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土地の名──青天白日覓亡都 | 田中純
The Name of the Land: Searching for Traces of a Vanishing Civilization on a Fine Day | Tanaka Jun
掲載『10+1』 No.37 (先行デザイン宣言──都市のかたち/生成の手法) pp.2-12

1 雪岱の東京

ゆきて還らぬなつかしい面影──。
鏑木清方が『小村雪岱画集』に寄せた言葉である。
雪岱は泉鏡花作品の装幀挿絵で知られている。独特に様式化されたその美人画から「最後の浮世絵師」と呼ばれる一方、邦枝完二の『おせん』、『お伝地獄』といった新聞小説のために描いた単色挿絵には、オーブリー・ビアズレーに通じる感覚もある。
昭和一五年(一九四〇)に雪岱は五四歳で急逝した。昭和一七年の一一月には、生前、新聞雑誌に寄稿した文章を集めた遺文集『日本橋檜物町』が高見澤木版社から刊行されている。書名は昭和一〇年代に書かれた東京をめぐる随想のひとつから取られた。それら随想の題名をあげれば、「入谷・龍泉寺」、「木場」、「日本橋檜物町」、「大音寺前」、「観音堂」。文集にはほかに鏡花の思い出話なども収められており、それはそれで生身の文豪を伝えて興趣があるものの、この書物の姿を定めているのはむしろ、これら古き東京への追想であり、それと時には綯い交ぜになる、雪岱の胸中に宿された心像としての「おんな」への憧れである。それらがいずれも「ゆきて還らぬなつかしい面影」なのだ。
「入谷・龍泉寺」は、冒頭に清元「忍逢春雪解しのびおうはるのゆきどけ」の一節を引いて、廓の寮をめぐる記憶をたぐり寄せてゆく。

私は子供のとき根岸で育ち、途中他所へ移り、中年にまた根岸へ住まいました。その頃は丁度、故沢村源之助の宮古座時代で、一つ狂言を二、三度ずつも観に通っていた時分の事で、その行きかえりに、入谷・龍泉寺辺は随分よく歩きました。それから龍泉寺町には友達が住っておりました。それは金杉上町の、三島神社の角を曲って、すぐにお歯ぐろ溝へ出ようという、左側の小さな二階造りの長屋で、右隣が酒屋、左隣が車宿で、引子が大勢おりました★一。


このあたりは樋口一葉の住まいがあった土地である。『たけくらべ』に出てくる水の谷の池もまだ残っていた。その当時の春の吉原大火のあと、避難してきた遊女で料理屋がどこもかしこもいっぱいになり、小座敷から艶かしい女の姿がこぼれるような、不可思議な景色であった、と述べられているから、時は明治四四年、雪岱二四歳の頃であろう。
いかにも画家の回想らしく、雪岱の記憶はしばしば一幅の絵に似た心像へと凝結する。

全く一寸した事で、実にはっきりと覚えておりますのは、或日お歯ぐろ溝の中に紫陽花の花が捨ててあった事であります。お歯ぐろ溝のあの黒ずんだ濁った紫色の中に、紫陽花の、濃い藍、薄い藍、薄黄の花が、半ば沈み込んだ色あいは実に美しいものでした★二。


そして、花と女の面影もまた一体である。

私は門口から、何度も声をかけましたが、返事がありませんので、入口の腰障子を開けましたところ、ただの一間しかない家ですから、眼の前に、その家の十六、七の姉娘と、十四、五の妹娘が、貧乏徳利に、枝もたわわに咲ききった桜の枝をさして、畳みのまん中に置き、戯れに匂いでもかいでいたのでしょう、二人共、花の中へ顔を埋めていましたが、驚いて、こちらを向きました。私も驚きましたが、美しいと思いました。その後、その人々は如何していましょうか。姉は元ちゃん、妹をのぶちゃんと云って、二人揃って、親御が大自慢の器量よしでありました★三。


龍泉寺町や入谷辺の思い出を締めくくるのは木遣の声だ。「賑やかそうで妙に寂しく思いますのは」と雪岱は言う。

春の静かに晴れた日などの建前に、普請場から、木遣をやりながら、棟梁の家へ帰るのを見ますと、極めて勢いのよいものでありながら、何となく寂しいものでありました。その時は下町の雑音もそれなりに一つのまとまった音となって、人々を妙な心持に致します★四。


雪岱の東京には不思議な静けさがある。そこに音があるとしても、それは聞こえるか聞こえないかの余韻であると言ってよいかもしれぬ。その静けさは、大正一三年頃の作品《青柳》が柳の枝越しに見下ろすように描く畳敷きの広間に、一棹の三味線と大小の鼓が整然と置かれただけであることを思い起こさせる。楽器はあれど、音色を奏でているわけではない。春風の柳を揺らす音がかすかに聞こえるかどうか、そんな気配が漂うばかりなのである。
「妙な心持」と雪岱は書いている。いろいろな雑音がひとまとまりになったところに生まれる「町の音」としか呼べないような何かによって、ひとは酔い心地に誘われる。

