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善悪の彼岸──OMA/レム・コールハースのディテール | 上原雄史+塚本由晴
Beyond "Good and Bad": Detail in OMA/Rem Koolhaas | Uehara Yushi, Tsukamoto Yoshiharu
掲載『10+1』 No.16 (ディテールの思考──テクトニクス/ミニマリズム/装飾主義, 1999年03月発行) pp.80-89

細部・ディテール・納まり

塚本由晴──OMAレム・コールハースのディテールは、安っぽいとか、素人だとか、長持ちしそうもないとか、結構悪い評判を聞くけど、逆にこんなに簡単でいいんだとか、脈絡なしでいいんだという自由をそこに感じることもできる。彼の場合、ディテールというものの捉え方がいままでの建築家と違うのだろう。現代芸術に深い影響を受けているようにも見えるし、インテリアなどには映画的とも言えるディテールが見られる。実際にコールハースといっしょに働いたこともあるし、オランダの生活も長い君は、その辺をどう考えるのか?
上原雄史──OMA/レム・コールハースのディテールというのは実際体系づけて話せるほど整頓されているのかな。そもそもOMAの建築にディテールという概念領域が存在するのかどうかを確かめようじゃないか。OMAのディテールを時系列に並べてみると、ブリコラージュ的な構成であったダンスシアターから、脱構築的なクンスタル、不一致な一致を思わせるダラヴァ邸、巨大で認識の臨界を謳うコングレクスポ、詩的なボルドーまで全体の意味がかなり変貌しているだろう。そういう変動する「全体」の後を追っかけるかたちでディテールはできあがっていたと思う。つまりOMAの構想を強制するように、技術の適用という社会的な統制が関与する部分に、建築のディテールが位置づいている。ところが家具の選択やインテリアの意匠は逆にコールハースの発想が出発点だ。筏に乗ったグループをウェルフェアアイランドのホテルに導いてゆくシーンや[図1]、マンハッタン島のホテルで逢い引きするシュールレアルなクライスラーとエンパイヤのレンダリングなど、その発想はかなりナラティヴで逞しい。ただ彼は技術的な問題をこういった発想に取り込めなかった。初期の全体は確かにブリコラージュ的だから、同じくディテールもブリコラージュしていたんだと思う。
塚本──いま出た問題は、建築の全体とディテールの問題。それからOMAの建築構想と社会化された技術の衝突の問題。さらにいわゆる詳細図に描かれるようなディテールではないけれど、家具やインテリアの映画的とも言えるナラティヴなディテールの問題。どれも面白い題材だから、順に検討していくことにして、手始めにナラティヴなディテールから始めるのはどうだろう。

1──ウェルフェアアイランド・ホテルのインテリア 引用出典=Rem Koolhaas, Derilious New York, Oxford University Press, 1978. 難破と無人島という一対の主題に基づく劇場とナイトクラブ/レストランのインテリア。水没したフロアは外の川とつながり、柱は灯台に見立てられ、ステージは沈没船の外殻を割って作られている。2000人の客が水際のテラスでショーを見物しながら食事を取ることができる。水面下の軌道によって運行される救命ボートにはビロードのベンチと大理石のテーブルが装備され、天候が許せば外の水面へと乗り出すこともできる。

1──ウェルフェアアイランド・ホテルのインテリア
引用出典=Rem Koolhaas, Derilious New York, Oxford University Press, 1978.
難破と無人島という一対の主題に基づく劇場とナイトクラブ/レストランのインテリア。水没したフロアは外の川とつながり、柱は灯台に見立てられ、ステージは沈没船の外殻を割って作られている。2000人の客が水際のテラスでショーを見物しながら食事を取ることができる。水面下の軌道によって運行される救命ボートにはビロードのベンチと大理石のテーブルが装備され、天候が許せば外の水面へと乗り出すこともできる。

ナラティヴ

上原──例えば建築を離れてディテールや細部の意味するものが、建築でいう納まりとは全く異なっていることがある。文学でいうディテールは人の顔の皺や、目や唇の特徴などを(本論に付加して)詳細に記述することを意味していて、これは洋の東西を問わないな。細かな意匠を意味する細部がこれに近い考え方であるのに対して、技術の体系としての納まりがこれと全く異なった様相なのは気になるよね。技術の体系としてのディテールが近代建築においてこの三つ(納まり、細部、ディテール)を総称するようになったのは、近代建築が装飾性を否定したからだし、機械を作り上げる技術の美学が近代人の意識を揺さぶったからだろう。
塚本──映画の中にも、ストーリーの展開上必ずしも必要ないが、それがあることで映画の全体がストーリーを伝えるという目的に従属するのではなくて、映像の修辞学へと開かれていったり、ストーリーを超えた世界観が現われるようなものがある。例えば『スター・ウォーズ』のミレニアムファルコン号が中古だったりね。映画というのはロケハンして、小道具を集めて作るわけだから、全く新しいものというよりは、すでに文化的な意味を背負ったものを編集していくわけだ。コールハースにもそういうところがあって、近代建築とか都市文化や現代美術などからいろいろなアイテムを引いてくるけど、決して「オマージュ」とか「信仰」といった印象を与えないように扱っているし、「そうでなくてはならない」というものでもない。クンスタルのガラス床は、ル・コルビュジエのメゾン・クラルテ? あるいはヴェンダースの映画『ハメット』? 丸太の手すりは『ツイン・ピークス』? カフェのネオンはフォンタナ? 等々、集められたものが勝手な連想を引き起こすけど、そこに脈絡があるのかどうかもわからない。公園の樹木が内部に連続するように柱が樹皮巻で表現されているとか。
上原──さまざまなガラスや黒い天井に斜めにつけられた蛍光灯という「細部」に支えられている。
塚本──ペンキ塗のサインが道路標識を模しているなら、多色椅子は街にあふれる車か!(笑)[図2]。コングレクスポ一階のクローク・ルームの天井に吊られた蛍光灯は、カバーも台もはずされて裸にされていたけど、あれはクローク・ルーム=脱ぐことの連想?(笑)。ネクサスの中庭に入る扉もスチール・メッシュのフラッシュ扉の中に分解されたインターフォンとか蛍光灯とかポストが宙吊りにされていた。
上原──「きれいなものを買ってつけよう」というカタログ&マウントは彼の方法論ではない。
塚本──カーテンも凝っている。クンスタルがミース+ライヒのシルク・アンド・ベルベット・カフェで、コングレクスポがマチス[図3]。ダラヴァ邸の金色のカーテンは何?
上原──あれは居間のガラスハウスがひとつ目の住宅であると物語っているわけ。夫婦の寝室は銀の外装、子供の寝室が銅。居間は金。
塚本──うそだろ?(笑)。でもどうしてこんなふうにいろいろな意味を投入するのだろう。しかもそれらはひとつの像を結ぶわけでもなく、むしろナンセンスとも言える。

