と直接対決するものではなく、「(建築)新体制」の言葉の中で常識化されていく。前川の生涯を貫く世界観は、〈近代日本の問い直し〉という風潮を誠実に受け止めて形成されている。
「前川國男の建築家としての軌跡は、そのまま日本の近代建築の軌跡である」★四四と評され、「近代建築の闘将」という常套句を欠いて語られることのない前川にして、戦前の言説では「近代建築」を主張していない★四五。これが戦後になるとどうだろうか。

「住宅は住むための機械である」という近代建築の主張の底に流れる深い暖かいヒューマニズムの理解のみが「明日の住宅」の正しい道しるべである。
前川國男「明日の住宅──象徴と機械」(『婦人公論』一九四七年一〇月号)


近代建築は人間の建築である。その故にこそ近代建築を可能ならしめるものは人間への限りない愛情を本質とする「在野の精神」に対する深い理解とたくましい自信とでなければならない。
単一人類の実現へと向かう世界歴史の必然からして、ここに言語につくし難い困難な時におそらく前代未聞の「近代」をたどらねばならないわれわれの同朋の運命を思う時、われわれの近代建築の果たさねばならない責務の大きさを思わずにはいられない。
前川國男「刊行のことば」(『PLAN1』、雄鶏社、一九四八)[図7]


7──『PLAN 1』表紙 出典=『建築の前夜──前川國男文集』

7──『PLAN 1』表紙
出典=『建築の前夜──前川國男文集』

発表媒体の啓蒙性を差し引いても、一気に明快になる。これはひとり前川だけの転換ではなかった。前川に沿って付言すれば、戦後の世界認識はそれ以前から獲得されている。にもかかわらず、戦後直後にはそうした構図が見えづらくなったことが分かる。
戦前期において、同時代の欧米の建築意匠が積極的に紹介されていたことは言うまでもない。論文の翻訳や抄録を通じて、その理念も導入されていた。また、近代日本の過去に関しても一定の整理がなされている。しかし、「合理主義」や「機能主義」を〈述語〉の位置に置くような共通の概念は見られない。より具体的には、〈近代〉の解決としての「近代建築」にあたる言葉が存在しないのである★四六。よって、「近代建築」(あるいは何か別の単語)が、史的正当性を帯びた切り札として通用することはない。「所謂新建築」、「所謂新興建築」といった冗長な言い回しが頻繁に現われるのは、例えば同じ「新建築」という言葉が対立する事象を指すことも可能だからである。現在から見たとき、戦前期の議論はたどたどしく、時に錯綜して映る。「玄人」の手慣れた視線は時としてこの「たどたどしさ」を消去してしまう。しかし、ここに戦前あるいは戦中を考える意味があるのではないか。戦後を〈歴史〉にする出発点があるのではないか★四七。
以上、戦前期までの考察を整理してみよう。〈I「明治建築」の資料収集〉、〈II近代日本の問い直し〉、〈III近代建築運動〉と、「日本近代建築史学」を構成するすべての要素は戦前期に存在した。ただ、それらは共通のテーブルについていない。それだけでなく、「近代建築」という幸福で明快な解答も共有されていないのである。

言説としての「日本近代建築」

敗戦とともに「近代建築」は出現した。それを肯定するにせよ否定するにせよ、「近代建築」の語は以後、同時代の建築を語る上で必要不可欠なものとなった。日本における近代建築認識に関して言えば、一九四七年は重要な年として記憶されるべきだろう。というのは、この年の末に「近代建築」をキー・タームとしたいくつかの重要な言説が発表されたからである。ここでは、浜口隆一『ヒューマニズムの建築──日本近代建築の反省と展望』[図8]を通して、「近代建築」の出現と「日本近代建築史」の潜在的な創出を捉えていきたい★四八。一九四七年一二月に公刊された同書は、八月の日付の序文で始まる。

この書は、わが国の近代建築の歴史をたどることによって、現在われわれ若い建築家のおかれてゐる現実を見きはめ、さらに世界における近代建築の大きな潮流を眺めわたし、その本質を探り、将来への展望を試みようとするものである。
浜口隆一『ヒューマニズムの建築──日本近代建築の反省と展望』(傍点は引用者による)


