RUN BY LIXIL Publishingheader patron logo deviderLIXIL Corporation LOGO

HOME>BACKNUMBER>『10+1』 No.50>ARTICLE

>
化(ケ)モノ論ノート | 瀝青会+中谷礼仁
Note on Kemono | Rekiseikai, Nakatani Norihito
掲載『10+1』 No.50 (Tokyo Metabolism 2010/50 Years After 1960) pp.11-24

黒い戸

見飽きない写真がある。
篠原一男設計による《白の家》(一九六六)のモノクロームの内観写真だ[図1]。その家の台所わきの裏口側から眺めた居間の様子が記録されている。村井修撮影によるこの写真の緊張感は、立ちつくす面皮柱、精妙に消え入る天井、開口のプロポーションをはじめとして、白い空間に置かれた家具や小物を含む写り込まれたものすべてが緊密に構成されていることに由来するものだと思っていた。
しかし今和次郎の訪れた民家を再訪してさまざまな体験が蓄積しつつあったさなかだったろうか。ある日再びその写真を眺めていて、この《白の家》の緊張感が実はむしろ別の理由によってこそ立ち現われていたことに気がついたのだった。
冷静に眺めれば、この白い空間の張りつめた空気は、実は写真のほぼ中央に写っている黒い引き戸によってこそ成立していた。《白の家》という名が、その黒い戸の存在を消去していたのだ。この戸が壁と同じ仕上げであったらどうなるか。白いノートをちぎって、試しにその黒い戸を隠してみた。空間はすでに別のものになっていた。
つまりこの写真がとらえた緊張した空気は「白」のみで表わしうるものではなかったのだった。むしろその白い空間の背後に何か得体の知れない「黒さ」が至近に迫り、そしてそれがいまにも戸を引いてその白い空間の純粋を混濁させようとしている。黒い圧力への戸一枚を隔てた白からの対抗が、この空間を緊張で満たしていたのだ、といまは結論づけている。黒い戸を引くモノ、押し返すモノ、それらの手に込められた拮抗する力だ。

国内の山村にして遠野よりさらに物深き所にはまた無数の山神山人の伝説あるべし。願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。


前回、柳田國男が『遠野物語』の冒頭にこんな言葉を書きつけたことを記した。そしてまた私たち瀝青会の目的もまったく同じである。家の根源をもって「平地人」の現在を戦慄せしめること。それができなくてはこの再訪作業の意味は半分見失われたも同然なのだ。家の作り手、あるいは住み手の意志に関係なく、避けがたく現われてきてしまう家の構成はあるのか。つまりそれこそ家が永遠の存在たりうる絶対条件なのだが、はたしてそんなものがあるのだろうか。
一方で、都市に私たちの生存を保証する機能が散在している。家が担ってきたはずの機能の多くはすでに散逸している。いまにはじまったことではない。マチがはじまったときからそうなのだ。そして挙げ句の果てに家はすでに不要だという指摘さえある。しかしなお筆者は、「家」があり続ける根拠がけっして消えないことを、試みに書きつけてみたいと思うのだ。