2──クンスタルのオーディトリアム 引用出典=El Croquis 53, El Croquis, 1996. 道路標識のようなサイン、多色の椅子の列、連続するスロープ。路上の喧騒が内部化されている。

2──クンスタルのオーディトリアム
引用出典=El Croquis 53, El Croquis, 1996.
道路標識のようなサイン、多色の椅子の列、連続するスロープ。路上の喧騒が内部化されている。

3──コングレクスポのカーテン 引用出典=O.M.A./Rem Koolhaas and Bruce Mau, S,M,L,XL, 010Publishers, 1995. コングレスのロビーとゼニス(コンサートホール)のステージ上部を繋ぐ扉にかかるカーテンは高さ6m幅31mもあり、手形があしらわれている。テレビ取材に応えるコールハースの手がこれに呼応するところを捉えた写真。

3──コングレクスポのカーテン
引用出典=O.M.A./Rem Koolhaas and Bruce Mau, S,M,L,XL, 010Publishers, 1995.
コングレスのロビーとゼニス(コンサートホール)のステージ上部を繋ぐ扉にかかるカーテンは高さ6m幅31mもあり、手形があしらわれている。テレビ取材に応えるコールハースの手がこれに呼応するところを捉えた写真。

穴埋め

上原──たとえばダンスシアターの「金の柱」を考えてみよう。レム自身が出費してできた「美的ディテール」で、ホワイエを巡るシークエンシャルな内部空間の最終部分。金の柱を正面に打ち出す背景には、彼が建築を始めた頃の視線がある。若い頃彼はオランダを離れた。それ以来オランダという文脈に批判的で、一方で「オランダ」を黙示録的に扱っている。なぜかというと、七〇年代オランダはヒッピーに占拠されて建    築学部でさえ「建築家ル・コルビュジエの功罪」をテーマに学生に論文を書かせていた。当時は社会的にも建築家が由とした決断への懐疑心が旺盛だったけど。これを彼は鵜呑みにせず建築に向かった。つまり建築家が技術的な側面に集中するあまり、建築が建築以外の意味体系と結び付いてしまうことに気づかないできたことへの半鐘なんだ。
塚本──建築が予期せぬ意味体系がなだれ込んでくる場になっているのに、建築家がそれに無頓着だということに苛立っていると。建築が外部的な意味体系に結び付くことが不可避である以上、自ら意識的に任意の意味に結び付けてしまったほうがまし、ということか。
上原──任意と言うより「作者の意図する」ということだ。つまり意味体系としての建築にはスキマがあって、いろいろな意味がそれを満たしうるわけだけど、その穴埋めを自分であらかじめするわけだ。

ポストモダン

塚本──そういう穴埋めの材料のひとつとして、ある時期までのコールハースは近代建築のさまざまな意匠を、自由に取り出して閲覧し、利用することが可能なアーカイヴに見立てていた。しかもそれが映像的に、まるで好きな映画のワンシーンに見えるように工夫していた。そのことは、彼が過去の建築を照射したということになるのだろうか?
上原──そうだな、はっきり言ってそこにポストモダンな作家精神を指摘すべきだと思う。コールハースと言えばすでにさまざまな様式を無法に投入してゆく建築家といった理解が広まっているが、それは現象としてのポストモダニズムだ。彼の建築は近代の意匠を参照した引用体系としてのポストモダニズムとして全面的に理解されたということだろう。だが彼は過去の意匠のもつ歴史的な意味や文脈を操作しているのではない。特に彼は自分がオランダ人であることから結論を導くことを拒んでいる。だからオランダの過去を照射したというより、同時代として近代建築を見つめていると思う。オランダでも近代建築の登場過程でデュドックやダウカーが斬新なディテールを実現したけれど、彼にはこの歴史的なディテールを再生産することで現代性を露にする意図はない。
塚本──なるほど。そういえばそうだな。
上原──彼が初期にやろうとしたのは例えばダンスシアターの避難路として提案された、飛行機の非常出口のような機器。実現されなかったけど初期のOMAの建築によく登場する全体からは自律した部分機械だ。
塚本──本当? 飛行機の非常出口ってあのインフレートする滑り台?[図4]。
上原──そう。あれは彼の事務所が作り出した機器を代表している。建築と現代機器を野蛮に交配する試みを初期にかなりやっている。
塚本──ダッチハウスの居間から主寝室に続く廊下の跳ね橋でもウインチが宙に浮いているが。
上原──あれを跳ね橋と見れば、意外にリージョナルでメタフォリカルな細部という面白さがある。問題はこんな交配をなぜ発想するのか、なぜ関心があるのかということだ。こうした発想は職業的な新しさ、つまり建築の閉じた技術の体系に回帰することで意味をもつ部分機械を意味したわけではなくて、逆に共有されている「建築の常識」を、神話として照射する機械であって、同時に避難路の新解釈をした建築家の存在を支えている意味機械だと言ったほうがよい。OMAのディテールは、「過去の建築の体系」を意識的に無視している。これが鍵だ。彼のディテール制作は過去の「善悪」を超えて判断することが出発点で、技術的な不可能性そのものを逆用して全く新しいディテールを作り出す点にある。だから僕たちは彼の方法論の成功や不成功を見るに留まることもできるし、あるいはそこからどこかへ向けて出発もできるはずだ。
塚本──それはフラーやプルーヴェを彷彿とさせるけれど、彼等は機械に関心があったわけで、建築の方法論の不可能性に関心があったわけではない。コールハースは建築の方法で対処するのがそもそも理不尽なぐらいの状況を設定しようとしているわけだが、そこにOMAの建築構想と社会化された技術体系の衝突の問題がありそうだ。でも本当に「過去の建築の体系」を意識的に無視したと言えるのだろうか。