8──浜口隆一『ヒューマニズムの建築──日本近代建築の反省と展望』

8──浜口隆一『ヒューマニズムの建築──日本近代建築の反省と展望』

以後、建設的な構成と適度な繰り返しを持った本文は、日本の「近代建築」の過去を反省し、世界の「近代建築」の史的必然性によって、将来への展望を指示するという目的に貫かれている。良く知られた〈近代建築=近代の建築=ヒューマニズム(人間中心)の建築=機能主義〉という主張の最大の味方は、現実や修辞ではなく、何よりも〈歴史〉であった★四九。
序文において二つの「近代建築」が使い分けられていることに注意したい。ひとつは「わが国の近代建築」で、これは反省すべきもの。もうひとつの「世界における近代建築」は、逆に導入すべき対象である。具体的には前者が分離派以降、後者はオットー・ワーグナー以降の建築を指す。何やら新しい動きがこの辺りから始まったという戦前期の理解は、本書でも踏襲されている。
浜口は、日本の近代建築の存在を「本来の近代建築のそれとは異なつて不自然であり、歪んだもの」と批判し、その原因を明治期に遡って抽出している。日本における近代建築は、本来あるべき人民との密着を失っていたとし、建築家の社会的特殊性と工業生産の未成熟に原因を求める。「近代日本の建築」と不交通であったとして、昨日までの「日本の近代建築」が非難されるのである。移植された日本の建築家のありようは、すでに戦前期から批判的に描かれているが★五〇、ここでは「日本の近代建築」の観点から「近代日本の建築」が問題にされていることに注意したい。「わが国の近代建築」、サブタイトルにある「日本近代建築」は、「日本の近代建築」と「近代日本の建築」の両義にほかならない。そこに浜口の企てがあり、本書の影響力の源泉があった。
前節のまとめに従って整理すれば、『ヒューマニズムの建築』の新機軸は〈II 近代日本の問い直し〉を、具体的な〈III 近代建築運動〉の問題に直結させた点にある。その蝶番となったのが「近代建築」という言葉だった。同書は「近代建築」の中に「近代日本の建築」と「日本の近代建築」とを重ね合わせて提出した。思えば、反省すべき昨日までの「日本近代」と、今日から新しくスタートする「国際近代」を対極に置き、しかしそれを同じ「近代」で重ね合わせる認識に、敗戦国日本の反省があり、希望があり、プライドの拠り所があった。「近代建築」はそれと寄り添って、一気に拡がり、自明のものとなった。確かにこの明快さは「新建築」や「現代建築」が主語である限り、望むべくもないものであった。
図師嘉彦はこうした明快さに反発した。「近代建築論争」と称される論戦は『ヒューマニズムの建築』公刊以前の一九四七年九月から始まっている★五一。図師は「近代建築」=「近代の建築」という立場にとどまり、建築が近代社会(資本主義社会)の中にある限り、「人民の建築」ではありえないと非難する。「近代」を乗り超えられるべきものとするマルクス主義の立場からすれば、「近代建築の理解における浜口氏の誤謬」は明らかである。これに対して、神代雄一郎は両者の用いる「近代建築」の差異を指摘する★五二。

端的に云つて浜口氏の云はれる「近代建築」は進歩的な建築運動が持ち、又名付けられた「近代建築」の意味らしく思はれ、図師氏の「近代建築」とは経済史が生産構造としての資本主義にとつて規定するところの近代の建築を意味すると考えられる。


戦後建築の出発点として、これまで幾度となく取り上げられてきた「近代建築論争」であるが、大きなものが看過され、その見過ごされ方のほうに、かえって「戦後」の特質が示されているように思えてならない。「近代建築論争」を含む戦後の議論の最大の意味は、〈主語〉としての「近代建築」が設定されたこと、それによって戦前と戦後の間合いが現在に至るまで見えづらくなってしまったことにあろう。戦後の日本は白紙から出発したのではない。しかし、ただ連続しているのでもない。「戦後」は「白紙からの出発とみなそうとした」ことにおいて断絶している。それは「近代建築」という言葉=概念の出現、敗戦を画期とした「近代建築史」/「現代建築史」の区別と深く関わっている。

戦後の展開

「近代建築」の概念が「近代日本の建築」の考究を要請することはすでに論じた。では、戦後における研究は実際、どのように進行したのだろうか。関野克は一九五一年の建築史界を評して、「若い研究家の眼は近代建築の成立過程の分析に向けられ」たと述べている★五三。研究が新しい世代によって担われ、それが「近代建築の成立過程」と捉えられていたことが分かる。この言葉を戦後六年間の状況にあてはめても差し支えないだろう。(教師であれ反面教師であれ)何らかの現在との関わりを持とうとする意識において、それらは戦前期と一線を画すものであった。
敗戦の翌年、一九四六年九月の『建築雑誌』に一七の研究テーマが掲載されている。そのうちのひとつとして「近代日本建築」の史的研究が掲げられている。

近代日本建築の史的研究、特に欧米建築の影響に就て(明治・大正・昭和の建築を史的に研究、特に欧米建築の影響につき批判、将来の日本建築の発達の指針たらしめんとす)    藤島亥治郎★五四


