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ミニマリズムと装飾主義──二つの近代宗教建築をめぐって | 五十嵐太郎
Minimalism and Ornamentalism:A Look at Two Modern Religious Architectures | Igarashi Taro
掲載『10+1』 No.16 (ディテールの思考──テクトニクス/ミニマリズム/装飾主義) pp.155-163

カオダイ教とは何か

一九九八年の夏、ヴェトナムを訪れる機会があった。主な目的はカオダイ教という新宗教の聖地を訪れることだった。一九九〇年代に入り、ドイモイ(刷新)政策の追い風を受けて、ヴェトナムの建築・都市研究は過熱し、近代建築や保存すべき古建築の調査は確実に蓄積され、ある程度知られるようになった★一。しかし、二〇世紀のはじめに立教し、現在、二〇〇万から三〇〇万人の信者がいると言われるこの新宗教については、ジャーナリズム的な関心は寄せられても、建築的な興味の対象にはなっていない★二。したがって、最近、近代の宗教空間を調べている筆者は、とりあえず、旅行ガイドに載っている程度の知識を手がかりに実物を見ることにしたのである★三。だが、現地でも時間の制約や、おそらくカオダイ研究そのものが決して多くないこともあって、十分な文献を見つけることができなかった。筆者の知る限り、極彩色の豊饒な装飾に包まれたカオダイ教の建築を論じた文章はほとんど皆無に近い。ゆえに、途中経過ではあるが、実際にこの目で見て考えたことと、わずかな資料をもとにカオダイ教の建築の細部を記述することは決して無意味ではないだろう。
最初にカオダイ教の歴史を述べよう★四。創始者のゴ・ヴァン・チェウは、一八七八年にホーチミンのチョロン地区ビンタイの寺院の後ろにあるつましい家に生まれた。彼は華僑の集中するチャイナタウンに住んでいたことから中国の伝統文化を吸収しつつ、官吏として移民局などに勤めていたが、一九二一年から神の啓示を受けるようになる。一九二六年に立教を宣言し、その時点で二四七人だった信者は、二カ月のうちに二万人を超え、四年後に教団は五〇万人近くの規模にふくれあがる。これにしたがい、チョロンの住宅や寺院を利用した宗教活動は、仏教側の圧力を受けたり、大人数を収容するのに手狭となり、一九二七年にホーチミンから西北に約一〇〇キロメートル離れた現在の地、タイニンへ信者の大移動を行なう。やがてカオダイ教はヴェトナムの動乱の最中、日本やフランスの支持を得て、二万五千人の軍隊と軍需工場を抱え、南ヴェトナムにおいて自治区を形成するのみならず、強い政治的な影響力をもつようになる★五。だが、アメリカとの戦争では、ヴェトコンへの協力を拒否したために、統一後の社会主義政権下ではすべての土地が没収され、指導者は監獄に入れられたり、処刑された。カオダイ教は危険分子として監視下に置かれるが、一九八五年には聖地と四〇〇以上の寺院がカオダイ側に戻された。この時期に信徒は減少したが、ドイモイ政策で宗教活動の自由がより認められるようになり復興している。前述した数字が本当だとすれば、ほとんどが南部に集中しているのだが、ヴェトナムの約三〇人にひとりが信者である。ちなみに、カオダイ(高台)とは、文字通り、屋根のない高い塔や高い建造物を意味し、そこで人間の言葉では名づけられない偉大なる神が宇宙を統治するという。

