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第三日本という墓碑銘──日本工作文化連盟の視座と射程 | 矢代真己
Epitaphs for the Third Nippon: The Views and Parameters of the Nippon Plastic Culture Association | Yashiro Masaki
掲載『10+1』 No.20 (言説としての日本近代建築, 2000年06月発行) pp.130-142

一九三六年に結成された「日本工作文化連盟」は、日本における近代建築運動の先駆けとなった分離派建築会の中心人物である堀口捨己から、戦後の建築界を牽引することになろう丹下健三まで、広範にわたる世代の会員、約六〇〇名を参集させた一大組織であった。
「生活の全的な立場」を主題に、建築を含めた造形行為全般を「工作」と捉えることで、建築という枠組みを超えて、工芸から都市にいたるまで、多角的な視点のもとで総合的に造形文化を見直そうとする、それまでにない視座をもっていた。また、普遍的インターナショナルな理念としての「モダニズム」を超えて、日本という固有性も視野に入れた表現デザインの在り方も模索していた。しかしこうした特徴にもかかわらず、いやそれゆえに、戦時下日本におけるファシズムとの関係が暗示あるいは指摘されることとなり、結成の意図や活動の実態、そして、その具体的な評価については触らぬ神にたたりなしとばかりに、いまだ充分な検討が行なわれていない。

分水嶺としての「新興建築家連盟」

戦前日本の近代建築運動の軌跡は、一般に以下のようなストーリーが与えられている。わが国の近代建築運動は、一九二〇年の「分離派建築会」の旗揚げにより幕を開けた。そして、その後は一九二三年の「創宇社建築会」、「マヴォ」、二四年の「ラトー」、「メテオール」、そして二七年の「インターナショナル建築会」など、多様なる運動体が次々に誕生していく状況を迎えた。だが、やがて相互的なネットワークが培われ、徐々に組織的な運動へと変化・結実していった。この間に運動そのものの性格も、単なる芸術運動から社会主義思想を踏まえた運動へと発展・深化していった。その何よりの成果が、「科学」と「実践」を掲げて三〇年に結成された「新興建築家連盟」だった。が、内在する思想性イデオロギーのために弾圧され、実質的な活動を行なう暇もなく空中分解を余儀なくされた。新興建築家連盟の分裂は、その後、二つのコースを辿った。ひとつは、大学や職場に戻り、ひっそりと科学的な建築学の確立に取り組むエリート層。いまひとつは、社会主義思想にもとづく運動の継続を目指す技術者層で、その灯火は、三二年の「日本青年建築家連盟」、三三年の「青年建築家クラブ」へと継承されたが、三四年には強制的に解散させられた。こうして分離派以来の建築運動=前衛の流れは潰えた、というストーリーである。

反動としての「日本工作文化連盟」

建築運動の流れが断絶された状況のなか、三六年に不意に姿を現わしたのが日本工作文化連盟だった。その中心を担ったのは、新興建築家連盟の解散後は息を潜めていたエリート層だった。そしてその存在は、社会主義思想を払拭した新興建築家連盟版、日本主義と近代建築とを結びつけようと試みる体制に順応した存在と見なされていくことになるだろう。
日本工作文化連盟は、ドイツ工作連盟を念頭に置いて、「様式建築より生活建築へ、有閑工芸より目的工芸へ、低俗製品より価値製品へ」★一という三点をスローガンに掲げた。こうした指標は、確かに当時、商工省が目論んでいた産業立国の方向性と重なり合っていた。また、「日本的なるもの」についての議論も前面に打ち出していた。
その姿勢にいちはやく反応し、論難したのは、河丸荘助こと西山夘三だった。マルクス主義=階級闘争史観のもと、結成されて日も浅い三七年に、日本工作文化連盟に対する批判を展開している★二。西山は、具体性に欠けたスローガンの内容を槍玉にあげ、建築運動というには思想も方法論もない組織であることを問題とする一方で、日本主義を主題とすることは、人民に背を向けて支配者たちに新興のデザインをもってとり入ろうとするものとして、そこにファッショ性を見出していた。そして、その主張を、生涯を通じて繰り返す★三。
戦後における評価は、否定的なものに終始している。
宮内嘉久は、「もとよりかかげるにたる革新の旗はすでになく、戦争の体制に順応する建築家の姿勢だけが浮かびあがっている。ただわずかに、神がかり的様相を帯びはじめた日本主義にたいする、良識派的な抵抗の意図が読みとれるにすぎない」とする★四。以降、村松貞次郎★五、藤井正一郎、山口廣★六、神代雄一郎★七らも、基本的に西山や宮内による解釈を共有するかたちで、日本工作文化連盟の位相を描き出している。つまり、日本工作文化連盟は、戦前最後の近代建築運動というよりも、むしろ反動的な存在と位置づけられてきたのである。

