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顔とダイアグラム | 平倉圭
Face and Diagram | Kei Hirakura
掲載『10+1』 No.48 (アルゴリズム的思考と建築) pp.47-49

光と音が与える生理的ショックについて考えることから始めよう。ジェームズ・コールマンのインスタレーション《Box(ahhareturnabout)》(一九七七)[図1]は、暗闇でフラッシュのように明滅するボクシングの試合のモノクロ映像と、心臓の鼓動を思わせる鋭い重低音の反復、「壊せ、壊せ」「戻れ、戻れ」といった内的独白のようなボイスオーバーから構成される。明滅する映像と重低音を鳴らすスピーカーのほうに近づいていくと、身体が震え、意識が破壊されるような感覚がある。
殴ること・殴られることは、一般に反復的な、パルス的といってもいい打撃から構成される。殴られる者にとってそれは、可能な姿勢と手近な構造物を利用し、襲いかかるパルスに対して自身のフオームをなんとか守ること、とりわけ自身の意識の輪郭を確保し続けることをめぐる闘いとなる。コールマンの作品は、強烈な光と音のパルスによって、そのようなフオームを破壊する殴打の経験を空間的に翻訳している。ギャラリーの室内に束の間箱詰めボツクスされた観者は、意識が飛ぶまで、光と音に「殴られる」のだ。
ロザリンド・クラウスは、イヴ=アラン・ボワとの共著『フォームレス──ユーザーズ・ガイド』(一九九七)のなかで、よき「フオーム」に襲いかかるこの《Box》のパルス的「暴力」を記述している★一。実際には、観者は部屋の中を立位で歩き回ることができるので、殴打の強度は映像とスピーカーから距離を取ることで調整され、意識の輪郭は保たれる。しかし逃げられない座位姿勢であれば、観者の意識と身体は実際に危機にさらされるだろう。そのことを私たちは、一九九七年のいわゆる「ポケモン・ショック」と、最近では映画『バベル』(二〇〇六)の点滅シーンが引き起こした吐き気騒動を通してうかがうことができる。
この夏日本でも公開されたデイヴィッド・リンチの最新作、映画『インランド・エンパイア』(二〇〇六)は、いわばこの、座位で経験された《Box》の系譜に位置している。音と光の暴力的パルス、目を刺すような強烈な白い光[図2]、「顔」を歪形するような極端なクロースアップの多用が、語られる物語とは別のレヴェルで、生理的ショックを産み出している。
内容は、ハリウッド女優「ニッキー・グレース」(ローラ・ダーン)が、あるリメイク映画に主演の「スーザン・ブルー」として出演するあいだに現実と映画の区別がつかなくなるという話を中心とする。そこにウサギ人間の部屋、娼婦たちの世界、雪のポーランドなどの複数の世界が交錯する。しかし描かれる人間関係は物語としてはクリシェであり、むしろそこで反復される情動の強度が強調される。撮影はすべてデジタルビデオ・カメラで行なわれている。
途中、観客に強いショックを与えるシーンが少なくとも二箇所ある(以下本稿は映画の本質的内容を含む)。①映画中盤、口を開いて笑うピエロの絵の向こうに、ニッキーの姿がフェイドインする。スポットライトに照らされた夜道をスローモーションで歩いていたニッキーは、とつぜん、口を大きく開き、前歯を剥き出しにした姿で、光の中をこちら側に向かって突進してくる。②映画終盤、撮影所内の映画館の奥深くに入り込んだニッキーは、光の中を向こうから急激に接近してくる謎の男と出会う。ニッキーは男を銃で撃つ。しかし男は倒れない。ニッキーが男を三度撃つと、それまで白い強烈な光に照らされて恍惚としていた男の表情が、とつぜん画面いっぱいに膨張して狂喜する口裂けピエロのような顔に入れ替わる。
とりわけ②の最後のショットは観る者を驚愕させる。画面に約三・五秒間だけ映る口裂けピエロのようなその顔は、よく見ると、じつはニッキー自身の顔面を変形したものであることがわかる。銃を撃つニッキーが、口裂けピエロとしてのニッキー=分身と向かい合うのだ。正確にはそのピエロの顔は、ニッキーの「両目」と、歯を剥き出しにした「口」を、Photoshopのようなソフトで極端に拡大・変形し、それを謎の男のものと思われる「鼻」といっしょにひとつの顔のなかに配置することで作られている。その不気味な「分身」の姿は、端的にデジタル技術が可能にする複製の操作から生み出されている。その根底には、人間の顔を、「目」や「口」や「鼻」といったバラバラなパーツとして操作する態度がある。