屋根は低く、家は小さく、町の物音は石臼のようにまとまって、そしてかすかに空へ消え、貸座敷の高調子は、つつぬけに空に響いて、蝶が遙かに虚空を飛ぶのを見まして気が遠くなった事もあります。私は同じ土地でも、日本堤の東と西とはよほど気持が違うように思うのであります★五。


およそとりとめもない、画人の印象記にすぎないかもしれない。しかし、知識や論理によってではなく、からだの感覚を通じてとらえられたこうした町の記憶、そしてその記録には、ほかの方法では恐らく発見しえない、とても繊細で微妙な、けれど本質的な何かの兆しが感じられる。わたしが以前から、雪岱を通した東京を語れないものかとあてどなく考えていたのはこのいわく言いがたい感触のせいだった。
東京のうちでも雪岱がもっとも好きな景色のひとつだという木場もまた、その静けさによって「別の世の中」を見せている。「この町の静さを何と申しましょうか、木の香は鼻のしんまで沁み通り、堀一杯の材木や道を圧して林立する裸の木材を見ておりますと、妙に深山幽谷が思われます」★六。
船が掘り割りを行き交い、自動車が材木を運び、上下左右、十文字に動いて働く人々が大勢いるにもかかわらず、そこには妙に音がない。材木を引く鋸の音が、不思議なほど耳に立ち、ところどころに顔を覗かせる鉢植えや雑草の花と緑が目を引くばかりだ。

色といえば空の色と、白木の材木と、堀割の水の色で、道端に落ちた一片の蜜柑の皮の橙色さえ非常に眼につくのであります★七。


単に画家であるせいばかりではない。芝居好きのうえ、鏡花仕込みの耳の鋭さもあるのだろう。浅草観音堂を訪れても、初夏の晴れた日の心持ちをこんなふうに言う。

都会の音とでも申しますか、極々遠い雷のような音が御堂をめぐって、堂の中の御経や称名や鳩のたつ音や一切の音に足音まで雑って、香のかおりと共に虚空に消えるのであります。このような時に私は意味はよく解りませんが、有頂天ということを思い出されるのであります。はるかに大棟にとまった鳩の動くのも瓦が動いたかと思われました★八。


この陶然とした感覚のなかで、鋸の音や草花、あるいは瓦(鳩)の動きだけが際だつのは、一種の「カクテル・パーティー効果」であると言ってよかろう。中井久夫が指摘している、二つの質の異なる知覚形態の「重ね合わせ(パラタクシス)」である。それを通じて記憶には、情動喚起的記憶と非情動的記憶との二重性が生じる★九。中井の概念定義★一〇を背景として述べれば、渾然一体になった「都会の音」という「余韻」ないし「予感」と、そこから分節された細部である「索引」ないし「徴候」としての音の重ね合わせにこそ、雪岱を「有頂天」にさせた何かがある。
こうした知覚のあり方は記憶の記銘と想起に深く関わっている。二〇歳過ぎまで暮らした日本橋檜物町界隈について、雪岱はこう書いている。

そしてこの一廓は震災の時にことごとく焼けまして、あと暫く焼野原となっていましたが、今ではその跡に見上げるような石造のビルデングが建ちまして、元の一廓は地面の底へ埋められたような心持がいたします。このほど人を訪ねてこのビルデングへ参りました。この日は誠によく晴れた静かな日でありましたが、応接間で人を待っておりますと、昔の事が思い出されて、何となく空の方で木遣の声が聞えるような心持が致しました★一一。


この木遣の声こそはまぎれもなく余韻である。昔日の日本橋檜物町も、雪岱のなかでは決して焼失したのではなく、石造ビルディングの地下に埋められ、それによってそのまま保存されているのである。もちろんそれは実際にはそこにはない。しかし、問題なのは日本橋檜物町がいまだそこにあるかのように見る、アルド・ロッシの言う現代都市へと向けられた「考古学者の目」なのだ★一二。
雪岱は同じく震災で焼けたあとの龍泉寺町に「昔からの土地の匂い」が残るのを感じとり★一三、様子の変わった町に「にじみ出している昔ながらの心持」に胸つまらせる。「この辺の人々の顔立ちや姿形も何となく外の土地と違っておりますし、表に遊ぶ腕白の顔などにも、三五郎、正太の俤を見るのであります」★一四。
画家の感覚がとりわけ鋭敏であることを別にすれば、「土地の匂い」や人々の面影に昔を感じること自体はさほど珍しい話ではあるまい。ただ、雪岱の回想が興味を惹くのは、東京の面影のあり方が、彼の本分である画業における「おんな」の面影と重なり合うように見える点である。
雪岱は自分の内部にある心像としての女に似通った女だけを描きたいと言う。それは幼い頃に亡くした母の面影であり、京都で見た御所人形の艶々しい顔、あるいは国貞の描く錦絵の娘、そして何よりも第一に仏像、なかでも奈良興福寺にある阿修羅王の像である。この画家は、いわば「原型」として自分のうちにあらかじめ存在するこうした心像に似通った女を現実に発見したうえで、その女を描くのである。
「人形や仏様を手本にするのですから、私の描く人物には個性がありません」と雪岱は進んで認める★一五。個性を描出することに彼は関心がないのだ。女を描くにも、決して写生はしないという。