1──篠原一男《白の家》(1966) 撮影=村井修

1──篠原一男《白の家》(1966)
撮影=村井修

インドネシア

さて筆者が個人的に民家の再訪作業を企図したきっかけは、実は「日本」においてではなかった。それはインドネシアの伝統住居を活写した本との出会いからであった。ロクサーナ・ウォータソンによる『生きている住まい──東南アジア建築人類学』(原題=The Living House: An Anthropology of Architecture in South-East Asia、布野修司監訳、学芸出版社、一九九七)である。同書には著者自身による写真以外にも、植民地時代に撮影された二〇世紀前半のインドネシア諸島各地の民家の様子が多数収められていた。強制的に取り壊され、いまではほとんど消滅してしまったそれらの姿に驚嘆し、見入ってしまったのである。たとえばマンガライの地にあった巨大なロングハウスの棟に付加された水牛の頭の彫刻を見るとき、それはまさに一頭の牛のようで家そのものが生きているかのような錯覚がはじまる[図2]。ほかにも屋根がそのヴォリュームの大半を占める東南アジア各地の民家の美しさは特筆に値する[図3・4]。それに比べてそれを作ったはずの人びとはちっぽけで、まるで家の内蔵に巣くうバクテリアのようだ。そのとき変哲もないと思っていた「生きている住まい」という書題の本意が見えてきた。つまりここにおいては家こそが生きており、人はその家の存続のために生まれては消えていくものなのだということである。それは人間の生き方として一片の真実を語っているように思われた。であるならばここ日本の民家においてもそんな「真実」が存在しているかどうかをこの目で見たくなったのであった。今和次郎が用意してくれた民家たちは、九〇年後の再訪という偶然を含んだ、なにものにも代えがたいその確認対象だったわけである。そしていくつかの再訪作業をこなしてきた現時点において、そのような民家の継続性が、インドネシアほどの象徴性をもたないにせよ、確実に存在していたことが実感されるのである。
さて『生きている住まい』にはインドネシアの住まいの様子を刻んだレリーフが掲載されていた[図5]。ボロブドール寺院第一回廊北側のものである。ロクサーナによればそのレリーフに描かれた住まい方の様子は、今日のインドネシアの民家の多くに典型的なものとして受け継がれているという★一。
トリミングされたレリーフの中央には高床形式の建造物がある。開口部が少ないので通常の住居というよりは高倉を表わしているようである。ロクサーナはこのレリーフにおいて日常生活が「高倉」の床下空間で行なわれていることに注意を促している。「生きている住まい」の優位性を示したかったのかもしれない。しかしそれだけではなく、「高倉」の屋根上には二匹の鳥が留まっていた。また鳥に向かって屋根に梯子がかけられ、鳥の横に壺が置かれている。鳥と人間との交感が行なわれていることを暗示しているかのようだ。「高倉」、そしてその床下の日常生活のみならずこの鳥の存在によって、このレリーフにはたしかに格別な意味が込められることになった。なぜか。それは人間の生から死までの移行が刻み込まれているからである。床下の生活、高倉、屋根に留まった鳥、それらモチーフの解読を試みたい。
まずインドネシアにおける住まいの概要はどのようなものなのだろうか。同地は文化人類学の多様な成果を生み出してきた。そこにおける民家の複雑なヴァリエーションの概括を提示することは筆者にとっては難事だが、いくつか重要な点を示唆することができる。
まず紀元前に遡る初期金属時代に製作された青銅鼓に描かれた住まいのモチーフがある。ロクサーナの採り上げたそれらモチーフのサンプルには床下の生活空間、人とともに諸器物が混在した建造物部分、そして屋根上の鳥の姿というセットによって共通している。特に東インドネシアのサンゲアン島で発掘されたレリーフには建造物内部が二層に区切られ、その構成が詳細に描かれている点で興味深い[図6]。床下は家畜や人びとがたむろする雑踏─社会である。その上の建造物の一層目においては儀礼的な所作を含む人びとの生活が描かれている。そして二層目つまり屋根裏にはその家族の貴重な諸器物が収められていることに気づくのである。
先に挙げた「生きている住まい」としてのマンガライのロングハウスは、複数家族住居であり数百人が居住できたという。「衛生上の理由」によってオランダ当局によって破壊された。それら高床住居の床は簀の子でできており、その割れ目からゴミをそのまま流していたのであった。そしてロングハウスの巨大な平面においては単なる共同生活のみならずその親族全体を統括するような儀礼的所作が行なわれ、さまざまな意味的差異を持つ平面空間が発生したのである。
しかしロクサーナによればインドネシアの住居でもっとも神聖な場は屋根裏の空間であるという★二。私たちがより注目すべきは生活平面上の差異ではなく、その上にある倉=屋根裏との垂直的関係である。
そこには家宝と貴重品が収められている。まさに先の青銅鼓に描かれたモチーフどおりである。たとえばロングハウスがいくつかの層をもつことは工事中の様子を写した貴重な写真によっても明らかである[図7]。このような意味で先の三層の垂直空間(床下、高倉、鳥)は、実際にはお互いに共通する集合領域をもつように微妙に重なり合いつつ構築されていることがわかるのだ。

2──マンガライのロングハウス 引用出典=『生きている住まい』

2──マンガライのロングハウス
引用出典=『生きている住まい』

3──フィジーの家 引用出典=『生きている住まい』

3──フィジーの家
引用出典=『生きている住まい』

4──南ヴェトナム高地のベナール族の家 引用出典=『生きている住まい』

4──南ヴェトナム高地のベナール族の家
引用出典=『生きている住まい』

5──ボロブドール寺院第一回廊北側のレリーフ。 東南アジア建築研究の第一人者のジャック・デュマルセ撮影による 引用出典=『生きている住まい』

5──ボロブドール寺院第一回廊北側のレリーフ。
東南アジア建築研究の第一人者のジャック・デュマルセ撮影による
引用出典=『生きている住まい』

6──ただしこのレリーフに限って屋根上の鳥は描かれていない。屋根上に何かがあるのだが…… 引用出典=『生きている住まい』

6──ただしこのレリーフに限って屋根上の鳥は描かれていない。屋根上に何かがあるのだが……
引用出典=『生きている住まい』

7──建設中のカヤン族のロングハウス (1900年撮影) 引用出典=『生きている住まい』

7──建設中のカヤン族のロングハウス
(1900年撮影)
引用出典=『生きている住まい』

モノ論──者と物との往還

それではもう一方の、屋根上の鳥と「高倉」とはどのような重なりを持つのだろうか。それはロクサーナが「死の家」と題した章において明らかにしている。彼女いわく、西洋世界においては住む場所としての住居の機能はほかのなにものにもまして優位にあるのに対して、東南アジアの住居は、必ずしも第一義的には居住の場所ではない、と言う★三。親族の起源の場所として不可欠であるが、実際には住まわれないものすらあるという。
人が死ぬということは、端的に言えば者(モノ)から物(モノ)への移行にほかならない。風葬をもっぱらとする同地においては、その遺体は、神聖なモノへの移行期間に入るのである。タナ・トラジャでは裕福な貴族の死体は、最後の大葬儀へ向けての入念な準備をするあいだ、一年あるいはそれ以上の期間、住居の中に安置される★四。そして死者の骨を包み直し墓へ埋葬されることになるわけだが、興味深いのはその墓の多くが家のかたちをしていることである。そしてその墓としての「家」の棟には鳥の彫刻が留まり、彼の魂を来世へと運ぶのである。それら鳥と墓との強い関係を示す写真のなかでも、サラワクで撮影された霊廟は驚異的である[図8]。その「家」はまるでその住居機能のみを消滅させたかのように空中高く浮かび、浮遊感を一層強調するかのようなツタ状の彫刻に取り囲まれている。そしてやはりその一番上には抽象化された鳥が留まっている。ここで表わされているのは、高倉と死体(オブジェクトとしての体──者から物への移行)との親和性である。そしてそのオブジェクトから霊魂が離脱する際に手助けをする鳥という飛行体である。ここにおいて屋根裏と鳥のいる空がつながるのだ。
今までの話をまとめよう。生と死とには圧倒的な断絶がある。つまり床下の日常生活と鳥が連れていってくれる来世とは隔絶している。この隔絶のあいだに挟み込まれ特殊な役割を果たしたのが住居の収納空間である倉なのである。
文化人類学者の佐藤浩司は住居の本質を倉にみた。東南アジアでは高倉自身が崇拝の対象となり、住居よりも高い価値を与えている例が多いと指摘するのである。

