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歴史のなかの都市グリッド | 伊藤毅
The Urban Grid in History | Ito Takeshi
掲載『10+1』 No.45 (都市の危機/都市の再生──アーバニズムは可能か?) pp.213-224

グリッド批判

伊藤毅──都市にはインフラストラクチャーや都市計画などいろいろな技術がありますが、超時代的に存在してきた都市のかたちはグリッドです。グリッドは時代や地域を超えて生み出され、いまなおもっとも一般的な都市のかたちということができます。しかし近代以降、グリッドは批判の的にされ続けてきました。カミッロ・ジッテの『広場の造形』(鹿島出版会、一九八三)に次のような文章があります。

このような幾何学的な配分の仕方には、プログラムという基礎がまったく欠けていることを示すために、大規模な網目をなしている区画化の例、すなわち北米合衆国の例を引いておこう。広大な領土は、緯度と経度に従ってその他の考慮や準備はなにもなく、直線で分割された。大体、分割を行ったときには、地方のことは知られていなかったのである。またアメリカはその背景を過去にもっていないため、将来の発展をはっきりと予測することができず、人類文化という点では何平方メートルかの土地を意味するにすぎなかった。アメリカ、オーストラリアその他文化的には処女地域である国に対しては、この方式が都市建設に都合のよいこともありうる。


北米、オーストラリアといった新大陸に、幾何学的で単純なグリッドが引かれた例についてジッテは批判を加えています。ジッテはヨーロッパのいろいろな歴史的広場のかたちを実測して有機的な造形に興味をもつのですが、彼にとってグリッドは処女地以外ではありえない存在だったと思います。
イギリスの小説家ディケンズは一八四二年にフィラデルフィアを訪れ、その感想を述べています(『アメリカ紀行』[岩波文庫、二〇〇五])。彼はアメリカ中を旅行しますが、フィラデルフィアについて「distractingly regular」、つまり人を当惑させるぐらい画一的で、もしこの町に曲がりくねった道がひとつでもあれば、世界をあげてもいいぐらいだと書いており、イギリスから来たディケンズにとってアメリカの都市は歴史もなく、絶望的に規則正しくて、退屈なところだったわけです。
建築家の原広司さんは平面グリッド、三次元グリッドという近代的空間のあり方を均質空間といっています。「均質空間を理念とする計画論は、あらゆる場所の等質性を潜在的にもっているが故に、場所性、地域性を無視する」(「均質空間論」)として、グリッドにより場所のもっていた歴史や個性を消し去られてしまう、と述べました。そして近代のグリッドという等質性の空間に対してどのように建築家は立ち向かうべきかということを問題提起されました。このようにグリッドには、単調である、幾何学的だ、あるいは均質的だと批判が浴びせられてきたわけです。

グリッド再考

一方、現在グリッドに対してさまざまなかたちで見直しが行なわれています。アメリカの建築史家スピロ・コストフは著書『The City Shaped』で、「The Grid」に一章をあて、古代から現在に至るグリッドの変遷を追いながら、グリッドの柔軟性、多様性について言及しています。グリッドは計画都市において最も共通したパターンであり、いろいろな場所、時代に存在してきたユニヴァーサルな存在だった一方で、そのあり方を詳しくみると実はとても柔軟で多様性のあるシステムだと述べています。
コストフはさらに、グリッドを歴史的に分析するために七つの分析視角を示しています。一番目はブロックの大きさや形、それから街区のなかの組織のあり方。二番目にはグリッド都市のなかのオープンスペースとその分布の仕方。三番目には公共建築がどのように立地しているのか。四番目は道路グリッドを構成する各々の道路の強弱や性格をきちんと見るべきだといっています。五番目はグリッドパターンの端部がオープンなのか、クローズドなのかという点への着目です。端部に市壁がある場合はクローズド・グリッドということになります。六番目はグリッドが引かれている部分と周辺地域との関係、とりわけ地形との関係です。七番目はグリッドが引かれている場所に三次元的に建物が建ち上がってくる時にどういう影響が現われるかという問題です。ここではニューヨークのマンハッタンの事例が念頭に置かれています。
またグラフィックデザインの世界でジャック・ウィリアムソンは中世からポストモダンまでのグリッドの変化について書いています(『Design Discourse』)。ウィリアムソンによると、グリッドには四つのタイポロジーがあります。二つの軸が交差して中央の点で交わるとき、点が重視されるか、十字形が重視されるかで、coordinate-basedとintersection-basedにわかれます。さらにグリッドによってできる面を重視するmodule-based、線、軸を意識したline-basedの四つのタイポロジーです。
さらにグラフィックデザインではこれら四つはそれぞれ対になって登場してきたと述べます。中世後期は点に基礎をおくグリッドが使われ、coodinateとintersectionが含まれます。ついで中世後期には面や領域に基礎をおくグリッド、モデュールやラインのグリッドが登場します。縦横の罫線で文と図版をレイアウトするように、グラフィックの世界でグリッドという概念が生まれました。この時のグリッドは補助線というよりある種の世界観が示されており、中世後期のキリスト教世界を秩序づけている垂直と水平の二軸が意識されていたとウィリアムソンは考えます。ルネサンス期以降はニュートラルなグリッドに変わり、やがてfield-based-gridが生まれてきます。モデュールの繰り返しによる拡大や独立した軸の連続的な伸ばしなどが生まれ、そしていよいよデカルト座標が登場してくるわけです。近代になり、デカルト座標のグリッドが完成すると同時に建築や家具、絵画などに応用され、モンドリアンやリートフェルトがその代表例ですけれども、座標によって家具や絵画のコンポジションが決められていきます。そしてグリッドは現在のユニヴァーサルなマトリクスとして位置づけられるようになります。またウィリアムソンはポストモダンのグリッドはもはや構成の背後に隠れる補助線としてではなく、グリッドそのものが可視化され、副次的な装飾要素として用いられるケースがあると言っています。きわめてランダムなグリッドが表現されたり、グリッドそのものがひとつの模様のように傾けられたりして、いろいろなかたちに表現されていくわけです。このようにグリッドが意味的、定性的な世界から定量的な世界に変わり、またそれがさらに分解するようなかたちで現在に至ったという指摘は、建築や都市のことを考えるうえでも示唆的だと思います。
では日本の都市でどのようにグリッドが生まれてきたかについて次に考えたいと思います。