では個性のない人物を描いてどこに興味を置いているのかといえば、私はあの能面の持つ力に似たものを希っているのです。能面は唯一つの表情です。しかし演技者の演技如何によっては、それがある場合は泣いているようにも見え、またある場合には笑っているようにも見えます。つまり私は個性のない表情のなかにかすかな情感を現わしたいのです。それも人間が笑ったり泣いたりするのではなく、仏様や人形が泣いたり、笑ったりするかすかな趣を浮かび出させたいのです★一六。


雪岱描くところの女は、人間として泣き笑うのではない。それはあくまで能面の表情なのだ。それは仏像や人形のように泣き、そして、笑うのである。仏像や人形はそれ自体としては表情を変えないのだから、これが至極困難な目標であることは明らかだろう。個性のない原型がそのとき帯びるかすかな情感、趣といったものは、目に見えて感じ取れる表情の周縁に漂う、現前しているともしていないとも言えないような何かだ。それはいわば徴候ないし索引なのである。
日本橋檜物町あるいは入谷・龍泉寺町といった土地の、ごく限られた時代の経験と深く結びついていながら、雪岱の語る東京の思い出が、何かある原型へと収斂してゆくように感じられるのも、もしかしたら同じ所以なのかもしれない。そこに聞こえるのは渾然と一体になった町の音とそれを背にしながら遠く虚空へと消えてゆく木遣の声であり、目に見えるのは沈んだ色調をした背景に浮かび上がる鮮やかな花々である。時は春、あるいは初夏の晴れた日だ。
気が遠くなるような有頂天、雪岱にとってそれはいわば、そんな瞬間が時折ふっと訪れることがなければそもそも生きてゆくことさえできないような、感覚的な幸福の原型、その心像であったようにも思われる。「春の女」と題された随筆は、この幸福の心像と女の心像との交錯を、あたかも短篇小説のように描いている。
それは強風が吹いた翌日、あまりの晴天ににわかに思い立って、近郊のある古寺を訪れた折りのことである。駅から寺まで、畑道をぶらぶらと小鳥の声を聞きながら歩いてゆけば、すでにして気が遠くなる。寺の裏手の野原には、摘み草の女連ればかり。土筆を除けて横になる。女の子の声がかすかに聞こえるだけの、不思議なほどの静けさ。

何所からか白い蝶が二つ舞い上がりました。見詰めているうちに、だんだん高く上がって蒼空にとけこんで見えなくなりました★一七。


いつの間にか眠ってしまい、暖かすぎるので目を覚ます。起きあがって本堂の方へ行き、三間四方くらいの御堂を回ったところで、その縁に若い女が寝ているのを見つける。

こちらへ背を向けて襟足を長く出して前屈みに倒れたように。薄色の着物に白地の帯が眼につきました。病気か、泣いているのか、前へ廻ってそれとなく見ますと、頬を縁へつけるようにして指の先で縁板へ何か書いている様子でありましたが、私を見ると顔はそのままにして眉を顰めて眼だけ笑いました★一八。


雪岱は逃げるように本堂の方へ廻る。女の歳は二十か二一くらい。「埃及エジプト古画の女の顔」に似ていると思う。何かぼんやりした変な気持ちになり、そろそろ帰ろうと縁の方をのぞくと、すでに姿はない。縁板に近寄ると女の残した爪の跡が見える。

文字のようでありますから更に近く寄ってよくよく見れば、
  青天白日覓亡子
  白日青天覓亡子
  青天白日覓亡子★一九


のどかな春の日の遠出は、白日夢のようにして現われて消えた女の顔と、「晴れ渡った日に亡き子を探し求める」と繰り返されるつぶやきに似た爪の跡で終わる。蒼空に消える蝶、「埃及エジプト古画」に似た女、誰ともわからぬ「亡子」──いずれもが夢の像に似て、見えたかと思えば失われている面影である。昔日の東京、あるいは今まさに失われつつある都会に向けた雪岱のまなざしもまた、そんな面影を探すものであったのかもしれない。春の女が残した言葉を借りればそれは、「青天白日覓亡」といった営みであろう。

1──小村雪岱による挿絵(邦枝完二『おせん』[昭和8年])

1──小村雪岱による挿絵(邦枝完二『おせん』[昭和8年])

2──小村雪岱による挿絵(邦枝完二『お伝地獄』[昭和9─10年])

2──小村雪岱による挿絵(邦枝完二『お伝地獄』[昭和9─10年])

3──小村雪岱《青柳》(大正13年頃)

3──小村雪岱《青柳》(大正13年頃)