具体的にどのような方法が念頭に置かれていたかは不明であるが、「明治・大正・昭和の建築」と「将来の日本建築」とが結びつけられている点に「日本近代建築史」の出発点としての意義が認められる。当時、「近代建築」が戦前の用法を継承していたことは、『建築文化』に連載された「東京の近代建築」(一九四八─四九)が大正期から始まることにも表われている★五五。蔵田周忠が毎回ひとつの建築作品を紹介するという企画自体、戦後期に新たに見られる性質のものである。「近代日本の建築」を新たに「日本の近代建築」の視点から整理する試みは、木村徳国「明治から大正へ──日本近代建築史前期」(一九五〇)で最初の成果を得る★五六。この小論が主に扱うのは「日本近代建築史前期」と命名された明治期である。それまで主要な命題であった「社会的な現実と建築との乖離の克服」に代わって「建築の形式(此処では借りられた形式)と日本の伝統的な美的感情との乖離の克服」が顕在化する様を一九一〇(明治四三)年の「様式論争」に見出し、「これに次く第一期」(一九一〇─三〇)は「二つの要素がからみ合つてまことに複雑な様相を呈する」と論じる★五七。一九三〇年以降現在までの期間を暗に「第二期」と規定していることは明白である。二つの「乖離」が現在から遡行されて歴史が組み立てられている点が、すぐれて戦後的と言えよう。伊東忠太の卒業論文、様式論争、「建築非芸術論」、虚偽建築論争など、その後の「日本近代建築史」で基本的なトピックとされるものが揃っている。とりわけ一九一〇年代の分離派前史への着目は当時において新しい。これは一〇年後の『日本の近代建築』に引き継がれ、二〇年後の長谷川堯の著作で前面に押し出されることになる★五八。翌一九五一年には関野克『明治・大正・昭和の建築』が著される★五九。建築家を中心に基本的な流れがよく押さえられた通史である。
以上の流れの背景に、論議され建設されつつあった「近代建築」への強い関心が存在したことは言うまでもない。しかし、「近代建築」という用語が「幕末・明治初期から第二次大戦の終結までの期間」を指していたわけではない。二つの「近代建築」がぶつかる点、そして離れだす地点はどこなのだろうか。
 

「現代建築」の析出

一九五二、三年から「伝統」の問題が建築ジャーナリズムで取りざたされるようになった。一九五七年頃まで続くとされる、いわゆる「伝統論争」は、当時においても「伝統論」として意識されている★六〇。一連の流れは「歴史」との関係で両義的な位置を占める。「建築史家」の最も派手な活躍の場であり、そして最後の交通の場であった。「伝統論争」の時代は、「日本近代建築」の形成においてもひとつの転機だった。そうした局面を同時代において的確に描写した、ある建築評論家の言葉に換えよう。

今日たしかに事実としてみられるのは「近代建築モダン」というものが、徐々に「近代主義モダニズム建築」として把握されるようになりつつあるということである。(…中略…)建築家が「近代建築」というときそれは今日の建築のそうあるべきものとして、意欲的に考えられるか、あるいは近代という時代の建築のすべてをカバーするものとして、時代概念的に理解されていた。新しく近代主義建築というとき、それはひとつの主義に基くものとして、それとは違つた性格のものと共存しながら存在している、それ自体としてはひとつの流派なのだという意識が潜んでいることを示している。端的にいえば、近代建築から近代主義建築への変化は、近代建築の限定縮小であるということができよう(…中略…)。
論理的に、あるいは表面的に対立し、矛盾していて倶に天を載かざるはずの二つの建築でありながら、双方共、それ自体としてむしろよろめいているような感じで(…中略…)このことは「現代の建築」──近代建築でもなければ、近代主義建築だけでもなく、といつてソシアリスト・リアリズムの建築だけでもなく、それら多くのものを、その複雑な共存関係のまま含んだ複合体としての「現代の建築」──という意識を、われわれの心の中に形成させるもののように、私に、は思われる。
はじめに述べた伝統論の登場も、まさにこうした「現代建築」の場の中へなのである★六一。


「かゝる西欧の所謂『記念性』を持たなかつたことこそ神国日本の大いなる光栄であり、おほらかなる精神であつた」と述べる丹下健三の「大東亜建設記念営造計画」(一九四二)[図9]の言葉から「日本国民様式」の新たな解釈を引き出し★六二、『ヒューマニズムの建築』で「近代建築」を浮上させた浜口隆一は、確かに「建築評論家」を名乗るだけの才能を有していた。時流を捕捉し、明快に表現する技量は一九五五年という転換点でもいかんなく発揮されている。