古代日本のグリッド

古代の都城は基本的には条坊制で組み立てられていました。中国の代表的な都城である唐の長安を主なモデルとして日本の古代都市がつくられるのですが、中国と日本では都城のあり方がかなり違っていました。まず都市の大きさが全然違います。基本単位となるブロックは中国のほうが圧倒的に大きいし、都市全体の規模もそうです。それから都市の周囲を城壁で取り囲むという中国の都市に対して、日本はそういうことはしなかった。日本では都城をつくるときに宅地班給という制度にもとづいて、位階に応じて異なる面積の土地を分け与えることが前提なのですが、中国にはそういうことがありませんでした。ですから同じグリッドでも都市の構成も印象も違います。長安ではブロックの内部は十字型に分割されて坊垣という壁が建っています。ブロックの周りにも壁が立ち上がっていて、きわめて閉鎖的です。日本の都城にも最初は一部囲いがあったようですが、早い段階で姿を消していきます。中国と日本の都城は同じようなグリッドパターンをとりながらも性格も意味も違うわけです。
次に日本の都城の変遷をみながらグリッドのもつ意味を考えたいと思います。日本で最初に引かれたグリッドは大和古道です。図1は古代都城の展開を示したものです。六九四年持統天皇の時代に日本最初の都城、藤原京がつくられます。しかし藤原京がつくられる前にすでに上ツ道、中ツ道、下ツ道という南北に三本通る道とそれに直交する横大路という東西道路によってグリッドが引かれていました。これはきわめて正確な方向を向いていて、しかも道と道の間隔も精度が高い等間隔で引かれています。このような大和盆地のなかに引かれた古道のグリッドが日本最初のグリッドだったと思います。それを補助線としながら藤原京はつくられたわけですが、現在大藤原京説が有力です。もともと中ツ道と下ツ道に挟まれた範囲に想定されていた藤原京の周辺からたくさん直線道路が見つかり、藤原京はのちの平城京と平安京に匹敵するような大きさをもつ都市であったという説です。東西の京極に加え、最近北の京極、つまりグリッドの端部(T字型の道路)が発見されて藤原京の主要な範囲が確定されました。藤原京は城壁をめぐらさなかったので、オープングリッドのような性格をもっていました。大藤原京説では都市のかたちはほぼ正方形となり、その中央に藤原宮が位置することになりますが、これは儒教の古典書『周礼考工記』に描かれた中国の理想都市と似ていて注目されています。これがわが国の都市におけるグリッドの最初だと思います。
その後平城京、長岡京、平安京と移っていくのですけれど、平城京は下ツ道をセンターラインにしながら藤原京の北につくられました。この時期、大阪には難波京も存在し、いわゆる複都制、二つの都からなる制度──中国でもそういう制度をとっていたのですが──を採りました。平城京がメインの都で難波京は海に近いので港の機能や対外的な関係を担う都市として併存していたのです。桓武天皇の時代になると長岡京に遷都し、役割を分掌していた二つの都はひとつになります。注目されるのは淀川沿いに長岡京がつくられたことで、長岡京は都としての機能と流通の機能を併せもたせるために淀川の延長上に建設されました。しかし長岡京造営の責任者であった藤原種継は暗殺され、桓武天皇周辺の人々が長岡京遷都を境に次々に死んだり病気になったため、桓武は祟りを恐れて平安京に遷都しました。こうして日本の都城は南から北へと遷都を繰り返しながら、グリッドパターンが変わっていき、都市のレイアウトが一定の方向へと収斂していきます。平城京ではグリッドをレイアウトするときに道路のレイアウトに主眼があったので道路の芯─芯で分割しています。道路芯で分割するので、広い道路と狭い道路ではブロックの大きさが違ってくるわけです。ただこの方法は都市全体をレイアウトするにはもっとも適切な方法でした。