稲穂を納める高倉が墓と関係する例は、琉球列島を南下したルソン島のイフガオ族にもある。(…中略…)富裕な者の場合、穀倉のと同じ四本柱の建物を埋葬に使う地方もある。この時には、建物の床に穴をあけておいて、やがて腐乱しはじめる死体の体液は、この穴を通して屋外に滴り落ちる。この一種の風葬墓をさすアバイヤオという言葉が、別の地域では一本柱の穀倉をさすのに使われるのも、死体を保存する墓と穀倉の関係を示している。
「建築を通してみた日本」★五


死は高倉でのモノ化を通じて、鳥による来世への旅立ちを可能にする。生から死への移行がこれによってリンクしているのである。先に挙げたレリーフにそのダイアグラムを当て嵌めてみると図9のようになるだろう。
そして物質としての亡骸は高度に抽象化された彫刻として、形見として、家の中に留まり子孫たちを見守る役目を担う。その彫刻には生と死の両義性を兼ね備えた高度な抽象性がみられる。まさに者(モノ)から物(モノ)への移行の瞬間が刻み込まれているのだ[図10]。
ここで、者(モノ)から物(モノ)への移行を可能にするこのような特殊な状態および時空を、《モノ》および《モノ空間》と総称したい。いまそのもっともわかりやすい例として人間の生から死への移行を例に挙げた。たしかにこのような移行は特殊な状態ではあるが、しかし実際はより恒常的に、ようは日々起こりうるものであることに注意したい。後述する。

8──サラワクの霊廟 引用出典=『生きている住まい』

8──サラワクの霊廟
引用出典=『生きている住まい』

9──ヒト・倉・トリ構造 筆者作成

9──ヒト・倉・トリ構造
筆者作成


10──タンニバルの住宅の祭壇に飾られた先祖の像 引用出典=『生きている住まい』

10──タンニバルの住宅の祭壇に飾られた先祖の像
引用出典=『生きている住まい』

今和次郎「間取について」再考──日本の民家におけるモノ空間の所在

筆者が今和次郎『日本の民家』のなかでもっとも感銘を受けた一節を挙げる。それは新開地の開拓のために入植者が作った粗末な小屋に彼が入った時のことであった。

私はある野原で彼らの家の一軒を訪問したときに、胸が透き通るような光景をその家の中に見たことがあった。石油箱は壁の隅に置かれて、女の子の綺麗きれいな下駄がその上にきちんと載せられ、その後に生々しい位牌いはいが置かれてあった。田舎の家を調べて歩いていると、一等の劇場でも得られない感銘を与えられることがしばしばある。
「構造について」(『日本の民家』)


今は粗末な開拓小屋の中で、幼くして死んだ少女の形見に出会った。その情景を思い浮かべる時、誰しも深い感慨にとらわれずにはおれないと思う。おそらく今はこの出会いを、主人不在の小屋にことわりなく入って遭遇してしまったのだった。それがわかるのは、その直後にこんな一節が置かれているからである。

ここの家の人たちは昼天気のいいときじっとしていられないのだ。彼らは夜とそして雨のときだけこの家に居ればいいんだ。私はその中で方々見まわしているとき、もしもその家の主人が帰って来ると、極く粗野な土地ではぼうとした表情で彼らが私の姿を凝視する。また多くのみやこびた土地では、恥かしそうに、また言い訳するような表情で私から逃げるようにする。
同


この後半から推測できるのは、石油缶の上の少女の位牌は、それをまつった家族にとってみればそれをなるべくなら見られてほしくなかった対象であったということである。普段は隠されているべきその取り合わせが、間取りもない粗末な小屋の中ゆえに純粋に露出してしまった一瞬の光景に今は遭遇したのだった。
『日本の民家』の第一部をなす論文編はこの引用直後に「間取について」という日本の民家の平面の成り立ちについて考察した部分に入る。ここで今が論じたいくつかの間取りを再検証しつつ、先のインドネシアの民家にあったモノ空間が日本においても見出しうるのかを検討することは魅力的なことだろう。とはいえそれを論じるにはいくつかのハードルがある。そのひとつは今の間取り解釈が後の研究者たちによって乗り越えられ、その後のより精緻な成果を無視することができないことである。しかしこれについては今の間取り論をその後の成果のエッセンスによって補強することでむしろ役立てることができる。しかし二つめはさらにやっかいである。それは日本の民家には竪穴式住居と高床式住居双方、あるいはその後の大陸建築を淵源とする貴族住宅の影響が混在していることである。それらの複雑な影響関係を検討考察することはここでは割愛せざるをえない。とはいえ日本の民家が接地式であった竪穴住居を土台として展開してきたことはほぼ大方の認めることなので、日本の住居形式の混在問題とそこでのモノ空間の発生の有無の検討を、本稿では次のように簡略した問題の立て方によって試みたい。
それは(インドネシアでは)垂直的構造でとらえられたモノ空間が(日本における)平面的構造においても出現可能かを問うことである。