二つの「連盟」を巡る共通の謎 

以上のように、実際的にはいかなる活動も行なっていないにもかかわらず、社会主義の立場のもとで頂点を示した讃えられる存在としての新興建築家連盟と、それとは逆に、ファッショとして唾棄すべき存在としての日本工作文化連盟という構図が形成されていることがわかる。
そこには、来たるべき理想としての社会主義の正当性を暗黙の前提としたマルクス主義史観による解釈の影と、第二次世界大戦をファシズム対民主主義の戦いと位置づけた東京裁判の論理イデオロギ−からの影響を、看て取れる。たとえば村松は「〈民主主義〉にバラ色の希望を寄せて再び新しい建築運動が再開されたのは敗戦の翌年のころから」と述べている★八。
さらに、戦後の東西冷戦構造の成立、つまり資本主義対社会主義というイデオロギー対立の時代の出現は、解釈の枠組みを、さらに複雑で困難なものとした。これにより、社会主義思想は、戦前とは異なるが戦後においても、やはり鬼っ子となるのである。それは一般に近代建築運動が、たとえば堀口捨己と分離派、山口文象と創宇社など、特定の運動の推進者の名前とともに語られるのが通例であるのに対して、日本の近代建築運動の頂点を記した存在として誇ってもよいはずなのに、新興建築家連盟の場合、基本的に誰もが自らの関与を語りたがらない、語ったとしても奥歯に物が挟まったような語り口になってしまう、という状況に端的に表われていよう。これは、日本工作文化連盟の場合にも通じている。いずれの場合も、戦後のイデオロギー=歴史解釈に翻弄されている。ようするに、当事者たちからの声が届かないのである。
実際のところ、新興建築家連盟と日本工作文化連盟の会員の多くは、重複している★九。
両組織の性格の変化を、左から右への転向として一言で了解しようとすれば、ことは簡単であろう。しかしそれでは、分離派建築会や新興建築家連盟といった日本の近代建築運動のいわば黄金時代に活躍した建築家たちが一堂に会して、なぜ再び日本工作文化連盟に結集したのか、そしてなぜ「日本的なるもの」が主題となったのか、その視座と射程をヴェールに包んでしまう。また、戦前と戦後の連続性・関係性も切断されてしまうことになる。
さらに、これまで指摘されてこなかったが、自覚的マルキストであった西山や山口なども、その会員に名を連ねていたことを、どのように考えればよいのだろう★一〇。結局、彼らも転向したのだろうか。
しかし、一九八〇年代後半に始まるソ連邦を中心とする社会主義諸国の崩壊は、社会主義を正義の代名詞として描いてきた歴史解釈にも再検討を迫ることとなった。また、ファシズムということで一刀両断にされてきた存在にも、社会主義との同質性があったことも指摘しておきたい。たとえば寺島実郎は、ファシズムを「マルクス主義と国民主義の融合体、哲学的には意志論、経済的には開発主義イデオロギー」と、規定している★一一。あるいは、戦前日本の右翼のイデオローグである北一輝や大川周明の思想が、社会主義から出発したことを想起されてもよい。

一九三六年のモダニストあるいは昭和の様式論争

年末に日本工作文化連盟が設立される一九三六年後半は、「日本的なるもの」とは何かが、近代建築の提唱者モダニストたちを巻き込んで再び議論の的となっていった。その導火線は、一九三七年に開催されるパリ万国博覧会の日本館の設計案を巡っての騒動だった。
国際文化振興会など五協会から設立された巴里万国博覧会協会は、一九三六年四月に「日本文化を世界に宣揚するに足る」案を求めて、日本館の設計を岸田日出刀に委嘱した。岸田は、前田健二郎、前川國男、市浦健、谷口吉郎、吉田鉄郎の五名を建築委員に指名し、設計原案を作成させた。アイデアコンペが行なわれ、モダニズムの造形の典型とも言える前川案が選ばれたが、クライアントから「日本的なるもの」を表わしていないというクレームがついた。そして六月に、前田により作成された海鼠壁や朱塗りの柱などを盛り込んだ、いわゆる日本趣味的造形をもつ代案が採用されることとなったのである。
この経過に対して、建築家側から批判の声が高まり、雑誌や新聞を賑わせ、また前川も、自案を雑誌『国際建築』に発表することで★一二、「日本的なるもの」の在り方について、一石を投じたのである。
ここに近江栄の言う「昭和の様式論争」が勃発する★一三。
結果的には、周知のように坂倉準三がパリに赴き、その鮮烈なるデビュー作を世に送り出すことになる。だが、議論そのものは森口多里といった美術評論家も巻き込み、建築界を超えて広がっていった。
森口は、日本の建築界は「合理主義によって歴史的様式の無自覚な繰返しを否定されたのであるから、その浄化のうえに今度は新しく想像性(強調傍点、引用者)の豊かな活動を喚び醒まし、建築に創造的精神の具現を求むべき」と述べ、今回の事件をよきレッスンだったと、挑発した★一四。
これを受けてか、一〇月一六日に「日本建築の様式に関する座談会」が開催される★一五。そして、後に長谷川堯が揶揄したような★一六、想像性に欠けた不毛とも言える討論が行なわれる。
この昭和の様式論争の余韻も収まらないなかで、多くのメンバーが先の座談会に顔を揃えていた日本工作文化連盟が結成されるのである。また、ブルーノ・タウトがついに日本を離れたのも、その渦中の一〇月一五日のことだった。

日本工作文化連盟の視座と射程

一九三六年一二月九日、日本工作文化連盟は結成された。
創設会員は二五名で、建築家のほかに工芸関係者や照明工学者や法学者なども名を連ねていることが特徴的である。パリ万博日本館の施主側の一部だった国際文化振興会の黒田清が、会長に就任していることも興味深い。
会長=黒田清(国際文化振興会会長)/理事長=堀口捨己/理事=岸田日出刀、佐藤武夫、小池新二(評論家)、市浦健/幹事=澤島英太郎(文部省宗教局)、鈴木道次(商工省工芸指導所)/委員=今井兼次、上野伊三郎、奥村新太郎(三井報恩会主事)、蔵田周忠、坂倉準三、関重広(東京電気照明学校)、関野克、谷口吉郎、土浦亀城、中村弥三治(早稲田大学法学部教授)、服部勝吉(文部省宗教局)、藤島亥治郎、前川國男、山越邦彦、山脇巌、吉田鉄郎、井上房一郎(銀座ミラテス)。
このなかで、市浦が事務局長を務めている。
翌一〇日の『東京朝日新聞』は、日本工作文化連盟の結成について取り上げ、その活動方針について「四年後のオリンピックまでに日本建築様式、美術工芸、工業生産品等に対して日本的の指導精神を与えるのを目的」とするとし、活動内容については、方針に対応するかたちで「共同研究指導をはじめ生活と文化の展覧会、講演会等を催す」予定だと報道している。
また一二、一三日にかけて理事長の堀口は、「雑駁な東京の姿」、「指導機関の要望」と題して、結成の視座と射程についての文章を、同じく東京朝日新聞に発表している。「雑駁な東京の姿」で堀口は「外国の一建築家」により、古都京都などに見られる統一性が欠如した「東京は日本ではない」と指摘されたことを受け、現代日本の中心たる東京に文化的なものを見出せないならば「現代日本に文化はない」とし、その理由を個別的な建築として文化的に低いのではなく、都市景観という全体性に対する「指導精神がない」ためと述べる。また、個別的な建築家の建築に取り組む姿勢についても、「日本在住の外国建築家」を取り上げ、その作品集に収められた作品群が、造形的な一貫性に欠けるもので、そういう人物はパリでは嘲笑されるが、日本では成功していることの矛盾を指摘し、そのような姿勢が、先の全体性の欠如した都市景観につながっているとする。また工芸も、帝展出品が第一義とされることで、生活とは乖離した美術作品にすぎないものとなっており、「現代の生活文化的存在」になりえていない現状を指摘する。ちなみに、匿名で指摘された二人の外国人は、タウトとアントニン・レーモンドである★一七。
「指導機関の要望」では、衛生学的方面からの指摘として、風土と造形、気候と材料使用の矛盾を指摘している。西洋建築を盲目的に模倣することにより、室内に大理石を貼ったがために夏期には結露が生じるであろうことなど、実用面での考慮の至らなさを指摘している★一八。これもタウトが著書で指摘したことを追随した視点となっている。そして、こうした一連の状況を打破し、造形文化に対する建築家、そして社会の一定のコンセンサスを得るための存在、つまり指導機関、啓蒙組織として、日本工作文化連盟の視座と射程が位置づけられている。
こうして、ドイツ工作連盟を彷彿させるように、「生活文化の中で生活の容器たる建築を始め、それに関する造形文化を総括」して「工作文化」と捉えながら、「現代精神に基いて生活の全的立場からその発展に寄与」することを目的に、「建築家を始め工芸、工学、工業及一般の科学、芸術其の他工作文化に関与する諸分野の専門家を糾合」することが目論まれたのだった★一九。そして、先述した三つのスローガンも掲げられるが、これについては西山からの批判もあってか、後に『現代建築』に綱領が掲載される際は削除される。また、具体的な活動としては、工作文化研究機関の設置、生活文化展覧会・講演会の開催、各種刊行物の出版、国際文化に関する国際文献情報機関の設置など、壮大な計画を掲げている。