そもそも映画のなかでニッキーの顔は、しばしば顎と額がフレームからはみ出すような極端に大きい姿で映し出されており、口裂けピエロの顔面を予告している。その両目は、映画に登場する娼婦たちの目が「アイシャドー」によって深く柔らかく縁取られているのとは対照的に、細く鋭い「アイライン」とマスカラによって顔面から不連続に切り離され、鮮やかな赤で縁取られた唇とともに、顔の表面に書き込まれたバラバラな図形、一種の「ダイアグラム」のようなものと化している。映画で多用される強烈な光の照射や点滅は、ニッキーの顔から陰影を奪ってさらに平板化し、目や口の輪郭線だけを浮かび上がらせる効果を持つ。②のショットで行なわれていたのは、そのような操作によってすでに分離されていたニッキーの顔のパーツを、デジタル技術によって拡大・変形・再布置して提示することにほかならない。
人間の身体を、たんに生理的なショックを与える図柄として利用してしまうこのような態度は、映画を、単独的な存在者に向けられたドキュメンタリーとして考えるときには、もっとも軽薄なものと映るだろう。一方それは、ピカソ以来、美術では見慣れた操作でもある。映画館で、口裂けピエロの顔を見ながら私が連想していたのは、とりわけシンディ・シャーマンの《Clowns》連作(二〇〇三─〇四)だった[図3]。
顔から「目」や「鼻」や「口」といったパーツを選び出し、赤や黒のどぎついダイアグラムによってなぞり、歪形し、生理的なショックへともたらすこと。シャーマン自身がピエロに扮するこの連作は、狂騒的な見掛けの背後に、ある断絶を示している。二〇〇〇年から二〇〇二年にかけて、《Hollywood Types》と呼ばれる「ハリウッド女優になり損ねた女たちに扮する」というほとんどリンチ的なテーマの連作を制作していたシャーマンは、九・一一のショックによって制作を中断し、しばらく作品が作れなくなるという時期を経験している。一年後に新たに始められた《Clowns》シリーズでは、それまで自身の作品を駆動していたはずの「物語ナラテイヴ」への関心が失われたとシャーマンは述べている★二。技術的には初めてデジタル加工が使用され、結果、画面には複製された複数のシャーマンがしばしば登場し、背景にはシャーマンが「頭の中の空間ヘツドスペース」と呼ぶ、指示対象を持たない高彩度の抽象パターン──Photoshopのカラーパレットから生み出されたもの──が用いられている。自らの頭の中へ、「インランド」へ、いかなる物語とも関係なく、ひたすら強烈な生理的ショックだけを追い求めていくようなこのデジタル空間の造形衝動と近いものが、リンチが提示する「分身」の顔面にも現われている。
映画のイメージはしかし、座る観客にとっては逃げられないものとしてやってくるため、ショックはより効果的イフエクテイヴであり、回避=分析の時間的余裕を残さない。私がリンチの映画についてここに書いていることの半分は、スクリーンの前で斜に構え、情動の回路を一時的に切ることで見られたものだ。口裂けピエロの顔は実際には、恐るべきスピードで眼前に到来する「殴打」として出現し、分析的意識を破壊して耐え難い悪寒だけを残していく。それがニッキーの顔を変形したものであるとは、初見では気がつくことができない。しかし同時に、矛盾するのだが、それはニッキーの顔に違いないというかすかな感触もたしかにあり、翻ってそれが、ニッキーの目蓋の形や歯並びをリアルタイムで分解して口裂けピエロの顔と比較しようとする分析者の欲望に火をつける。そのとき、分析者が仮構する分析のダイアグラムは、顔面を平板なダイアグラムに変えて離散的に操作しようとする制作者の態度をなぞろうとしている。私がとらえたいのは、この「殴打」として到来する「顔」と、分析し操作する「ダイアグラム」との衝突の根底にあって、銃を撃って呆然とするニッキーの顔と、撃たれて狂喜する口裂けピエロの顔を、同じ顔として直感させている通底の論理である。その論理をさしあたり、「インヴァリアント」と呼んでおこう。
インヴァリアントとは、生態心理学者J・J・ギブソンが自身の理論の根幹においた「形なき不変項フオームレス・インヴアリアント」という概念を転用──正確に言えば「誤用」──したものだ。ギブソンによれば、私たちが見ているのはフオームではない。幼児が、猫がじゃれているのを見るとき、猫の前から見た形、後ろからの形、上からの形などが見られているのではなく、端的に猫が、猫を特定する肌理の独特な布置とその変化率が、一挙に知覚されている。知覚されているのはフオームではない。肌理の変化のパターンが織り成す高次の関数なのだ。それが、猫に固有の「インヴァリアント」である★三。
ギブソンによれば、人が絵を描くということは、フオームを描くことでも図と地を操作することでもなく、まさにこの「形なき不変項フオームレス・インヴアリアント」を紙やキャンバスの上に特定するという仕事である。猫の不変項があり、街角の不変項がある。映画が撮影し、操作するのもまた、そのようなインヴァリアントであるだろう。だがここでは、あくまで環境内に実在する存在者の特定に向けられていたギブソンの思考のベクトルから逸れて、作品の表面的な構造がもたらす、知覚解体的な効果への定位をはかろうと思う。