さて今は日本の民家の間取りの変遷を展開するにあたり、そのもっとも簡素な具体例を実は先の開拓小屋に求めている[図11]。ほとんど何もない状態で開拓地に入植してきた彼らの仮住まいにこそ住み処の本質があると考えたのであろう。中央に大黒柱にあたる棟木を支える柱が一本立っており、そのほとんど全部の平面がドマである。入り口からみて奥の一隅に小板を数枚張ってそこに炉を置き食事をしている。そしてその裏には天井からむしろが降ろされ、見えないようになった空間が寝床になっている。その横は食料を置く物置になっていた。開拓小屋から日本の民家の間取りの考察をはじめたことは、今の間取り論が編年論(形式の新旧を検討する論)ではなく、モノ空間論と同じく、遍在的な(どこにでも発生してしまうような)空間論であったことを示している。
それは方形平面をドマと食寝とその付属の物のための場所の大きく二つに分けた(後者が後にユカが張られる部分である)二元的な平面である。この基本間取りをもとに、時代を遡って出雲大社平面の神座の位置との類似性が指摘され[図12]、また伊勢神宮の神明造りの内部平面が二部屋によって構成されることにも共通の性格を見出している。これについて今は「神さまのおらるる所は入り口から見えない方がいい」という面白い指摘をしている。というのもこの二室空間は中世以降の内陣・外陣のように、人の入る場所(外陣)を宗教建築内部に挿入したわけではなく、そのような要求なしで神の仮住まいとしての神社に二つの差異のある空間の必要性が原理的に指摘されているとも思えるからである★六。それは「見えない方がいい」空間が存在することから由来している。これは一体どのような空間か。

11──移住小屋 引用出典=『日本の民家』

11──移住小屋
引用出典=『日本の民家』

12──出雲大社平面 引用出典=『日本の民家』

12──出雲大社平面
引用出典=『日本の民家』

納戸に収納されるモノ

日本の民家の間取りの展開は、端的に言えば農民の住まいを介した社会的関係性の豊富化にともなう間取りの差異化、多数化である。それゆえに、身分の低い貧しい農民たちの住まいの場合、その多くが幕末に至るまで竪穴式住居とほとんど変わらない掘立ての一室空間であったという近年の指摘もうなずけるのである。いま私たちが訪れる文化財的対象としての民家はそれとは正反対の豪農の家、要は社会的関係性の豊富であった家に限られがちであることに注意したい。と同時に、当時の今の学的蓄積を補い★七、なお「素形」としての開拓小屋からはじまり、後から追加された部屋ではなく、つねに存在せざるをえなかった空間を探っていった時、私たちは納戸ナンドとよばれる収納スペースの存在に行き着く。納戸は現在の私たちの感覚からは単に器物を収納する大きな押入れ程度に考えられている。しかし納戸はそれ以上の機能を持っていた。
試しになるべく古い民家を見学するとよい。ここでは今以降の編年研究によって見出された、いわゆる広間型と称される、より古式の間取りの山田家住宅を見てみたい[図13・14]。ドマ側からユカへ向かって間取りを見渡す。すると農家といえばすぐに思い浮かべるドマと立派な框の上にしつらえたユカ空間とのセットもまだ見当たらない。そこにあるのはたたき固められたドマと、その上に蓆を敷きならべたユカをしつらえられた、大きくは二つに分かれる空間である。ドマにおいては住まいの外からの続きである農作業が連続し、低いがイロリを持つユカによってそれら社会的作業(労働)と生活とを分離したわけである。そしてそのユカ部分の奥にはさらにユカを一段高くして左側に閉ざされた小さい空間が付設する。これが納戸である。いわば家の中の倉であり、大切なものを収納するばかりでなく、それに加えて寝間ネマ、つまりは人(主人とその妻)も収納される場所だったのである。そしてその横には逆に開放的なユカから続いたデイという空間がつくられている。デイという呼称も地域によってさまざまであるが、当時の農家では高級家具であった畳を敷き詰めたりして、外に面し儀礼に用いる格式を持つ部屋のことである。そのような開放的かつ儀礼的な部屋の横に、納戸という閉鎖的な納戸(図14では「へや」)が対称的に設けられているのだ。もちろん納戸はその後の民家の間取りの典型である田の字型になっても、ウラの奥の一隅に必ず設けられた。私たちが現在の民家を訪れると、オモテの座敷は気楽に通してくれるものの、ウラ側には「散らかっているから」という理由でなかなか入れてくれないものだ。それはそこが納戸だからである。納戸は単なる収納ではない。納戸にまつわるいくつかの覚え書きを紹介する。