9──丹下健三「大東亜建設記念営造計画 忠霊神域計画」 出典=『建築雑誌』1942年12月号

9──丹下健三「大東亜建設記念営造計画 忠霊神域計画」
出典=『建築雑誌』1942年12月号

超えることの出来ない、解かなければならない「近代建築」の桎梏を脱し、それをそもそも「近代主義モダニズム建築」であるとして限定することで、「近代日本の建築」と分離し、そうなってくると「近代主義モダニズム建築」は根を持たないから、世界同時意識を背景に「現代建築」の様々なる意匠のひとつとなるという構造を見事に抽出している。注意すべきはこうした事態は初めてではなく、全体構造においては一九三〇年代初頭の線に戻ったということである。つまり、「モダニズム建築」(=モダンな建築)というものが単に流れ去る「現代」しか担保しきれず、それを脱することが共通課題となったという〈近代建築〉のそもそもの出発点に。
本論がこれに付け加えるものがあるとすれば、「日本近代建築」とはこの二重性に動力を受け、抜け殻となりつつあった「近代建築」を借りて完成したものである。稲垣栄三らが「現代建築史研究会」を行なったのは、こうした端境期であった。

「現代」という伝統

近代日本の建築の考究は、一九五〇年代の末に「研究」として成立する。一九五八年に出版された『建築学体系6 近代建築史』には阿部公正と神代雄一郎による近代日本の建築史が収録され、これに「日本近代建築史」の名称が冠されている★六三。翌年には『日本の近代建築』と村松貞次郎の『日本建築技術史』が公刊。個別研究も数を増し、一九六〇年前後には近代日本の建築を扱った学位論文が提出される。この時期の論文を再読すると、多くが現在的な意識から出発しながら、その視座と対象の多様性に驚かされる。神代雄一郎は欧米と日本の近代建築を並列的に記述し★六四、桐敷真次郎はヴェランダ・モチーフの伝播を欧米・アジア・日本を横断して捉える★六五。菊池重郎は洋風建築の基点を江戸時代初期に求め、「建築」の語源や建築書に関して先駆的な成果をあげている★六六。稲垣の学位論文も江戸時代後期の建築生産体制の分析から始まる★六七。
単に日本の(史学上の)近代における建築界を記述したような『日本の近代建築』を成立させているものは、同時代建築への強い意識と、それゆえに切断するという意図である。「戦後が戦前の延長というふうに見えていた時代」(再版序)だからこそ、「幕末・明治初期から第二次大戦の終結までの期間」を意識的に過去として閉じることが可能だった。その後、「日本の近代建築」は「日本近代建築史」として自明の枠組みとなっていく。
こうして、「(日本)近代建築」・「近代主義モダニズム建築」・「現代建築」の三者の緊張関係も失われ、忘却されたのである。

モダニズムModernism当世風と云ふとクラシックだが、現代風と云つた意味である。何でも新しがりであつて、無論、さうした傾向を云ふのである。モダン・ボオイ、モ・ボ、不良マダム、とつちやん・ボオイ等皆この信者である。
鵜沼直『モダン語辞典』誠文堂、一九三〇