4──飛行機の非常出口 引用出典=『STUDIO VOICE』1998年6月号(インファス) 飛行機の非常出口。非常時に膨らんで滑り台のようになる。

4──飛行機の非常出口
引用出典=『STUDIO VOICE』1998年6月号(インファス)
飛行機の非常出口。非常時に膨らんで滑り台のようになる。

ディテールの産出

上原──OMAの建築では「建築はこう建てる」という見方を意識的に廃棄し、回避することから建築がスタートしている。これをどう評価するかが重要だ。肯定的な評価は建築という意味・形式体系をほかのそれと交配し既存の意味体系、例えば力の構図と格闘してゆくことを見つめることになるだろう。大切なのはなぜ「知の体系」を作家として継承しないのかという疑問ではないか。この回答がコールハースは過去を照射しない建築家であるという意図を証明するだろう。
塚本──コングレクスポの割れたようなカーテンウォールも[図5]、一般化されたものや流行のDPG(点支持構法)では嫌ということ?
上原──彼は繊細で弱々しいテンションが芸を呼び込むものだから嫌いなんだ。あれはガラスだってシングル葺きにできると意気込んだ細部。
塚本──「建築はこう建てる」という宣言が占める場はひとつの建物にひとつしかないわけだから、当然自分の建て方を主張するには、その場になだれ込んでくる余計な建て方をはね除けねばならない。工法の帰結としての納まりなどは生産システムの末端と言えるから、建築家がだまっていてもできてしまう。日本の木造在来なども、大工さんは図面見ないでどんどん作ってしまう。そういうことを建築の条件として意識することが重要だ。つまり過去の建築の体系から逃れたければ、逆説的にそれをよく知るという方法もある。あるいは全然違う建設の条件を作り出すしかない。ディテールが生まれてくる前提を変えるのだ。コールハースは後者のやり方だろう。ダラヴァ邸のやじろべえ柱とか、ボルドーの住宅の外に逃げていく鉄骨梁とか、たかが住宅に、不必要なまでに壮大な構造形式を持ち込むのはそういうことではないか。そこからダラヴァ邸では竹林のような九本のだまし柱が出たり、ボルドーではそれが地図へとアンカーされて、地図が建築の構成要素になる奇妙な細部が産み出されている[図6]。ディテールが新たに産出される仕掛けがそこにはある。少し別の次元で仕組まれたことによってディテールが結果的に産出されたり、されなかったりするのだ。ダンスシアターの避難出口もそこにきっと予測不能なディテールが産出されることを期待したと思う。建物の規模が大きくなるとやはり制約が大きいのか、過去の建築の技術体系がある程度なだれ込んでしまっているようだが、そこでもまた抵抗を試みている。例えば、コングレクスポの張弦梁のテンション部材を木製の板とし、それで天井の仕上げを兼ねてしまう。エデュカトリウムの講義室の天井にテンション材となる鉄筋を露出し[図7]、引っぱりの鉄と圧縮のコンクリートの複合というRCの原理を初めて視覚化したかのようなディテールとしている。

5──コングレクスポのカーテンウォール 撮影=塚本由晴 スラブから突きだした受け金具の列は階ごとにずれているので、これを繋ぐガラスのマリオンに傾きが生じる。またこのマリオンに支えられるガラス面は、マリオンの先端と付け根を結ぶように留められるので、これにも傾きが生じる。隣あうガラス面の傾きが交互に下向きと上向きになるようにこれを繰り返す。

5──コングレクスポのカーテンウォール
撮影=塚本由晴
スラブから突きだした受け金具の列は階ごとにずれているので、これを繋ぐガラスのマリオンに傾きが生じる。またこのマリオンに支えられるガラス面は、マリオンの先端と付け根を結ぶように留められるので、これにも傾きが生じる。隣あうガラス面の傾きが交互に下向きと上向きになるようにこれを繰り返す。

6──ボルドーの構造スケッチ 引用出典=O.M.A./Rem Koolhaas, Living Vivre Leben OMA Rem Koolhaas, Birkhauser, 1998. ボルドーの住宅、構造スケッチ。階段室のコアに乗る鉄骨梁は天秤の竿として、3階部分の2枚のコンクリ一ト壁梁を吊っているが、支点(コア)が一方の壁梁側へ寄っているのでバランスが崩れている。これのバランスをとるために鉄骨梁を延長してその先端にさらに荷重が加えられた。これが中庭に埋められたカウンターウエイトである。

