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没場所性に抗して | 本江正茂
Against Placelessness | Motoe Masashige
掲載『10+1』 No.42 (グラウンディング──地図を描く身体) pp.132-134

例えば「情報」や「場所」のように、あまりに一般的であたり前の概念は、幅広く、混乱しており、定義することが難しい。定義は往々にして同語反復に陥る。かといって、議論のために限定的な状況に概念を閉じ込めることは不可能であり不誠実である。そのような場合には、むしろ、その欠如、不在の状態を見定めることによって、逆にそのシルエットを明瞭に示すことができることがある。

カナダの地理学者エドワード・レルフが『場所の現象学』において提示する「没場所性(placelessness)」という概念は、まさに「場所」の姿をシルエットとして描きだそうとするものである。
レルフによれば、没場所性とは「どの場所も外見ばかりか雰囲気まで同じようになってしまい、場所のアイデンティティが、どれも同じようなあたりさわりのない経験しか与えなくなってしまうほどまでに弱められてしまうこと」である。没場所性は「個性的な場所の無造作な破壊と、場所の意義に対するセンスの欠如がもたらす、規格化された景観の形成」によっておこる★一。
没場所性は北米に特有の現象などではない。日本においても普通に見られる。例えば、ロードサイドショップがケバケバしい看板を並べて乱立するバイパス沿道は、典型的な没場所性に覆われた空間である。サイディングの色だけ違えた建て売り住宅が隙間なく並ぶミニ開発の分譲住宅地も、ガラスと花崗岩のカーテンウォールをかぶった高層オフィスビルとコンドミニアムがせめぎあう大規模再開発地も、オープンカフェとコンビニと抽象彫刻とでにぎやかに飾り立てられた足元の「アメニティスペース」も、等しく没場所性に支配されている。

没場所性は、単に「意義ある場所をなくした環境」のことをさすばかりでなく、「場所のもつ意義を認めない潜在的姿勢」のことでもある。それは「ますます支配的になりつつあるひとつの態度であると同時に、またその態度の表現」だとされる。没場所性を加速させるメディアやシステムは、「場所に対する偽物の態度」すなわち、無意識的な「キッチュ」と意図的な「テクニーク」とによって駆動されている。両者は対比的ではあるが、場所に対する姿勢が切実でなく安易である点において共通している。この二つの態度は、今日の「場所への愛着の喪失と本物の場所づくりの能力の衰え」の現われなのである★二。そうした姿勢でつくられる今日の景観は、否応なく没場所性を帯びてしまう。
しかし同時に没場所性は「場所からの自由をも意味し、日常性は官僚的消費社会のワナとともに、心地よさと安全さを意味する」ものであるし、没場所的ではあっても現代の景観は「一般に心地よいまったく効率的な地理」を構成しているともいえる★三。逆に、政治的あるいは経済的理由で自由に移動できない人々にとっては、場所は「牢獄」である。われわれは没場所性を自ら望んでもいるのだ。

われわれは、郊外ロードサイドショップが次々と放棄されて巨大なジャスコに収斂し★四、シブヤがただの規模が大きなだけの街としてしか認識されない★五ほどに、弱まってしまった都市空間、没場所化した都市を生きている。そして、そこそこ満足している。いまや感受できるかどうかも心許ない「場所の質」なんてアヤシイもののために、せっかく手に入れた「没場所性の物質的豊かさ」を再び賭け金とせよと迫るのは無理だろう。にもかかわらず、このようなトータルな没場所性に抗して、場所の価値を再び求めようとするとき、われわれにはどのような方法がありうるのだろうか。
まず、このアンビヴァレントな状況において重要なのは、「場所」には可塑性がある、という信憑である。没場所性への傾斜は永久不変のトレンドではない。「利便性と効率性は不条理さと没場所性を必然的に伴わなければならないということや、この現在の景観には意義深い場所はひとつもないと信ずることには、何の理由もない」のである★六。
そして、没場所性の根源が「場所への愛着の喪失と本物の場所づくりの能力の衰え」に起因するならば、没場所性に抗していくためには、場所への愛着を回復し、場所づくりの能力を鍛えなおす方法を構想する必要があるだろう。「根を下ろすという状態を意図的に作り出すことはできないし、物事がいつもあるべき場所にあるということも保障できない。しかし、『根もと』や場所への配慮を育む条件を整えることは、おそらく可能だろう」とレルフは指摘している★七。
では、「場所への配慮」とはどのようなことか。それを育むためには何が必要だろうか。レルフは、シモーヌ・ヴェイユの議論を参照しつつ、次のようにいう。