ところが長岡京からは徐々に内法制へと推移していきます。長岡京ではまだ街区の大きさがすべて一定ではなかったのですが、同じ大きさの街区が長岡宮周辺に存在したことが発掘でわかっています。そして平安京ではすべての街区の大きさ、すなわち内法を統一しました。このように芯々制から内法制へ、そしてすべてのブロックの大きさを一定にするというように変化していった背景には、土地を分け与える宅地班給という日本特有の制度があったと考えられます。四行八門制という土地を四×八で分割するシステムも平安京で最も顕著に現われてきます。日本では全体をレイアウトする芯々制、全体から部分へという指向性をもつグリッドから、次第に同じ大きさをもつ部分が集まり全体になる平安京まで変化してきたわけです。日本の都城はある意味で宅地の集積体としての都市へ止揚されていったという見方もありうるわけです。
それから城壁がなかったので、道路はT字型で終わり、ある意味で都城はオープングリッドでした。そうするとやがて都城の外側にはみ出していく部分が出てきます。図2は平安京の一条大路の北側部分を見たところです。一条大路は平安京の北限にあたりますが、ここからはみ出して「北辺」という拡張部分がつくられます。ここで注目されるのは、南北の道がそのまま北に延ばされて拡張されていることで、平安京の論理が北に「延長」されたと見ることができます。また院政期になると平安京の東側に白河という部分がつくられ、院政の拠点となります。これも平安京の東西道路を基準としています。白河の中央には「今朱雀」という南北道路があり、平安京を縮小再生産したようなかたちになっています。この他にも平安京の南の鳥羽など、京外に次々と新しい都市領域が誕生していきます。これが日本のオープングリッドのひとつの特徴だと思います。
次に平安京の内部に目を移しますと、ブロック四周の道路は境界として機能していて、道路と貴族住宅の敷地との境界には築地塀が巡っていました。敷地内部にはやがて寝殿造が形成されていくのですが、住宅史研究者の川本重雄さんは日本の寝殿造は二重の境界をもっているという注目すべき指摘をしています。宅地と道路との間に設けられた築地塀の境界と、内側の中門廊という境界です。中門廊には中門があり、内外は厳格に区分されていました。とすると、中門廊と外側の築地塀の間にはバッファゾーンともいうべき中間的な領域ができます。寝殿造の表層部分に町家という道路に接道する都市型建築が生まれるのにはこのような背景があったわけです[図3]。そういう町家の形成と寝殿造が二重の境界をもっていたことも中国のブロックと四合院のあり方とはずいぶん違います。
古代の日本は、都市を条坊というシステムで分割していくと同時に耕地も整然とした方格状に分割されました。これを条里制といいますが、グリッド状に耕地を割り出し、班田を分け与えたのです。条里制と条坊制の地割りは違いますが、下ツ道と中ツ道の間隔を等分して寸法を決めていくことでは共通していて、ここでも上ツ道、中ツ道、下ツ道という最初のグリッドが効いています。

1──古代都城の展開 引用出典=『都城の生態』(岸俊男編「日本の古代」9、中央公論社、1987)

1──古代都城の展開
引用出典=『都城の生態』(岸俊男編「日本の古代」9、中央公論社、1987)

2──平安京北辺 引用出典=高橋康夫+吉田伸之+宮本雅明+ 伊藤毅『図集日本都市史』(東京大学出版会、1993)

2──平安京北辺
引用出典=高橋康夫+吉田伸之+宮本雅明+
伊藤毅『図集日本都市史』(東京大学出版会、1993)


3──寝殿造と町屋 引用出典=小泉和子+玉井哲雄+黒田日出男編 『絵巻物の建築を読む』(東京大学出版局、1996)

3──寝殿造と町屋
引用出典=小泉和子+玉井哲雄+黒田日出男編
『絵巻物の建築を読む』(東京大学出版局、1996)