2 地霊論

土地に独特の「匂い」や面影を宿らせる何か、それを「地霊」と呼んでみよう。西洋で言う「ゲニウス・ロキ」である。地霊ないしゲニウス・ロキの論者としては、鈴木博之とクリスチャン・ノルベルグ=シュルツがいる。後者の『ゲニウス・ロキ』は現象学的建築論のひとつで★二〇、マルティン・ハイデガーの思想、とりわけ「建てること、住むこと、考えること」などの強い影響下に書かれている。シュルツは建築をゲニウス・ロキの具体化ととらえ、ゲニウス・ロキとの関わりのなかにこそ、建築することの実存的意義を見いだそうとする。この書物がそもそもゲニウス・ロキの概念を蘇生させた点は高く評価すべきだろう。とはいえ、このような理論的背景が強く作用しているために、プラハ、ハルトゥーム、ローマという三都市を取り上げ、それぞれのゲニウス・ロキを自然環境や都市の空間構造、歴史から個別にあぶり出す過程においても、個別の土地、その場所の特異性(少なくともその一部)が実はあらかじめ見えなくされてしまっているのではないか、という印象が否めない。
その点で鈴木の立場は明快である。『東京の[地 霊ゲニウス・ロキ]』や『日本の〈地 霊ゲニウス・ロキ〉』で鈴木が描こうとするのは、都市計画や都市の制度をめぐる歴史ではなく、あくまで個別な土地の歴史の集積である。一八世紀英国において注目された地霊の概念に彼が求めたのは、そのための視座であった。
周知のように、この時代の美意識においてはピクチャレスクという概念が重要な役割を果たした。その美学において「地 霊ゲニウス・ロキ」は建築などの造形の出発点を意味する言葉として用いられた。一七三一年のアレグザンダー・ポープの詩「バーリントン卿への書簡」のなかには、庭園を設計するうえで「土地の精霊」への配慮をうながす言葉がある。
鈴木は地霊の概念のなかに、単なる土地の物理的形状に由来する可能性だけでなく、その文化的・歴史的・社会的背景と性格を読み解く鍵を見いだそうとする。それは「目に見えない潜在的構造を解読しようとする先鋭的な概念」であり★二一、この概念を通じて土地はひとつのテクストと見なされるのだ。
鈴木がそこで参考としたのは、一八世紀ロンドンの歴史を貴族たちが所有する地所開発の歴史として叙述したサマーソンの研究である★二二。これにならって、たとえば港区六本木の林野庁宿舎跡地に眠っていた静寛院宮(かつての皇女和宮)の記憶が発掘され、大久保利通暗殺の現場である千代田区紀尾井町界隈の百年が回顧される。それはある土地を定点とし、そこに所有者、居住者として関わった人物たちの伝記を通じて語られる、明治以降の近代史である。それゆえその調査資料となるのは、地図とともに、社史・伝記資料や地籍図なのだ。東京の近代は、鈴木の慧眼によって選び出された場所を媒介とし、そこを所有しては去る人々の伝記の集積として描かれるのである。
『日本の〈地 霊ゲニウス・ロキ〉』で鈴木はこうした方法について、それは都市を構造体としてとらえるのではなく、個々の「場所」としてとらえる方法である、と述べている。つまりそれは、都市を政治史、制度史、計画史として読み解くのではなく、「事例(ケース・ヒストリー)」の積み重ねとして読み解くことにほかならない。そこにこそ、都市それ自体の自立性が見いだせると鈴木は言う。「中心と周縁」といった構造的な把握は、文字通り構造的に否定される★二三。地霊を通じて紡がれるのは、構造的変容を語る大きな物語ではなく、土地の所有関係から見えてくる小さな政治(マイクロ・ポリティクス)の物語集なのである。
このように概観しただけでも明らかなように、ノルベルグ=シュルツと鈴木では、地霊という概念による分析の次元が異なっている。ノルベルグ=シュルツにおいては、ある都市のゲニウス・ロキが問題であるのに対して、鈴木の場合には、都市をかたちづくる複数の場所の地霊こそが発見されるべき何かなのである。鈴木の立場からすれば、ノルベルグ=シュルツの議論は避けるべき都市の構造論であるどころか、よりはるかに抽象化された生活世界の現象学的構造論であろう。一方、鈴木がおこなっているような土地をめぐる小さな政治のあぶり出しが、単なる因縁話に終わる恐れも決して小さくはない。鈴木の地霊論は、構造論を拒否しつつ、それでもやはり、何らかの「潜在的構造」を仮定せざるをえない。
その構造とは何か。鈴木が、地霊論は土地をテクストとして見る、と指摘したことが示すように、それは恐らく言語的構造である。固有性を失わない存在形式としての「場所」の意識が都市や庭園を読み解く場合にとるかたちをめぐって、鈴木が次のように述べるとき、その構造はまさしく文学的な形式として取り出されている。