6──ボルドーの構造スケッチ
引用出典=O.M.A./Rem Koolhaas, Living Vivre Leben OMA Rem Koolhaas, Birkhauser, 1998.
ボルドーの住宅、構造スケッチ。階段室のコアに乗る鉄骨梁は天秤の竿として、3階部分の2枚のコンクリ一ト壁梁を吊っているが、支点(コア)が一方の壁梁側へ寄っているのでバランスが崩れている。これのバランスをとるために鉄骨梁を延長してその先端にさらに荷重が加えられた。これが中庭に埋められたカウンターウエイトである。

7──エデュカトリウムの天井 引用出典=El Croquis 88/89, EI Croquis, 1998. エデュカトリウム:露出した鉄筋による張弦スラブ。「ネズミ色をした液体に吐き気を催すような物質を混ぜたものが、厳密この上ないニュートン物理学の諸原理に基づく鉄筋構造によって支えられる。最初はこれ以上あり得ないほど柔軟な物体が、突如として岩のように固まってしまうのである」(コールハース:鈴木圭介訳)

7──エデュカトリウムの天井
引用出典=El Croquis 88/89, EI Croquis, 1998.
エデュカトリウム:露出した鉄筋による張弦スラブ。「ネズミ色をした液体に吐き気を催すような物質を混ぜたものが、厳密この上ないニュートン物理学の諸原理に基づく鉄筋構造によって支えられる。最初はこれ以上あり得ないほど柔軟な物体が、突如として岩のように固まってしまうのである」(コールハース:鈴木圭介訳)

事件

上原──こういう例は、OMAという設計集団について考えるうえでもおもしろい細部だと思う。エデュカトリウムの大講義室の天井の構造は「床スラブを四〇センチメートルに納めよ」というOMAの要求に応えて、構造設計者のロブ・ナイセがレムに対して提案したもの。コングレクスポの木製張弦梁は超低コスト建築の予算が全てコングレスに振り込まれ、ほかにすべがなく考え出されたものだ。そういった細部をOMAあるいはコールハースが作品化してゆくうえで内部化してゆくわけだが、建築化の過程での膨大な作業量がなぜああいった例外的な方向に向くのか、という部分に実は興味深い問題が隠されているのだ。ある建築を設計している者がひとりいてあとの者はそのひとりを助ける組織だという構成の廃棄がもたらす職能への影響はディテールに至るとも言える。
塚本──それは設計過程そのものを事件として表現しているのだ。つまり、その建築がどのような境界条件のもとに成立したのかをレポートする細部とも言える。人間でいえば尾<作字>てい</作字>骨のようなものだな。コングレクスポの食堂床に用いられたマーブル模様のセルフレベリングも、液体を流し込んで固体化させる施工過程をあえて事件に見立てたものといえそうだ。
上原──ほかにもある。例えばクンスタルのオーディトリアムの天井にある束になったTL照明器具は[図8]、柱があるべき部分にあって柱と同じ傾き方をしているのだが、それはオーディトリアムに機能上無柱空間が必要になり、彼が柱を途中で切って鉄筋の下弦材を加えてインテグラルなトラスとして梁を構成したことを物語るように、彼自身が念を押したものだ。これは問題を言語化していく途上で発見する方法だな。こういったディテールもまた、ある建築部分にナラティヴな価値を注入する意図で実現している。時系列で見るとやはり違いがあって、初期の建築ディテールに見られるナラティヴは隠し絵的な要素のある「証拠残し」に近い。例えばダンスシアターのコルゲートの外装板は屋根形状を縮小細部化しているし、音響反射板の中央に残された小さな鏡はレーザー光線を反射させて音響反射状態を調整した過程を物語っている。
塚本──建築を取り巻く偶然も含めた状況や条件をディテールに記録していくわけだね。ただしそこには現実を決定論的に受け止める姿勢は全くない。彼は設計という行為をつねに問題発見的なものとして検討している。

8──クンスタルのTL照明 撮影=塚本由晴 柱の痕跡を伝えるTL照明。後方の柱と連続して虚の柱列を構成している。

8──クンスタルのTL照明
撮影=塚本由晴
柱の痕跡を伝えるTL照明。後方の柱と連続して虚の柱列を構成している。

重層化

塚本──それは素人が初めて建築する時の驚きに似たものかもしれない。OMAという設計集団にあるアマチュアリズムにも通じるところだ。クンスタルのオーディトリアムにおけるコンクリート・パネルの小口見せ階段など、アート作品のような材料の乱暴な突き合わせだ。
上原──あそこには階段そのものが換気ダクトであり、光の漏れる穴が換気口であるというディテールがある。
塚本──複数の働き、複数のカテゴリー概念をひとつのオブジェに重ねる重層化のディテールだな。これもディテールの産出と言える。そういう設備を含んだディテールはほかにもあるのか?
上原──クンスタルの斜路中央に立つ柱には直径一五センチメートルほどの穴が開いていてひとつ目(照明)が入っている。この柱は、外部に露出して付加的な価値を与える照明器具をなくそう、ひとつの照明で内部と外部両方を照らそうという発想で生み出された。この穴が空気の循環路になって内外を断熱できないとか、環境のコントロールが上手くいかないといった話はモラリスティックに聞こえる。それからコングレクスポの二階ホワイエ部分のアルミ有孔波板の天井は、そのまま重ねることで五〇メートル四方に広がる天井が複雑なジョイントなしにスムーズな面を構成でき、しかも吸音・換気・照明をかねたスグレモノだ。