中世のグリッド

中世に入ると整然としたグリッドは次第に姿を消していきます。日本の都市で再びグリッドが登場するのは中世後期、いわゆる戦国時代をまたねばなりません。
戦国期のグリッドは主に戦国城下町で見ることができます。織田信長が城下町を次々とつくっていくなかでひとつのかたちに収斂していきます。信長は最初、清洲に城下町をつくり、尾張を平定したあと小牧に拠点を移します。そして美濃の国を平定してからは岐阜に本拠をおき、最後の仕上げが安土です。清洲は戦国時代特有の城下町形態をもち、中心に総構えがあり家臣団が住んでいました。戦国時代の町は大きくみて二つに分かれ、城主に直属している職人や商人がいる町と、地理的に少し離れたところに自由に営業できる町=市場がありました。この町の二元性は安土においてようやく一元化されます。信長は安土城下に対して楽市楽座令を出して、城下でも旧来の特権から解放されて自由に営業ができるようにします。発掘の成果によると、信長の城下町のなかでは、小牧で初めてブロックが生まれ、道を挟んだ両側がひとつのユニット=町となり、土地の割り方が短冊状になる、「長方形街区短冊地型割り」という形態が登場しました[図4]。この短冊型地割り+長方形街区というセットを形成・成立させたのが織豊期城下町の特徴だったわけです。
このようなグリッドの成立の背景には都市型建築の型がある程度成熟・定着してきたことが見逃せません。京都の町家という接道型の都市住宅がきちんとしたタイプとして成立し、街区にそれらが並ぶことが想定されていないとこのようなブロックと土地の割り方は生まれません。建築と都市のかたちがようやく緊密な関係を結び始めたのがこの時期だと思います。
戦国期のもうひとつのグリッドとして、寺内町のグリッドがあります。ただ戦国期の寺内町に都市計画が存在したかどうかはいまのところ不明です。しかし近世の寺内町は明快なグリッドパターンをもっていました。例えば大阪の貝塚は願泉寺という一向宗のお寺を中心としてできた寺内町ですが、街区の短辺が二〇間、長辺が四二間や三〇間です。街区の大きさが二〇間というのはかなり特異で、真ん中で背割りが入るので敷地の奥行きは一〇間になり、城下町の宅地のちょうど半分です[図5]。このようなグリッドがいつ頃生まれたのかははっきりしないのですが、近世には城下町とは違う街区割りがあったことは確かです。
戦国時代でもうひとつ注目される都市群として、周防山口、越前一乗谷、土佐中村のように、地方のあちらこちらにつくられた「小京都」があります。このような町がつくられるときに、必ず京都の条坊が意識されました。モデルとして京都がとらえられ、現地の山や川を東山や鴨川に見立て、宗教的モニュメントである清水寺、祇園社などが勧請されました。

4──小牧城下町 引用出典=高橋康夫+吉田伸之+宮本雅明+ 伊藤毅『図集日本都市史』

4──小牧城下町
引用出典=高橋康夫+吉田伸之+宮本雅明+
伊藤毅『図集日本都市史』

5──貝塚寺内町 引用出典=豊田武+原田伴彦+矢守一彦編 『講座日本の封建都市』(文一総合出版、1952)

5──貝塚寺内町
引用出典=豊田武+原田伴彦+矢守一彦編
『講座日本の封建都市』(文一総合出版、1952)

近世のグリッド

このようなプロセスを経て、ようやく近世都市の代表的な都市類型である城下町が生まれます。近世城下町においては、武家地、町人地、寺社地という明確なゾーニングが成立しますが、町人地はもとより武家地でも計画的なグリッドが登場し、それは寺町でも同様です。豊臣秀吉がつくった大坂城下町では特に船場あたりにきわめて規則的なグリッドが引かれ、これは豊臣秀吉の晩年に行なわれた工事によるものです。船場のグリッドは四〇間四方という大きさで、ブロックの中央に背割りが入るので、敷地の奥行きが標準的な二〇間になります。平安京を母体として形成された近世京都のブロックが六〇間四方であったことと比較すると、この方四〇間というブロックには秀吉一流の合理主義が垣間見えます。一方、徳川家康が開いた江戸では、むしろ復古的な方六〇間が採用されました。日本橋銀座の町人地の街区の大きさは京間六〇間で、中央に会所地という二〇間四方オープンスペースをとります。これは明らかに京都がモデルとなっていたはずで、当時先進地域であった畿内からみて僻地でしかなかった関東に建設された江戸の出発点をみる思いがします。
近世都市のグリッドのひとつの到達点は、新潟のグリッドでしょう。新潟は一七世紀中頃に新しくつくられた港町で、完全に近世の技術によってつくられたニュータウンです。道が少し湾曲してはいますが、全体としては道路と水路がセットになった整然としたグリッドが都市を覆っています。道路と水路をセットにしながらブロックを割り出して、町名は「通し丁目」というのですが、一丁目、二丁目、三丁目と町をナンバリングしてシステマティックに町をつくっています。道路と水路を組み合わせつくっていく手法は大坂でも確認できますし、江戸では明暦の大火後の本所深川が同じシステムで生まれました。これが近世的技術によって到達したグリッドパターンの完成型ということができます。オランダのアムステルダムとも近いのですが、日本では水路と道路を交互に表わすシステムが一七世紀後半に完成したことを指摘しておきたいと思います。
古代、戦国時代、近世のグリッドを通観してきましたが、日本の中世は明確なグリッドを形成しなかったと考えています。わたしは日本の中世都市を「境内」と「町」という空間類型、あるいはその複合形態として捉えることを提案していますが、いずれにしても戦国時代を迎えるまでは中世においてグリッド的考え方は登場しにくい時代だったと考えています。