運動体としての活動の実態

それでは具体的にどのような活動が行なわれたのだろうか。
その設立の契機として、結局は具体化しなかったが、堀口が「ある財団から金が出るということ」だったと回顧しているように、事前には財政援助の話が存在していたようである。これが、組織として壮大な活動計画を打ち立てた理由であろう。堀口は「私はドイツのバウハウスのようなものを作りたい気持ちでした。然しそれは遂に物にならなかった」と残念がってもいるのである★二〇。
そのため、財政面の問題もあってか、実際的な活動はあまり見られない。市浦も「いろいろの面で活動しようとして努力したが、仲々思うようにならないままに何年か過ごし」たと述べている★二一。散見できる活動は、パリ万博出展用の建築映画「日本の建築」の企画製作★二二、座談会の開催★二三、連続講演会の開催企画★二四などに止まる。しかし一九三九年に機関誌『現代建築』を創刊している。四一年には『工作文化』と題された単行本も一冊、出版している。つまり、事実上『現代建築』の刊行が組織=運動体としての唯一のまとまった成果と見なせる。
これを裏付けるように、小池新二も「結局資金難で、仕事は大してせず……具体的な事業としては『現代芸術ママ』」を出したくらいだった、と述べている。しかし、組織としての「活動はお粗末でも、会員が各々活躍していた」ため、「ジャーナリズムにおける影響はそうとうあった」としつつ、「大方において皆共通の意識を持っていたから、割合に世間ではまとまった団体活動をやっているように見えたかもしれない」が、グロピウスもモホリ・ナジもおらず、実際は「個人個人が皆ばらばらに動いていた」と述懐している★二五。