ポストモダンの抽象性

塚本──コールハースの建築では、古い/新しいとか、建築/美術とか、建築/機械といったカテゴリーが破棄されたかのように無関係なものがたくさん集められ、それらを混在させたり重ねたりする細部が見られる。このことはカテゴリカルな建築の体系の内部で作られた建築のディテールに、現代のコミュニケーションはないということを無意味的に表現しているとは思わないか。
上原──いや、建築を媒介とするコミュニケーションは、現代的な意味しか扱えないということじゃないか? 例えばいかに歴史的なモチーフを引用しても、私たちの前に現われるのはその現代的な価値だけだということだろう。現代人であることを意図する彼の収集活動は、全ての物事の現代的な価値のみを見つめているということだ。彼の作風は、現代芸術など建築以外の体系を参照する部分も多いし、そうすることでしか過去の建築の体系を参照せずに細部を構成することはできないのかもしれない。
塚本──それは、これまで慣れ親しんできたいわゆる「建築作品」的な統制がないとも言い換えられる。それゆえ、コールハースの建築には雑多なものがひとつの平面に載せられたかのような不思議な抽象性が漂っている。こういう見かけの違いやカテゴリーの違いを超えて物事を混在させることは一見非論理的に見えるけど、実はいままでのやり方に則った統制、例えば「キュビズムのキューブ」などは何も考えていないオートマチズムであることを考えれば、むしろ逆説的に論理的であるということになる。で、そういう建築家のひとりとして思い浮かぶのがミースだ。ボルドーの住宅で思い出したのは、ミースがある住宅のために作ったコラージュだ[図9]。そのコラージュは、天井と屋根の材料をコラージュするのではなくて、それによって切り取られるであろう窓の外の景色を切り抜き、その上に口ーズウッドのパターンやクレーの絵を貼りこんだものだ。サッシや十字断面の柱はシングルラインで描かれてはいるが、質感は与えられていない。つまり建築の要素はひとつも物質化されていない。貼り付けられた風景の上が天井、下が床だと理解できるのだが、そういう理解はこちらが投げ掛けているフレームに過ぎない。それに気付いてフレームをはずして見ると、コラージュでは天井にあたるところに絵が到達しているから、それが、上下二枚のスラブを支えているのか、それともこの絵がスラブに載せられているのかわからなくなる。反重力と言おうか。ボルドーの住宅では、ステンレス鏡面のコア、白い台に載せられた黒い水平材のオブジェ、斜めの扉など、普通に構造や建具だと理解できるものがないので、近代彫刻の愛好家が、コレクションをところどころに飾っているかのように見える[図10]。だが実はその「彫刻」が構造なんだ。僕にとってはミースのコラージュが引き起こした錯覚が、現実の建物でトレースされたように思えた。これは建築と彫刻の関係で見れば支えるものと支えられるものの転倒だし、コラージュによる錯覚を実体の建築で表現しているのならば、伝達するもの(コラージュ)と、されるもの(建築の空間)の転倒でもあることになる。こういう表象的なるものへの批判をさらに脱臼させるようなやり方は、ミースの鼻をあかそうということなのかどうかはわからないけれど、その背景にはカテゴリーによる統制を徹底的にはずしてしまわなければ見えてこない、自由な部分どうしの結び付きがあると思う。素材の組み合わせを何の統制もなく捉えるということだから、それは駄洒落や、冗談にもつながる世界だ。

9──ミースのコラージュ 引用出典=Mies van der Rohe, Welner Blaser, ed., Verlag fur Architektur, 1960. ラゾール邸(1938)のために作成されたミースのコラージュ。建築的な要素は物質化されておらず、外部の岩肌、絵、木製キャビネなど、孤立したオブジェの関係が主に描かれている。

9──ミースのコラージュ
引用出典=Mies van der Rohe, Welner Blaser, ed., Verlag fur Architektur, 1960.
ラゾール邸(1938)のために作成されたミースのコラージュ。建築的な要素は物質化されておらず、外部の岩肌、絵、木製キャビネなど、孤立したオブジェの関係が主に描かれている。