わが国の名所は、あくまでも場所として名づけられ、文学化されたものである。近江八景をはじめとする八景というセットによって場所を名づけることを好んだ精神は、空間の普遍性や特異性を評価するのではなく、場所のつらなりとして外界を読み解こうとするものである。八景に限らず、浮世絵の主題になった六玉川とか霊場の構成に用いられた三十三カ所、八十八カ所、そして庭園や都市のなかに意識された八十八境、そして百景などは、われわれがいかに場所にとりまかれていることを喜び、場所を経巡ることに興味をもっていたかを示している★二四。


日本文学における場所の問題にはあとで立ち返るとして、ここでは西洋の伝統的修辞学からゲニウス・ロキを考察した中村雄二郎の論考を参照しておきたい。中村はゲニウス・ロキに接近する方法として、現象学的考察と記号論的考察に言及したうえで、修辞学的なトポス(場所)論を第三の観点としてあげている。修辞学とは「深く場所そのものにかかわる言語的な知」だからだ★二五。
場所は、空間的なものであるにとどまらず、意味を産出し分節化する修辞学的な性格をもつ。ゲニウス・ロキとは、歴史的な経過によってさまざまな記憶が包蔵された、重層的な意味を産出する場にほかならない。それゆえに、修辞学の伝統をなす文彩論が、ゲニウス・ロキの分析に役立つのだと中村は言う。ここで念頭に置かれているのは、隣接関係からなる換喩(メトニミー)、包含関係からなる提喩(アネキドッキ)、類似関係からなる隠喩(メタファー)、対義関係からなる反語(アイロニー)の四大文彩である。
残念ながら、その分析の具体例があげられているわけではない。だが、次の指摘は引用するに値する。

すなわち、一見単に空間的にみえる場所であっても、それがわれわれ人間の集団的記憶にかかわるかぎり、そのような記憶に関する過去のさまざまな言いまわしの包蔵された言語的場所であり、したがって、そのような集団的記憶を掘り起こし、浮かび上がらせるためには、言語的な知の遺産に無感覚であってはならない、ということである★二六。


抽象的に聞こえるが、何のことはない、「地名」こそ、土地が集団的記憶の埋め込まれた言語的場所であることの何よりのしるしである。地名を通して土地の歴史を探り、その場所と地名との関係に、中村の言う文彩を含む修辞学的な構造を読みとる民俗学の分析には、柳田國男の「地名の研究」以来の蓄積がある。中谷礼仁の美しい言葉を借りれば、「地名は詩人を持つ」★二七。地名と土地のつながりを保証する詩的プロセス、つまり言語的構造についてここでは、平城京跡の地名である「ダイコクノシバ」をめぐる中谷の刺激的な論考を取り上げよう。
平城京跡が関野貞によって発見されようとしていたとき、そこは家畜の糞にまみれた土壇でしかなかった。「ダイコクデン」という、一見したところ、その場所が平城宮跡であることを直接示しているかに見える小字こあざの名は、しかし、発見の契機にはされなかった。実際には大極殿の北東約五キロ、女帝元明天皇を火葬した場所の名である「ダイコクノシバ」こそが、「大黒の芝→ダイコクのシバ→ダイゴクのシバ→大極(殿)」という連想による「発見」の物語を生んだのである。

ダイコクノシバは、今は忍ぶ影もないその糞まみれの土壇にふさわしい名であった。ここで誰かが死んだ、それは、死とその物性を、「変更不能」な墓として連結するパタン・ランゲージだったのではないだろうか。関野は当時民有地であり、土地の所有者たちの同意がなければ保存しえないこの平城京跡地に、彼らの心的意識にぴたりとはまり、それが本質的に彼らのものではないことを敷衍する筋道を作り出したのではなかろうか★二八。


中谷は「ダイコクノシバ」といういわば「墓の名」が、そこでは「パタン・ランゲージ」として引用されたのだと言う。地名の転用という修辞によって、異なる場所の記憶が平城京跡に引用され、意味の重層化をおこなっていたのである。中谷がそこにアレゴリーという修辞学的な比喩の構造を見ているのももっともであろう。遠い過去に生起した出来事のおぼろげな記憶を呼び覚ますものであるがゆえに、そのとき地名は「索引」として機能したのだ、と言うこともできる。
地名が「徴候」として機能することもありうる。訪れたことのない都市の名がそれだ。『失われた時を求めて』の「土地の名・名」でプルーストはこう書いている。

それらの夢をよみがえらせるために、私はただ、バルベック、ヴェネツィア、フィレンツェ、と、その名を発音しさえすればよかった──これらの名前のなかには、その名の指し示す土地から吹きこまれた私の欲望が、いつの間にか蓄積されていたのである★二九。


都市の名はそのとき、そこで自分が遭遇する出来事への期待と予感を孕んだ徴候と化しているのである。
名前は町についてのイメージを吸収する、とプルーストは続ける。しかし、同時にそれはそのイメージを変形してしまい、名前固有の法則に従わせてしまう。「名前というものは、さまざまな人間について、また町について──名前のおかげで私たちは、町も一人ひとりの人間と同様に、個別で独特なものと考えるのに慣らされているのだが──一つのあいまいなイメージを提供し、そのイメージが名前から、またその名前の華やかだったり暗かったりする音の響きから、イメージ全体を一様に塗りつぶしているあの色彩を引き出しているのである」★三〇。それはちょうど、プルーストが列挙するこんな町たちの名のように。