折衷主義の装飾と思想

「聖見」と呼ばれるタイニンの聖地には、信者の居住施設、学校、病院、事務局などの諸施設があって、一九四〇年代には一万人以上が住み、その塀の外側にも八万人を超える信者が生活していたらしい。現在、二万ヘクタールにも及ぶこの一帯には一五万人もの信者がおり、いわば二〇世紀の宗教都市になっている。ここには精神的な中心地として総本山とでも言うべき大寺院が建ち、その前には、祭日に信者で埋めつくされる大きな広場があり、中心軸上にはオベリスク、樹木、塔状の建物、巨大な門が続き、その両側にはスタンド、塔と門が左右対称に配されており、大寺院のモニュメンタル性を視覚的に演出している。もっとも、普段、中央の門は閉ざされているようで、実際のアプローチは大寺院の脇につながる長い参道が使用されており、道沿いには多くの建築物が並ぶ。
大寺院の正面は縦長のプロポーションをもち、双塔形式であり、一見してフランスのゴシック建築を想起させる[図1]。だが、頂部にはアジア建築風の屋根がつき、またその下は四カ所の庇によって水平方向に分節され、全体構成はむしろ低い中央部分の左右に二つのパゴダが接続したものとみなせるかもしれない。この「近代中国—ヴェトナム式宗教建築」は、カオダイの指導者ファム・コン・タックが自ら構想し、一九三三年から建設され、一九五五年に完成したものである★六。一九三七年の『インドシナ』紙ではすでにその偉容が報じられており、一九二九年には同じ場所に簡素な小屋しかなかったと回想していることから、教団の急激な成長ぶりがわかる。
さらに顕著なのは、しばしばタイガーバーム・ガーデンに比せられるように、さまざまな人物像、動植物、地球儀など、それぞれの精度は粗いものの、(現代アジア的な?)説明的で色彩豊かな装飾が表面をおおっていることだ[図2]。こうした折衷的な態度は同時に、仏教、道教、儒教のほか、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教、ヴェトナムの土着信仰などを混交したカオダイ教の特徴でもある。筆者がホーチミンで目撃しただけでも、上記の各宗教施設はほぼ存在しており、教祖が宗教を折衷させる雰囲気は十分にあったと推測される。その教義によれば、われわれは二度の宗教的な変革期を経験したが、カオダイの登場をもって東洋と西洋の諸宗教は統合され、「偉大なる第三期の世界的な宗教の救済」が実現するという。ここに中国色の強いチョロンに暮らしながらも、西洋の思想が流入する植民地において官吏を務めた教祖の経験が反映しているように思われる。興味深いのは、ブッダやイエスを含む宗教上の偉人のみならず、デカルト、シェイクスピア、ヴィクトル・ユゴー(教祖が愛読したのか?)、李白、孫文らの歴史上の人物も、カオダイの精神を体現した功績により祭られていることだ。大寺院の中央入口にも、ユゴーがフランス語で「神と人類、愛と正義」と署名している絵が掲げられている。かくして古今東西の知識を貪欲に取り込みつつ、政治的な影響力をもつに至った状況は、一九二〇年代から三〇年代にかけて急成長した日本の大本教を思わせるかもしれない。
圧倒的な装飾の中でも、とりわけ注意を引くのは、頻出する左目の図像だろう。聖なる目は、正面入口の上、側面の回廊の透かし窓、内部の装飾において用いられている[図3]。これは一ドル紙幣のそれや、フリーメーソンのシンボルにも似ているが、一九一九年、小さな島で修業中の教祖が、真理の光を発する高台の神の目を見たことに由来するらしい。色の使用については、カオダイ教が特に重視する仏教を黄、道教を青、儒教を赤で表現するために、一般信者は白い服だが、三派を代表する高僧はそれぞれの色の服を着用している。また三原色は旗のほか、内外装飾の基本的な色調も決めており、例えば、内部のバルコニー上部のデンティル風模様は、黄、青、赤のパターンが連続する。これは外界から完全に孤立した求道者のための空間ではない。ゆえにある程度、信者を増やした宗教建築がしばしばメディア的な性格をもっていたことを想起すれば、カトリックの大聖堂や江戸時代の仏教建築のように、俗世界と接続しつつ一般大衆にアピールするためのわかりやすいシンボリズムを装飾に多用することは不思議ではない。かつてゴシック建築は構造や空間だけの存在ではなく、彫刻と壁画、そしてステンドグラスによる光の図像を用いて、自らを石化した聖書に変えていたはずだ。