1──『現代建築』第1号表紙

1──『現代建築』第1号表紙

2──坂倉準三《パリ万国博覧会日本館》 外観 『現代建築』第1号

2──坂倉準三《パリ万国博覧会日本館》
外観 『現代建築』第1号

3──坂倉準三《パリ万国博覧会日本館》 内観 『現代建築』第1号

3──坂倉準三《パリ万国博覧会日本館》
内観 『現代建築』第1号

4──前川國男《笠間邸》『現代建築』第2号

4──前川國男《笠間邸》『現代建築』第2号

5──前川國男《秋田日満技術工養成所》 木造を用いてのモダニズムの造形 『現代建築』第2号

5──前川國男《秋田日満技術工養成所》
木造を用いてのモダニズムの造形
『現代建築』第2号

日本工作文化連盟の源流と成立過程

一般に日本工作文化連盟の会員は、新興建築家連盟からの流れと言われているが、建築という領域を超えた多彩な顔ぶれは、どのように結集することになったのだろうか。また、ドイツ工作連盟を手本とした包括的な視点は、いかに導入されたのだろう。その原点を市浦は元新興建築家連盟の一部が固まり、月に一度学士会館に集まって『新建築』の編集協力を行なうようになったことだ、と言う★二六。たしかに、一九三三年一月号から三五年八月号にかけて、市浦、堀口らは海外建築作品の紹介を中心とした作業を行なっている★二七。
また市浦は一九三五年八月に、「口を動かし筆を執る事」の必要性を認めながらも、その反響や影響の少なさを嘆き、むしろ「建築家の指導層に働きかけ、彼等を動員し、又将来の建築家たる学生等を導くと云うような実質的な努力が必要」と説き、その目的のために団体の結成を準備中だとも述べている★二八。一九三六年一月にも、共同作業を行なう団体の結成を準備中と述べながら、その動機を「建築について新しい精神をもつ者が世の中に於ては有力な旧精神へ対する反発の気持」と「学界乃至学会への働きかけを実行する事への希望」としている★二九。同時に意匠の問題については、「現代の大衆への啓蒙的活動」が重要と説き、そのためには「一九四〇年の万国博覧会や一九三七年のパリの装飾博に対して建築家の大きな努力」と「常設的な建築博の如き施設」の必要性を記している。さらに、建築家の社会的地位の低さを憤りながら、建築の発展のためには「社会に認識させること」が必要ともしている。ここにすでに日本工作文化連盟のプログラムの多くが萌芽している。
一方で、商工省工芸研究所に勤務していた藤井左内は、一九三六年一一月に、堀口、市浦、小池など二五名ほどが、「二〜三ヶ月前から、〈金曜会〉という準備の会合を重ねて」いたが、「大河内正俊、細川護立公、黒田清」などをかつぎあげ、団体を結成することになったと伝えている。ドイツ工作連盟を手本としたもので、「パリ万国博の若手陣の失敗を反省して」の旗揚げとも記している★三〇。
ここで小池の名が登場するが、市浦も「評論家の小池さんの提唱で、日本工作文化連盟というドイツのヴェルクブントをもじった団体が生まれ」た、と述べている★三一。また、「工作」という用語の使用も、組織名称が問題となった際に、「生活文化連盟、造形文化連盟なども案としてあった」が、「造形が直ちに所謂造形美術を連想する事と、より生産的意味を要求したため」と★三二、手本であるドイツ工作連盟「ヴェルクブント」の「ヴェルクという言葉を翻訳すると工作となる。それはどうかという小池さん」の主張が通って、決まったという★三三。
しかし、一方で市浦は、その結成の日付を、一九三六年六月頃とも述べており、その理由を「ある積極的な刺激」としている★三四。そして、その後、「工作」というワイドレンジな視座に対する諸分野の専門家を糾合し、全体としてのコンセンサスを得るために、半年の準備期間が必要だった、と述べている。
「六月」というのは「昭和の様式論争」が勃発した時期と一致する。このように考えてくると、日本工作文化連盟の結成には、パリ万博の設計案問題を巡っての騒動が、裏で糸を引いていたであろうことが推定できる。後に『現代建築』の創刊号で、坂倉の実施案が特集されたことも、こうした経緯と無縁ではないだろう。ところで、小池と市浦らの接点は、一九二〇年代後半まで遡れる。それは構成社書房という出版社の活動に付随するものだった★三五。当時、小池は、同社の顧問を務めていた。そこに新興建築家連盟や日本工作文化連盟に結集する群像が集まっていたのである。小池の編集により『建築紀元』誌が、山越邦彦により『建築時潮』誌が刊行された。また、同社からCIAM第二回報告書である『生活最小限の住宅』を翻訳出版した柘植芳男は、小池から訳出出版を示唆されたといい、また、岸田日出刀の『過去の構成』と『現在の構成』、宮崎謙三によるル・コルビュジエの『建築芸術へ』の邦訳出版も、小池の示唆によるものだった、という★三六。市浦も同書房から、アンドレ・リュルサの書『建築』を訳出出版している。
小池は東京大学文学部美学美術史学科出身で、坂倉とは同級生だった。また、山越や柘植、宮崎とは東京府立一中の同期だった。小池は工芸から建築まで幅広い評論活動を行なっており、海外情報にも先んじていた。そのため、おそらく小池が、日本版ドイツ工作連盟という見取り図を描き出したと思われる★三七。また、建築博物館設立という構想も、小池の立案によろう★三八。

6──『現代建築』第3号表紙

6──『現代建築』第3号表紙

7──『現代建築』第4号 「特集=大陸建設」表紙

7──『現代建築』第4号
「特集=大陸建設」表紙

8──『現代建築』第6号 「特集=厚生と家具」表紙

8──『現代建築』第6号
「特集=厚生と家具」表紙

9──『現代建築』第7号表紙

9──『現代建築』第7号表紙


10、11──坂倉準三設計の家具 四角四面の合理主義を離れた形態をもつ、古い醸造用酒樽(杉材)を用いて大工によって製作されたテーブル 『現代建築』第6号

10、11──坂倉準三設計の家具
四角四面の合理主義を離れた形態をもつ、古い醸造用酒樽(杉材)を用いて大工によって製作されたテーブル
『現代建築』第6号

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12──坂倉準三設計の家具。官能的な曲線をもつ小テーブル 『現代建築』第6号

12──坂倉準三設計の家具。官能的な曲線をもつ小テーブル
『現代建築』第6号

13──高山英華「大同都市計画案」 近隣住区を設定することで、継続的な都市の拡大が担保された全体計画 『現代建築』第8号

13──高山英華「大同都市計画案」
近隣住区を設定することで、継続的な都市の拡大が担保された全体計画
『現代建築』第8号

14──前川國男「上海住宅計画案」 『現代建築』第4号

14──前川國男「上海住宅計画案」
『現代建築』第4号

15──構成主義的なアングルで撮影された吉田鉄郎《大阪中央郵便局》 『現代建築』第6号

15──構成主義的なアングルで撮影された吉田鉄郎《大阪中央郵便局》
『現代建築』第6号

16、17──イタリアの雑誌『カサベラ』からの影響を受けたといわれる、当時としては斬新なレイアウトの一例。フランスの工芸を紹介するページとイタリアの工芸を紹介するページ。

16、17──イタリアの雑誌『カサベラ』からの影響を受けたといわれる、当時としては斬新なレイアウトの一例。フランスの工芸を紹介するページとイタリアの工芸を紹介するページ。

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雑誌『現代建築』のメッセージ

先述したように、一九三九年六月から四〇年九月にかけて、第一五号まで発行された機関誌『現代建築』は、日本工作文化連盟の組織的な活動の唯一とも言える果実だった。
機関誌の発行は「発会以来の宿望」であり、市浦によれば、結成当初、『国際建築』誌を日本工作文化連盟の機関誌へと衣替えすることを頼んだが、編集長の小山正和に謝絶されている★三九。『国際建築』は、新興建築家連盟に対して、通信欄として誌面の提供を約束していた経緯もあるので、依頼したものだろう★四〇。
編集作業は市浦が中心となり、若い世代の「森田(茂介)・本城(和彦)・小坂(秀雄)君など、毎週編集委員会を開き割り付け・広告の図案まで」行なったという★四一。編集方針としては、「大部分外国雑誌の複写をして御茶を濁して」いたり、「玉石混淆で何ら指導精神のない編集振」をしている他誌とは異なり、「新しい日本建築、優秀なる工作文化の作品や指導的な理論を主要な内容とする」ことが目論まれており★四二、特に「東洋主義を排する」、「様式主義をやめる」、「合理主義をうちたてる」ことを目標としていたという★四三。
ただし、刊行と会員勧誘の主旨文には「今や日本は興亜の盟主として長期建設に乗り出した。建築界を始め一般工作文化の各分野は益々多事多難の時期を迎えようとして居る。(…中略…)何故ならば興亜の大業の真の成功は文化の偉力によってのみかち得られるのであるから。此機に際し日本工作文化連盟はその趣旨に基づく使命達成の拠点として『現代建築』を刊行する」★四四といった文面が踊ってもいるため、注意深い検討も必要だろう。
雑誌そのものとしては、毎週テーマを絞り込んだ特集形式に近いかたちでの編集、誌面構成が行なわれている。レイアウトも、『カサベラ』の影響を受けて、シンプルだが繊細な構成が取り入れられている★四五。
全体を概略し、主要記事内容をピックアップすると、以下のようである。

