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記憶の劇場あるいはステージ・セット | 菊池誠
Memory Theatre or Stage Set | Kikuchi Makoto
掲載『10+1』 No.37 (先行デザイン宣言──都市のかたち/生成の手法, 2004年12月発行) pp.42-43

私が「M博物館増改築計画」[図1]なる架空のプロジェクトの内観透視図をレンダリングしていたとき、ロバート・フラッドの「記憶の劇場」を思い出したという話を前回書いた。窓などの建具をはずされスケルトンだけになった擬古典様式の既存建築が、舞台装置ないしは映画セットじみて見えた、それが記憶術の道具として用いられる舞台のイメージを想起させたからである。
コンピュータを使って建築の三次元モデリングをされる読者なら同意してくれると思うのだが、作りかけの建築のコンピュータ・モデルがコンソール画面の中で、映画セットみたいに見えるということはしょっちゅうある。つまり、いきなり低レヴェルの話で恐縮だが、コンペの締め切りが目前に迫っている、提出用の透視図を短時間ででっちあげなければならない、そういうとき、出来上がった透視図において見えるはずの側だけ三次元モデリングし、レンダリング計算するというのはよくやることだ。そのために中身のない仮面のような建築を作ってしまうのである。こう言っては元も子もないが、実は本来狙ったデザインよりもこの仕方なしに作られた仮面建築の方がデザイン的に面白かったりすることさえある。イギリス・ルネサンス期に宮廷の仮面劇の舞台装置のデザイナーとして出発したセント・ポール聖堂の建築家イニゴ・ジョーンズまで遡るかはともかくも、ステージ・デザインは建築デザインに先行する「前・衛」の実験場みたいなところはあるかもしれない。
ところで、上記プロジェクトの既存建築というのは東京大学の本郷キャンパスのなかにある内田祥三設計の昭和初期の建物で、上に擬古典様式と書いたが、一応ゴシック・リヴァイヴァルと称すべきだろう。ただし、比較的大きな平面形を持ちながら三階建てと低層なため、ゴシックらしくなく水平方向が優勢なプロポーションを持っている。ゴシック・リヴァイヴァルというよりは、たとえば一八世紀ジョージアン様式の時代にもあった城郭(キャスティレイテッド)風スタイルを思わせる、とこれは私の勝手な印象である。
中世のゴシックを作った人たちが人知を超越するようなものに対して敬虔であったことは間違いなかろうが、もともとゴシックすなわち奇想だったわけではない。だが、一九世紀ロマンティシズムの美意識の中で、ゴシックと奇想とは相近しいものとして考えられたことも確かだろう。前回でも話題にしたシュルレアリスムは、このロマン主義経由のゴシックに精神的に近いところはあるはずだ。だが、一方で、存外、シュールレアルな感覚というのは古典主義の建築と相性が良いのではないか、と思うことがある。それは、古典主義建築の「仮面性」に関係しているのではないか。
こんなことを考えたのは、最近、ドイツ表現主義映画の傑作『カリガリ博士』[図2]をビデオで見直す機会があったことも一因になっている。途中、夢遊病患者の登場人物ツェザーレが小さな町の家の屋根づたいに逃亡するシーンで、まあたいがいの「デコン」よりずっと格好いい、地面から斜めに生え出て鋭角に空を刺す建物とかが出てくる。少し前、といってももう一〇年以上昔になるが、デコンストラクティヴィスムなる建築の最新流行があった。略してデコンなるこのスタイルはロシア構成主義やドイツ表現主義といった二〇世紀初頭のアヴァンギャルドのデザイン・ヴォキャブラリーを徹底的に援用し、それなりに格好よかったのだが、これもいまや単なる旧聞でしかない。一方、『カリガリ博士』の方はオリジナルの強みか今やもちろん古典である。この映画に出てくる、水平も垂直もない斜めの建築が表現主義の面目躍如たるところで、映画全体の雰囲気とともに、二〇世紀初頭の表現主義が中世ゴシックと精神的類縁関係を持っていることをあかしているとは思う。
だが、この映画の主人公で、語り手役もつとめる登場人物本人が実は精神病患者である、つまりは映画のなかの物語全体が精神を病んだ人間が作り上げた劇中劇みたいなフィクションであることが、ラストに明かされる。そのシーンは精神病院の中庭で、地上階の三つのアーチ型開口と二階の小窓がある病院の建物がちょうど「記憶の劇場」の背景のように映し出される。奇想の作り話の「なか」にあったのはゴシック的な風景だが、その作り話を「枠取る」シーンの背景は、何となくだがクラシックなのだ。それは「古典主義の仮面性」、と取りあえず上に述べたことにつながっていくのではないかと私自身は思っている。『カリガリ博士』の種明かしシーン、つまり狂気を外側から見ることのできるシーンでは、あの「記憶の劇場」みたいなステージ・セットが出てくるのである。
これも前回とのからみで言うと、映画という領域においても──あまりにも有名なルイス・ブニュエル監督の『アンダルシアの犬』のことはさておいて──シュルレアリスム映画と呼ぶべき相応の数の作品群が思い浮かばない。ただし、前回、建築とか彫刻とかにシュルレアリスムらしい作品がないと言ったのとはまったく違って、この場合はあらゆる映画ないし映画というジャンルそのものがあまりにもシュルレアリスム的であるからだろう。ジャンルの全体がシュールレアルであるなら、その内部にシュールレアルなサブ・ジャンルが生まれることはない。
さて、「ミュージアム・テクノロジー随想」という本コラムの題名、特に「随想」の部分は、つれづれなるままに……というくらいの意味合いで付けたものだから、体系的な議論とか、まとまった結論とかに行き着くことを当初から予定していない。読者には申し訳ないが、この行ったり来たりのディスコースに付き合ってもらおう。博物館は記憶の装置であるから、記憶のことに話が戻る。
ロバート・フラッドの図版を載せていたフランセス・イェイツ女史の『記憶術』の一節に次のようなくだりがあった。

