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民家へ 伊豆大島編 | 瀝青会+中谷礼仁+大高隆 写真
Toward "Minka": Revisiting Izu Ooshima | Rekiseikai, Nakatani Norihito, Takashi Otaka
掲載『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32, 2007年12月25日発行) pp.12-27

島に居ること

伊豆大島を含む伊豆諸島は、フィリピン海プレートと本州との衝突によってうまれた褶曲の峰のひとつである。海面より露出したその島々の姿の直下に、ヒトの想像を超えた大地の活動がいまだにつづいている。
伊豆大島は、三原山という活火山をその中央に持つ島である。数百万年もの時間のなかで幾度も噴火を繰り返してきた火山とその溶岩が海岸周辺にまで及んで、ほとんどの沿岸は茶褐色の肌理の粗い崖で切り立っている。だからヒトの住めそうな場所は僅かである。主役の火山に隠れるようにして海岸沿いに漁村がいくつか点在している。それぞれの村は私たちが通常に想像するそれよりもはるかに狭い。
以前は島内の陸路での往来は限られていた。交通手段はもっぱら舟であり、島内の村落と別の諸島との行き来にさほどの違いがなかったようでもある。二〇世紀、戦後になって循環道路が開通し、港湾が整備された。その後六〇年代の離島ブームによって観光客が激増した。しかしレジャーが多様化した現在では、島の観光事業もひとときの勢いは落ち着いている。
異星のようなカルデラの三原山、セライと呼ばれる定期的に方向を変える連続的な強風、時に荒ぶる太平洋、台風の到来、水はけのよい溶岩地のために溜まらない地下水、人力によっては変えようのないような、生きる条件がごろっと露出している。だから全体としての景観はいまでもあまり変わりようがない。
再訪の聞き取りの過程で、ある男性についての伝え語りを聞いた。その人物は今和次郎が伊豆大島を訪れた際に聞き取りをした人物のうちのひとり、その子息にあたっていた。しかし彼はすでに島にはいなかった。
彼は東京の有名大学を卒業して帰ってきた。島ではサルトルの小説を取り寄せて読んでいたという。家は裕福であった。実家の庭に若年にして、はやばやと隠居屋を建てた。囲碁が強くて、付近の子供に教えていたそうである。彼はそのうちふいといなくなった。囲碁の武者修行のために島を出て、日本中の碁会所を訪ね歩き、房総でその早い人生を終えたということであった。
島へ来るヒト、出て行くヒト、そして居るヒト、あるいは行き交うヒト。『日本の民家』の再訪活動でさまざまな場所に立ち会うたびに、もしここで生まれていたらという素朴な感情におそわれる。いったいどんな人生を歩んでいただろうとつい想像してしまう。ある地域を訪れると、そこで生きたかもしれないことの可能性を自分の内に含んでしまうのだ。

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>中谷礼仁(ナカタニ・ノリヒト)

1965年生
早稲田大学創造理工学部准教授、編集出版組織体アセテート主宰。歴史工学家。

>大高隆(オオタカタカシ)

1964年生
多摩美術大学卒業/写真家/瀝青会メンバー。

>『10+1』 No.49

特集=現代建築・都市問答集32