近代のグリッド

近代以降のグリッドについてはまず札幌を取り上げたいと思います。札幌は明治二(一八六九)年に北海道の開拓都市として建設されます。北海道の本庁がおかれ、周囲には札幌農学校などを中心とした学校や公共に供する施設がおかれ、大通りを経て南側には民用地、町人地的なものが生まれます。周囲には薄野遊郭や東本願寺、そして明治初期に周囲を土塁で囲む都市がつくられます。宮本雅明さんは本庁がお城、周りが武家地、そして民用地に与えられた部分が町人地と考えると、札幌は城下町の構成を取る最後の城下町だと言っています。しかし実質的にはアメリカの植民都市をモデルとしたグリッド都市だと考えられます。エドワード・モースが明治一一年に札幌を訪れて、まるで米国西部の町であると印象を述べたらしいのですが、明治になり日本の北の端に新しい開拓都市が生まれたとみるのが自然です。
そして明治初期の近代的都市計画の最初となる有名な銀座煉瓦街計画では、銀座周辺は町人地だったのでもともとグリッドパターンをもっていましたが、それを踏襲しながら道路幅を広げ、街区を整え道路の方向も変えて、近代的グリッドの考え方が濃厚に観察されます。しかし建築の高さは、それまでの日本のスケールから逸脱しない二階建ての煉瓦家屋が導入されているので、近代と近世の妥協的な産物という感じもしなくはありません。煉瓦家屋の裏側には土蔵や木造の付属屋があり、町の風景は大きく西洋風に変わったけれども、全体的な土地利用は伝統を踏襲しているようにも見えます。
次に同じく明治の都市計画としてよく知られている丸の内のオフィス街計画ですが、ここはもともと陸軍大本営があった軍用地です。それが民間に払い下げられ、三菱が買い取って一大ビジネス街が誕生します[図6]。ここでも近世の武家地のグリッドを下敷きとしながらも道路の割り直しがなされました。銀座と同じです。ここで注目されるのはブロックを全部占有するかたちのオフィスが生まれたことです。これは銀座と大きく異なる点です。このようなタイプの建築は日本にそれまでなく、ブロック全面占有型の建築が初めて誕生することになります。道路の両側でファサードが対称形となったり、直線道路沿いにビルの壁面が垂直に立ち上がる都市景観は、丸の内が最初でその後の日本の都市に大きな影響を与えたと思います。そして日比谷官庁集中計画があり、日本初のバロック都市計画が試みられましたが、その牽引車たるべき井上馨が失脚して結局日の目をみませんでした。それとちょうど入れ替わるように、明治後半から市区改正計画が都市の主流の座を占め始めます。当初は産業ブルジョワジーの思想を代表する渋沢栄一たちの、東京に国際港をつくりたいという意見や、壮麗なバロック都市をつくりたいという意見がありましたが、二転三転して最終的には道路計画に落ち着きます。そしてここに日本の都市のひとつの大きな流れの終着点があったと思います。市区改正計画はブロック計画というより道路計画で、道路に等級をつけて予算の許す範囲でそれを進めていくというかたちで進められていきます。市区改正を建議した東京府知事芳川顕正がいった本末論、すなわち「道路や橋梁、河川は本なり」という考え方はきわめて明快ではありましたが、都市の本来もつべき多様な個性を道路、橋梁、河川──これはすべて土木の世界ですが──土木の世界が一番大事で、建築は下水などと一緒くたにされて「末」だということになってしまったわけです。芳川はそこまで割り切って考えていなかったという意見もありますが、現在までの都市の流れを見ると市区改正が日本の都市の将来の重要な部分を決定したことは疑いないところです。

6──丸の内ビジネス街 引用出典=『明治・大正・昭和東京写真大集成』(新潮社、2001)

6──丸の内ビジネス街
引用出典=『明治・大正・昭和東京写真大集成』(新潮社、2001)