たとえばバイユー(Bayeux)の町は、赤味を帯びたその上品なレースに包まれて、あくまでも高く、頂きは最後の音綴の古びた黄金に照らしだされていた。ヴィトレ(Vitr )の町は、そのアクサン・テギュが、古いガラス戸(vitrage)に菱形の黒い木の区切りをつけている。おだやかなランバル(Lamballe)の町は、その白味(blanc)のなかで、卵の殻のような黄色から、真珠のような淡灰色へと移りつつある★三一。


さらに「脂ぎって黄ばんだ末尾の二重母音」をもつクータンスの町、ラニオンの町、ケスタンベールとポントルソンの町、ベノデ、ポンタヴェン、キャンベルレの町……。ひとつの名にイメージが凝集される以上、町のイメージは避けがたく単純化されてしまう。しかし、名が喚起するイメージの力はこの単純化によってさらに強められるのである。
この意味で、名とは都市の面影なのだ、と言おうか。ベンヤミンは『パサージュ論』における街路名の理論のために、プルーストに関するレオ・シュピッツァーの考察を引いている。それによれば、地名のような固有名詞は概念として作用するのではなく、純粋に響きのうえで作用する。だからこそ、プルーストはそこに彼の感覚を記入することができた。名は言語による合理化をすり抜けるのだ★三二。
それゆえ、『失われた時を求めて』のように都市名だけが問題なのではない。「街路名にひそむ感覚性。それは普通の市民にとってどうにか感じ取れる唯一の感覚性である」とベンヤミンは言う★三三。街角の石の熱さや汚れを素足で感じることのない者──つまり、ルンペンでも乞食でもない者──にとって、都市の感覚性とは街路名にこそ潜んでいるというわけである。街路名は、だからベンヤミンによれば、時にはその場の現実の光景と名が喚起するアレゴリー的なイメージとの相互浸透によって、麻薬にも似た陶酔を引き起こすのだ。──ダイコクノシバとはそんな名だったのではなかろうか。
ベンヤミンは言う、都市は普通ならごくわずかな言葉、特権階級の言葉だけが近づきうるものを、多くの言葉にとって接近可能なものにする、と。それは何か。「名」という言葉の貴族階級である。名をめぐるベンヤミンの形而上学に深入りすることは避けておこう。ただ、「都市は街路名によって言葉の宇宙となる」という★三四、美しい一節だけを引いておきたい。これは都市が名の星座になるということである(そしてそれはベンヤミンにとって、都市が理念の表現になるということを意味したに違いない)。
都市名、街路名の魅惑を別の面からとらえよう。丸谷才一はプルーストの「土地の名」を「モダニズム版の道行文」と評している★三五。こうした評価の背景をなすのは、二〇世紀文学を一九世紀文学への反抗と見て、一九世紀以前の文学の特質が新しい色調でよみがえったものととらえる文学史観である。「土地の名」で用いられている「列記(enumeratio)」の手法もまた、モダニズム(たとえばほかにはジョイス)によって再生された文学技法のひとつにほかならない。
ここには鈴木が一八世紀英国の地霊論に範を求めたのと同じ志向性がないだろうか。地霊をあらわにするもっとも有効な方法はそれを名づけることである。八景、三十三カ所、八十八カ所、八十八境、百景といった「場所として名づけられ、文学化された」名所のセットの事例をあげて鈴木が示唆したのはそのことだろう。一九世紀以来支配的だった、都市を「空間」の構造としてとらえる見方に反抗したとき、鈴木が向かったのは、「場所」のセットとして都市を見る見方であり、それはいわばピクチャレスクの美学によって作られた英国式庭園を経巡る「道行文」のように、「場所」の列記こそを方法としたのである。
ジャクリーヌ・ピジョーの研究『物尽し』を見ても★三六、『枕草子』の「物はづくし」をはじめとして、日本文学は実に列記に富んでいる。丸谷はそこに、祝詞における神々に献げる品々の列挙に始まる、
いわば「言葉のポトラッチ」としての呪術的・祝祭的性格を見てい
る★三七。東海道五十三次の道中双六が宿場名の列挙だとすれば、江戸・東京の各所にある七福神めぐりも寺の名や地名の列挙にほかなるまい。江戸・東京が双六に似た群島的小都市のセットだという見方はよくなされるが、八景、三十三カ所などと同様、これも地名尽くしと言ってよい。
それは土地の名を「尽くす」ように列挙することで都市を把握しようとする方法である。八景、三十三カ所、八十八カ所、八十八境、百景といったように、場所にとりまかれていることを喜び、場所を好んで経巡るのは、いわば場所の名の列記によって、都市を蕩尽による祝祭の場に変える営みであったと言えようか(そこには遠く国見の儀式的感覚も残っているかもしれない)。
名所の地名は歌枕であり、単なるひとつの固有名であることを越えて、和歌をはじめとする文学的テクストを、時には連鎖的に呼び出す索引になる。道行文とは、ある人物の旅の過程を描きながら、時には掛詞などの修辞を駆使しつつ、そんな連鎖を繰り広げる文学形式にほかならない。この場合、場所の修辞学的構造は文学史的記憶と密に織りなされている。あるいは逆に言えば、日本の文学史には土地の記憶が埋め込まれているのである。