★一──『日本の近代建築──その成立過程』は一九五九(昭和三四)年に丸善より出版され、一九七九(昭和五四)年に鹿島出版会〈SD選書〉のひとつとして復刻された。その際、上下二巻構成とされ、図版・注釈の一部が差し替えられた。建築家の生没年など事実関係の修正、第四章のタイトルが「明治の建物」から「明治の建築」に変更された以外、本文に変化はない。
★二──稲垣栄三「建築の近代主義的傾向」(『建築雑誌』一九五二年七月号、日本建築学会)、「明治四三年の様式論争と国民的様式について」(『学会研究報告』一九五四年一〇月号、日本建築学会)。
★三──稲垣栄三「山村住居の成立根拠」(『建築史研究』10・12・15号、建築史研究会)。
★四──稲垣栄三「神社と霊廟」(『原色日本の美術』第16巻、小学館、一九七九)など。
★五──「日本の技術者」(一九七一)、「ミューズの幽閉」(一九七五)など。稲垣栄三『文化遺産をどう受け継ぐか』(三省堂、一九八四)に収録。
★六──『建築史論叢──稲垣栄三先生還暦記念論集』(中央公論美術出版、一九八八)。
★七──「建築の近代と現代の表現」(『建築雑誌』一九九九年八月号「特集=二〇世紀を決めた建築──世界編」、日本建築学会)。
★八──「現代建築史研究会」に関するまとまった記録としては、「『底流』の記録 戦後建築史に浮沈したグループ活動メモ」(『建築文化』一九八八年六月号、彰国社)がある。稲垣栄三の文責により、設立年=「一九五四年一〇月より以前〜一九五六年五月ごろまで」、設立(主要)メンバー=「稲垣栄三、川上秀光、奥平耕造、冷牟田純二、小島敏夫、磯崎新、大河直躬、田中稔、近江栄、村松貞次郎ら(ただし出入りがあり、最初はこんなに多くなかったような気もします[稲垣])」、成果=「機関誌『現代建築史研究』の発行」と記載されている。また、既往の戦後建築運動史では、「新日本建築家集団」(一九四七─一九五一頃活動、略称:NAU)と「五期会」(一九五六─六〇頃活動)とをつなぐ位置に置かれる「建築研究団体連絡会」(一九五四─五六頃活動、略称:建研連)の構成団体として知られる。当時の建築雑誌では、「若い世代の発言──シンポジウム:西山夘三の『現代の建築』をめぐって」(『新建築』一九五六年四月号)において、村松貞次郎が「現代建築史研究会・会員」の肩書きで発言を行なっている。今回の小論では、一般に利用可能な資料に限定して概略を提示することを主眼とした。同研究会の経緯や具体的な活動内容は、今後の検討課題としたい。
★九──藤森照信『日本の近代建築』上・下(岩波新書、一九九三)。
★一〇──こうした判断はむろん、その後の優れた個々の成果と対立するものではない。例えば、吉田五十八の「近代数寄屋」に現在性=「内面の成立」を見出した岡崎乾二郎「吉田五十八──本音と建前」(『建築文化』「特集=日本モダニズムの三〇人」二〇〇〇年一月号、彰国社)は、近代日本における「建築の近代性」に関して本質的に新しい。同時に分かるのは、このように書けなかったからこそ「吉田五十八」の名を記載しなかった『日本の近代建築』の作為である。
★一一──高原弘造「東京府下煉化石家屋搆造景況概略」(『工学会誌』一八八六年四月号、工学会)。
★一二──辰野金吾「東京に於ける洋風建築の変遷」(『建築雑誌』一九〇六年一月号、建築学会)。
★一三──建築に対する「近過去」という言葉の適用は、清水重敦氏(国立奈良文化財研究所)の示唆に基づく。清水重敦「建築写真と明治の教育──東京大学大学院工学系研究科建築学専攻所蔵古写真解題」(『学問のアルケオロジー』、東京大学、一九九七)は、明治四三年に中村達太郎が撮影した「東京市内建物」写真群を論じ、明治建築史の起点として位置付けている。
★一四──「造家学会」は一八八六(明治一九)年に「工学会」から分科して誕生し、一八九七(明治三〇)年七月に「建築学会」に改名した(一九四七年以降「社団法人 日本建築学会」)。西洋的な「建築」理解の進展としてしばしば短絡的に扱われるが、その詳しい背景は「特集:建築改名一〇〇年」(『建築雑誌』一九九七年八月、日本建築学会)を参照。改名に影響を与えた同時期の伊東忠太の活動については、拙稿「へん愛の建築史──伊東忠太『法隆寺建築論』」(『二〇世紀建築研究』、INAX出版、一九九八)を参照。
★一五──中村達太郎「東京市における西洋建築の沿革(『建築雑誌』一九一一年四月号、建築学会)。
★一六──鳥海基樹・西村幸夫「明治中期における近代建築保存の萌芽──『我国戦前における近代建築保存概念の変遷に関する基礎的研究』その1」(『日本建築学会計画系論文集』一九九七年二月、日本建築学会)は、辰ノ口勧工場の保存問題と鹿鳴館の払い下げをめぐる明治中期の言説に「近代建築保存概念」の萌芽を見ている。
★一七──『明治工業史 建築編』(工学舎・啓明会、一九二七)、「明治後期産業発達史資料」第二二五・二二六巻として龍渓書舎から一九九四年に復刻。
★一八──堀越三郎『明治初期の洋風建築』(丸善、一九二九)、南洋堂書店から一九七三年に復刻。
★一九──「明治建築座談会」(『建築雑誌』一九三二年四月号・一九三三年一月号・一九三三年一〇月号、建築学会)。
★二〇──中村達太郎(一八六〇─一九四二)の名誉のために書き添えておくと、「仕事と故人の名を現れるやうに態々私は書いたのであるのですけれども、委員長がそれを皆消してしまつた」(「明治建築座談会」)らしい。委員長は「近代土木工学の父」田辺朔郎。このあたりに近代工業の中で最も有名性が高い「建築」と、無名性に奉ずる「土木」との近くて遠い距離を見ることができるかもしれない。
★二一──同題目で一九三二年に東京帝国大学に提出。
★二二──滝沢真弓「『明治初期の洋風建築』原本成立の経緯と運命」(堀越三郎『明治初期の洋風建築』復刻版)。一九二〇年に結成された分離派建築界の創設メンバーとして知られる滝沢真弓(一八九六─一九八三)も明治建築研究に関連が深い。「明治初期洋風建築の遺珠『開智学校』」(『日本建築学会学術講演会梗概集』一九四八年五月号、日本建築学会)は明治期の建築を対象とした戦後最初期の研究である。また、日本建築協会が一九五九(昭和三四)年に近代建築調査委員会を設置した際には、委員長として明治建築の調査・広報に努めた。
