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家型の二一世紀 | 五十嵐太郎
House Form in the 21st Century | Igarashi Taro
掲載『10+1』 No.50 (Tokyo Metabolism 2010/50 Years After 1960) pp.33-34

建売住宅から学ぶこと

家型という視点から眺めていくと、一九八〇年代の建築は基本的に七〇年代の延長にあり、記号的な表現をさらに展開し、思考を深めている。
石井和紘の《児玉邸》(一九七九)は、家型をもちながら、水平のストライプを外壁にはりめぐらせて、斜めの線を消している。彼はこう述べていた。「家型のイメージは大切にしたい。住み手は〈家〉を買うのであって、〈箱〉を買うのではない。おうちを買うのであって、コンテナを買うのではない。(…中略…)おうちはほのぼのとしている」(「親切設計ほのぼの住宅」、『新建築』一九八〇年八月号所収)。そしてデザイン教育が唾棄すべきものとした建売住宅の親切さに注目し、あえて偽悪的にふるまう。当初は建築家とハウスメーカーの共闘が試みられたが、一九七〇年代のショートケーキ住宅化にともない、両者は完全に断絶が生じ、ポストモダンの時代になると、建築家の側からアプローチすることになったのだ。石井の《ゲイブルビル》(一九八〇)も、フレームでかたどった三角屋根の記号をつける。
坂本一成の《散田の共同住宅》(一九八〇)は、単純な家型ではなく、重合させつつ、窓の位置も微妙にずらしている。そして「建築をつくることは、覆いをつくることであり、その覆いに家を描くことである」と論じ、「覆いという実体に家という記号を描いていることではないだろうか」と問う(「覆いに描かれた〈記憶の家〉と〈今日を刻む家〉」/『新建築』一九八〇年六月号)。彼は、「建築のイメージ調査'85」などを通じ、一般人に「商品化住宅」や建築家による住宅の外観を見せ、どのようなイメージをもつかを調べていた。そこで家型のもつ連想作用の力が明らかになっている。また坂本の《祖師谷の家》(一九八一) では、家型を崩しながらも、記憶の家を探求していた(「住宅という建築の〈家〉化」、『新建築』一九八一年六月号)。
当時、伊東豊雄も、「建売住宅」という課題を学生に出している。そして《中央林間の家》(一九七九)は、「当今流行の〈家型〉であると表層的な形態からは見えるであろう。だが、今日、住宅は〈容器〉であると同時に〈家〉であるべきだと私は考えている。つまり一方で効率性とか経済性に根差した機能的な〈容器〉であることは否定のしようもないし、それと同時に、建売住宅などに強く現われているミクロコスモスとしての〈家〉でもありたいとする矛盾した条件の間の相互作用の中にのみ今日の住宅は成立すると考えられる」という(「建築のコミュニケーションの可能性」、『新建築』一九八〇年八月号)。やはり、建売住宅に投影されたアーキタイプの意味に注目している。そして《中央林間の家》の特徴は、機能的な平面、ステレオタイプな要素、表層的な外皮だと説明していた。