この部屋は地域によって、ヘヤ・ヒヤ・チョンダ・ネビヤ・ウチザなどと呼ばれて一般的に非常に閉鎖的な部屋で、出入のための一個所の戸口以外はすべて壁で閉じた家が多かった。なかには戸口を引き込み戸にしたり、敷居を一段高くした家もあった。また室内には装飾的な工夫を施さず、荒壁のままで、温暖な地域では天井を欠く家も多かった。
この納戸の日常の使用目的は、家財や穀物の収納と就寝が主要なものであり、筆者も調査の機会に、納戸の中に身体の不自由な老人が寝ておられる光景に幾度となく出会った。(…中略…)筆者はかって納戸の使用目的について農家の老主人に質問したところ「子供をつくるところじゃ」という明快な返事が返ってきたことを記憶している。(…中略…)また納戸は婚礼だけでなく、人の生と死の習俗とも深く関係していた。納戸が出産の場所に使われる習俗は、先の波照間島や富山県の五個山地方などに見られる。死者の湯潅を納戸で行った地域も多く……
 大河直躬『住まいの人類学──日本庶民住居再考』


大河は指摘していないが、納戸の入り口の敷居が一段高かったのには重要な理由がある。それはここに新しい藁やもみ殻などを厚く積んで寝具としたからで、それらが納戸以外に出てくるのを防いだのである。敷布も掛布もなく要はもみ殻の中に身体を埋めて寝たのである。筆者も何件か実際にその光景を覚えている人から話を聞いた。福島では初老の女性から次のような話を聞いた。彼女が子供の頃、山村に住んでいた時、近所の家の板壁の納戸から素裸の老人が起きてきたという。納戸の中にはひじ藁という藁かすを詰めた布団が重なり、その下は蓆が敷かれていた。一間ばかりの暗い部屋で開口は高いところにひとつ、かんぬきで完全にふさぐことができたという。主人夫妻の寝間であり、子どもたちは納戸以外の場所に思い思いに寝ていたという。筆者のみならず、そんな寝間に試しに寝てみたいという気持ちを強く抱くのは、その就寝の光景が極めて原始的なあるいは胎内的な魅力をもつからだろう。
原始との連関を証するように、古代以前の穴居からはじまったムロ、貴族住居の寝殿造りの塗籠(ヌリゴメ)と、民家における納戸との連続性についての指摘もある★八。越冬用につくられた土中の部屋であるムロは、後には古事記伝も伝えるように、家のもっとも奥にあって、土で塗り籠め、夏は涼しく冬は暖かく寝る空間として牟婁(ムロ)と称されたのである。この原始的空間は平安時代の寝殿造りにおいても塗籠として残存した。「竹取物語」で使者から逃れさせようとかぐや姫を収納した場所こそが塗籠であった。寝殿造りの開放的な空間で塗籠の内部だけが人を安全に守る場所であった。ムロ、塗籠、納戸(あるいはチョウダイ、ネマ)は以上のようにヒトを収納するという空間として共通する性格を強く持つのである。

藁や籾の香りに包まれて眠るのは、多産と豊饒をつかさどる納戸神の霊力にふれる機会であった。納戸を祭場として田の神や歳の神を祀り、期日を定めて餅や御神酒などを供える信仰が、西日本にはとくに発達している。(…中略…)そんなところから納戸神の実体は穀霊であると考えられているが、それは穀物の収穫を左右すると同時に、人の誕生を左右し、女性や子供の安全を守る女神でもあった。
塗籠がそうであったように、納戸の空間も女性原理によって支配されていた。納戸を産室として利用する習慣は日本各地で見ることができるし、納戸に置かれた物を管理し、納戸神を祀る儀式を行うのはたいてい主婦の役目だった。
佐藤浩司、前掲論文


以上のような考察を援用して、佐藤は納戸と倉との、意味においても機能においても強い重なりあいを見るのである。そこでは者(モノ)と物(モノ)との交感が行なわれたのである★九。
私たち瀝青会も伊豆大島にてミニチュア化された広間型とでもいうべき民家をたくさん調べた。すでにその頃はこの納戸空間の特異性に敏感であったので、伊豆大島の納戸(現地ではチョウダイという)をみて、普段では気がつかなかった異和感をつねに感じていた。それはその納戸の黒さであった。日本民家の開放的な吹き放ちと建具で構成された空間の中で、納戸の一角だけが戸以外のさしたる開口を持たずまさにブラックボックスとして置かれていたのである。そして納戸の壁まわりには仏壇や神棚が所狭しと設置されていた。納戸に霊的側面が付属していることも明らかであった[図15・16]。
このように器物を収納する納戸は同時に産室、寝床、性の営み、そして死の場所として用いられ、同時に豊饒を祈る納戸(先祖)神が祀られていた。これは先のインドネシアにおける高倉での人のモノ化とまったく同様の性格を持った空間である。つまりインドネシアでは垂直的関係において現われたモノ空間が、日本の民家では平面的間取りにおける納戸として水平に展開していったのである。ヒトは生まれ、眠り、性を営み、死ぬ。これらはすべて社会的状態におけるヒトとは別の状態、ヒトが自らの意識においては自らを制御しえない状態である。その時ヒトはオブジェクト─モノと化しているのである。
さて納戸における者と物との同化状態を指摘したが、さらに言うなら、それらのヒトのモノ状態はすべてにおいて特殊な生産行為をともなっていることをも指摘しておかねばならない。性の営みは日常とは切り離された生物的な快楽を生み、その結果子どもを産出する。死は霊を生み、そして睡眠は夢を生む。いずれもが日常的には生み出すことのできない、より大きな生命サイクルに包含された特殊な生産行為なのである。そして筆者はいまここにもうひとつの機能を付加したい。それは創造行為である。「鶴の恩返し(鶴女房)」に代表される説話系に現われる納戸の中で自らの羽をむしり機を織る(命とひきかえに奇跡的な事物を生産する)行為である。その状態は他者に見られたが最後、その行為の本質はそこに存在することはできずに、本来の鳥の姿となって空へ帰ってしまうのである★一〇[図17]。
さて現在の生活において、ヒトは生と死とを家から追い出してしまった。しかしながら性は未だに残り、安楽な夢見も未だ追い出されてはいない。それらは生から死ほどの決定的な移行ではないが、実は者(モノ)と物(モノ)とを日常的に往還するモノ行為なのである。「トランス」という状態は実はこのような往還可能なモノ的時間のことをさしている。そしてあなたの部屋はモノが散り乱れてはいないだろうか。そこは部屋ではなくむしろ納戸であり倉なのである。その意味で独身者のワンルーム空間はすべて納戸空間と言っても過言ではないだろう。