★二三──大熊喜邦(一八七七─一九五二)は大蔵省営繕の主導者として、国会議事堂を初めとした官庁建築の設計に携わる一方、自身が所蔵する近世史料の考証的研究で知られる。大正三、五年には「明治時代における本邦の洋風建築史の第一頁に収めらる可きもの」として「築地ホテル館」(一八六八)を紹介している。
★二四──その他、造家学会設立五〇周年記念事業のひとつとして『明治大正建築写真聚覧』(建築学会、一九三六)がまとめられている。
★二五──「明治文化研究会」は関東大震災以降の資料の荒廃を憂う吉野作造・石井研堂・宮武外骨らによって、一九二四(大正一三)年一一月に創設された。戦前期の代表的な活動に、石井研堂『明治事物起源』を含む『明治文化全集』(全二四巻、一九二八─三〇)の刊行がある。また、結成会員のひとりであり、異色のジャーナリスト・研究者として知られる宮武外骨(一八六七─一九五五)は、一九二六(大正一五)年から一九四九(昭和二四)年まで、内外通信社博報堂の寄付によって東京大学内に設置された「明治新聞雑誌文庫」の主任を務めた。
★二六──シンポジウム「明治建築の評価について」(一九六〇)、「特集=明治建築」(『建築雑誌』一九六三年一月号)、「明治建築小委員会」設置(一九六三)など。
★二七──谷口吉郎「明治村縁起 歴史の証言者」(谷口吉郎著、二川幸夫写真『博物館 明治村』、淡交社、一九七六)。
★二八──なお、代表的な日本建築史通史として知られる太田博太郎『日本建築史序説』(彰国社、一九四七)の初版はしがきには、「明治以降の分は著者の研究が浅いので、ここでは省略した」とあり、昭和三七(一九六二)年の改定増補版から、幕末以降を扱った「洋風建築の伝来」が追加されている。
★二九──藤岡洋保+小笠達也「戦前の日本建築史の叙述形式に見られる特徴について」(『日本建築学会大会学術講演梗概集 建築歴史・意匠』日本建築学会、一九八八)、金行信輔「通史という〈正典〉──太田博太郎『日本建築史序説』」(五十嵐太郎編『READINGS:1 建築の書物/都市の書物』INAX出版、一九九九)など。藤岡論文は、戦前期の「日本建築史通史」の約半数に、明治以降の叙述が含まれることを指摘している。
★三〇──佐藤佐『日本建築史』(文翫堂、一九二五)。
★三一──藤島亥治郎『日本建築史』(構成社書房、一九三〇)。
★三二──大岡實『高等建築学第1巻 日本建築様式』(常磐書房、一九三四)
★三三──足立康『日本建築史』(地人書館、一九四〇)。
★三四──大岡實『高等建築学第2巻 西洋東洋建築様式』(常磐書房、一九三五)。
★三五──岸田日出刀「欧州近代建築史論」(『建築雑誌』一九二八年六─九月号、建築学会)。
★三六──田辺泰『西洋近世建築史要』(彰国社、一九四八)。
★三七──足立康、前掲書、一七一頁。
★三八──『建築雑誌総目録』(日本建築学会、一九三六)。
★三九──蔵田周忠「現代建築」(『実用建築講座』東学社、一九三五)。蔵田周忠の執筆活動に関しては以下の論考に詳しい。矢木敦+大川三雄「蔵田周忠の海外渡航(一九三〇─三一)と執筆活動について──『国際建築』誌への連載を中心とする考察」(『日本建築学会大会学術講演梗概集 建築歴史・意匠』日本建築学会、一九九八)、同「蔵田周忠の論考にみる『近代建築』観の推移について──昭和戦前期における三つの体系的論考の比較考察」(同、一九九九)。
★四〇──この言葉が使われているのは、前川國男「一九三七年巴里万国博日本館所感」(『国際建築』一九三六年九月号、国際建築協会)。
★四一──前川國男「負ければ賊軍」(『国際建築』一九三六年九月号、国際建築協会)。
★四二──「三段階」が文面上で現われるのは「感想──下関市庁舎競技設計に関連して」(『建築雑誌』一九五一年五号、日本建築学会)から。同論に関する論考に、中真巳(佐々木宏)「近代建築発展三段階説について──前川國男序論」(『建築』一九六一年八月号、槇書店)、山本学次「合理主義の系譜──日本の近代建築と前川國男の位置」(『国際建築』一九六七年六月号、美術出版社)がある。ただし、「建築の二段階革命論」以下の解釈は私見。
★四三──拙稿「建材」(『建築キーワード』、住まいの図書館出版局、一九九九)では、建築における「工業」思想に触れている。
★四四──布野修司「Mr.建築家──前川國男というラディカリズム」(『建築の前夜──前川國男文集』、而立書房、一九九六)。
★四五──ただし、戦前の前川の言説で「近代建築」という言葉がまったく使われていないわけではない。一九二八年に書かれた卒業論文は「大戦後の近代建築」と題されている。『建築の前夜──前川國男文集』(而立書房、一九九六)巻末の文献目録・補遺(作成=松隈洋)が示す通り、同論文は紛失されている。そのため、「近代建築」の語がどのような文脈で用いられているのかは確認できなかったが、表題は第一次大戦以後の「近年の」建築を述べたものと推測される。
★四六──「一九三〇年代の日本に『近代建築』ということばはない」との指摘が既に、布野修司「西山夘三論序説」(『建築文化』一九九四年一〇月号、彰国社)でなされている。また、戦前期の「近代建築」の用法の相違は、藤岡洋保・藤川明日香「一九五〇年前後の『近代建築論争』に見られる建築思想」(『日本建築学会大会学術講演梗概集 建築歴史・意匠』一九九六、日本建築学会)で触れられている。しかし、論者によって遡行され見出された〈近代建築〉と、過去において自覚されていた「近代建築」との区別がまったく意識されていない点に、両論を含む既往研究の限界を見ることができよう。