1──ジェームズ・コールマン 《Box (ahhareturnabout)》(1977) 引用出典=Yve-Alain Bois and Rosalind E. Krauss,  Formless: A User´s Guide, New York: Zone Books, 1997.

1──ジェームズ・コールマン
《Box (ahhareturnabout)》(1977)
引用出典=Yve-Alain Bois and Rosalind E. Krauss,
Formless: A User´s Guide, New York: Zone Books, 1997.

2──デイヴィッド・リンチ 『インランド・エンパイア』(2006)、撮影風景 ©2006 By INLAND EMPIRE Productions, inc.  All Rights Reserved.

2──デイヴィッド・リンチ
『インランド・エンパイア』(2006)、撮影風景
©2006 By INLAND EMPIRE Productions, inc.
All Rights Reserved.


3──シンディ・シャーマン《Untitled #412》(2003) 引用出典=Cindy Sherman, Paris: Flammarion SA/ E´ditions Jeu de Paume, 2006.

3──シンディ・シャーマン《Untitled #412》(2003)
引用出典=Cindy Sherman, Paris: Flammarion SA/ E´ditions Jeu de Paume, 2006.


★一──Rosalind E. Krauss, ”Pulse,” Formless: A User’s Guide, New York: Zone Books, 1997, pp.161-165.
★二──Cindy Sherman with Isabelle Graw, ”No Make-Up,” Cindy Sherman: Clowns, Munich: Schirmer/Mosel, 2004, p.60.
★三──J・J・ギブソン『生態学的視覚論』(古崎敬ほか訳、サイエンス社、一九八五)二八六頁。


>平倉圭(ヒラクラ・ケイ)

1977年生
横浜国立大学教育人間科学部マルチメディア文化課程講師。芸術論、知覚論。

>『10+1』 No.48

特集=アルゴリズム的思考と建築