13──山田家住宅(長野県下水内郷栄村より豊中市日本民家集落博物館へ移築、重文、18世紀後期)奥左が納戸空間、右がデイ。 引用出典=大河直躬『住まいの人類学──日本庶民住居再考』(平凡社、1986)

13──山田家住宅(長野県下水内郷栄村より豊中市日本民家集落博物館へ移築、重文、18世紀後期)奥左が納戸空間、右がデイ。
引用出典=大河直躬『住まいの人類学──日本庶民住居再考』(平凡社、1986)

14──山田家住宅平面図 引用出典=『住まいの人類学』

14──山田家住宅平面図
引用出典=『住まいの人類学』

15──伊豆大島の民家。 納戸にあたるのは右上の「てうだい」と書かれた空間。 土地の稀少な漁村にあっていずれにせよたいへん狭く、 現在のチョウダイは器物の収納がほとんどであり ヒトは寝ていないとのことであった。 なお形式だけが強く残存したのであろう。 納戸に仏壇が作り付けされていることに注意 引用出典=『日本の民家』

15──伊豆大島の民家。
納戸にあたるのは右上の「てうだい」と書かれた空間。
土地の稀少な漁村にあっていずれにせよたいへん狭く、
現在のチョウダイは器物の収納がほとんどであり
ヒトは寝ていないとのことであった。
なお形式だけが強く残存したのであろう。
納戸に仏壇が作り付けされていることに注意
引用出典=『日本の民家』

16──伊豆大島に残る古民家のチョウダイ(納戸)の様子。その黒さがほかと比べて引き立っている 筆者撮影

16──伊豆大島に残る古民家のチョウダイ(納戸)の様子。その黒さがほかと比べて引き立っている
筆者撮影


17──化モノ空間において達成される特殊な生産の一覧 筆者作成

17──化モノ空間において達成される特殊な生産の一覧
筆者作成

納戸のユカ

しかし民俗学者の宮本常一はつい最近公開された彼の未発表稿で、納戸における出産について異議をはさむ。きわめて貴重な指摘である。

もともと子供を産むのは寝間とかぎっていたわけではない。(…中略…)土間で子を生む風もあったし、別に産小屋をつくってそこで子を生む風習も伊豆の島々をはじめ、熊野、瀬戸内海東部などにはつい近頃まで広く見られたのである。
「寝間と家の神」★一一


確かに先に紹介した伊豆大島においても、島誌によれば女性が月経の時や出産の時は家とは別の小屋で過ごす風習があったことが指摘されていた。その一般的な理由について宮本は、子を生むことは尊いことであったが、子を生む時にでる血やエナはけがれたものと考えられた。このけがれが家につかないために産室を別にするのだと指摘している。逆に宮本は納戸で出産が行なわれていた例も紹介しているので、ドマで出産が行なわれた事例をもあえて指摘したことが重要である。この指摘には、民家に対する宮本の「ドマvs.ユカ抗争史」とでもいうべき基本的な民家史観が隠れている。宮本はドマで出産が行なわれた事例をいくつか挙げ★一二、むしろ出産の場所をより原始的な大地(ドマ)での行為に強く関係づけようとしたのである。
宮本によれば民家に板ユカがはられるようになったのは、仏教の侵入によるものである。ユカが仏間や僧侶を招くためのものであった事例を紹介し、板敷のユカが、地続きのドマとは異なった象徴的な位相を持つ新たな空間であったことを示唆しているのである。そのため仏教的観念によってけがれを伴う出産行為はドマで行なわれたことを指摘し、それによってユカとドマとの対比をさらに明瞭にしているのだ★一三。納戸でなくドマで出産が行なわれた例は、最近のことだが、筆者が民家を研究していることを聞きつけた対馬出身の女学生が自分の家の祖母の時代の思い出として教えてくれたことからも明らかである。つまり宮本の指摘やその女学生の報告によればモノ空間としての納戸にひそむ原始性はユカ上にあることでその勢力を殺がれてしまう。
しかしそうではなかった。宮本は自分の体験談を続いて紹介している。