たとえばよく知られた『太平記』第二巻「俊基朝臣としもとあそん 再  ふたたび関東の下向げかうの事」の段、「落花らくくわの雪にふみ迷ふ、片野かたのの春の桜がり、紅葉もみじの錦をかへる、嵐の山の秋の暮、一夜ひとよあかす程だにも、旅宿たびねとなればものうきに……」は、藤原俊成の歌「またや見ん交野かたの御野みのの桜がり花の雪ちる春の曙」、および藤原公任の歌「朝まだき嵐の山のさむければ紅葉の錦きぬ人ぞなき」を下敷きにしている。さらにこのうち前者は、惟喬親王が交野で花見の遊びをしたことを伝える伊勢物語八十二段を思い起こさせたことだろう。「かたの」という場所は、このような間テクスト性の結節点となることによって、言語的構造を重層化させてゆくのである。
東京をめぐる小村雪岱の随筆もまた、たとえば清元の「冴返る、春の寒さに降る雨も、暮れていつしか雪となり、上野の鐘の音も凍る細き流れの幾曲り、すゑは田川へ入谷村」を引いて語り出し、一葉の『たけくらべ』あるいは鏡花の『日本橋』が言及されるといったように、入谷や水の谷、そして日本橋檜物町を一種の文学的「名所」に仕立てあげている。繰り返し引かれる久保田万太郎の句「蓮咲くや桶屋の路次の行き止り」によって、龍泉寺町あたりの、何の変哲もない長屋が歌枕になるのだ。
だが、たとえそこに意識化された文学的テクストの記憶が存在しなくとも、プルーストの例が示すように、響きにおいて感覚的なものを残す土地の名は、おのずと無意識の詩学に従う。無意識は修辞学を駆使する。そして、無意識がなかでも愛好するのは人名や地名といった固有名の操作なのだ。ど忘れをめぐるフロイトの有名なエピソードを見ればよい。ヘルツェゴビナへの馬車旅行の最中、会話しているうちに画家シニョレリの名前をど忘れした経験をフロイトは次のように自己分析している★三八。
死と性にまつわる話題を押さえ込もうとしたために、記憶のなかでそれと関係する呼びかけの称号(固有名に準じるものと言えよう)Herrおよびこれに対応するイタリア語Signorも抑圧され、シニョレリ(Signorelli)が思い出せなくなる。その代わりにHerrは地名ヘルツェゴビナ(Herzegowina)の冒頭の綴りに顔を覗かせている。一方、ヘルツェゴビナと対になる地名ボスニア(Bosnien)のBoは、ボッティチェリ(Botticelli)およびボルトラッフィオ(Boltraffio)という二つの語を引き出す索引となり、シニョレリ(Signorelli)の末尾elliはボッティチェリ(Botticelli)の末尾に移動する。さらに、フロイトがある患者の訃報を受け取った土地の名トラフォイ(Traffoi)が、同じく抑圧にともなう移動の結果、ボルトラッフィオ(Boltraffio)の後綴に出現するのである。文彩論で言えば、HerrとSignorの間にあるのが隠喩的類似関係、HerrとTraffoi、あるいはBosnien、Botticelli、Boltraffioの三者の間にあるのが換喩的隣接関係である。都市が麻薬にも似た陶酔をもたらす夢の空間になるのは、街路名がこんなふうに錯綜した修辞学的なネットワークへと向けて無意識を誘うからでもあるに違いない。
名所のように、あらかじめ言語的構造をもった場所として名づけられている土地を分析対象にするのではなく、逆にその土地に関与した人々の来歴から「地霊」としてのテクストを読みとるのが鈴木の方法である。ある場所を選んだうえでならば、その土地と関係者の伝記は実証的な手段で構成されればよい。しかし、もっとも問題であり困難なのは、どの場所を選ぶか、どこに地霊がいることを感じとるか、という出発点だろう。無意識的なものを含み、容易に言語化されない身体性が重要な契機となるのはこの部分である。
中村はその点について、ゲニウス・ロキが関わるのは「パトス的な記憶」であり、その気配を敏感に受けとめるためには、五感を貫く「共通感覚」を働かせることが必要である、と指摘している★三九。われわれはそれを「徴候的な知」と呼びたい(この発想を借りている中井久夫自身、中村の「臨床的知」をこれと同一視している★四〇)。しらみつぶしに調査するのではなく、隠れたものを上手に発見する「セレンディピティ」によらなければ、地霊に出会うことは至難の業なのだ。
都市に陶酔する遊歩者とはそんな巧みな発見者である。そして、小村雪岱の随想にわたしが感じとったものもまた、共通感覚的な諸感覚の相互作用を背景とした、土地に対する徴候的な知の、生き生きとした活動ぶりだったのかもしれない。青天白日に地霊を探し求める者は、個性のない能面に表情を浮かび上がらせるわざを知らなければならない。
そうであればこそ、縁板に「青天白日覓亡子」と刻みつけて姿を消した春の女とは、きっとひとりの地霊であったに違いないのである。