1──大寺院の正面 筆者撮影

1──大寺院の正面 筆者撮影

2──正面玄関の装飾 筆者撮影

2──正面玄関の装飾 筆者撮影

3──透かし窓の聖眼URL=http://www.library.usyd.edu.au/~tdao/thienntg.jpg

3──透かし窓の聖眼URL=http://www.library.usyd.edu.au/~tdao/thienntg.jpg

二元性の空間

大寺院は奥行きの長い建物であり、側面の回廊にはゴシック風(あるいはイスラム風?)の尖頭アーチが連続しているが、基壇は後ろにいくにしたがって、少しずつ上昇しており、それに伴い、手すりから屋根までをズラして構成を明快に示している[図4]。これは内部にも反映されており、高くなっていく九段の床面があり、天国に至る九つの段階を示しているという。土足厳禁の内部空間で信者はいつもひざまずきながら祈っており、ちょうど段差にあたる部分では、龍の巻きついたピンク色のねじれ柱を左右ペアにして配し、真ん中五段目の柱はモスクのミンバルのように、階段付きの説教壇をもつ[図5]。ちなみに、柱は二列あり、内部をやや高い身廊と側廊の空間に分割し、全体的に青い天井は身廊部分が(夜間に光る?)星と雲の絵を散りばめた疑似的な交差ヴォールトの連続、側廊部分が平らになっている。おそらくゴシック建築の構成が参考にされたのではないだろうか。また身廊天井の丸いパネルや、側廊天井のメダイヨンは、中国の宮殿建築のそれを思わせる。内部空間には張り出したギャラリーを全体に巡らせてあり、礼拝時に見学者はここに追いやられるが、それを支えるように黄色い壁から斗供風の装飾がとび出ている。そして内陣にあたる一番奥では、八つの柱が天国を示すドームを支えつつ、その下に聖眼をもつ青い球体を置き、このまわりを歩けるようになっている[図6]。これは内陣に周歩廊をもつ巡礼路の教会を思わせるだろう。この手前には七つの椅子があり、中央にカオダイの最高指導者が座る。一方、内部空間の反対側、すなわち入ってすぐの場所に、これと向きあうように半円形の階段状ステージに三聖人が祭られている。
大寺院のファサードには三つの入口がある。中央が僧侶用のもの(誤って見学者がここを通ると厳重に注意される)、向かって右側の塔に男性信者、左側の塔に女性信者のための入口を置く。一日四回の礼拝(六時、一二時、一八時、二四時)は、イスラム教と似ているが、その際、内部空間は見えない中心線で分かれ、男性は右側、女性は左側に集合し、同じ純白のアオザイを着用した両者は前後を向いたり、お互い向き合ったりする。礼拝がないとき、この分割線はそれほど厳密ではないし、見学者は礼拝時でもこの性差の空間を受け入れる必要がない。また側廊にはみ出る信者には子供が多く、中央にいる信者よりも、階級が低いようだ(見学者は身廊部分に入れない)。なお、床面には丸い模様のパターンが続くのだが、礼拝時に信者の立つ位置がこの真上と決まっているために(ズレている信者は注意されていた)、全員が整然と並ぶ[図7]。そして側廊に沿って一周するとき、左側の女性は時計回りに、右側の男性は反時計回りに歩くことがあるという。ただし、男女による空間の分離は、最高指導者が男性のみに規定されているものの、基本的には両者の平等も意味しているが、後でみるシェーカー教のように、独身主義につながっているわけではない。空間の二元性は、カオダイ教が陰陽思想も導入していることにも起因しており、例えば、祭壇に捧げる二つの蝋燭は男/女=陽/陰を、五本の線香は金、木、水、火、土の五元素を示す★七[図8]。こうした原則は海外の教会でも採用されており、シドニーの双塔をもつカオダイ教の寺院は、一階をキッチンや洗面所、二階を礼拝の空間にあてているが、階段は左右に二分割し、上階は祭壇を両側に置いて前後に二分割している★八。