[凡例:〇論文   ●作品紹介〈 〉特集号]
第一号    ●《パリ博日本館》(坂倉準三)
    〇堀口捨己「日本の現代記念建造物の様式について」
第二号    ●《笠間邸》(前川國男)、《若狭邸》(堀口捨己)
    〇堀口捨己「日本の住宅様式」
第三号    〇宮城外苑整備計画・労務者住宅問題
    ●木造モダニズム作品《秋田日満技術工養成所》(前川國男)など
第四号     〈大陸建設特集〉
    ●都市計画案「上海」(吉村辰夫、前川國男)、「大同」(高山英華)
    〇関野克「大陸建設への序文」
第五号    〇●博覧会紹介《ニューヨーク万博日本館》、「一九三九年スイス国内博覧会」
    ●「安東と吉林の住宅地計画」(土浦亀城)
第六号     〈厚生・家具特集〉
    〇労働者の住環境を巡る論四編
    ●家具(坂倉準三、ペリアン設計の家具の紹介など)
第七号    ●《大阪中央郵便局》(吉田鉄郎)
    〇板垣鷹穂「大阪中央郵便局考」、
     丹下健三「MICHELANGELO頌」
第八号     〈大陸建設特集〉
    〇創亜細建築連盟「満州建築の展望」、日本工作文化連盟「大陸建築座談会」
    ●「大同都市計画案」(高山英華)
第九号     〈外国新建築特集〉
    ●アルフレッド・ロート『The New Architecture』に掲載された五作品の転載
第一〇号     〈忠霊塔特集〉
    ●〇「会員の忠霊塔コンペ落選案と説明書」
    〇忠霊塔の表現と其一試案
第一一号    ●木造モダニズム作品《九州日満鉱業技術員養成所》(前川國男)、《東京市役所大手町仮庁舎》(東京市財務局建築部)ほか、東京五大学の卒業設計(いずれもモダニズムのデザイン)
第一二号     〈住宅問題特集〉
    〇労働者住宅の最小規模などに関する論三編
    ●西欧でのジードルンク紹介
第一三号     〈千利休特集〉 堀口捨己責任編集
第一四号    ●《聴禽寮》(堀口捨己)、「新南京湖住宅地計画案」(坂倉準三)
第一五号     〈工芸特集〉
    ●世界九カ国の工芸作品の比較紹介


大陸建設特集など、そこには大東亜共栄圏という構想を背景として、それに便乗したと思われる場面もみられる。しかし、当時の状況ではたしてそれを回避できたのか、ということについては留保をつけておきたい。むしろ、なぜそこに夢を描かなければならなかったのかを問うていくべきだろう。たとえば「大同都市計画案」を作成した高山英華は、満州に理想的な都市計画を行なえるチャンスを夢見ていたことを、自戒の念も込めながらだが、素直に吐露している★四六。
そして、政治イデオロギー的な視点を排除するとすれば、『現代建築』には、全体としてモダニズムの理念に習熟したモダニストとしての、あるべき「工作像(家具─建築─都市のデザイン)」の成果メッセージが示されており、そのフォーラムとなっていたと言える。
ただし、そこには純粋なモダニズム=合理主義からの距離が示されはじめてもいた。いわば「想像力」が発揮されだしているのである。それは、たとえばモダニズムの精神を内在させつつ日本も想起させる合理的な表現をもった建築作品の紹介(《パリ博日本館》、《笠間邸》、《大阪中央郵便局》など)、近隣住区理論や機能別ゾーニングなど近代都市計画理論を駆使しながらも歴史的建造物の保存や地域性も考慮された都市計画の方法の紹介(「大同都市計画案」など)、リゴリスティックな合理主義的教養を超えた官能的な曲線をもちながら実用性も十全に考慮された家具の紹介(坂倉準三やペリアンの家具など)などに表われている。
こうした誌面内容や構成については、出版時から好評を得ており、戦後も一定の評価を得ている。蔵田周忠は「非常に活気のある雑誌でした」と、そして浜口隆一は「建築のデザイナーの気持ちをずい分掴んでいた」と指摘している★四七。また、宮内嘉久も戦後の「建築ジャーナリズムの一種の母型」と位置づけている★四八。

18──『工作文化』表紙

18──『工作文化』表紙

19──大同都市計画案の近隣住区の単位 『現代建築』第8号

19──大同都市計画案の近隣住区の単位
『現代建築』第8号


20──近隣住区の住宅計画の一例 (三級住宅)四合院住宅をモチーフとした中庭型住宅が適合されている。 『現代建築』第8号

20──近隣住区の住宅計画の一例
(三級住宅)四合院住宅をモチーフとした中庭型住宅が適合されている。
『現代建築』第8号

日本工作文化連盟の終焉

『現代建築』の創刊号には、一九三九年六月一日付けの会員名簿が記載されている。岸田の理事長就任など役員の一部移動の跡が見られるが、基本的な顔ぶれにはほとんど変化はない。ただし今井と井上の名が消え、本城和彦、薬師寺厚、小坂秀雄ら若手が新たに加わり、合計二六名となっている。先述したように彼らは、編集スタッフとして活躍する。
つまり日本工作文化連盟の会員数が、約六〇〇名にもおよぶ大所帯に膨らむのは、『現代建築』の創刊以降のことである。事実、各号に会員募集の告知が記載されている。この拡大政策は、翼賛体制に向かって一元化を図るためのものというよりも、雑誌発行に伴い生まれる経済的な負担を軽減するためのものと考えられる。会員の会費は、相当期間中の定期購読料に相当するものとなっていることが、それを裏付ける。
一九四〇年九月に『現代建築』は雑誌統制令により、廃刊を余儀なくされる。当時存在していた四建築誌『建築世界』、『国際建築』、『新建築』、『現代建築』を二つに絞ることが求められたからで、発行部数が少ない『国際建築』と『現代建築』が身を引いたという。そして発行元の現代建築社を売却したため、それまでの赤字は消え、はじめて帳尻が合ったという★四九。その後、翌年に相模書房から『工作文化』を出版するが、それを最後に活動を停止した。