場所に配慮するということは、場所に対して過去の経験や将来の期待に基づく関心を持つということ以上のものを伴う。そこにはまた、場所それ自体、および自分自身や他者にとって場所が意味するもののために、場所に対して本当の責任と尊重とをもつという姿勢がある。事実、そこには場所に対する完全なかかわり、つまり人間が持ちうるどんなかかわりにも劣らぬ深いかかわりがある。なぜならこの配慮は、本当に人間と世界との関係の基礎であるからである★八。


つまり、場所への配慮を育むこととは、場所への「かかわり」、すなわちコミットメントをなしていくことにほかならない。「場所」へのより積極的なコミットメントによって、われわれは、われわれの場所を「本物の場所」に近づけていくことができるのだ。
レルフはこう問う。「没場所性の物質的豊かさと場所の最良の質とをつなぎあわせる地理学はあるだろうか」★九。
場所への配慮に関心をよせる人々は、それぞれのよってたつドメインに応じて、このフレーズの「地理学」を様々に読み替えることができよう。没場所性の物質的豊かさと場所の最良の質とをつなぎあわせる、建築は、ランドスケープは、テクノロジーは、政策は、ビジネスは、あるだろうか?

情報技術はコミュニケーションのコストを削減する

技術革新と没場所性の関係について考えるにあたっては、まず、レルフの議論の時代背景を考える必要がある。レルフの議論は幅広く普遍的であっても、書かれた一九七〇年代の時代性に制限されている。特にその技術的話題は、自動車や鉄道、照明や空調についての議論にとどまっている。これをより今日的な社会状況にあてはめて考えてみる必要がある。七〇年代以降に起こった技術革新のうち、「場所」のあり方にもっとも大きな影響を与えたものは、コンピュータを介した情報通信技術、とりわけインターネットをインフラとしたモバイルでパーベイシヴなコンピュータ利用の普及・拡大であるだろう。
テクノロジーによってコミュニケーションの経路が多様化する様相をうまくとらえ、どのモードでコミュニケーションをとるかによって、得られるコミュニケーションの特性と必要な諸々のコストとのバランスを鮮やかに示しているのが、ウィリアム・ミッチェルが、ローカル/リモートの軸と、同期/非同期の軸とでコミュニケーションのモードを整理したマトリクスである★一〇[図1]。

1──ウィリアム・ミッチェルのマトリクス(筆者訳)

1──ウィリアム・ミッチェルのマトリクス(筆者訳)

コミュニケーションの相手と、空間的に一致しているのが「ローカル local」、離れているのが「リモート remote」であり、時間的に一致しているのが「同期 synchronous」、ずれているのが「非同期 asyn-chronous」である。

原初のコミュニケーションのモードは、直接顔をあわせて会うことである。これはすなわちマトリクスの左上、「ローカルで同期」の状態である。直接会うためには、少なくともどちらかが移動する必要があるし、事前に待ち合わせの調整をしておく必要がある。濃密で個人的なコミュニケーションが可能であるが、移動や調整、会場の準備に非常なコストがかかる。
逆に、場所を一致させたままで時間をずらす、つまり「ローカルで非同期」なモードのコミュニケーションの典型は「書き置き」を残すことだ。移動は要するが、日程調整は必要ない分、コストが下がる。
逆に、空間が離れていても、時間さえあわせることができればコミュニケーションがとれるようになるには、リアルタイムで通信が可能な「電信・電話」の発明を待つ必要があった。「リモートで同期」のコミュニケーション手段ではスケジュール調整は必要だが、出かけなくてよい分、コストは減少する。
時間も空間も一致しないままコミュニケーションを取る場合には、手紙を使う。ずっと長い間、物理的に紙などのメディアを配達してきた。デジタルネットワークを介すれば電子メールが使える。移動も調整も必要なく、しかも非常に安いコストで連絡をとりあうことができる。
このマトリクスにおいて、デジタルネットワークの発展と大規模な展開によって、急速かつ膨大に左上から右下へのシフトが起きているとミッチェルは指摘する。コミュニケーションの価格破壊がおきているのである。
すべての情報技術の革新は、まず、コミュニケーションのコストを下げようとする。それが達成されてから、低いコストを保ったままで、コミュニケーションの強度を上げようとする。この順序、プライオリティが重要である。コストダウンがあまりに簡単で劇的なので、人びとはコミュニケーションの形態を、「ローカルで同期」なものから「リモートで非同期」なものへと移し替えてきた。まずはコストを下げたい。できるものなら出かけたくないし、時間も自由に設定したい。直接会うことで得られていた濃密なコミュニケーションの強度は「少々」失われてもしかたない……と考えたのである。その揺り戻しとして電話を強化するテレビ会議が作られ、文字だけの電子メールを強化しようとする「リッチな」メールなどが生まれる。だが、いったん下がったコストを再び増大させてまで、強度を回復しようとするかどうかはわからない。情報技術でコミュニケーションのコストを削減しようとするときに、引き換えにされるのは、時間と空間の同期による濃密なコミュニケーションという「場所に根付いた企て」の特性にほかならない。利益は「場所」からえぐり取られている。削減されたかにみえるコストを支払っているのは「場所」なのである。
われわれは情報技術で世界をなめらかにする。ローカルで同期的であるしかなかったコミュニケーションのモードを、リモートへ、非同期へと拡張する。情報技術は、存在を場所から切り離し、流動させ、複製し、コストを下げ、リスクとストレスを下げ、柔軟にし、自由にすることを許し、促す。情報技術にはコミュニケーションのコストを下げながら、同時にそれを容易なものとする力がある。だが、そのコストの低さと容易さ、すなわち「安っぽさ」が、人々のリアリティの感覚を麻痺させ、場所と身体の切実な関係を希薄なものとしてしまう。コミュニケーションは増大しているように見えるが、リアリティとの関係においてはインフレを起こしており、コミュニケーションの相場は下がり続けている。情報技術は、われわれの世界へのコミットメントの意味を水平化し、均質化し、リアリティの感覚を麻痺させ、場所の切実な意味を奪う。
われわれは情報技術をフルに用いて「没場所性」を瀰漫させてきたのである。

