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ザ・コンゲンノート─都市の根源的要素についての準備ノート | 中谷礼仁
Notes on the 'Origin': Scratch Notes on the Root Element of Cities | Nakatani Norihito
掲載『10+1』 No.42 (グラウンディング──地図を描く身体) pp.140-145

はじめに

生活の本拠を東京からずらして以来、仕事のために飛行機を使うことが多くなった。日本のさまざまな地を上空から訪れるのだ。目的地に近づき、雲つきぬけて眼前にその土地が現われる時、どんなに旅なれた人でもそこに広がるランドスケープにやはり眼を奪われてしまうのではなかろうか。筆者は東京に帰る時さえ、眼下に広がる都市のかたちを見てしまう。そのかたち、ひいてはその築き上げられたさまざまな都市要素と地勢との関係を見る時、私たちはそこに何十年、場合によっては何百年、何千年も続いてきた大いなるかたちと多数の人間との格闘の歴史を想像している。その現時点での結果としての都市の姿から、国家権力のスタイルひいてはそこに住む人々の生活や性格までもが浮き上がってきそうなのだ。
国内の場合、一番面白かったのは大阪から青森へ飛んだ時だった。日本海側の大きく切れ込んだ山間にひそむ小さな村落を見る時、いまだに、その鋭く際立った地形に張り付くように村ができ、棚田がまるで走り水のように展開し、漁村は海へ糧を採りに行こうとする欲望をそのままかたちにして沿岸に張り付いている。高度経済成長期以降、日本中すべてに計画道路が張り巡らされてしまった。それによって確かに表層のランドスケープはドラスティックに変わってしまった。しかしより上空からそこを眺めるならば、やはり日本にすらまだまだ異質な世界、原始へと直結するような構造がなお生きていることを知るのだ。
しかし一方で、そのような都市や集落の多様な形態になにかしら根源的な共通点があるように感じてもいた。ただし従来の都市タイポロジー学では、生硬なダイアグラムを無理矢理「普遍的」に当てはめてその都市の性格を述べるような傾向があった★一。むしろ筆者が見つけたかったのは、そのような固定的な集落あるいは都市の形態タイプ分類ではなかった。都市の多様なかたちを実際に生み出している最小限の条件、あるいは根源とでもいうべき〈何か〉であった。集落が人間の思惑を含み、またそれすらも超えて次第に都市へと不可避的に自己生成していくような基点が必ず存在しているように思えたのだ。その具体的提案は、当方も参加した都市連鎖研究体によって、すでに本誌No.37「特集=先行デザイン宣言」(環境ノイズエレメントチームと協働)にて、六枚の「コンゲンカード」として提示された。しかしそれらは大きく二つのグループに分かれる。前半の三枚が「純粋漁村」「コンデン」「ミチ」である。これらは集落から都市への生成を検討する際に最低限必要となる構造論的三つである。そして後半の三枚である「キョウト」「無縁」「シュクネギ」がその後の展開によって、不可避的に発生する二次的な根源である★二[図1]。
今回は前者が如何に発見されたかを特に解説し、そしてその組み合わせが後者のみならず多様な現実の都市形態の生成を幾許かでもシミュレートしうるのかを検討してみたいと思う。