10──ボルドーの居間 構造らしきものが見当たらない居間。力学的なフレームが空間を規定する輪郭線になってしまうことを避けている。

10──ボルドーの居間
構造らしきものが見当たらない居間。力学的なフレームが空間を規定する輪郭線になってしまうことを避けている。

ミース解釈

上原──ミースはコールハースがよく参照する建築家ではあるけれど、実際彼は一般に理解されているようなミースの建築哲学を追いかけていないことに気付いたかい? 正統派ミース追従者はアイヤーマンだとかバンシャフトのような優れた建築家のほうで、コールハースは彼らのような矛盾のない線型な建築手法としてミースを参照しているのではないんだ。これに気が付けば過去を参照することについても自ずと新しい事実が浮かび上がってくると思う。つまり過去の建築のさまざまな属性をそのまま参照することはまずないということだ。ダッチハウスのグラスハウスにしても実現はしなかったけれど、建てられた鉄の柱の代わりにガラスの柱が考えられていたこともあった。これもロブ・ナイセの提案。君が引いた例もギリシア建築の形式体系内に存在する女性の人体を表現したカリュアティド・フェミニンを彼自身が引用しつつ当の建築体系のほうを廃棄する意図を露にしていると思う。ミースに関しては「建築から過去が消えている」という部分に価値を見出しているんだろう。例えば「新・サブライム宣言」★一で読んだ文脈じゃないかな。だからミースが建築を「構造の表現」として扱ったという評価は正しいと思う。けれども実際のミースは、ロビン・エヴァンスがバルセロナ・パヴィリオンを検証して指摘したように★二、実は構造原理の「表現」に関心があったわけで、物理的に重力を納める術としての「構造」に正直であることに関心があったわけではないという評価がコールハースのミースに対する評価を理解する助けになるだろう。例えばマイケル・ヘイズがNYのシーグラムの設計過程を読み解いたテクストでも現われるけど、ミースは現在シーグラムビル前庭にある二つの水面の代わりに、実は大きな彫刻を二体置こうと意図していた★三。ミースは一対のうねるような不定型な形態の彫刻の設置を意図していて、シーグラムビル設計の合間を縫って彫刻のヴァリエーションをほとんど無限にスケッチしている。建築が表現する「構造」と対立する何かを補充することを慎重に検討していたこのミースの姿は、これまでの均質性だけに関心があったとするようなミース理解を覆すものだ。ある矛盾する「全体性」あるいは「構造」を意識していた人だという評価だ。コールハースが見つめているのはそんなミースだ。言ってしまえばコールハースは建築の意味形式体系としての「構造」の表現を追求しているんだ。結局すべての矛盾する文脈・制約を十分に満足するだけ味わうといった基本的な態度が現われるのかもしれない(笑)。やっぱりポストモダンか!
塚本──ミースの建築は技術的な問題を掲げてもいたけれど、同時に純粋に「空間」という表現形式の発明を目指していたので、ミースの関心自体が過去の建築体系からの切断を意味していると言えるかもしれない。

空洞化

上原──コールハースにとってのミースとは建築表現の過去を消した、過去の建築家なんだ。でも依然として残る疑問は、彼の建築のサブテクストである、過去から自由になりたいという発想はどこから来るのかということだろう。批評的開拓者としての役割はまずカテゴリカルな価値判断をしないことから始まるとすれば、彼の意図はこう読める。「ディテールは、建築の新しい独創性にともない一回性が支配するものだ。過去の知識に頼らず、私たちの真実を見出しうるような建築・ディテールは構造化できるか。これをジャーナリスティックに構成することはどこまで可能か」。これは言ってみれば、世界を「白紙(タブララサ)」から再構築することを意図していて、事実設計過程で、建築の全体性をも揺るがすような巨大な問題を生み出してきた。ところが伝統的な納まりは細部を細部として扱う知識の集積だからここで対立や疑問が生じる。つまり「ディテールとは芸能の世界であり知識が支配している」といった世界観に真っ向から対峙している部分にコールハースのディテールがあるんだ。
塚本──芸ではなく事件としてのディテール。
上原──ようするに壮大な野心が生み出した「彼の建築体系」が「過去の建築の体系」と真正面からブチ当たってどうなったかという部分が、彼のディテールなんだ。もちろん彼は、設計の過程でディテールを、過去の建築体系がしたのと同じように位置づけることはしない。過去の建築のように建築家が扱う部材の接合方法として位置づけず、逆にこの部分を無化しようとする。こういった過去の方法は空洞だと言う。
塚本──確かにディテール表現には、「過去の建築の体系」をしっかりと踏襲しているのかを試す、踏み絵みたいなところがあって、それを引き受けた「やりやり」の(つくりこんだ)ディテールか、そこから逃れる「消す」ディテールの間で、ほとんどの建築家はあえいでいるような気がする。でもコールハースのは「彼の建築体系」と言えるのかどうかわからないが、そこから逃れているからこそユーモラスなんだろう。ところで、その「空洞」というのはいわゆる「消す」ことと何が違うのだろう?
上原──クンスタルで彼自身深刻に対処したのは建築の構成要素をできるだけ単一の幾何学形態として表現することで建築の意味体系が明快に彫塑的に表現されるということだった。例えばオーディトリアム内の傾いた柱が床スラブと出会う部分には、梁やフーチング、柱頭等いかなる建築的修辞も存在せずにあるのはその空洞のみである。石とガラスとリグリットとコンクリートの壁をつきあわせるディテールもそうだ。そういった裸の建築構成部材がぶつかりあって建築の意味をそぎ落とし、「形式的な構造」を露にしてゆく。過去にOMAが盛んに発表したスケッチを見ればわかる通りそれは白黒で物質性がない。「描かれた建築」が先にあって、物質化されるのはその後だ。つまりこのスケッチ構造が物質構造に衝突する部分にディテールがあるというわけ。
塚本──確かにスケッチからの想像は可愛らしいものだが、実際できてみるとグロテスクで、本当に裏切られたという感じを何度か味わった。この裏切りがまた驚きなんだが、それは建築の意味体系の明確化というより、事物の無媒介的な接合ということではないのか。緩衝地帯の排除、フレームの排除。アンソニー・カロが世界と彫刻の無媒介の出会いを意図して彫刻の台座をはずしたのと同じ考えだ。
上原──こうして隣接する部材の接合を納める術としてのディテールは、素材が持っている意味体系に置き換えられて素材そのものが細部を運ぶ媒介になった。例えば、エデュカトリウムではミースの好んだトラバーティンも黄色い水晶が結晶したものを用いているのだが、結局ミースを賞賛する余りトラバーティンもクリスタライズされてしまったというわけ(笑)。
塚本──でも、そういう何かをなくしてしまうディテールというのは、普通にやれば出てきてしまうものを技術的に欠如させることによって、逆にその存在を顕在化させるわけだから、やはり過去の建築体系についての知識ベースは要求されているわけだ。そうか、君が言う過去の建築体系を無視しているということは、つまり虚像として過去の体系を構造化しているということになるのではないか? 虚というのは場がないと浮き上がれないし、建築の技術体系というのは規模によっても変わるから、例えば彼が示した〈S,M,L,XL〉という建築のサイズの違いは、そういう場にも対応しているとは考えられないだろうか。それは君が最初に指摘した、全体を通して細部の意味を探る姿勢にもつながると思う。