ポストモダンと家型

三角屋根が流布したことを確認するために、一九八〇年代の事例を列挙しておこう。渡辺豊和の《岡室邸》(一九八一)、入江経一の《逗子海岸の住宅》、北河原温の《S邸》(一九八〇)、□と△を組み合わせた村上徹の《鈴ヶ台の家》(一九八〇)、三角柱のヴォリュームがのる相田武文の《モンドリアンの主題による家》(一九八一)、三角屋根と円窓の組み合わせが印象的な室伏次郎の《御殿場の家》(一九八四)、高松伸の《下鴨の家》、宮脇檀の《CHOI BOX》(一九八三)、富永譲の《住吉診療所一九八一》(一九八三)、切妻を交差させた土岐新の《新美邸》(一九八四)、出江寛の《懸魚のある製図工場》(一九八四)、小宮山昭の《LPハウス2》(一九八四)、屋根を壁で切断する武田光史の《中馬込の長屋》、神殿をモチーフとした青木茂の《蒲江中学校特別教室棟》(一九八五)、納屋を模倣する藤井博巳の《牛窓国際芸術祭事務局》(一九八五)、三角屋根が反復する早川邦彦の《市川大野の家》や《GAハウス》(一九八七)、幾何学的な構成による長谷川逸子の《小山の住宅》、黒川紀章の《高志会館》、ヘキサの《スパイヤー》、石井勉の《LIVES》、古市徹の《屋久杉の里》(一九八九)などである。
ポストモダンの余波を受けて、家型のモチーフはさまざまに展開した。象設計集団の《宮代町立笠原小学校》や原広司の《那覇市立城西小学校》は、土着性や共同体の感覚を表現したものである。そしてクリストファー・アレクザンダーの《盈進学園》(一九八五)、坂倉建築研究所の《横浜人形の家》(一九八六)、石井和紘の《サンリオファンタージェン(五四の家)》、長谷川逸子の《湘南台文化センター》(一九八九)、毛綱毅曠の《釧路フィッシャーマンズワーフ》、都市整備公団の多摩ニュータウン南大沢学園一番街(一九九四)などは、家型の集合体としての表現をきわめた。やはり、現在から見ると、これらはほとんど外観の操作に集中しており、記号的な扱いである。
だが、一九九〇年代は、ポストモダンが下火になるとともに、ミニマルなモダニズムが復権し、家型にとっては、あまり実りがない時代となる。記号的な表現も減っていく。デコンストラクティヴィズム的な展開としては、かたちを崩していくシーラカンスの《大阪国際平和センター》(一九九〇)や、非対称性を強調する篠原聡子+隈研吾の《DE町屋》(一九九〇)が挙げられるだろう。異形の家型としては、藤森照信の《神長官守矢資料館》(一九九一)、《タンポポハウス》(一九九五)、《ニラハウス》(一九九七)、《秋野不矩美術館》(一九九七)など、一連の作品が注目される。記号的な表現ではなく、ときには本物の植物すら育成する生々しい素材の感触をつきつけているからだ。内藤廣の《海の博物館》(一九九二)は、構造の形式と連動しつつ、内部の空間をもたらす、強度をもつ家型である。
記号というよりも構成として家型の可能性を蘇生させたのは、東工大の教育を受けた次世代の建築家だろう。三方向からの切妻を組み合わせるアトリエ・ワンの《川西町コテージ》(一九九九)や西沢大良の《諏訪のハウス》(一九九九)を嚆矢として、石黒由紀の《隅のトンガリ》(二〇〇二)、長谷川豪の《森の中の住宅》(二〇〇六)などが続く。ポストモダン的な装飾をはぎとったときにあらわれる、還元された建築の姿。本連載でも、五〇年代の清家清、六〇年代の篠原一男、七〇年代の坂本一成に焦点をあてたが、家型の問題を考えるうえで、東工大の系列は無視することができない。その後、坂本の《HOUSE SA》がさらに複雑かつ技巧的な屋根の造形に向かうのに対し、その弟子筋は時代の潮流ともシンクロしつつ、シンプルな家型の構成がもたらす空間の豊かさをめざした。

1──長谷川逸子《湘南台文化センター》

1──長谷川逸子《湘南台文化センター》

かわいい家型

一九九〇年代以降、海外でも、ヘルツォーク&ド・ムーロン、ギゴン・アンド・ゴヤー、MVRDVを含む、スイス、オランダ、北欧の動向は、日本に対して、大きな影響を与えている。例えば、ヘルツォークによる《レイマンの家》(一九九七)は、軒をださず、屋根と壁のつらを同じ素材であわせ、抽象化された家型を使う。
一方、青木淳の《N》(二〇〇七)は、あえて家型を抽象化することなく、唐突に切断された寄棟の屋根が浮く。ニュータウンの風景を異化しつつ、とり込んだものである。これはポストモダン的な感覚のリノベーションといえるかもしれない。乾久美子の《新八代駅前モニュメント》(二〇〇四)は、三角形の平面をもつことから、単純な家型におわることなく、高度な形態の操作をともなう。やはり青木事務所出身の寶神尚史も、かきとられた家型を試みている。
二〇〇〇年代の家型にもたらされた新しい感覚としては、「かわいい」を挙げられるかもしれない。最近、筆者がある大学の卒業設計の講評会において、敷地のまわりの住宅の屋根を記号的な家型に勝手に変えていた学生に理由をたずねると、だって、かわいいんだものという返事だった。中村拓志の《ランバンブティック銀座店》(二〇〇三)は、童話の世界から抜けだしたような小屋である。彼の《ネックレスハウス》(二〇〇六)や《DANCING TREES, SINGING BIRDS》(二〇〇七)も、小さいスケールに分解された家型の断片を効果的に使う。だが、建売住宅のイメージではなく、異世界への扉として機能している。藤森照信の《高過庵》(二〇〇四)も、小さい家型ゆえに、かわいいと思わせるだろう。
五十嵐淳の《tea house》(二〇〇六)は、家具のような家型であるが、本城直季が撮影したミニチュアのような写真が好んで使われるのは偶然ではないだろう。《MY CUP SUPPORT PROJECT》では、帯広の喫茶店のインテリアを移築した箱を大きな家型の空間が包む。そしてやはり再び注目されているアーチの開口部は、おそらく懐かしさとかわいらしさの感覚を与えている。彼は、家型がもたらす空間の現象に関心があるという。
藤本壮介の場合、三角屋根と片流れを組み合わせた《伊達の援護寮》(二〇〇三)、屋根の傾斜のストロークを変化させた《授産施設》(二〇〇三)、家型と平面の分節がずれた《情緒障害児短期治療施設家族療法棟》(二〇〇六)を手がけ、家型の部屋を積む《東京アパートメント》に到達した。ここでは、かわいらしさと凶暴さが同居している。西沢立衛の《森山邸》における分棟に屋根を与え、立体的に展開したものといえるだろう。そしてポストモダンにおける家型の集積が記号に頼ったことに比べて、空間そのものを立ち上げていることが特筆される。
平田晃久は、住宅地における屋根の連続を山脈の稜線と谷間と見立て、《HOUSE T》のプロジェクトに向かう。これは本来ならば、ひとつの家型になるところを分解し、複数の小さな屋根を並べる。それぞれの屋根の下は、ただの屋根裏部屋ではない。ずるずるとではなく、斜めの天井によってぎゅっとしぼったかたちで、相互に、あるいは一階のレヴェルと緊張関係を結ぶ。つまり、家型が積極的に新しい内部空間を生む。ここで、われわれは初めて屋根と出会った、というべき記念碑的な作品である。[了]