タウトの置きみやげあるいは来たるべき第三日本

すでに指摘したが、昭和の様式論争のさなかの一九三六年一〇月一五日、およそ三年半におよぶ「建築家の休暇」を過ごしたブルーノ・タウトは、ついに日本を離れた。その「置きみやげ」とされたのが、奇しくも同日に、やがて日本工作文化連盟の会長ともなろう国際文化振興会の黒田清の序文を付して、明治書房から発売された著書『日本文化私観』だった。ところでその発行の日付は意図されたものではなかったか、と勘ぐりたくなるものである。なぜなら前著『ニッポン』は脱稿してからほどなく出版されているのに対して、『日本文化私観』では、三五年二月一日の脱稿から一年八カ月も経過している。タウトの本は売れ筋だったからなおさら、そこに隠された意図を感じることとなる。沸騰する様式論争のモダニスト側への援護射撃としては、抜群のタイミングであった。翻訳者の森郎は、同書のエッセンスを「混乱錯雑した現代から真の文化的綜合による将来の日本、氏のいわゆる『第三日本』への道を暗示した警世の書」としている★五〇。
土肥美夫の言葉を借りれば「桂離宮を原理的に評価し、それを伊勢の建築的伝統(第一の日本)につづく『第二の日本』(禅と茶の文化)の精華として称え、桂を模範にして未来の『第三の日本』を方向づけた」ものである★五一。
タウト自身は「第三日本」を、「西欧の、地球上ほとんど正反対の位置にある世界の文化の吸収同化の後に現れる一つの渾一体である」と規定している。
実際はそうでなかったにせよ、タウトは、伊勢神宮や桂離宮に近代建築の目指す合理性・機能性・即物性のあることを発見し、桂離宮をパルテノン神殿に比肩する存在に評価し直した人物として、神話化されている。また、高橋英夫はタウトをトリックスターとしての「まれびと」にたとえているが★五二、モダニストたちは、その「日本的なるもの」の視点の正当性を社会に主張するためにタウトを利用したのではないか。こう考えると、藤井左内の日本の建築界ではタウトは「寧ろ道化的存在だった」という発言に合点もいくのである★五三。
事実、先述のように堀口は、日本工作文化連盟の結成を記す新聞記事で、匿名でだがタウトの意見を引き合いに出し、またタウトの意見を追随した記述も行なっている。さらに、一九五六年に行なわれた座談会でも、三六年の重要トピックとして、タウトの離日を指摘し、タウトの名文を称え、なぜあれを日本人ができなかったのか、とも嘆いている★五四。また、訳者の森は、『日本文化私観』を「警世の書」と位置づけているが、同書でタウトが指摘した日本の工芸や建築が抱えていた問題点の所在や、その社会との関係を示す「日本は建築家にまず高い社会的地位を与えることが必要であり、建築家自身も進んで果敢な闘争を試みることが必要なのである」、あるいは「建築は造形芸術の中心たる位置にあるがゆえに、建築家の地位が高められれば、それと同時に、画家、彫刻家、工芸美術家の地位も高まるのである」といった射程は、すべからく日本工作文化連盟の視座にも共有されているのである。また、三六年一〇月一六日に開かれた「日本建築の様式に関する座談会」でも、発売翌日であるにもかかわらず、田辺泰が「最近タウトが書いた本を読んだのですが、あれに第三日本文化とか、第三文化日本と云うような言葉が御終いの所に書いてある。あれは巧いことを云ったと思います」と、「日本的なるもの」を考えるうえで格好のテキストとなろうことを指摘している★五五。さらに、たとえば若い世代の森田茂介も、同書からの刺激を受けて、西洋と日本という「二つの体系の中に新しいものが出来るのだという気がしはじめている」と記している★五六。いわば、モダニストたちの「バイブル」としての『日本文化私観』という構図が浮上してくるのだ。
だとすれば、日本工作連盟は、タウトが提起した「第三日本」というゴールを受け止めて、その焦点に像を結ばせる役割を果たそうとした組織であったとも言い換えられよう。それでは、果たして日本のモダニストたちは、どのように「第三日本」を発見したのだろうか。