論題(トピック)という用語自体が記憶法の場から生まれたというのも大いにありうることだ。トピックとは、それらが貯えられた「諸々の場所(トポイ)」からその名で知られるようになった弁証法における「事柄」、すなわち主題のことなのである。


議論、トピックの語源がギリシア語の場所、トポスであるというのは別に驚くほどのことでもないが、ちょっと興味を惹かれる。古典古代の弁論術はその発想や思考の基本的要素である論題を場所と関係付けて考えていた。記憶術の由来は弁論に深く関係している。つまり古典古代のギリシアやローマの政治家たちが演説するのに、演説の内容を覚えていなければならない、そのために記憶術なる技法が発展した。弁論のストーリー・テリングと記憶されるべきモノやコトの配分が、時系列の秩序と空間配置が、つまり時間と空間がそこで交錯するのである。
閑話休題。個人的な話で恐縮だが、もう三十数年も前のこと、記憶術の通信教育みたいなものに申し込んだことがあった。送られてきた教科書によると、まず一〇個のアイテムを覚えることが基本である。たとえば、一が歯ブラシ、二が自転車、三が掛け時計、など一〇個の物品をあらかじめ覚える。そして、新たに覚えなければならないモノやコトを一〇個ずつ並べ、先のアイテムと組み合わせて視覚的なイメージを作り、その絵を覚えるというのが当の記憶術の骨子であった。面白かったのは、その組み合わせ方が奇抜なら奇抜なだけ良いと教科書に書かれてあったことである。そのほうが、絵にしたときのインパクトが大きくて、覚えやすく、また思い出しやすいというのである。だが、これってシュルレアリスムそのものではないだろうか。つまり、シュルレアリスム公認の神話的先駆者ロートレアモンの散文詩『マルドロールの歌』に出てくる、「解剖台の上でミシンとコウモリ傘が出会ったような」という、異質なものが出会うことによるショック・モンタージュの、あの美学である。
……と、書いてきて、コラム二回目になってもなお、どこへ着くやら行く先知らずだが、とりあえず今回はこのへんで……。

1──「M博物館増改築計画」外観 3隅に階段室のタワーがあり、小尖塔の装飾がはりついた 四角いブロックが昭和初期の既存建築。 中庭を覆うヴォールト屋根や市松模様のガラスの箱、 円錐台のブロックが勝手にでっち上げた増築計画である

1──「M博物館増改築計画」外観
3隅に階段室のタワーがあり、小尖塔の装飾がはりついた
四角いブロックが昭和初期の既存建築。
中庭を覆うヴォールト屋根や市松模様のガラスの箱、
円錐台のブロックが勝手にでっち上げた増築計画である

2──ロベルト・ヴィーネ監督映画『カリガリ博士』のラスト近く、精神病院の中庭のシーン

2──ロベルト・ヴィーネ監督映画『カリガリ博士』のラスト近く、精神病院の中庭のシーン

>菊池誠(キクチ・マコト)

1953年生
芝浦工業大学システム理工学部環境システム学科教授。建築家。

>『10+1』 No.37

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