情報技術の新しい使い方をデザインする

だとすれば、没場所性の拡大に抗して場所へのコミットメントを促すためには、事態を遡上して、情報技術の使い方を変えることが有効なのではないか。情報技術は没場所性を拡大することに寄与しているが、それは原理的な性質によるのではなく、その使い方によっている。だとすれば、情報技術の使い方を変えることによって、没場所性と情報技術を結ぶ回路を変えることができるはずではないか。
新しい技術は、必ずしも要請に応える形でつくられるのではなく、思いがけず発明されてしまい、社会におそるおそる登場し、人々がそれに適応していくかたちで普及していくことが多い。
「電話」は発明当初「音楽会を自宅で聞ける」など放送的な用途を主用途として売り出されたという。やがて電話の主たる用途は「おしゃべり」に収斂していくが、この使い方は、開発者やサービス供給者ではなく、消費者によって事後的に「再発明」されたものであった★一一。

新しい技術の使い方は、それが現われてから事後的に見出され定着していく。出現当初想定されていた使い方と、それが普及し定着して「普通の使い方」が共有された後とでは、技術の使い方は相当に異なるものとなってしまう。
とするならば、「普通の使い方」は、その技術のポテンシャルを充分にくみ尽くしているとはいえないであろう。普通の使い方は、たまたま先行した使い手の使い方が社会的にデファクト・スタンダードとして定着したにすぎず、技術の可能性を原理的に追求した果てのものではないからである。

和田伸一郎は『存在論的メディア論』において、こうした事態を前に、次のように指摘する。

メディア技術によって何を求めているのか、何がしたいのかということは、まだまだ考え出されつづけている。このような意味で技術は依然として大きな謎に留まっているのであり、謎と言うのはわれわれは何を欲望しているのかということを、それが鏡となってわれわれ自身に問いを向け直し、突きつけてくるということを意味している。つまり、われわれは技術を与えられ、それの利用法を模索していくうちに、自分自身の欲望についても模索しているのである★一二。


われわれは何を欲望し、技術の使い方をどのように変えるのか。それはアブダクティヴかつプラグマティックに試行を繰り返すことによってしかわからない。それは仮説的な漸近過程となるよりない。それを主導するのはデザインの思考である。

没場所性に抗して、場所へのコミットメントを支援する情報技術の新たな使い方がデザインされなければならない。


★一──エドワード・レルフ『場所の現象学』(高野岳彦+阿部隆+石山美也子訳、ちくま学芸文庫、一九九九)。
★二──同書。
★三──同書。
★四──三浦展『ファスト風土化する日本──郊外化とその病理』(洋泉社、二〇〇四)。
★五──北田暁大『広告都市・東京──その誕生と死』(廣済堂出版、二〇〇二)。
★六──エドワード・レルフ『場所の現象学』。
★七──同書。
★八──同書。
★九──同書。
★一〇──William J. Mitchell, e-topia: Urban life, Jim - but not as we know it, MIT Press, 1999. 邦訳=『e・トピア──新しい都市創造の原理』(渡辺俊訳、丸善、二〇〇三)。
★一一──クロード・フィッシャー『電話するアメリカ──テレフォンネットワークの社会史』(吉見俊哉+片岡みい子+松田美佐訳、NTT出版、二〇〇〇)。
★一二──和田伸一郎『存在論的メディア論──ハイデガーとヴィリリオ』(新曜社、二〇〇四)。

>本江正茂(モトエ・マサシゲ)

1966年生
東北大学大学院。東北大学大学院准教授/都市・建築デザイン、環境情報デザイン。

>『10+1』 No.42

特集=グラウンディング──地図を描く身体