サイズ=全体の条件

上原──と言うより、「正統性」を巡る問題だろうな。過去のディテール解法が正しく、彼の新しく、合理的な解法は個人的な発想にすぎず、理にかなわない間違いであるという考え方への反駁。つまり彼は今を生きている人間のほうが現代的な問題をよりよく理解できる、問題を再定義できると言い切りたいんだ。そういった彼の態度は本のタイトル『S,M,L,XL』に明らかに現われている。少なくとも彼は各サイズの建築が行為のレベルでかなり異なったものを包含していると指摘したはずだ。「計量的」な思考のほうが包含物を「計質的」に分析するよりドライで合理的な思考が可能になるというメッセージなんだ。服のサイズを借りて、これを表層的に表現したことからもその意図は明快じゃないかな。
塚本──それが一番明確にでるのは、その部分だけをとると理解し難いけれど、少し引いて全体の中でスケールを変えて眺めれば、別にあって悪いものではないというオブジェではないか? つまり一貫した説明はないけれども、全体の中では構造化されたオブジェ。構造化された奇妙、ストラクチュアド・ビザールとでも言おうか。リュベトキンのハイポイントⅡのカリュアティドみたいな。その部分はどうでもいいということが、構造的に定義されている状態。コールハースは、そこに標準ディテールを適当に当てはめることはしなくて、どうでもいいと決まったら徹底的に変なものにしてしまう。
上原──ボルドーに洞窟のような地下階段室があるけど[図11]、これは人間の生殖器官のようだな。住むことの繊細さを表わす細部ということか。似たような細部としてダッチハウスの風呂場のFRP屋根があるが、これなんかは母親の子宮を連想させるものだ。有機物を思わせるもので、彼のセンシュアルな感覚などが読みとれる細部だ。
塚本──ボルドーの住宅は地下を掘ること、ダッチハウスはFRPのトップライトで成形すること、という建設の過程が、ここでも事件として捉えられている。それから全体の中で交換可能な変数になりうる要因として構造化された部分を、徹底的に変数として表現することも指摘できる。クンスタルのオーディトリアムの椅子の色や、コングレクスポのカーテンウォールのガラスマリオンのプロファイルなんかはそういう変数であることの表現だし、ユーラリールの駅の上に建つ数本の超高層などもそういうことだ。超高層であれば何でもいい、ただし一本一本違う建築家に頼んで、既存の超高層のイメージを超えるものを要求している。そのうちの一本を篠原一男が依頼されることになった。これは都市という作品の細部だな。

11──ボルドーの地下階段室 生殖器の内部のような地下からの階段室。土をえぐりとることによって得られる洞窟のような内部空間が、コンクリートで再現されている。

11──ボルドーの地下階段室
生殖器の内部のような地下からの階段室。土をえぐりとることによって得られる洞窟のような内部空間が、コンクリートで再現されている。

ボルドー/レス建築

塚本──さて、最新作のボルドーの住宅はどうか? エレベーターとガラス棚、その上に掛けられたギルバート&ジョージ[図12]、そしてクーニッグのケース・スタディ・ハウスばりのビスタなど、ナラティヴな細部はやはり目につく。でも、アクリルの流しや、コンクリートのガス台など[図13]、要素に分解できないキャスト製のものが多いのも気になるところだ。棚を構成するガラス板にもキャスト的な質感を持たせてある。
上原──確かにボルドーのインテリアにはかなり本人も気を遣ったようだ。ダラヴァ邸で上手くいかなかったキッチンは今回オランダ人のインダストリアル・デザイナーに外注して荒々しいものを造作した。この辺かなり入れ込んでいる割にはやはり細部のない意匠になっている。エレベーターだって上下に連動して移動する手すり機構が実現されているのだろう。
ところがこういったナラティヴな細部もいままでとは多少異なる様相を示している。例えばこの住宅のファサードにはディテールがない。住宅南側の開口部は住宅の断面を切ったように表現されていて全ての開口部は四角く、言ってみれば「窓すらない」。同じ南側ガラスの部屋部分の「ドアのない」壁。壁全体が移動してしまうのだ。寝室部分で床から立ち上げられたガラスむく板手すりは、外装板が「ない」ディテール表現だし、雨樋や屋根防水すらないように表現している。北側に回れば、外部カーテンレールは居間を細分化しないディテールだし、西側のガラス壁がそのまま北側に移動するなんて、これも「ない」仕掛けだ[図14]。居間東側のガラス突き合わせ出ひさしは、居間を定義しない角が開いたディテール。北側のバルコニーには手すりがなく、車寄せのある東側地上階部分の「ドアのない」壁。北側にはコンクリートのピヴォット機構の丸窓が二つ開くだけ。バルコニーには丸い平面の階段室がひとつあるだけ。このドアはオランダの町を走るバスの扉の開閉機構を使ったものだ[図15]。クンスタルではコールハースが全く関心のなかったディテールという部分に、何かがどこかからなだれ込んできたような感じでディテールが存在していたけど、ボルドーでは非常に野蛮でしかも合理的な思考に基づいた新しい展開がある。全体を参照し修辞する細部を廃棄したということなんだ。「必要ないんだディテールは、私たちの建築にとって」という認識。そしてコールハースはオランダ人だから「必要ないの、じゃ取り除きましょう」というわけでこの部分を彼の建築では空洞にした。このディテールが「空っぽ」であるということは、同時に彼の文脈では非常に高次元に修辞的なんだ。さてここでの本当の問題は「建築は本当にそんなに簡単なものだろうか?」といった問いをもって投げかけられる「過去の体系」からの疑問・懐疑じゃないかな。「建築は巨匠が弟子に教える」といった体系を疑問視することで始まったコールハースの建築が、「全体」の現代的な再構築を究極の目標としていて「細部」は語らないことを最善の方法とした。これは建築に環境を総合的に構築する可能性と不可能性を見出したという彼の宣言の発展した方向だと思うわけ。
塚本──コンクリート打設後にドリルではつったかのような三階部分の丸い小窓もフレームレスだ。それから構造がないように見せるさまざまなディテールもある。そういう意味ではミース的な「レス建築」だけど、ミースにあった古典主義的な統制は完全にはずされている。僕はこれほど部分が全体に対して独立しているディテールは見たことがない。大抵は、全体のコンセプトを乱さないように細部の表現は抑制され、従属させられてしまうものなんだが。そのことはコールハースのディテール制作というのが、社会的にはどのように位置付けられるかを考えたときに重要になってくると思う。しかし、ディテールを空洞にしたり、語らないという、ない面ばかりを強調しすぎるわけにはいかない。確かにフレームとか、材の接合を媒介するディテールはなくなっている。それによって過去の建築の作法とは切れた印象を受ける。けれども、そうした過去の建築の体系の潜在化を通して、相対的に顕在化されてくる統制されない自立したディテールというものがあるではないか。あたかも文法を失った言葉の断片が散乱するダンテの描いた煉獄(天国と地獄の間)のようだ。そういう意味でも建築のディテールというものに関して、何を顕在化し、何を潜在化させるかを自由に操ることができる中間的な位置にコールハースが立っていることを指摘することも重要だと思う。それはまさに、歴史の中で何度か試みられてきた(ピラネージ、テラーニ)建築の機能的な実践を超えた、修辞学的実践にほかならないのだが。