★四七──本論の主張は、戦前期に「Modern Architecture」の訳語が確定していなかった、あるいは〈近代建築〉の「正しい」理解が得られていなかったということではない。「近代建築」が(その字面と深く連動して)私たちに想起させる観念は、戦後日本に決定づけられているのではないかという問題提起である。しかし、より精緻な論証には、少なくともあと二点の言及が欠かせない。ひとつ目は翻訳の源である諸外国における同類語の成立(例えば、「Modern Architecture」の一般化)について。二つ目は隣接分野における同類語の成立(例えば、日本史学における「近代」の語義の確定)について。掲載文量の都合とはいえ、これらを省いたことは不親切のそしりを免れないのだが、差し当たり「Modern」について素描する。周知の通り「Modern」はルネサンス以降に適用することが可能であり、時代的には流動性を有している。すなわち、日本語のように「近代」=「幕末以降一九四五年まで」という同義関係はない。これと類似する言葉に、しばしば「現代」とも訳される「Contemporary」がある。しかし、「Contemporary」は「第二次世界大戦後」を自明としているわけではなく、〈新しさ〉という価値判断も有さない。〈新しさ〉はむしろ「Modern」に付随する概念であり、「Contemporary」は「現在」あるいは「同時代」に近い。いずれにしても、日本の「近代建築」をめぐる言説は、「明治維新」と「終戦」を画期と認識する〈日本近代〉の側から、〈建築〉に即して解釈されなければならない。もちろん、「近代建築」を「モダニズム」と言い換えれば即解決というものではない。
★四八──浜口隆一『ヒューマニズムの建築』(雄鶏社、一九四七)建築ジャーナルから一九九五年に復刻。本書についてはすでに多くの解説がある。布野修司『戦後建築論ノート』(相模書房、一九八一、『戦後建築の終焉──世紀末建築論ノート』として、れんが書房新社から一九九五年に加筆・復刻)は最も広い射程から捉えた論考。
★四九──念のために書き足しておくと、本書で言う「ヒューマニズムの建築」は直裁的に「人間(人民)のために役立つ建築」の意味で使用されており、ルネサンス建築における比例関係の議論とは何ら関係ない。
★五〇──西山夘三「日本折衷主義と我国の建築運動」(『建築と社会』一九三七年六月号、日本建築協会)など。
★五一──NAU(新日本建築家集団)の機関誌に掲載された、浜口隆一「人民の建築としての近代建築──新しい建築意匠学の立場から」(『建築新聞』第一号、新日本建築家集団、一九四七年九月一〇日)を、図師嘉彦「近代建築の理解における浜口氏の誤謬について」(『建築新聞』第二号、新日本建築家集団、一九四七年一一月一日)が批判。以降、一九四七年から四八年にかけてを、「近代建築論争」(「浜口・図師論争」「『ヒューマニズムの建築』論争」とも)と呼ばれる。その詳しい経緯は、布野修司前掲書を参照。
★五二──神代雄一郎「近代建築研究の現代に於ける二つの課題──浜口・図師両氏の論争を中心として」(『新建築』一九四八年七・八月号、新建築社)。
★五三──関野克「一九五一年建築界回顧 建築史」(『建築雑誌』一九五一年一二月号、日本建築学会)。
★五四──「研究題目登録表 その一」(『建築雑誌』一九四六年九─一〇月号、日本建築学会)。
★五五──蔵田周忠「東京の近代建築」(『建築文化』一九四八年二月号─一九四九年四月号に断続的に連載、彰国社)。なお、蔵田周忠の学位論文「日本近代建築の研究──国際環境における日本近代建築の史的考察」(一九五九)は明治期以降一九四〇年までを扱っており、関東大震災(一九二三)までを「近代建築」、以降を「現代建築」と呼んでいる。
★五六──木村徳国「明治から大正へ──日本近代建築史前期」(『建築雑誌』一九五〇年四月号、日本建築学会)。
★五七──一九一〇年の五月と七月に建築学会が開催した討論会「我国将来の建築様式を如何にすべきや」を中心として明治末期のいわゆる「様式論争」は、早くから脚光が当てられてきた。★二、★四九の論考など。
★五八──長谷川堯「日本の表現派」(『近代建築』一九六八年九─一一月号、近代建築社)『神殿か獄舎か』(相模書房、一九七二)に収録。
★五九──関野克『明治・大正・昭和の建築』(『平凡社世界美術全集 第二五巻 日本IV』、平凡社、一九五一)。
★六〇──「伝統論争」をめぐる状況に関してはまだ定説を得るまでは至っていないが、一般的には次の文献を代表的なものとする。ヨージェフ・レーヴァイ「建築の伝統と近代主義」針生一郎訳(『美術批評』一九五三年一〇月号、美術出版社)、西山夘三「住宅計画における民族的伝統と国民的課題」(『新建築』一九五三年一一月号、新建築社)、丹下健三「現代日本において近代建築をいかに理解するか──伝統の創造のために」(『新建築』一九五五年一月号、新建築社)、岩田知夫(川添登)「丹下健三の日本的性格──特にラーメン構造の発展を通して」(『新建築』一九五五年一月号、新建築社)、丹下健三「現代建築の創造と日本建築の伝統」(『新建築』一九五六年六月号、新建築社)、白井晟一「縄文的なるもの──江川氏旧韮山館」(『新建築』一九五六年八月号、新建築社)。
★六一──浜口隆一「一九五五年建築界回顧 思潮」(『建築雑誌』一九五五年一二月号、日本建築学会)。浜口自身は「伝統論争」の傍観者であったわけではなく、「私は一〇年程前に『ヒューマニズムの建築』という本の中で、伝統に対する強く否定的な見解を述べた。(…中略…)結論的にいって、現在の私は、伝統の評価について、一〇年前と違ってかなり肯定的になっている」(『建築文化』一九五七年一月号、彰国社)と発言している。そうした自己の立場との兼ね合いを考慮しても、引用した文章には看過できない卓見が認められる。
★六二──浜口隆一「日本国民建築様式の問題──建築学の立場から」(『新建築』一九四四年一─一〇月号、新建築社)。全四回の抄録が、藤井正一郎+山口廣編著『日本建築宣言文集』(彰国社、一九七三)に収められている。
★六三──山本学次+神代雄一郎+阿部公正+浜口隆一『建築学体系6 近代建築史』(彰国社、一九五八)。
★六四──神代雄一郎「近代建築思潮形成過程の研究」(一九六一年東京大学学位論文)。「第一章 ヨーロッパおよびアメリカにおける近代建築思潮の形成」と「第二章 日本における近代建築思潮の形成」からなり、後者が★六三に対応して
いる。
★六五──桐敷真次郎「明治前期建築における洋風技法の研究」(一九六一年東京大学学位論文)。
★六六──菊池重郎『日本に於ける洋式建築の初期導入過程の研究』(私家版、一九六一)。
★六七──稲垣栄三「明治時代における西洋建築導入過程の研究」として、一九六一年に東京大学に提出。冒頭に「梗概」、「序論」を置き、「第一篇 江戸時代における建築生産の体制」(全二章)と「第二篇 西洋建築の導入過程」(全七章)から構成される。第二篇は『日本の近代建築』上巻二─八章に対応している。