第三日本への回答 堀口捨己・市浦健・薬師寺厚

日本工作文化連盟は、これまで検討してきたように、そのイメージとは裏腹に、『現代建築』の発行を除いて、一枚岩となっての組織的な活動を行なってはいない。
そこで、そこに結集した三世代にわたる建築家のそれぞれの「日本的なるもの」の受容の様相、いわば「第三日本」への回答を、『現代建築』に積極的に関わった三人の建築家の場合を通じて見ていこう。
一九三六年という時期においては、合理主義の建築もすでにMoMAでの展覧会を契機として「国際様式」と規定されることで、もはや選択されるべき様式のひとつに相対化されてしまっていた。そのためにも、モダニストは新たな展開を求められていた、と言えよう。
様式主義建築の時代も通過したモダニスト第一世代の堀口は、「国際建築と称する建築は第三インターナショナルなんて非国家的な意味のものではなく、実際の内容は、純正日本建築にも成り得る最も正当な建築」と捉えていた★五七。そして、千利休の作業に解決の根源を見出しながら、その実現を「様式なし様式」に求めていた。
「第三日本」への扉を開くであろうタウトが小堀遠州に見た日本の神髄は、堀口にとっての千利休に通じるものと言える。タウトはつねに、合理的な全体性を保ちながら、生活の様相、つまり機能的要求に応じて融通無碍な展開を可能とする「味」を称えているのであり、それは「様式なし様式」を唱えて、そのうえに「好み」をおいた堀口と、重なり合おう。それは、「想像性」と呼べるものである。おそらく少なくとも堀口は、タウトを全面的に理解していた、と思えて仕方がない。
一方で、近代建築運動の発展展開に足並みをそろえて活動をはじめたモダニスト第二世代の市浦は、タウトと同様に「桂離宮、伊勢神宮、そして民家への嗜好をもとにしてこそ、国際的にも通用する近代合理主義的な表現が得られるだろう」とのお題目を唱えながらも★五八、「想像性」が必要とされるシーン、つまり竜安寺の石庭に感動するか、と問われて、「あの庭の良いと云うのがほんとは分からない」と、本音を漏らしてもいる★五九。つまり、結局はモダニズムの論理に縛られているのである。
それでは、モダニズムの建築も様式主義の建築のひとつとして相対化しうる立場にあった第三世代のモダニスト、『現代建築』の編集を担当した若手はどう捉えていたのだろうか。
日本工作文化連盟の最後の活動成果として、四一年九月に「近代工作文化特集」と銘打って出版された『工作文化』は、きわめて興味深い内容を含んでいる。第一次世界大戦から当時までにおける日本、ドイツ、フランスという三国における近代建築の潮流を個別にまとめ上げようとする論考が掲載されているのである。
日本については、まさにモダニスト第三世代に属する、東大で立原道造と同期の薬師寺厚が担当している★六〇。ここで薬師寺は近代建築運動の結果、「建築は旧き借着を脱ぎ捨て裸の姿に戻った」とし、今後の責務を「無垢の姿に立返った日本の建築に着くべき着物(強調傍点引用者)を見出す事にある」と位置づける。そして、その着物は、西洋のものでも旧き日本のものでもなく、「現代の日本人の着物であり又普遍性と将来性をもったものでなければならない」と抽象的ではあるが答えを導く。つまり現在性を求める点においてモダニズムを継承しており、意匠を衣装と捉えることで、いみじくも井上章一が指摘したようにポストモダンに一歩足を踏み出しかねない状態にもあり★六一、その衣装を日本人の着物と認識することで、地域主義への足場も固めている。
つまり、日本工作文化連盟という枠組みのなかで展開された活動は、同様な問題意識に支えられながらも、さまざまな答えを導いていったのである。そして日本主義の勃興のなかで、モダニズムの継続・延命を図ろうと試みたものであると同時に、脱モダニズムへの兆しを孕ませてもいた。
そして、共通認識としての日本への接近は、たとえば堀口の「余り外国風の良さと云うやつを教育するのは、丁度黒ん坊(原文ママ)にヴィーナスの美しさだけを認めさせるような教育をするのと同じようなもので、この様に民族的な特徴を無視した事は当事者にとっては悲劇に終わり、第三者から見れば滑稽な事になって了う。実際黒ん坊(原文ママ)がヴィーナスの格好だけが美しいと云う信念を持ったらやりきれないだろう。そして此事は黒ん坊(原文ママ)の代りに日本人をそのまま置きかえる事が出来る」という視点に代表できる★六二。
そこで、タウトが提起し、日本工作文化連盟に集まったモダニストたちが工作文化という分野のうえで実現を求めていった「第三日本」に象徴できる姿勢の特徴は、以下のように整理できよう。
それは、根本として当時の国粋主義ファシズムの風潮に安易に迎合しようとするものではけっしてなかった。むしろ明治以来進展してきたわが国の近代化のプロセス、つまり一元的な歴史の発展を承認して、西洋諸国を範例として近代化を推進しようとする立場に変更を迫り、西洋化がもたらした祖国のアイデンティティ喪失状態を憂い、自国固有の伝統に基づいて主体的に西洋文明を吸収同化し、そのうえで土着的な性格を包含した近代化を達成しようとする立場への変換を迫るものだった。日本という特殊な地盤を踏み破り、普遍性という地平へと到達しようと模索されているのであり、そのため排外主義ではなく積極的に外来文明を吸収しつつ批判的に方向性を与えようとしていた。つまり、「工作文化」を通じて自国の文化の中に普遍的な価値を探り出し、主体的精神を築こうとする試みだったと言える。
それゆえ、日本工作文化連盟という舞台で演じられたモダニストたちの活動には、「第三日本」という見果てぬ理想を求めた夢の軌跡が、さまざまなかたちで墓碑銘として刻み込まれている。
それは、一輪の花を手向けるに足るものである。
謝辞
本稿をまとめるに際し、日本大学理工学部建築学科・大川三雄先生から、貴重な資料を惜しみなく閲覧させていただく機会を賜りました。また、メディアという観点から近代建築運動の切開を試みている鹿島出版会『SD』編集部の川嶋勝氏との論議をつうじて、少なからぬ刺激を受けることになりました。ここに記して謝意を表わします。