12──ガラスの本棚、エレベーター、ギルバート&ジョ一ジ 書斎の床が油圧式エレベーターによって、ガラスの本棚の脇を上下に移動する。最上階の天井はガラスでその下にギルバート&ジョージの絵がかけられている。露出するエレベーターのシャフトの存在は、舞台の奈落へとこの居間を変える。

12──ガラスの本棚、エレベーター、ギルバート&ジョ一ジ
書斎の床が油圧式エレベーターによって、ガラスの本棚の脇を上下に移動する。最上階の天井はガラスでその下にギルバート&ジョージの絵がかけられている。露出するエレベーターのシャフトの存在は、舞台の奈落へとこの居間を変える。


13──ボルドーのアクリル流しとコンクリートのガス台 裏側の配管とそれを収める溝までが透けて見えるアクリル製の流し。床の一部から生えてきたようなコンクリート打ち放しのガス台。

13──ボルドーのアクリル流しとコンクリートのガス台
裏側の配管とそれを収める溝までが透けて見えるアクリル製の流し。床の一部から生えてきたようなコンクリート打ち放しのガス台。


14──ガラス・ドアのレール ガラスドアを動かすときは、カーテンレールが回転して、ガラスドアのレールが完成する。

14──ガラス・ドアのレール
ガラスドアを動かすときは、カーテンレールが回転して、ガラスドアのレールが完成する。

15──ボルドーのステンレスコアのバス用ドア バス用ドアが取り付けられた、ステンレス鏡面板で巻かれた階段コア。最上部の鉄骨梁を支える構造上もっとも重要な要素が、周囲の景色を歪めながら映し込む虚像の固まりであり、しかも中空である。構造体=即時的実体という常識の転倒。 10-15、撮影=小嶋一浩+城戸崎和佐

15──ボルドーのステンレスコアのバス用ドア
バス用ドアが取り付けられた、ステンレス鏡面板で巻かれた階段コア。最上部の鉄骨梁を支える構造上もっとも重要な要素が、周囲の景色を歪めながら映し込む虚像の固まりであり、しかも中空である。構造体=即時的実体という常識の転倒。
10-15、撮影=小嶋一浩+城戸崎和佐


★一──OMA/レム・コールハース「私達の新しいサブライム論」(ミラノ・ビエンナーレ展、一九八六)。
★二──Robin Evans, "Mies van der Rohe's Paradoxical Symmetries", Translation from Drawing to Building and Other Essays, Architectural Association Publications, 1977.
★三──マイケル・ヘイズ、デルフト工科大レクチャーシリーズ講義より。

附記
この対談は一九九八年ー二月に上原雄史(在アムステルダム)と塚本由晴(在東京)の間で交されたe-mailを編集したものである。

>上原雄史(ウエハラ・ユウシ)

1964年生
zerodegree architecture主宰。建築家。

>塚本由晴(ツカモト・ヨシハル)

1965年生
アトリエ・ワン共同主宰、東京工業大学大学院准教授、UCLA客員准教授。建築家。

>『10+1』 No.16

特集=ディテールの思考──テクトニクス/ミニマリズム/装飾主義

>レム・コールハース

1944年 -
建築家。OMA主宰。

>脱構築

Deconstruction(ディコンストラクション/デコンストラクション)。フ...

>ル・コルビュジエ

1887年 - 1965年
建築家。

>篠原一男(シノハラ・カズオ)

1925年 - 2006年
建築家。東京工業大学名誉教授。