1──コンゲンカードより 「純粋漁村」「コンデン」「ミチ」「キョウト」「無縁」「シュクネギ」

1──コンゲンカードより 「純粋漁村」「コンデン」「ミチ」「キョウト」「無縁」「シュクネギ」

都市のコンゲン

さてコンゲンカードの前半、三つのカードの発見に込められた問いは次のようなものだった。固定的なタイプ分類ではなく、都市が自己生成していくプロセスにかなめとなるものは何だろうか?
それは都市の構成要素を、物質的余剰とそれに対する人々の欲望の関係から読み解くことであった。その関係から生み出される土地と人間との格闘的ダイアグラムを発見することだったのだ。集住の基点となるのは多数の住民を例外的に生きながらえさせうる物質的余剰の存在である。同様に都市に魅力があるのは、多数の人々の欲望に応えるだけの多様な種類の余剰が存在しているからにほかならない。
この意味から「純粋漁村」の発見は存外に簡単なことであった。これは最も簡単なその欲望充足のダイアグラムである。自らが生産することを必要とせず、狩猟のみで人々が己の欲望を充足する場合である。これは(あくまでも想像的な過程として)時代的には自ら生産を行なう農耕時代以前に対応して、無尽蔵とも思われる余剰に人々が直接にアクセスしている状態である。
古代から続くといわれる丹後地方の舟屋の風景は、まさにその典型的状態を示している。舟屋では村のすぐ裏に山がそびえるため、現時点でも農業による再生産はむずかしい。そのためまるで飴に群がる蟻のように、たおやかな波の岸辺に人々の家屋が垂直に張り出しているのである(図1内説明写真参照)。これが「純粋漁村」である。またこの純粋漁村のダイアグラムで重要なのは、そのような余剰のアクセスが原則的に共同体全員に保証されねばならないため、余剰への境界面に対しての成員のアクセス面積(間口)は異様に狭くなり、その拡張は奥へ垂直に伸びるということである。舟屋においては海へのアクセス権を巡って激烈な闘争の歴史があったという。その緊張感がたぐいまれなる舟屋の風景を生んでいるのだ。
次に発見された「コンデン」は、自ら土地を再生産過程として活用しうる農耕時代に対応する。もし肥沃な平野があった場合、農耕技術を持つ人々がそこで自らの欲望を満たすには、その欲望に見合っただけの生産のための土地を獲得し、その土地のなかにすまいを持つ。基本的に自給自足が可能であるとしたら、人々はそのミトコンドリアのような細胞の一つひとつに似た〈土地+すまい〉のなかで完全に充足してしまう。ここで他者とのコミュニケーションはあくまでも副次的なものに過ぎず、近親相姦の回避や、あるいは灌漑や土地の権利を巡る隣地間の闘争等に限定されるだろう。そのためこれらコンデンにおける道はあくまでも生活動線的な便宜的なものである。これは富山や出雲地方の散居村集落に象徴される(図1内説明写真参照)。のどかなこの散居村の風景も敷地上の区画から検討すれば、実は隙間なく人々の占有権で埋め尽くされているに違いない。以上二つが前半のコンゲンカード三枚のうち、人々の欲望を支える最も初源的なコンゲンカードである。ここに次の三つめのコンゲンである「ミチ」が加わることによって、村落や単なる集住は都市への質的変換をもたらす。なぜか。

ミチから都市へ

まず問うてみたい。ミチを引く、あるいは引けるのは誰であろうか?   私か、あるいは私たちか?  そのいずれでもない。それは私たちの上で私たちを統括するような権力の発生抜きには考えられないのである(現在でもそうである)。その意味でここでのミチとは都市計画の発生を示しているものともいえる。ある集落と集落とのつなげ方、あるいはまったく空白の地から集落を人工的に作り出そうとする方法は、ある特定の集落内部の経験的論理からでは発生しない。そこにはより高次な視点からの計画が必要になってくる。マルクスの「アジア的古代」についての検討を引き合いに出すまでもなく、当時において王のなす第一の仕事はまず道を引くことであった。つまり道とは各集落に降臨する他者の回路である。往来が発生することによって、狩猟や農耕に属さない移動─交換経済─が発生する。これによって町人(狭義の都市民といってもいい)に代表される第一次生産基盤を持たない階層が居住可能となる。彼らにとってみれば道を通ってやってくる物資やそれを移動させる商人たちがカモであり、余剰獲得の原材料になる。ここでミチは、純粋漁村における海のように限られた土地に無尽蔵の可能性を秘めた剰余空間を発生させるのである。そしてミチに従って形成される町屋は面白いことに純粋漁村と同じように剰余の境界面への垂直性を持っている。純粋漁村と同じような剰余(この場合ミチ)との関係性を宿しているからなのである。ミチが如何に強固な都市的要素となるかの実例を次に示してみたい。
二〇〇四年三月、筆者は千年持続学プロジェクトの一環としてシリアのダマスカス、アレッポという、世界最古の都市のうちの二つを実見することができた★三。