4──大寺院の側面筆者撮影

4──大寺院の側面筆者撮影

5──大寺院内部の列柱筆者撮影

5──大寺院内部の列柱筆者撮影

6──大寺院内部奥の球体筆者撮影

6──大寺院内部奥の球体筆者撮影

7──礼拝の風景 筆者撮影

7──礼拝の風景 筆者撮影

8──祭壇 URL=http://www.library.usyd.edu.au/~tdao/thienba.jpg

8──祭壇
URL=http://www.library.usyd.edu.au/~tdao/thienba.jpg

祖型の反復

ホーチミンからタイニンへ車で向かうと、約四〇分を過ぎた頃から、道路沿いの町や村で多くのカオダイ教の寺院に出会う。筆者は約一〇件を目撃したが、その多くは手前に三つの入口のある門を備えた、パゴダ風の双塔をもつ黄色い寺院であり、大寺院を縮小コピーしたような構成になっている[図9]。この影響関係は疑う余地がない。祖型を正確に反復しようとするがゆえに、各寺院はきわめて類似している。日本の天理教や金光教の地方教会も様式的な統一性をもつが、本部教会との形態的な差異が(ヒエラルキーを示すためにも)はっきりしており、単に縮小したものではない。かつての金光教のように、おそらく地方寺院の建築について、何らかの内部規定があるのではないだろうか。ただし、カオダイ教の地方寺院のすべてが双塔形式ではなく、全体印象は似ているとはいえ、塔がひとつしかないものも存在していた。カオダイ教の勢力範囲を考慮すれば、当然のことであるが、地方寺院はとりわけタイニンに集中しつつ、ヴェトナム国内では基本的に南部から中部に点在し、北部にはほとんどない。
国内で二番目に大きいとされる、ダナンのカオダイ教寺院を見てみよう[図10]。この寺院は一九五六年に建設された。全体のプロポーションは横方向に広いが、やはりパゴダ風の双塔形式である。大寺院に比べて規模が小さい分、装飾はかなり省略されており、すっきりした印象をあたえるだろう。内部には段差がなく、柱列を形成する程の柱はない。ただし、男女の入口を左右に、空間を身廊と側廊に分け、床面に丸い模様のパターンを配し、奥の壇上には天眼をもつ青い球体が祭られている[図11]。したがって、空間の核となる部分の構成は保持しているのだ。またその数は多くないが、カオダイ教の不遇の時代に海外へ流出した信者によって、海外にも幾つかの寺院が建設された。現在、アメリカに二三、カナダに五、オーストラリアに六つのほか、イギリス、フランス、ドイツ、そして日本に宗教活動の拠点がある★九。例えば、カリフォルニアには約二〇〇〇人の信者が存在し、五〇〇万ドルをかけて「複製を建設するプロジェクト」が進行中だという★一〇[図12]。完成予想図を見る限りでは、ほぼ同じ形態であると言ってよい。

9──タイニンへ向かう途中の寺院筆者撮影

9──タイニンへ向かう途中の寺院筆者撮影

10──ダナンの大寺院 筆者撮影

10──ダナンの大寺院 筆者撮影

11──ダナンの大寺院内部

11──ダナンの大寺院内部

12──カリフォルニアのカオダイ教寺院完成予想図 URL=http://www.caodai.org/images/Plant.gif

12──カリフォルニアのカオダイ教寺院完成予想図
URL=http://www.caodai.org/images/Plant.gif

装飾とキリスト教──インターミッションに代えて

ヴェトナムはフランスの植民地になっていたために、カオダイ教が吸収したキリスト教はカトリックだった。よく知られているように、キリスト教の諸派の中でも、比較的にカトリックは装飾に寛容であり、具象的な装飾に包まれたロマネスク・ゴシックの芸術を生みだし、一六世紀後半からはプロテスタントに対抗するために、反宗教改革として華麗なるバロック芸術を発展させた。絵画・彫刻を含む、建築を中心とした総合芸術は、ローマ教会の威光を信者に示し、カトリックの教義をわかりやすく視覚化するのに恰好のメディアだったのである。そうした意味ではカオダイ教の建築が、カトリックの大聖堂の構成と類似し、装飾を多用するのは当然のことなのかもしれない。
細部に神は宿る。たとえば、一九世紀にカトリックに改宗した情熱的な建築家のピュージンは、中世は良き時代であり、ゴシックこそは最もキリスト教の精神を表現しえた建築様式とみなしていた。彼はゴシック・リヴァイヴァルの国会議事堂のディテール設計で知られているように、異常なまでのこだわりをもって装飾をデザインした★一一[図13]。また必ずしもカトリックへの信仰が駆り立てたものではないにせよ、評論家のジョン・ラスキンは、『建築の七燈』(一八四九)において、中世の教会建築をとりあげ、虚偽の装飾を批判するなど、細部の倫理性をめぐる思索を展開した。当時のイギリスでは、こうした宗教建築へのまなざしから、装飾は単に付加的なものではなく、重要な意味をもっていたのである。
対して、宗教改革を推進したプロテスタントは、ルターが形骸化した制度を廃する「見えざる教会」を説いた。そして世俗に妥協しすぎたカトリックに反旗をひるがえし、教会は豪華絢爛である必要はなく、信者が集い、説教を行なう場所としてさえ機能すれば十分であると考えた。両派の教会建築の装飾に対する考え方の違いは、相互の批判の過激化に伴い、プロテスタントがしばしばカトリックの教会の聖像や聖遺物の破壊を行なったり、既存の教会が改革派のそれに転用されると、祭壇や聖像、ステンドグラスを除去し、代わりに説教壇とそれを囲む座席を導入したことからもうかがえるだろう★一二。そもそも出版メディアを積極的に利用したプロテスタントは、装飾におおわれた聖書としての大聖堂を必要としなかった。たとえば、あるカルヴァン派教会では、鐘やオルガンもなく、また男女の席は分かれていた。そしてカトリックが華美になるのに対し、プロテスタントは簡素な教会を建設する。これは宗教の原初的な状態への回帰ともいえるし、プロテスタントのほうがより自意識をもって信者になることを選択した共同体であるからこそ、余計な要素の排除が可能になったのかもしれない。マックス・ウェーバーは、プロテスタンティズムの行動原理を論じながら、「まじめな質実よりも、むしろ不潔な優美を愛好し、虚飾と外観とを誇る中世騎士の壮麗さに対立して、彼らは市民的な『家庭』の、清明にして健康な居心地のよい生活を理想と定めたのであった」し、「宗教上では直接的には重要視されない文化財に対する態度も、懐疑的で、往々にして敵意をいだくことさえもあった」と指摘している★一三。