日本型グリッドとしての区画整理

その後、東京では震災復興がありました。震災復興で全面的に展開したのが区画整理事業ですが、これは日本のグリッドを考えるうえでたいへん重要な意味をもっています。震災で焼けた下町に施された区画整理事業はかなりの面積に達しました。当初後藤新平の壮大な計画もありましたが、基本的には下町の土地形状を整形化することに成功しました[図7]。震災復興は結局区画整理だったのですが、ここでも主眼がおかれたのは道路計画で、市区改正と同様道路に等級をつけ、既存の道路の幅員を広げたり新しい道路をつくったりして、東京には実に多くの道路ができました。現在東京の幹線道路はほとんどこの段階でできたものです。震災復興と区画整理事業で多くの下町の路地が消えていきますが、それととってかわるようにして整形街区と整形敷地が下町を覆うようになります。街区に対して前面道路があるという考え方が一般的になり、道路をつくるためにそれぞれの宅地から少しずつ土地を供出(減歩)して、それを集めて公共的な土地に置き換えていきます。区画整理事業というのは基本的には公共のために自分の土地を供出して道路を整えていくことです。
このこと自体は間違っていないと思うのですが、その公共性は決して下から積み上げられたものではなくて、上からなかば強制されたものであったことが問題です。いまでも区画整理事業反対という看板を目にしますが、日本における公共は私的財産を侵すものだという感覚が根強くあります。わたしは区画整理、ひいては都市再開発は、残念ながら日本型グリッドの末路という気がしていますが、公共用地と私的財産を二次元的であれ、三次元的であれ強いグリッドで区分してしまったというほかないのです。その結果、本来多様な都市建築の集合体となりえた街区は、私的に所有された敷地の単純合計以上の何ものでもなく、それぞれの敷地は自分のことしか考えず、都市への回路をもたないまま街区となり、街区が集まって都市となり、というふうにぶつ切れの状態になってしまったのではないかということです。
日本で都市計画法をつくるときにドイツにずいぶん学びました。しかし例えばドイツの建築線は日本に都市計画法として入ってくるときに歪められ、建築線という概念が消えて敷地の境界線になり、敷地は何メートル以上の前面道路に面さなければならないと矮小化されたと、大方潤一郎先生は指摘されましたが、私も同じ考えです。区画整理という事業は基本的には土地が集まっているだけにすぎなくて、そこには上物の建築という想定はほとんどされていない。東京全体を見るとグリッドがいくつか見られるのですが、それは部分調整によってできていて、パッチワーク状のグリッドが分布しているように見えるわけです。
日本のグリッドの最後に、丹下健三先生の「東京計画一九六〇」について一言触れておきます。丹下さんはここで、それまでの求心型の都市あるいはグリッド型都市でない、線形の都市を提案されました。一〇〇〇万都市に対応する都市は線形都市でなくてはならないという提案で、求心型の放射状システムから線形のメガストラクチャーに置き換えています。ここではグリッドが否定され、線形が展開するような提案が斬新でした。これがもし実現していたらどうなっていたかと想像することは楽しいのですが、実際に都市で動いていたのはやはり区画整理事業的な計画でした。
ちょうど六〇年に新宿副都心公社が設立され、東京都と協力して新宿副都心計画が始まりました。淀橋浄水場の跡地に明快なグリッドが引かれ、スーパーブロックがつくられ、そこに高容積の超高層が建つという計画です。このグリッドはル・コルビュジエの考えるオープンスペースのなかのタワーというイメージでスタートしたわけです。丹下さんの東京計画と新宿西口の再開発が同時代であったことは日本の戦後史を考えるうえで、あらためて興味をひく問題です。マンハッタンでもこのような都市計画が進んだ時期があったのですけれど、一九六〇年代にこのような都市のあり方に批判が集中したため修正されていきます。

7──区画整理の一例 引用出典=東京都都市計画局総務部相談情報課編 『東京の都市計画百年』 (東京都情報室都政情報センター管理部センター管理室、1989)

7──区画整理の一例
引用出典=東京都都市計画局総務部相談情報課編
『東京の都市計画百年』
(東京都情報室都政情報センター管理部センター管理室、1989)