2──ダマスカス旧市街の入り口。大バザールの朝 筆者撮影

2──ダマスカス旧市街の入り口。大バザールの朝 筆者撮影

ダマスカスに到着した翌日のことである。朝早く起きてひとりで旧市街区を訪ねてみた。するとその入り口にはまるでミラノのような大パサージュが展開していた[図2]。パサージュというミチに対して垂直に間口の狭い商店が立錐の余地なくひしめき合っている。そのスペクタクルに興奮しながら一キロ以上も続くであろうそのパサージュを歩き終わると、大モスク前の広場へと至った。そして振り返ってみると、そのパサージュの終端にはローマ時代の柱の残骸が屹立しているではないか[図3]。つまりこのパサージュは、古代ローマ帝国がこの地を植民都市とした時代にあって作った計画道路の中心だったのである。周知のようにローマ帝国の植民都市の計画法には定則があった。まずは都市の領域を砦で四方に囲み、中央で交差する二つの大きな計画道路を敷設し、その道に従いフォルム(広場)や公共浴場、食堂・酒場、市場、円形闘技場等の公共施設を配置する。そしてその道周辺以外の地は遊休地(余白の地)として残しておくという方法であった。その道を起点として、商店が今現在もその垂直的関係を保って展開し、またもとの遊休地においては、コンデン的な展開が重層するように宅地が形成されているのであった。同行したイスラムの研究者たちにその驚きを伝えると、もちろん彼らにとってそんなことは常識であった。彼らからの話によるとイスラム世界の特徴は過去の都市形態を壊さずにそれを巧妙に転用して、自らの宗教都市を成立させたことにあるという。別の日に訪れた著名なパルミラ遺跡は、ローマ都市がダマスカスのようには活用されることなく衰退した廃墟であり、その中心道路の骨格はプロポーションといい、規模といい、まったくダマスカスのパサージュの空間体験に酷似していたのだった[図4]。これら三つの古代都市にはいずれもローマ帝国によるミチが刻みつけられていたのである。

3──パサージュの終端、モスク前の広場に残るローマ時代の柱 筆者撮影

3──パサージュの終端、モスク前の広場に残るローマ時代の柱 筆者撮影

4──パルミラ遺跡の元メインストリート 筆者撮影

4──パルミラ遺跡の元メインストリート
筆者撮影

都市はコンゲン活用する

先にミチがあったのか、後でミチが引かれたのか。このような都市の根源要素の順列関係は思いの外重要である。順番によって都市のかたちはガラガラ変わるであろうことが、以上の事例から予測できるからである。以上のような都市形成におけるコンゲンの順列的組み合わせの違いを〈コンゲン活用〉と便宜上表現しよう。
ダマスカスの都市変転の事例、そして純粋漁村、コンデンとミチとの相乗的関係を考えると、これら三つの要素によるコンゲン活用は加算的関係を持つというよりも、乗算的関係を持っている。つまりコンゲン形態の順列関係から発生する組み合わせパタンによって成立する都市形態は飛躍的に多様なものとなるのではないだろうか。
それらの比較には、実は日本における条里制、あるいは条坊制といったグリッドを形成するミチ空間はきわめてよいサンプルである。それは約六〇間(約一〇八メートル)を四方とする正方形街区である★四。以下に日本の歴史的都市におけるグリッドパタンのコンゲン活用的解釈を試みてみたい。
まずはその代表格としての第四のコンゲン、キョウトの事例である。
まず京都市中(条坊制)では、支配階級層の敷地が四周を取り巻くミチによってグリッド状に区画されていた。しかしその後中世期における経済発展ではミチに平行し支配階級層の敷地の周囲にまとわりつくかのように多数のミセが発生した。そして貴族階級の衰退とともに、ミチに対して垂直方向にミセの占有地が奥深くその権利を獲得していくのである。これが京都の古代から中世にかけての町の変容ダイアグラムであった。京都ではミチと庭という余白を持つ擬似コンデンのような四行八門制をベースとする貴族の敷地が、その後の移動経済とミチとの相乗的発展によって生まれたミセという第二の「純粋漁村」によって食いつぶされていくのであった[図5]。その結果条坊の正方形街区は、四面の道で構成される四点を対角線で結ぶかのような町家の地割りが形成された。これに従えば、街区の両側に行くほど奥行きは不可避的に短くなり、中頃は不必要なほどに長くなる。そのため正方形街区の真ん中には不要の地がぽっかりと空き、それが会所という町中の公共施設に発展するという経緯を辿った。コンゲン活用がもたらした余剰の地が会所になったのであり、これが第五のコンゲンカード、誰のものでもない場所=「無縁」である。

