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多様性 その二 | 日埜直彦
Multiplicity 2 | Hino Naohiko
掲載『10+1』 No.46 (特集=宇宙建築、あるいはArchitectural Limits──極地建築を考える, 2007年03月発行) pp.41-43

形があるものならなんであれ建築に格納することができる。形のある物体であれ、形のあるプログラムであれ、同じことだ。ある形を見定めることができれば、それを収容する建築の具体的な形を定めることが可能だし、装飾や様式のオーダーのようなディティールはともかく、建築のヴォリュームを決定する内的な根拠はそれ以外ほとんど存在しない。
ところが形を持たないものが意外にたくさん存在する。不定形なものや、たえず形態が変化するものなどである。さほど激しく変化しないならその包絡線を想定することで形を決めることができるかもしれないし、場合によっては逆に容器を決めることで内容を規制してしまえばよいこともあるだろう。だがそうした強引な方法で問題が片付けばよいのだが、やはり本質的に形が想定できないものも存在する。例えば「出来事」である。なにごとかが起こるかもしれない、という可能性に形を想定することはどうにも不可能だ。そういう場を内包しようとするとき、建築はどういう姿をしていればよいか。なかなかの難題である。
視野を広げてみれば現に出来事の場としてうまくいっているケースが存在する。それが都市だ。都市はなにごとかが起こる場所であり、それが本当の意味で自由であるかは議論の余地があるにせよ、絶えずそこでなにごとかが起こっているのは間違いないだろう。ブラジリアに代表される近代都市計画はその点で反省せざるをえなかったし、少なくとも当時その問題は建築に密接に接続されていた。
こうした問題に対する建築におけるひとつの解答は大阪万博の「お祭り広場」やセドリック・プライスの「ファンパレス」に見える。そこでは建築はサポートシステムに徹して、なにごとかが起こることを待ち受けるだろう。いつかどこかで起こる出来事に向けて待機し、その背景となるべく、その名もスペースフレームと呼ばれる構築物が出現する。箱でもユニットでもなく、単に必要最小限のフレームである。それ自体は場をしつらえる以外のなんら機能を有さない。
コールハースが言うところの「ビッグネス」はそうした問題のアップデート版と言ってよいだろう。「ビッグネス」によって、どんな内容であれともかくある外形に放り込む以外もはや手のほどこしようがない、そんな状態に建築は押しやられると彼は言う。内容の形などもはや頓着されない。ただともかく詰め込むだけで精一杯なのだ。有形だろうが無形だろうが、有意だろうが無意味だろうが、高級だろうが低俗だろうが、いっさい関係ない。組織化された配置どころか、順序も接続も対比もなく、ただちょっとした偶然により無関係な内容が隣接し積層される。考えてみればそもそも都市だってそうなのかもしれないのだ。ともあれ容器らしきものがそこに現われる。
こうした黙示録的ヴィジョンの行き着く先までコールハースは予言している。「ジャンクスペース」がそれだ。「ジャンクスペース」はもはや建築ですらない。と言って都市でもなく、言わば世界がそのまま「ジャンクスペース」に呑み込まれる。それは遠目にはなにも起こらないデッドロックだ。どこへ向かうわけでもなく、自己増殖し続ける。そこには歴史もなければ真実もない。色で言えばただのっぺらぼうのグレー。だがよく見ればあちらこちらでどぎつい色がぐちゃぐちゃにかき混ぜられている。ほとんどなんの意味もない更新と拡張が活発に繰り返され、なんの価値も生まない差異が増殖し、イケてないジャンクが潰されてツルツルのジャンクが新装開店する。貨幣を増殖させることが自己目的化して、無為の情報が情報を派生させ、「ジャンクスペース」が「ジャンクスペース」を生む。こうした情景に対して建築にどんな可能性があるだろうか。
結局のところこうしたプロセスは箱の徹底的な解体をもたらした。内部と外部の調和した箱としての古典的建築は自立した全体を体現するものだった。神殿は神を内部に収め外にそれを知らしめ、王宮は王権を内容としてその権威を象徴する、等々。ところが秘められた内部を開き、それを共有すべきだと思うなら、内部は外部に表現されねばならないし、外部が内部に浸透するようしつらえられるべきだろう。結果として穴だらけになった箱が顔つき合わせてみれば、内部は互いに溶け合い、そこになにやらご都合主義的なアマルガムが生まれる。建築と都市の区別はもはやさほど明らかではないし、グローバリズムは都市までも融解してその地平さえ見失うかもしれない。