私の聞き取り調査によれば、幕末の頃までは都会をのぞいて、西日本の民家の大半は竹簀張りであった。だから産湯はこの竹簀の上からそのまま流せばよかったので、他の間が板張りになっても寝間だけは竹簀張りになっているところをいまも所々に見かける。
先般も多摩丘陵をあるいていて、解体中の家を見かけたが、ナンドだけは竹簀張りになっていたが、そこが竹簀張りであるのは子を生むためだと語っていた。
同、一一二頁


つまり納戸だけあえて古式が残された。竹簀張りにして水をかけて、それによってけがれを清められるからである。納戸はいわばユカ部分にぽっかり空いた穴なのである。
このようにして宮本の異論によって見出しえたのは、むしろ近代になっても根強く残存していた納戸の始源性である。他の部屋が板張りや畳敷きになっていても納戸だけが竹簀によって大地と連絡している。理念的に大地に接しているのである。そして先の大河の指摘において天井のない納戸もあるのだとすれば、納戸はまるでインドネシアの高倉のような大地と空との垂直性をも持ち合わせていたということになりはしないか。以上のような納戸における原始性のかくれた保持は、もはやそのモノ空間としての完成度をほとんど完璧なセットとして実現していたのだと筆者には思える。

黒いオープンスペース──《白の家》の二元構造

ところで読者の方は、先の山田家の写真(図13)に何か既視感を持たないであろうか。山田家のドマからの写真は、筆者にとっては冒頭に挙げた《白の家》の内観写真(図1)との強い共通性を覚えるのである。なるほどそこには白い壁も黒い戸もないが、山田家の空間にも漂う緊張感は、その奥に設けられた黒い小部屋が担保しているとは言えなくはないだろうか。白の家の白い空間に拮抗した黒い戸は納戸の戸ではなかったか。
実際に《白の家》の間取りを検討すると、以上のような指摘があながち外れていないことがわかる。黒い戸は寝室の入り口であったからだ。
《白の家》は方形屋根、正方形平面の二階建て住宅である[図18]。その一階間取りは、大きく二つのスペースによって分割されている。「広間」が白の空間であり、ちょうど村井が撮影した空間である。厳選された家具が配置されたオモテの空間である。そしてもう一方が《白の家》を語る際になぜかほとんど語られることのなかった、「寝室」である。しかしこの寝室は単なる寝るための空間ではないだろう。というのも篠原は広間と寝室との平面的な割合を約三対一程度に分割しているからだ。そのうえこの家には確たる収納スペースがない。つまりこの「寝室」は、白の空間を成立させるためにも、まさに者(モノ)と物(モノ)とがともに収納される空間にならざるをえない。白の空間を白いオープンスペース(現代の建築家が大好きなものなのだが)とすればその背後にはかなり大きな比率で、いわば「黒いオープンスペース」(納戸─モノ空間)が隠されていたのである。その「黒いオープンスペース」は外に対しては閉じているが、その内部における空間序列は者と物の可変性を維持して開かれている。白のオープンスペースが天井を持ち一階であるのに比べて、「黒いオープンスペース」が子ども用と夫妻用に二層分用意されているのであるからその比率はさらに高まる。
《白の家》における寝室の様子についてはほとんど言及されたことがない。写真すらもほとんど流通していない。ただ唯一、発表当時の『新建築』(一九六七年七月号)には貴重な二層目の寝室写真が掲載されている[図19]。その空間は広間が方形空間であったのに対し、屋根の勾配を素直に表わした屋根裏部屋になっていた。そしてその空間の上部にはトップライトが設けられていた[図20]。
なぜ白の広間にトップライトがなく、寝室にこそトップライトがあるのだろうか。その理由は定かではない。しかしトップライトがいずれにつけられるべきものであるかということについてはおのずと了解できるような気がする。その自然な了解の感覚の背後には、納戸=倉=モノ空間がその移行の最終局面において鳥と空とを必要としたことを私たちが普遍的に感じているからではないだろうか。「広間」は社会的な空間ゆえにその開口は水平に、周囲に対してあけられている。対して「寝室」は、納戸であったからこそ、空へ向かう垂直的な開口が必要だったのではないだろうか。それはモノの最終的な出口なのである。主人は寝たまま空を見上げ、鳥が一瞬横切るのを見なかっただろうか。あるいは鳥が自分を見つめているのを見なかったろうか。竣工当時の寝室についての太田邦夫の貴重な証言がある。

私はこの空間の静かな落ち着きを感じながら、ついでに二階の寝室を見せてもらった。ところがこの空間は方形の天井そのままにトップライトをつけ、南北に風の吹き抜ける動きのある部屋であった。外部のフォルムと一体になった輪郭、しかも中心を片寄った位置での仕切り壁による空間の傾きは、一階の広間と対比して異様ではあるが、またそれだけ人間臭い気楽さがある。この家の主婦(工芸家)によると、とても住み心地のよい寝室だとのことである。私にはこの二つの空間を結ぶ小さな窓をもっと象徴的に扱えなかったかと不満に思われるほど、一、二階の部屋に対する設計者の態度にはひらきがあった。一階の子供室はのぞかなかったが、古い家具その他広間にならべられないもの(おそらくこの施主の歴史を象徴するであろう)その他もろもろがぶちこまれているそうである。
太田邦夫「空間の虚構」
(『新建築』一九六七年七月号)