5─近世京都の町割、条坊制の正方形区画が道に面するミセによって食いつぶされた結果 引用出典=日向進『近世京都の町・町家・町屋大工』(思文閣出版、1998)

5─近世京都の町割、条坊制の正方形区画が道に面するミセによって食いつぶされた結果 引用出典=日向進『近世京都の町・町家・町屋大工』(思文閣出版、1998)

このような経済的な緊張関係が弱かった場合、正方形街区はどうなるであろうか。その例として、大正末から昭和初期に急速に市街化された大阪市西成地区がある。同地区は市街化以前に耕地整理組合が設立され、その整理区域では六〇間四方の正方形グリッドによって整然と区画割がなされたのであった。にもかかわらずその後、前代未聞の大規模スプロールが発生したのであった。その原因は先にも述べたように、同地区が都市の領域の拡大に伴い、それほどの経済効果を求められない都市近郊の零細住宅地に転換されたことによると私たちは推測している。つまりコンデンの〈二乗活用〉、コンデンがさらにその内部をコンデン化しつくす迷宮的なプロセスがそのスプロールをもたらしたのである。同地区においては、単一の大きな正方形私有地を基本として、まず街区周囲から道路に面してそれほどの緊密なルールもなく宅地化が始まった。その後で街区中央部にさらに細密な宅地が建ちはじめるという過程をふんだのであった。
時代が前後するが、実は江戸の町人地であった銀座東部から日本橋周辺へかけても後の西成地区同様、六〇間四方の正方形グリッドを基本に町割がなされたのであった★五。しかしここはその後日本を代表する商業地として発展しスプロール現象は発生しなかった。というのは同町人地は中世京都の正方形街区を計画的に再現したものだったと推測されるからである。江戸町人地の正方形街区の内部は大きく三つの帯によって構成された。奥行二〇間の町家帯が街区周辺部を囲うように配され、街区中央部に二〇間四方の正方形の会所地と呼ばれる空地が配置されたのである[図6]。つまり六〇間四方を二〇間ごとの三つの帯に分割したのである。明暦三(一六五七)年に江戸の大半を焼き尽くした大火以降、江戸は急速に都市化が進行し、市街地が郊外に拡大していくだけでなく、既存市街地の高密度利用化が進んだ。町人地に設置された会所地にも町家が建てられるようになった。すると会所地に向かって街区を貫通するように路地が通され(接道が可能となり)、会所地いっぱいに町家が建てられるようになったのである。当初設定された奥行二〇間の町家の裏側を真っすぐ路地が通されることにより、今で言うところの二方向避難路が確保された。さらに明治最初期の地図を確認すると、裏屋部分がすでにさらに成長していたのか、内部に通された路地が再び一本追加されて、ほとんどの街区で相応の幅をもって二本通されるようになる[図7]。つまり江戸町人地建設当初に設定されたキョウト街区の町屋寸法に規制されながら、さらにそこにミチを通すことにより京都における街区中心の空白地=「無縁」なくして、均質な商業空間が形成されたのであった。それでも人が集まるようになった時、建物は高層化しはじめ、ミチあるいは公共的空間への直接的接触を調節する第六のコンゲンである「シュクネギ」が生まれることになるが、これについての説明は紙数も尽きたことなので割愛したい。