★一──「報告 日本工作文化連盟に就いて」(『建築知識』一九三六年一二月号)。趣意書や綱領は★五、★六の文献にも再録されている。なお後者は『現代建築』の各号に掲載されたものからの再録で、趣意書の前の部分は結成当時には存在しない。
★二──河丸荘助「『日本工作文化連盟』批判」(『国際建築』
一九三七年五月号)。「日本折衷主義様式と我国の建築運動」(『建築と社会』一九三七年六月号)。
★三──西山夘三「私の見た建築運動の三〇年」(『新建築』
一九五六年四月)。「日本の建築運動と創宇社」(『建築とまちづくり』一九八四年三月)。「建築運動の歴史と新建の今後の役割」(『建築とまちづくり』一九八五年一月)。
★四──宮内嘉久「日本の建築運動  一九二〇─一九六〇──組織・創造・イデオロギー」(『世界建築全集Vol.9  近代』平凡社、一九六一)。
★五──村松貞次郎「第一〇章 近代建築運動の展開」(『日本科学技術史大系・第一七巻 建築技術』第一法規出版、一九六四)。
★六──藤井正一郎、山口廣編『日本建築宣言文集』(彰国社、一九七三)。山口は「日本の近代・現代」(『新建築学大系・第五巻 近代・現代建築史』、彰国社、一九九三)でも同様の視点を示している。
★七──神代雄一郎「日本における近代建築思潮の形成」(『新訂建築学大系・第六巻 近代建築史』彰国社、一九七六)。
★八──村松貞次郎『NHK大学講座・日本の近代建築』(日本放送出版協会、一九八一)。
★九──一〇〇名が参加したという新興建築家連盟のメンバーとして、これまでに名前が明らかとなっているのは、石原憲治、山越邦彦、今井兼次、市浦健、前川國男、谷口吉郎、吉田鉄郎、そして山口文象をはじめとする創宇社のメンバーなど、氷山の一角にすぎない。
★一〇──日本工作文化連盟の機関誌『現代建築』には、毎号新入会員の名前が記載されている。西山の名前は第五号に、山口の名前は第二号に記載されている。
★一一──寺島実郎『一九〇〇年への旅』(新潮社、二〇〇〇)。
★一二──前川國男「一九三七年巴里万国博日本館計画所感」(『国際建築』一九三六年九月号)。
★一三──近江栄『建築設計競技』(鹿島出版会、一九八六)。
★一四──森口多里「博覧会の建築」(『東京日日新聞』一九三六年一〇月三、四日付)。
★一五──座談会「日本建築の様式に関する座談会」(『建築雑誌』一九三六年一一月号)。座談会の出席者は、市浦健、大岡實、小野薫、権藤要吉、佐藤武夫、清水一、田辺泰、谷口吉郎、土浦亀城、藤島亥治郎、堀口捨己、山田守、吉田鉄郎の一三名。
★一六──長谷川堯『神殿か獄舎か』(相模書房、一九七二)。
★一七──堀口がここで指摘しているのは、一〇月に発売されたばかりのタウト『日本文化私観』の「芸術稼業」での記述である。また、レーモンドの作品集は一九三五年に出版されている。
★一八──★一七と同じ。「建築」の項にそっくりの記述がある。
★一九──★一に同じ。
★二〇──創立七〇周年記念座談会「デザイン一九三六─五五」(『建築雑誌』一九五六年四月号)での発言。
★二一──座談会「建築ジャーナリズムの動きをたどる」(『建築雑誌』一九五六年四月号)での発言。
★二二──★二〇での発言。
★二三──「座談会・新日本工作文化建設の為に」(『国際建築』一九三九年二─三月号)に掲載された。
★二四──「工作文化に関する連続講演会の計画」、「日本工作文化連盟便り」(『国際建築』一九三七年九、一一月号)。
★二五──小池新二「日本工作文化連盟の足跡」(『デザイン』一九六二年七月号)。
★二六──★二〇に同じ。
★二七──「我々の計画について」(『新建築』一九三三年一月号)、「〈新建築〉と吾々の関係に就いて」(同、一九三五年八月号)を参照されたい。なお、この作業に多少なりとも関わったメンバーは、市浦健、中村鎮、石原憲治、板垣鷹穂、堀口捨己、吉田鉄郎、土浦亀城、谷口吉郎、川喜多煉七郎、蔵田周忠、山田守、山口文象、星野昌一、安田清、山脇巌の一五名。
★二八──市浦健「時評」(『新建築』一九三五年八月号)。
★二九──市浦健「建築雑談」(『建築知識』一九三六年一月号)。
★三〇──西山夘三『戦争と住宅──生活空間の探求(下)』(勁草書房、一九八三)で指摘されている。
★三一──市浦健『こもんすぺーす』一九七八年秋・冬季号。
★三二──市浦健「日本工作文化連盟の結成とその後の活動」(『建築と社会』一九三七年六月号)。
★三三──★二〇での発言。
★三四──★三二に同じ。
★三五──構成社書房の活動の詳細については、矢代真己+大川三雄+川嶋勝「建築専門出版社──構成社書房の出版活動に関する研究 その一〜三」。一、二は『一九九八年度AIJ大会学術講演梗概集』、三は『一九九八年度AIJ関東支部研究報告集』を参照されたい。
★三六──柘植芳男「ああ、『小池新二』君」(『甦れ、混沌! 甦れ、小池ロマン』、「一一二三小池新二フォーラム横浜」開催推進委員会、一九九一)。
★三七──小池は戦後その夢を九州芸術工科大学の創設によって果たすことになる。
★三八──小池は一九三五年三月に建築博物館の設立を提唱している。小池新二「建築博物館の提唱」(『汎美計画』、アトリエ社、一九四三)。
★三九──★二一に同じ。
★四〇──『国際建築』一九三〇年一二月号に、新興建築家連盟の活動を報道する通信欄の設置の予告があるが、連盟が崩壊してしまったため実質的には日の目を見なかった。
★四一──市浦健「建築家の職能」(『こもんすぺーす』一九八一年春季号)。
★四二──市浦健「編集後記」(『現代建築』一九三九年第四号)。
★四三──★二一での市浦の発言。
★四四──『現代建築』一九三九年第一、三号。
★四五──本城和彦「僕等のペーヂ」(『現代建築』一九三九年第一号)。森田茂介★二一での発言。
★四六──「特集近代日本都市計画史」(『都市住宅』一九七六年四月号)。
★四七──★二一でのそれぞれの発言。
★四八──宮内嘉久『少数派建築論──一編集者の証言』(井上書院、一九七四)。
★四九──★二一での市浦の発言。
★五〇──土肥美夫『タウト──芸術の秋』(岩波書店、一九八六)。
★五一──読解に際し筆者は、ブルーノ・タウト『日本文化私観』(講談社学術文庫版、一九九二)を用いた。
★五二──高橋英夫『ブルーノ・タウト』(新潮社、一九九一)。
★五三──「仙台本所に於ける故ブルーノ・タウト氏を偲ぶ座談会」(『工芸ニュース』一九三九年四月号)。
★五四──★二〇での発言。
★五五──★一五での発言。
★五六──森田茂介「日本の生活」(『現代建築』一九三九年第二号)。
★五七──堀口捨己「国際建築についての未定稿」(『建築知識』一九三六年一月号)。
★五八──市浦健「日本的建築と合理主義」(『建築雑誌』一九三六年一一月号)。
★五九──★一五での発言。
★六〇──薬師寺厚「日本新建築の展望」(『工作文化』一九四一年)。
★六一──井上章一『アート・キッチュ・ジャパネスク』(青土社、一九八七)を参照されたい。
★六二──★五七に同じ。

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1961年生
日本大学短期大学部建築学科准教授。建築史建築論。

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特集=言説としての日本近代建築

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2003年1月1日

>矢代真己(ヤシロ・マサキ)

1961年 -
建築史建築論。日本大学短期大学部建築学科准教授。