13──イギリス国会議事堂チャールズ・バリー基本設計、細部はピュージンの担当筆者撮影

13──イギリス国会議事堂チャールズ・バリー基本設計、細部はピュージンの担当筆者撮影

工場のような宗教空間

本稿の後半では、プロテスタントから分派を繰り返して現われたシェーカー教の建築を見ることにしよう。ちょうどカトリックを引き込んだアジアのカオダイ教と好対照をなす事例として。もちろん、性差の空間や祖型の複製の比較も興味深い。シェーカーについては、前号の本誌で岡崎乾二郎氏が論じたばかりなので、やや重複することになるが、まずは基本事項を記述しておく。シェーカーは、一八世紀後半にイギリスの工場で働いていたアン・リーが創始し、神の啓示を受けて、一七七四年に信者と共にアメリカへ渡った移民宗教である。彼らは俗世界から離れた独自のコミュニティを営み、一九世紀前半には全米で二〇近くの共同体が存在し、最盛期は約六千人のメンバーが暮らしていたが、一九世紀後半より衰退の道をたどり、現在は数人しか残っておらず、ほぼ消滅しかけている。その発明的な家具のデザインは高い評価を得ており、特にシンプルさや有用性の美は近代の機能主義を予見しているかのようだ。これは家具だけの問題ではなく、一般的に建築も装飾を排した簡素なデザインになっている。
一八四二年、小説家のチャールズ・ディケンズはニューレバノンのシェーカー教徒の村を訪れ、以下のような感想を書き記している。「私たちはいかめしい部屋に入ると、そこには幾つかのいかめしい帽子がいかめしい止めくぎに掛かっていて、いかめしい時計が厳しく時間を告げていた」、と★一四[図14]。そしてディケンズは硬い椅子の背もたれを軽蔑し、シェーカーの空間を面白味のない単調なものと考え、その住居をイギリスの工場や物置にたとえていた。いわば一九世紀のサティアンなのであるが、シェーカーには様式が欠けているといった反応は、むしろ同時代のイギリス人に典型的なものだったに違いない。なぜならば、当時のイギリスは、まさにリヴァイヴァリズムの全盛期であり、様式と装飾の百花繚乱に見慣れた目にとっては、教会にあたるシェーカーのミーティングハウスでさえも、味気ないものに映ったであろう。とりわけ、イギリスのゴシック・リヴァイヴァルは、前述したように、装飾的なディテールに並々ならぬ情熱を注いでいたのだから。
なぜシェーカーは華美な装飾を避けたのだろうか? 生活が貧しかったからではない。少なくとも、教団が拡大していた一九世紀前半には、労働の生産性を高めており、余剰な労働力を装飾に費す可能性は十分にあったはずだ。おそらく理由のひとつは、シェーカーが都市から離れた生活環境を選び、建築そのものを布教のメディアにするつもりがなかったことにあるだろう。ゆえに、基本的には強い意志をもって信者になった人しか建築に接しないのだから、建築を通して教義体系をわかりやすく視覚化する必要はない。むろん、独身主義の教団はしばしば孤児を引き取っていたが、彼らが成長すれば、自らの意志で共同体を去ることができたのである。そして何よりも、プロテスタントの系譜にあるシェーカーの教えが、宗教空間に大きな影響をあたえたのではないだろうか。

14──シェーカーの男性教徒の部屋、1880W. Fischer, Die Shaker, Munchen, 1974.