6─中世京都の写しとしての江戸町人地のダイアグラム 引用出典=玉井哲雄『江戸─失われた都市空間を読む』(平凡社、1986)

6─中世京都の写しとしての江戸町人地のダイアグラム 引用出典=玉井哲雄『江戸─失われた都市空間を読む』(平凡社、1986)

7─明治期地図(陸地測量部作成)における日本橋区画割の様子 引用出典=『日本地図選集』(人文社、1967)

7─明治期地図(陸地測量部作成)における日本橋区画割の様子 引用出典=『日本地図選集』(人文社、1967)

同時多発する都市形成のプロセス分析

以上のような都市分析は、最近各地域の研究者によってアグレッシヴに同時多発的に進行している。例えば青井哲人の研究はその先駆のひとつである。青井はフィールドを台湾として、近代以前の都市形態が近代以降、特に日本の植民政策によって遂行された市区改正事業がもたらしたミチの強引な追加による都市の変容をきわめて精密に復原調査している★六。
またソウルの若手建築家・趙鼎九は伝統的住居である韓屋の細密化、形成過程を三年間をかけて踏査し、それを実際の設計活動に活用している★七。そして筆者は二年ぶりの趙氏との再会を果たすべく現在ゼミにて行なっているソウルのコンゲン分析についての報告を本当は行ないたかったのだ。が、紙数は尽きた。またの機会としたい。


★一──清水重敦「先行デザイン論」(『10+1』No.37、INAX出版、六六─七〇頁)参照。
★二──それらの概略については同誌同号「都市のいろいろ」(七七、七八頁、観音内側)、「都市とカード」(八二頁)、「ディスカッション──先行デザイン宣言をめぐって」(一四六─一六一頁)を確認のこと。特に今回の論では後者三枚のコンゲンカードについて詳しく扱えなかったので、併読していただけると幸いである。
★三──IRUS Project。文部科学省大学共同利用機関総合地球環境学研究所、東京大学生産技術研究所による都市の持続に関する学際的研究プロジェクト。
★四──以降のグリッドのコンゲン活用解釈は中谷ゼミナール登尾聡の考察をもととしている。面積単位としての「町」には履歴の異なる複数の近似的な寸法が存在している。ひとつは平安京・平城京の条坊制を構成する四〇丈(約一二〇メートル)四方の正方形区画であり、もうひとつは主に古代都城外に向けて制定された面積単位六〇歩(間)四方の正方形区画である。しかし後者における区画寸法もそれぞれ若干異なる。条里制の六〇間=一〇八メートル(一間=約一・八メートル)、江戸町人地の六〇間=約一一八メートル(一間=約一・九五メートル)、そして近代前期の耕地整理で用いられた六〇間=約一〇八メートル(一間=約一・八メートル)である。また条里制の六〇間基準は道の真々寸法である。それぞれの事例の区画寸法に若干の違いはあるものの本論の分析においては、それぞれの区画形態がその後のコンゲン活用に及ぼす影響に着目しているためほとんど無視できると考えた。
★五──ただし、江戸の場合、既存の地形やなだらかにカーブする道に沿って区画が施されたために若干正方形というより、台形や平行四辺形気味になっている部分も存在する。
★六──http://semi.uhe.ac.jp/~aoao/shoka_fukugen/taiwan_city.html 参照。
★七──http://guga.co.kr 参照。

>中谷礼仁(ナカタニ・ノリヒト)

1965年生
早稲田大学創造理工学部准教授、編集出版組織体アセテート主宰。歴史工学家。

>『10+1』 No.42

特集=グラウンディング──地図を描く身体

>青井哲人(アオイ・アキヒト)

1970年 -
建築史・都市史。明治大学准教授。