アメリカのグリッド

そこで話は戻って、冒頭で触れたアメリカのグリッドについて簡単に見ておきます。アメリカのグリッドは植民都市のそれで、ジョン・レプスは『The Making of Urban America』(Princeton Univetsity Press, 1965)でアメリカ各都市の成り立ちを豊富な図版とともに詳しく述べています。基本的に植民都市のグリッドは、宗主国であるスペイン、イギリス、フランスなどが新天地(あくまで彼らにとっての)に移植したものです。スペイン植民都市は三つの類型をもっていて、軍事要塞としての都市プレシディオ、流通機能をもつ都市プエブロ、宗教を布教する拠点としての都市ミッションで、この三種類の都市をアメリカ大陸に次々と扶植していくのですが、このときにきれいなグリッドが登場します。
スペイン植民都市のつくり方で一番わかりやすいかたちをとるのが、一五七三年にスペインのフェリペ二世の時に成文化されたインディーズ法という植民地計画法です。これはヴィトルヴィウスの『建築書』を参考にして、中央に広場をおいてグリッド状都市をつくっていくものです。スペイン植民都市はそういうかたちで南北アメリカにつくられていきます。
西海岸の主要都市サンフランシスコは当初スペインの植民都市としてスタートし、一八世紀に宗教布教拠点としてのミッションと要塞プレシディオをつくりますが、やがてこれらは衰退します。一九世紀に入ってからアメリカ人が移住し、その後はアメリカ人によるグリッドがその上から覆い尽くすことになります。つまり多くのアメリカの都市は、もともと植民都市を母体としながらも、その上に別のグリッドが被っているという二重性をもっています。その様子はサンフランシスコが一番クリアに出ています[図8]。サンフランシスコはリチャードソンという人物が海岸に沿った部分にわずか一〇〇ヴァラ──メートルにするとだいたい八〇メートル──四方のブロック開発をやります。その後スイス出身の技術者がもう少し広い範囲、すなわち現在のカリフォルニアストリートとモンゴメリーストリート、パセフィックアヴェニューとグランドアヴェニューに囲まれた地域を開発します。そして次にオフェーリという人物が一八四七年にさらに大きなグリッドを開発して、マーケットストリートという四五度傾いている道がつくられ、全体的な骨格ができあがります。このように段階的にブロックができているのですが、いずれもアメリカ人によるブロックの形成です。サンフランシスコは地形的な起伏がとても大きいのですが、そこにグリッドを全面的に上から被せていくという力業が見られます。そういうところにアメリカの都市の特異性があると思います。
ニューヨークは一八一一年に市委員会が通称コミッショナーズプランと呼ばれるグリッドプランをマンハッタン島全域に被せます[図9]。南側の部分はもともとニューアムステルダム時代からあったところで、かなり不整形な街区が残っていましたが、それより北のほうには整然としたグリッドが被せられます。計画されたグリッドは街区サイズでだいたい一対三の大きさをもっていて、ここに次第に高密な住宅街、あるいは一九世紀の終わりになると超高層の建物が建っていくわけです。当初、住宅の裏には空き地があったのですが、次第に建て詰まっていって、わずかな隙間からしか採光できない劣悪な環境になってきます。同じグリッドといってもサンフランシスコとニューヨークではずいぶん様子が異なることがわかると思います。ただアメリカのグリッドはやはり強引なところがあり、地形をねじ伏せるようなグリッドであることは確かです。そこにジッテやディケンズは嫌気がさしたのでしょう。

8──19世紀頃のサンフランシスコ 引用出典=John. W. Reps, The Making of Urban America: A History of City Planning in the United States, Princeton University Press, 1965.

8──19世紀頃のサンフランシスコ
引用出典=John. W. Reps, The Making of Urban America: A History of City Planning in the United States, Princeton University Press, 1965.

9──ニューヨーク、コミッショナーズプラン 引用出典=John. W. Reps, The Making of Urban America: A History of City Planning in the United States

9──ニューヨーク、コミッショナーズプラン
引用出典=John. W. Reps, The Making of Urban America: A History of City Planning in the United States

グリッドと都市イデア

測量技術や土木技術が発展すれば当然グリッドも精緻化するし、近世日本の水路と道路をセットにしたグリッド開発も技術的な到達点だと思います。グリッドは超歴史的といっては言いすぎですが、古代から存在し現在に至るまで普遍的に使われてきたことは間違いありません。
なぜ超歴史的、超地域的にグリッドが使われ続けてきたのか。この最も基本的な問いには、そう簡単に答えることができません。しかし、グリッドがどのように歴史的に変容してきたか、あるいはグリッドが担っていた歴史的役割や意味を丁寧に見ていくことは、この問いに答えるひとつの手がかりになるでしょう。
例えばジョーゼフ・リクワートが言うような、古代人のイデアがローマンタウンのかたちに現われるという見方があります(『〈まち〉のイデア』[みすず書房、一九九一])。それから中国の都城が閉じた街区の集積という都市なのに対して、日本では都市は宅地班給という歴史的な役割をもち、そこでグリッドが使われました。そういう歴史的役割や意味を見ていくことです。そこには都市イデアという観点がどうしても必要になってきます。
それから日本の中世都市にはグリッドが検出されないと言いましたが、本当にそうかはまだまだ検証する余地があります。ヨーロッパでも中世都市にはグリッドがなくて迷宮状の都市が一般的であると言われてきましたが、南西フランスではバスティードという中世の計画都市が存在していることが知られています。いまわたしはバスティードを調べ始めているところです。それから街区を形成するグリッド、戦国時代から近世にかけてつくられた、日本固有の建築とブロックのかたちが有機的につながっていたグリッド──これは町割りと仮に呼びますが──のあり方と、区画整理のような単に土地を分割するだけのグリッドの意味を見なくてはいけないと思います。ここには矮小化された都市イデアのあり方が潜んでいます。
一方、グリッドから逸脱するもの、ずれていくもの、それからグリッドのもつ両義性にも注意していかなくてはならないと思います。両義性というのは日本の都市では道が通されてブロックがつくられるのですけれども、ブロックを主体に見れば道はその境界線になるわけですが、道を中心に見れば道の両側の都市建築によって実体的な空間が形成されてきました。ネガとポジが同時併存するような性格が指摘できます。この点で日本の近世の到達点としての水路と道路がセットとなった都市のつくり方もきわめて示唆的です。このようにグリッドの両義性やずれるものにも着目する必要があるといま考えているところです。