14──シェーカーの男性教徒の部屋、1880W. Fischer, Die Shaker, Munchen, 1974.

 

規律と細部

アン・リーの亡き後、一八世紀末からジョセフ・ミッチャムとルーシー・ライトの男女の指導者が教団の中心になり、身を震わせて踊るシェーカーの熱狂的な行動は秩序化に向かう。一九世紀初頭には幾つかの文書が作成され、なかでも『至福千年期の戒律』(一八二一)の一八四五年版はデザインに関わる規定が記されていた。以下にその内容を紹介しよう★一五。
「単に装飾のためだけの玉縁、モールディング、コーニスを信者は作ってはいけない。奇妙で気まぐれな建築様式も、普通の建物から大きく逸脱した様式も、信者は使ってはいけない。……居住空間においては、可動性の家具にのみニスの光沢仕上げを用いてよい」。さらに長老会の認可がなければ、新しい流行をデザインに取り入れてはいけない。また納屋や諸施設は深い赤などの暗い色、居住施設や作業場は少し明るい黄色やクリーム色、礼拝の中心となるミーティングハウスは白色(塗料が高価だった)に塗るよう指示している。家具については、「寝台は緑色に塗らねばならない。快適なものは慎み深い色がよい。外に広がる毛布は青と白であるが、チェックやストライプにしないこと。……老人が住むのでなければ、揺り椅子は部屋にひとつで十分である。もし望むならば、ひとつの机、一個か二個のスタンド、ひとつのランプが木造部分につくだろう。……居住部屋、店舗、事務所には、地図、水路図、写真、絵画をかけてはいけない」とある。規定は居住者のふるまいに及ぶ。例えば、壁やベッドにもたれかけることや、直角を重んじ、対角線の方向に近道をすることを禁止したり、寝るときもまっすぐに横たわることを命じている。
『至福千年期の戒律』以外では、パンや肉は四角に切ること、斜め方向に皿を渡すのを控えること、まっすぐな垂直線の動きを奨励し、前屈みやうなだれないよう、直立して瞑想すべきことを記述しているのが興味深い。こうした規律を守らせるために、あるコミュニティでは、礼拝を見張るのぞき穴をミーティングハウスに作ったり、屋根の上に監視塔を設けることさえ行なった。ほかによく引用されるシェーカーのアフォリズムとしては、「すべての物を秩序のもとに置きなさい。天国の法を守るように。そしてあなたを守ってくださるシオンの秩序を守りなさい」、「美は有用性に宿る。高い利用性を持つものは、同時に偉大な美を有している」、「自分の部屋をきれいにしておきなさい。良い霊魂は汚れた場所には住まないから。天国にはチリやホコリはないのだから」などがあげられよう★一六。
かくしてシェーカーは、整然とした建築と配置計画を生む[図15]。一八七五年、ニューレバノンの指導者フレデリック・エヴァンスは、美しい建築的な効果を考えたらどうでしょうかと聞かれて、次のように答えている★一七。「そうした美は非常に馬鹿げている。われわれには関係のないことだ。聖なる人間は、家屋や日常生活において、美と呼ぶようなものに金を浪費すべきではない。この世には飢えた人々がいるというのに」。彼らのこのエコノミーの原理は、道路から見える面は白い羽目板を用いながら、背面は塗装しないこけら板の建物にもうかがえる[図16]。これは「隠れた部分だからといって装飾をやめてはいけない」と語る、ラスキン流の美学からは許されないだろう★一八。

15──1845年にヨシュア・ビュセッルの描いたメイン州アルフレッドのシェーカー村 Shaker Village Views, 1987.