2──中村拓志《DANCING TREES, SINGING BIRDS》

2──中村拓志《DANCING TREES, SINGING BIRDS》

>五十嵐太郎(イガラシ・タロウ)

1967年生
東北大学大学院工学研究科教授。建築史。

>『10+1』 No.50

特集=Tokyo Metabolism 2010/50 Years After 1960

>ポストモダン

狭義には、フランスの哲学者ジャン・フランソワ=リオタールによって提唱された時代区...

>坂本一成(サカモト・カズナリ)

1943年 -
建築家。東京工業大学教授。

>伊東豊雄(イトウ・トヨオ)

1941年 -
建築家。伊東豊雄建築設計事務所代表。

>入江経一(イリエ・ケイイチ)

1950年 -
建築家。パワーユニットスタジオ主宰。

>宮脇檀(ミヤワキ・マユミ)

1936年 - 1998年
建築家。日本大学教授。

>黒川紀章(クロカワ・キショウ)

1934年 - 2007年
建築家。黒川紀章建築都市設計事務所。

>原広司(ハラ・ヒロシ)

1936年 -
建築家。原広司+アトリエファイ建築研究所主宰。

>毛綱毅曠(モヅナ・キコウ)

1941年 - 2001年
建築家。

>隈研吾(クマ・ケンゴ)

1954年 -
建築家。東京大学教授。

>藤森照信(フジモリ・テルノブ)

1946年 -
建築史、建築家。工学院大学教授、東京大学名誉教授、東北芸術工科大学客員教授。

>内藤廣(ナイトウ・ヒロシ)

1950年 -
建築家。東京大学大学院工学系研究科社会基盤学教授、内藤廣建築設計事務所主宰。。

>アトリエ・ワン

1991年 -
建築設計事務所。

>西沢大良(ニシザワ・タイラ)

1964年 -
建築家。西沢大良建築設計事務所主宰、東京芸術大学非常勤講師、東京理科大学非常勤講師。

>清家清(セイケ・キヨシ)

1918年 - 2005年
建築家。東京工業大学名誉教授、東京芸術大学名誉教授。

>篠原一男(シノハラ・カズオ)

1925年 - 2006年
建築家。東京工業大学名誉教授。

>青木淳(アオキ・ジュン)

1956年 -
建築家。青木淳建築計画事務所主宰。

>乾久美子(イヌイ・クミコ)

1969年 -
建築家。乾久美子建築設計事務所主宰。

>藤本壮介(フジモト・ソウスケ)

1971年 -
建築家。京都大学非常勤講師、東京理科大学非常勤講師、昭和女子大学非常勤講師。

>西沢立衛(ニシザワ・リュウエ)

1966年 -
建築家。西沢立衛建築設計事務所主宰。SANAA共同主宰。横浜国立大学大学院建築都市スクールY-GSA准教授。