質疑応答

中川武──例えばモロッコのフェズなどはアラブの都市として強い全体性をもちながらグリッドとは無関係ですが、その辺をどのように考えたらよいのか。それから日本には宅地班給がありましたが、中国は違います。そうすると都市の性格はどのように違うのか。
伊藤──ローマンタウンのような下敷きがあり、モスクなどを中心とした考え方と、住宅の中庭型の建築が一本の道を通してつながっていくという明快なシステムがあったから、面的に広げられたと思います。建築のタイプが自己完結していれば、それを積み重ねて全体になるので、明快なシステムを導入しなくてもつながっても成り立つのだと思います。
宅地班給についてですが、日本はかなり特殊で、なぜ宅地班給が必要だったかというと、それまで畿内に割拠していた豪族を天皇の周りに住まわせないといけなかったからです。律令制とは官僚制度なので役人が必要で、彼らに律令制の位階を与え官人化し、それに対応した土地を与えました。日本の場合都をつくった瞬間からそれを支える官僚をつくらなければいけなかったことが中国とは違います。宅地という概念が中国であったのかどうかわかりませんが、そんな感覚はなかったと思います。
中川──グリッドの根本的な問題は土地の共同体所有だと思います。共同体の構造が親族形態の時は土地の条里制というグリッドはゆるやかなイメージで、居住地はひとつの親族としてはまとまっているが、ほかはばらばらでよかった。それが地縁的共同体になったときに等価交換しないといけないわけです。そこに均質的なグリッドシステムが入ってくる余地があって、そこに耕地のグリッドシステムに都市のグリッドシステムが重なっていく根拠がある。そこに移り変わっていくあたりの資料はないと思いますが、そこをどう考えていくかということが問題なのではないか。ある意味では古代的な均質空間の発生があって、それが全体性として近代まで残っている部分が当然あるわけですから、基本はそうではないか。
伊藤──グリッドとは共同性の側面と権力者が被せる権力的な側面があって、その二つが同じようなかたちになるところに問題があると思うのですね。
難波和彦──それを単純化していうと、政治的な権力関係が近代になって民主主義化していって、それが当初の権力の軸線、あるいは中心という概念が空間に投影されて、それがだんだん建築化していくかたちでネットになっていくという理解でよろしいでしょうか。それが最後は均一の貨幣で均質空間という。
石山修武──ヨーロッパの都市は基本的にはグリッドが積層され、それが歴史になっていると思うのですが、そういう積層的なグリッドは日本にはほとんどないです。逆に歴史が積み重なっているグリッドのずれや逸脱では、自然発生的なものはヨーロッパにはないわけです。
伊藤──グリッドは基本的に更地に引く技術というイメージがあります。だから石山先生がおっしゃったように積層していくときに下にあるグリッドが上にどの程度効いてくるかはほとんど研究はされていないと思います。鎌倉は平安京をモデルにして、鶴岡八幡宮を内裏と見立てて、若宮大路が朱雀大路に対応するという、グリッド都市だったという研究者がいました。日本の都市は建物としては残らないけれど、土地はどんどん地層、レイヤーができ、そのうちに道が曲がってきたという。垂直方向に継承されていく部分と、ずれが出てくる部分があると思います。
[二〇〇四年七月一五日]

>伊藤毅(イトウ・タケシ)

1952年生
東京大学大学院工学系研究科建築学専攻教授。建築史、都市史。

>『10+1』 No.45

特集=都市の危機/都市の再生──アーバニズムは可能か?

>原広司(ハラ・ヒロシ)

1936年 -
建築家。原広司+アトリエファイ建築研究所主宰。

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>丹下健三(タンゲ・ケンゾウ)

1913年 - 2005年
建築家。東京大学名誉教授。

>ル・コルビュジエ

1887年 - 1965年
建築家。

>中川武(ナカガワ・タケシ)

1944年 -
建築史。早稲田大学理工学研究科教授。

>難波和彦(ナンバ・カズヒコ)

1947年 -
建築家。東京大学名誉教授。(株)難波和彦・界工作舍主宰。

>石山修武(イシヤマ・オサム)

1944年 -
建築家。早稲田大学理工学術院教授。