15──1845年にヨシュア・ビュセッルの描いたメイン州アルフレッドのシェーカー村 Shaker Village Views, 1987.

16──メイン州サバスデイ・レイクのハーブ・ハウス、1824 J. Sprigg, Shaker, Houghton Mifflin, 1987.

16──メイン州サバスデイ・レイクのハーブ・ハウス、1824 J. Sprigg, Shaker, Houghton Mifflin, 1987.

複数のシェーカー

戒律が明文化される以前、教団の創生期に各地で設計を担当したモーゼス・ジョンソンによるニューハンプシャーのミーティングハウス(一七九二)が、一七八六年に建設されたニューレバノンのそれを複製したことがある[図17]。最初に整えられたニューレバノンの建物を模範とし、正確にまねることが意識的に目指されたのだ。基本的に一八世紀の新世界の建築は、ヨーロッパの同時代建築の影響を受けつつ、現地のヴァナキュラーな要素を取り入れていたが、シェーカーもその例外ではなく、エンフィールド・ハウスなどは古典主義の雰囲気を残している[図18]。こうした土台が宗教的な生活のプログラムによって変形させられ、無駄な装飾を忌避する戒律によって純化され、教団に独自の空間を生みだす。家具を含む諸々のデザインが高い水準を誇るのは、子供の頃からシェーカーの空間に育った第一世代が中心になる、一八二〇年代から一八六〇年代までのことであった。
特に住居棟は、男女平等・独身主義を徹底させるために、建物の内部に見えない境界線を引き、左右対称の計画を行なった。ゆえに信者は別々の扉を使い、別々の階段を使う[図19]。だが、廊下の真ん中に物理的な障壁が設けられているわけではなく、扉がひとつの場合、通る時間をズラし、階段がひとつの場合、先に男が使用し、女性の足首が見えることのないようにする(また学校が小さければ、夏期を女子、冬季を男子にわりあてた)。いささか奇妙なプロポーションの窓がシンメトリックに並ぶ、建物の外観はこうして導きだされたのである。例えば、ウィリアム・デミングの設計した六階建ての住居棟は、約一〇〇人が住み、五、六階を屋根裏の倉庫、三、四階を居室部分、一、二階を台所や食堂などに用いていた。シェーカー教は、男女はおろか黒人も平等に扱う、一九世紀としては先進的なユートピアを試みたのだが、家事や日常生活に関わる発明品を次々と考案したのも、労働の負担を軽くして、実験的な地上の天国を成功させたかったからではないだろうか。
なるほど、戒律に記されたように、何々してはいけないという否定形は、シェーカーの空間を特徴づけるだろう。しかし、それだけがシェーカーではなかった。アメリカ東部にコミュニティが点在していたために地域性があり、ケンタッキーやオハイオの建築は、マサチューセッツ州周辺のものとはかなり違っている。普通、シェーカーは木造が有名だが、前者は木の少ない土地柄ゆえに煉瓦や石灰岩で建設することを好み、後者は明白にヴィクトリア朝の装飾を導入した★一九。実際、一九世紀後半に戒律は緩くなり、一九世紀末から二〇世紀初頭の建築には多くの装飾が導入されるようになる。ハンコックの村でも、増改築を重ねた後に、ヴィクトリア朝の装飾が加えられた建物があり、当時、五〇人をきった共同体が時代に乗り遅れまいとし、改宗者をひきつけようとしたのではないかと指摘されている★二〇[図20・21]。また村を訪れる旅行者が好むヴィクトリア朝の趣味を考慮して、やや装飾的なバスケットを製作することもあった★二一。すなわち、シェーカー教の近代化と終焉は、まさに細部のデザインに表われていたのである。

17──ニューハンプシャー州、カンタベリーのミーティングハウス、1792モーゼス・ジョンソン設計(右)ミニストリー・ショップ、1848(左:長老会の仕事場と居室)J. Sprigg, Shaker, Houghton Mifflin, 1987.

17──ニューハンプシャー州、カンタベリーのミーティングハウス、1792モーゼス・ジョンソン設計(右)ミニストリー・ショップ、1848(左:長老会の仕事場と居室)J. Sprigg, Shaker, Houghton Mifflin, 1987.

18──エンフィールド・ハウス(手前:移築したもの)M. Horsham, Shaker Style, JG Press, 1989.