やはりその部屋は「おそらくこの施主の歴史を象徴するであろう」その他もろもろに彩られていたのだった。私たちは寝室、収納、制作場所がセットになった《白の家》の裏の黒いスペースに特殊な生産状態を誘発する納戸の理想のセットのひとつを見る思いがするのである。

家には白いオープンスペースと黒いオープンスペースという因子が必ず存在するとしよう。しかしながら現今の建築家による小住宅はほとんど収納が消滅した広いオープンスペースであることが多い。これは何を意味しているのだろうか。おそらくそれは私たちの深い生の構造につながっているのだ。黒いオープンスペースがなければ、竣工時点では何もなかった抽象的な白いスペースも、生活が開始され、子どもが産まれるやいなやおそらく数年で、それは黒いスペースに変貌する。エントランスから入った途端モノが散らばり動きまわっていることになるだろう。「ポルターガイスト」と言ってもいい。生活が開始される時点で黒の因子は必ずその比重を大きくしはじめるのである。
これは現代の建築家による納戸機能の浅薄な忘却かもしれない。いやそうではなく、もしかするとその逆であるかもしれない。私たちはむしろ積極的にモノになりたがり、それを倒錯的に宣言しようとしているのではないだろうか。この状態については再び検討してみたいテーマである。

18──《白の家》各階平面図(左:1階、右:2階) 引用出典=『篠原一男』(TOTO出版、1996)

18──《白の家》各階平面図(左:1階、右:2階)
引用出典=『篠原一男』(TOTO出版、1996)

19──《白の家》寝室 撮影=村井修

19──《白の家》寝室
撮影=村井修

20──《白の家》断面図 引用出典=『篠原一男』(TOTO出版、1996)

20──《白の家》断面図
引用出典=『篠原一男』(TOTO出版、1996)

「家」について

このように考えると、ヒトが住み処に「家」という字を当てたことの妥当性に筆者は驚嘆する。最後に住み処を表わす三つの漢字を紹介する。
うかんむりは屋根の指示記号であるから、「穴」はもしかすると屋根を柱で支えている状態を意味している。穴居住居である。これは主に機能を表わしている。
次の「宇」はまさに屋根の下の人を表わすものであるが、この字は大きな御殿に限定して用いられる字であった。それは人の公人的性格を担保しているのだろう。
そして私たちが日頃用いている「家」には「犭」(ケモノ)がいた。つまり家に住んでいるのはケモノなのである。その答えはおそらくこうだ。家とはヒトのなかのモノのための時間を確保し、収納しているのである。モノが収納されなければ、公的社会は成り立たなかったのである。
[了]


★一──同写真に付されたキャプションより。
★二──ロクサーナ・ウォータソン『生きている住まい──東南アジア建築人類学』(布野修司監訳、学芸出版社、一九九七)二一六頁。
★三──同書、七五頁。
★四──同書、二三三頁。
★五──網野善彦ほか編『海と列島文化  第一〇巻──海から見た日本文化』(小学館、一九九二)
★六──またこれについてはより精緻な考証が井上充夫によってなされている。『日本建築の空間』(SD選書、一九六九、三三─三四頁)。
★七──今の執筆当時においては当時現存していた民家の新旧を検討するだけの蓄積がなかったためだろうか、今による間取り論はその後現存する民家の主要な間取りのみについてとりあげざるをえなかった。そのため江戸時代も後半になって整理されたいわゆる田の字型平面という間取りを基本としたヴァリエーションが主に論じられることになった。この点が後の民家研究者から編年的でないとして批判されることになったのだった。しかし繰り返すが、ここでの私たちの興味は、民家の間取りの変遷の詳細な理解ではなく、むしろ化モノ空間の時を超えた遍在にある。
★八──佐藤浩司「建築を通してみた日本」。
★九──佐藤の紹介によればインドネシア・レンバタ島のケダン族の穀倉においては、儀礼用の道具類や穀霊の依代であるトウモロコシの初穂などの神聖な品々が保管され、田植えの前には、この暗い空間の中で、早乙女が一夜をすごすのであった(R. H. Barnes, Kedang: A Study of the Collective Thought of an Eastern Indonesian People, Clarendon Press, 1974. による)。
★一〇──見てはいけないモノを見てしまったことが主モチーフになる説話をメルシナ型という。その見てはいけないモノの多くは芸術の本質のひとつと思う。このヴァリエーションとしてよりヴィジュアルな芸術空間が倉の中で展開されている説話に「見るなの座敷」がある。
★一一──宮本常一著、田村善次郎編『日本人の住まい──生きる場のかたちとその変遷』(農山漁村文化協会、二〇〇七)。
★一二──同書、七一頁。
★一三──同書、「土間住まい」の章参照。

●本再訪記事は、文部科学省・科学研究費による助成研究課題番号一八六五六─八二「今和次郎『日本の民家』再訪を通した日本の居住空間・景観の変容調査」の一部である。
●本論考「『日本の民家』再訪」は、次回以降『住む。』(泰文館発行、農山漁村文化協会発売)に掲載予定です。

>中谷礼仁(ナカタニ・ノリヒト)

1965年生
早稲田大学創造理工学部准教授、編集出版組織体アセテート主宰。歴史工学家。

>『10+1』 No.50

特集=Tokyo Metabolism 2010/50 Years After 1960

>篠原一男(シノハラ・カズオ)

1925年 - 2006年
建築家。東京工業大学名誉教授。