写真は都市を捉える特権的なメディアに違いない。他のどんなメディアよりも都市とともに自らを変化させ、常に都市の生々しい姿を定着してきた。
アッジェのパリ、スティーグリッツのニューヨークは、古典的な都市の最後の姿を今に伝えている。どの壁にも時間が深くしみこみ、どの人影にも人間の顔があり、場の固有性が確かに刻印されている。街の片隅のちょっとしたディティールをクローズアップしたカットであってもそこに街がたしかに反映していて、どの写真をとってもそこに揺るぎない都市の有り様が見える。『デリリアス・ニューヨーク』が描き出した頃のニューヨークの写真と言えばアボットのものになるだろうか。ある種狂気じみたマンハッタンに向けられたアボットの視線はどこか醒めているのだが、屹立するスカイスクレーパーと明らかな不協和を見せる古い街並のコントラストは、たしかにある時代の終わりを告げている。
建築が都市に関心を寄せる時期より一足早く、都市を捉える写真のあり方が変質を始めている。小型化したカメラが都市の中を徘徊することを写真家に許し、瞬間的なスナップショットが無数に撮影されるようになる。基本的にそうした写真は単なる断片である。都市を徘徊しながらフィルムに焼き付けられたそのイメージは都市の全体像とはほとんど関係がなく、むしろある一瞬生起しすぐさま掻き消えるいわゆる「決定的瞬間」である。出来事の露頭する一瞬が名人芸によって捉えられ、なにごとかの姿がそこに定着される。そうした写真を一枚取って見てもさして意味があるわけではない。だがさまざまなショットを見ていくうちに、その街の雰囲気、そこで生きている人々の表情といった都市の容貌が浮き彫りになる。
本誌の表紙を飾っているハイナー・シリングの写真はそうしたスナップ・ショットを切断したうえで写真に取り組む傾向のひとつの例である。もはや主体的視点などという怪しげなものはきっぱりと退けられ、眼前の光景に目を釘付けにされ、ただひたすらに凝視する。都市のどこかに特別な意味があるわけでもなく、都市を見渡した視野全体の途方もない有り様に対して、写真はその本性である機械的視力を無差別的に行使する。感情移入や価値評価など入り込む余地がない圧倒的に精細な都市の情景を前にすれば、もはやひとつの像など結びようもないほどに錯綜した現実を思い知るほかない。
写真はフルショット(全体像)の放棄へと向かった。その場の全体像を写し取る記録者は全体像の存在を確信していたに違いない。写真技術が瞬間の定着を可能にすると、昔ながらの写生画家めいた取り組みでは捉えられぬ都市の顔が露になる。フルショットが定着すべき都市の像は色を失い漂流を始める。スナップショットの積み重ねは瞬間的な都市のディティールを拾い上げ、その襞の奥に入り込むだろう。
だがそれが意味をなすのはそこで拾い上げられた微細な光景が都市のある側面を象徴する効果を持つ限りにすぎない。象徴作用など一顧だにしない暴力的な都市化は、もはやカメラが入り込む隙間すら残さないのかもしれない。行き場を失い都市を遠望するシリングの写真は、ひたすら即物的に光景を定着しながら都市の全体像など存在しないと口ごもる。それはいかなる意味でも失敗ではなく、要するに都市自身が自らの像を見失っているということではないだろうか。

こうした二つの状況に、共有された勾配を見ることができはしないだろうか。約言するならば、モル的なフィギュアの退潮と分子化された無形の断片の繁茂、分子化された様相はローカルな状況に強く依存し、万事が流動化している。多様性の熱的死とでも言うべきこうした事態は、決して静的ではない。むしろ逆にいたるところ激しく泡立ち、すべてが泡のように消費される。
こうしたとりとめない状況に抗って建築になにが可能なのか推し量ることは難しい。賢しらに戦略が云々などと言っても空しいだろう。写真のように自らの基底面に立ち返ることは建築の場合意味をなさない。建築の持っている道具立ては骨の髄までモル的な認識に貫かれており、それが見失われていることが問題の本質なのだから。

アボット「MANHATTAN I」 引用図版=http://www.mcny.org/collections/abbott/a078.htm

アボット「MANHATTAN I」
引用図版=http://www.mcny.org/collections/abbott/a078.htm

>日埜直彦(ヒノ・ナオヒコ)

1971年生
日埜建築設計事務所主宰。建築家。

>『10+1』 No.46

特集=特集=宇宙建築、あるいはArchitectural Limits──極地建築を考える