18──エンフィールド・ハウス(手前:移築したもの)M. Horsham, Shaker Style, JG Press, 1989.

19──ケンタッキー州サウス・ユニオンの住居棟の二重階段、1824 M. Horsham, Shaker Style, JG Press, 1989.

19──ケンタッキー州サウス・ユニオンの住居棟の二重階段、1824 M. Horsham, Shaker Style, JG Press, 1989.

20──マサチューセッツ州、ハンコックのトラスティーズ・オフィス 改築前、主要部分は1790年代の建設 URL=http://www.hancockshakervillage.org/bldgs/gfx/trhsOld.jpeg

20──マサチューセッツ州、ハンコックのトラスティーズ・オフィス 改築前、主要部分は1790年代の建設
URL=http://www.hancockshakervillage.org/bldgs/gfx/trhsOld.jpeg

21──マサチューセッツ州、ハンコックのトラスティーズ・オフィス 1895年の改築URL=http://www.hancockshakervillage.org/bldgs/gfx/trhsNew.jpeg

21──マサチューセッツ州、ハンコックのトラスティーズ・オフィス 1895年の改築URL=http://www.hancockshakervillage.org/bldgs/gfx/trhsNew.jpeg


★一──『SD』一九九六年三月号、特集=ベトナム建築大博覧(鹿島出版会)。
★二──田野倉稔「『最後の社会主義国』の新興宗教、カオダイ教」(『Bart』一九九六年五月二七日号、集英社)。
★三──Robert Storey, Daniel Robinson, Vietnam, Lonely Planet, 1997.  また『nmp』(一九九八年八月七日号)ではカオダイ教の写真(島尾伸三撮影)が紹介された。URL=http://www.dnp.co.jp/museum/nmp/nmp_j/photos/980807/photextfrm.html
★四──G. Gobron, History and Philosophy of Caodaism, Saigon, 1950.
★五──URL=http://www.library.usyd.edu.au/~tdao/
japanvn.htm
★六──G. Gobron, op.cit.
★七──URL=http://www.library.usyd.edu.au/~tdao/
caodai.htm
★八──C. Hartney “Performing Dualism: Experiences of Caodaism”, URL=http://www.library.usyd.edu.au/
~tdao/dualism.htm)
★九──URL=http://www.library.usyd.edu.au/~tdao/
centres.htm
★一〇──http://www.caodai.org/active.htm
★一一──M. Trappes-Lomax, Pugin, Sheed & Ward, 1932.  鈴木博之『建築の世紀末』(晶文社、一九七七)。
★一二──O・クリスタン『宗教改革』(木村恵一訳、倉元社、一九九八)。
★一三──M・ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の『精神』」(『世界の大思想3  ウェーバー』阿部行蔵訳、河出書房新社、一九七三)。
★一四──J. Sprigg, By Shaker Hands, Univ. Press of New England, 1990. や、J. Sprigg, Shaker Design,
Whitney Museum of Art, 1986.  を参照。
★一五──D. Hayden, Seven American Utopias, MIT Press, 1976. や、E. D. Andrews, Shakaer Furniture, Dover, 1937. を参照。
★一六──『シェーカー・デザイン──ハンコック・シェーカー・ヴィレッジ所蔵作品展』(セゾン美術館カタログ、一九九二)。
★一七──D. Hayden, op.cit.
★一八──J. Ruskin, The Seven Lamps of Architecture, Dover, 1989.
★一九──J. Nicoletta, “The Shakers”, Jsah, 1996, Mar.
★二〇──URL=http://www.hancockshakervillage.org/
bldgs/trustees.html
★二一──G. Kennedy, Shaker Baskets & Poplarware, Berkshire House, 1992.

*この原稿は加筆訂正を施し、『ビルディングタイプの解剖学』として単行本化されています。

>五十嵐太郎(イガラシ・タロウ)

1967年生
東北大学大学院工学研究科教授。建築史。

>『10+1』 No.16

特集=ディテールの思考──テクトニクス/ミニマリズム/装飾主義

>岡崎乾二郎(オカザキ・ケンジロウ)

1955年 -
造形作家、批評家。近畿大学国際人文科学研究所教授、副所長。

>鈴木博之(スズキ・ヒロユキ)

1945年 -
建築史。東京大学大学院名誉教授、青山学院大学教授。