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瀝青会、海へ 四国再訪・漁村編 | 瀝青会+中谷礼仁+大高隆 写真
Rekiseikai Steps Asea: Revisiting Shikoku Fishing Villages | Rekiseikai, Nakatani Norihito, Takashi Otaka
掲載『10+1』 No.48 (アルゴリズム的思考と建築) pp.11-29

山の村の事はやめて、海岸の漁師たちのはなしにうつろう。「漁村の人たちの家」


「田舎の人たちの家」は今和次郎『日本の民家』の冒頭の総論である。ここで今和次郎は、名もなき民家の特徴を水田の村、畠の村、山の村においてとそれぞれに書き進め、その章を終えるにあたって漁村の人たちとその家の姿を活写した。漁村のみならずその章全体は彼が日本のおおよそを旅し終わって書かれたのだろう。土地とそこに緊密に結びついた営みと生きる人々との関係を包括的かつ具体的に紹介したその筆致には、その実地の様子を腹に貯えた人のみしか描くことのできない静謐さがある。
同章は、瀝青会が四国の再訪旅行で得た体験をもってしてさらに私たちの心に深く染みこんできた。大正九(一九二〇)年八月一〇日─九月八日の期間に及んだ四国ならびに和歌山への旅行は彼の最も長い旅であった。その旅行に彼のその後のバラックへの傾倒の萌芽をうかがえるような視点の変換を含んでいたことはすでに指摘した通りである★一。そんな彼の四国での体験が先の「田舎の人たちの家」のところどころに刻まれている。山あり谷あり、平地あり海岸あり、陸路のみならず航路を駆使した四国から和歌山にかけてのヴァリエーション豊かな旅の経験は、彼が民家についてのはじめての書籍をまとめる最終的な覚悟と契機をもたらしたような気さえするのである。
ところが不思議なことに彼の野帖において記録された同地域の調査総件数およそ六〇件に比べて、公刊された『日本の民家』初版で紹介された民家は四国五件(「絵と説明」[後の「採集」]で四件、論「間取りに就いて」で一件)とあまりに少ない。和歌山にいたってはたった一件のみである。またそれら未発表分の調査が公開された民家に比べて質的に劣っていることもない。むしろ明らかに彼の野帖の白眉を構成している調査例が公開されていなかったのである。このギャップの原因はなにか。
思えば、今は「初版の序」において大正八年の夏から農商務省の石黒忠篤農政課長の下で農村住宅の調査を始めることになり、「現実の問題として」各地を旅行することになったと記している。
現実の問題として各地を旅行したという一節は、実は非常に重要であったことに私たちはようやく気づいた。というのも前回の連載「『民家』の範疇」★二ではじめて明らかになったことなのだが、今が発表しなかった小農の暮らしの様子は単に今の意志のみならず、彼の旅行を資金面でバックアップした石黒の目的に沿ったものだったらしいからである。四国─和歌山調査が行なわれたのは大正九年の夏である。前年から始まっていた石黒の資金面でのバックアップによって行なわれた長旅だったはずである。つまり石黒側の目的であった当時各地で勃発していた小作農争議と、その解決を見出すための実地基礎調査の目的ももっていたと推察できたのであった。そう考えれば今の調査量に比べて書物での紹介物件が段違いに少ないことも理解できる。つまり四国─和歌山旅行の目的は二重のコードによって構成されていた。ひとつは石黒から託された水面下の作業としての小作農の生活の実態調査であり、これは基本的に一般への公開を旨とするものではなかった。もうひとつは書籍で紹介されることになった水面上の成果である。後者は文字通り氷山の一角なのであった。ちなみに今は同地方を旅するにあたってその旅の目的として、彼の野帖に以下の四点を書きつけていた。

一、小作農は住宅を所有しているか
一、住宅は宅地を所有しないもの、地主より如何なる制度にて貸借し、或いは所有するに至るか
一、住宅において、其の他の補助
一、他地より季節労働者に入り込むものへの住宅供給状態如何
野帖より


私たちはこれらテーマが、彼の興味が小さきすまいへさらに傾倒していったことを示すものとして以前紹介したのであった★三。しかしいまではここに若干の訂正を加えなければいけなくなったと思う。つまりこれらテーマはむしろ石黒から求められた調査項目だった。そう考えれば確かにそのテーマに沿って夥しく収集された小作農のすまいの様子が公開されなかった理由が説明できるからである。その意味で総論としての「田舎の人たちの家」の静謐さには、具体的には紹介しえなかった民家の隠された声が含まれていると感じるのである。
すると逆に、疑問がひとつ沸いてくる。それは「絵と説明」で紹介された、先の数少ない民家の位置づけである。収録公開されている家は海岸沿い、それも漁村が他地域に比べて相対的に多い。農家も入っているがすべて沿岸部に近い中規模の農家である。それら農家の所有者である中農層は自分で耕さない地主層でもなく、耕す土地を借りて生活している貧困層としての小作層でもない。石黒が小作農の問題にまずこだわっていたのだとすれば、紹介された物件に漁家やその周辺の中農の家が多いのはわかるような気がする。つまり漁村ならびに中農の家はいずれも農商務省官僚の石黒が今に託した意図から脱落した範疇だったのだ。特に漁家を対象とした研究は従来の民家研究ではほとんど脱落してきたのである★四。それら民家研究史の総括的な検証は前回分で打ち止めとしておこう。
今回の報告ではとにかく先に疑問としてあげた、書物で公開された徳島県海部郡日和佐「南阿波の漁家」、愛媛県松山市素鵞地区「伊予の農家」、高知県南国市おおそね甲「土佐の農家」、同県幡多郡上川口「土佐の漁家」(瀝青会が訪れた順による)、計四件の民家のその後と、今によるそれら民家の紹介の意図を検討することにしてみたい。特に今が公開にあたって漁家をよく採り上げたこと、その直接の動機や先駆性を問いたい。あらかじめ言ってしまえば漁家にこそ、今和次郎のその後の趣味性がよく表われているのではないだろうか。また和歌山部分については、瀝青会側の再訪目的が今和次郎と南方熊楠との関係分析にスライドしていったこともあり、改めて稿をおこしたいと思う。

公開を制限しています

>中谷礼仁(ナカタニ・ノリヒト)

1965年生
早稲田大学創造理工学部准教授、編集出版組織体アセテート主宰。歴史工学家。

>大高隆(オオタカタカシ)

1964年生
多摩美術大学卒業/写真家/瀝青会メンバー。

>『10+1』 No.48

特集=アルゴリズム的思考と建築