4──抑圧による言語変形のメカニズム 出典=フロイト『日常生活の精神病理学』

4──抑圧による言語変形のメカニズム
出典=フロイト『日常生活の精神病理学』


★一──小村雪岱『日本橋檜物町』(中公文庫、一九九〇)九─一〇頁。
★二──同、一二頁。
★三──同、一七頁。
★四──同、一八─一九頁。
★五──同、一九頁。
★六──同、二一頁。
★七──同、二一─二二頁。
★八──同、三〇─三一頁。
★九──中井久夫『徴候・記憶・外傷』(みすず書房、二〇〇四)七二頁参照。
★一〇──同、一八─二〇頁参照。
★一一──小村、前掲書、二五頁。
★一二──アルド・ロッシ『都市の建築』(大島哲蔵福田晴虔訳、大龍堂書店、一九九一)三一六頁(アメリカ版初版への序文)。
★一三──小村、前掲書、二七頁。
★一四──同、二八頁。
★一五──同、五九頁。
★一六──同、五九─六〇頁。
★一七──同、六三─六四頁。
★一八──同、六四─六五頁。
★一九──同、六五─六六頁。
★二〇──クリスチャン・ノルベルグ=シュルツ『ゲニウス・ロキ──建築の現象学をめざして』(加藤邦男+田崎祐生訳、住まいの図書館出版局、一九九四)。
★二一──鈴木博之『東京の[地霊]』(文藝春秋、一九九〇)四頁。
★二二──John Summerson, Georgian London, London, 1945, 1988.
★二三──鈴木博之『日本の〈地霊〉』(講談社現代新書、一九九九)二二八頁参照。
★二四──同、二二六─二二七頁。
★二五──中村雄二郎「ゲニウス・ロキ私考」(ノルベルグ=シュルツ、前掲書、栞、六頁)。
★二六──同、七頁。
★二七──中谷礼仁「出来事とその徴──ダイコクノシバのアレゴリー」(『10+1』No.36、INAX出版)二四頁。
★二八──同、二五頁。
★二九──マルセル・プルースト『失われた時を求めて(抄訳版)』(鈴木道彦訳、集英社文庫、二〇〇二)二四〇頁。
★三〇──同、二四二頁。
★三一──同、二四四頁。
★三二──ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論III』(三島憲一ほか訳、岩波書店、一九九四)二一九頁、断片番号P1a, 7参照。
★三三──同、二一六頁、断片番号P1,10参照。
★三四──同、二二六頁、断片番号P3,5参照。
★三五──丸谷才一『闊歩する漱石』(講談社、二〇〇〇)七六頁。
★三六──ジャクリーヌ・ピジョー『物尽し──日本的レトリックの伝統』(寺田澄江+福井澄訳、平凡社、一九九七)。
★三七──丸谷、前掲書、六四─七〇頁。
★三八──Sigmund Freud, Zur Psychopathologie des Alltagslebens. In: ders.: Gesammelte Werke. Bd. IV, Frankfurt am Main, Fischer, 1999 (1941), S.5-12.参照。
★三九──中村、前掲論文、七頁参照。
★四〇──中井、前掲書、二七頁参照。

*この原稿は加筆訂正を施し、『都市の詩学──場所の記憶と徴候』として単行本化されています。

>田中純(タナカ・ジュン)

1960年生
東京大学大学院総合文化研究科教授。表象文化論、思想史。

>『10+1』 No.37

特集=先行デザイン宣言──都市のかたち/生成の手法

>鈴木博之(スズキ・ヒロユキ)

1945年 -
建築史。東京大学大学院名誉教授、青山学院大学教授。

>中谷礼仁(ナカタニ・ノリヒト)

1965年 -
歴史工学家。早稲田大学創造理工学部准教授、編集出版組織体アセテート主宰。

>パタン・ランゲージ

クリストファー・アレグザンダーが提唱した建築・都市計画にかかわる理論。単語が集ま...

>パサージュ

Passages。路地や横丁、街路、小路など表わすフランス語。「通過」する「以降...

>大島哲蔵(オオシマ・テツゾウ)

1948年 - 2002年
批評家。スクウォッター(建築情報)主宰。

>福田晴虔(フクダ・セイケン)

1938年 -
西日本工業大学教授/建築史。日本建築学会、建築史学会、米国建築史学会。

>ヴァルター・ベンヤミン

1892年 - 1940年
ドイツの文芸評論家。思想家。