>倉方俊輔(クラカタ・シュンスケ)

1971年生
西日本工業大学准教授。建築史家。

>『10+1』 No.20

特集=言説としての日本近代建築

>石山修武(イシヤマ・オサム)

1944年 -
建築家。早稲田大学理工学術院教授。

>磯崎新(イソザキ・アラタ)

1931年 -
建築家。磯崎新アトリエ主宰。

>藤森照信(フジモリ・テルノブ)

1946年 -
建築史、建築家。工学院大学教授、東京大学名誉教授、東北芸術工科大学客員教授。

>インターナショナル・スタイル

International Style=国際様式。1920年代、国際的に展開され...

>丹下健三(タンゲ・ケンゾウ)

1913年 - 2005年
建築家。東京大学名誉教授。

>ル・コルビュジエ

1887年 - 1965年
建築家。

>岡崎乾二郎(オカザキ・ケンジロウ)

1955年 -
造形作家、批評家。近畿大学国際人文科学研究所教授、副所長。

>建築写真

通常は、建築物の外観・内観を水平や垂直に配慮しつつ正確に撮った写真をさす。建物以...

>藤岡洋保(フジオカ・ヒロヤス)

1949年 -
日本近代建築史研究。東京工業大学大学院教授。

>五十嵐太郎(イガラシ・タロウ)

1967年 -
建築史。東北大学大学院工学研究科教授。

>ルネサンス

14世紀 - 16世紀にイタリアを中心に西欧で興った古典古代の文化を復興しようと...