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三次曲面と建築術の行方(承前) | 丸山洋志
Three-Dimension Surface and Future of Architecture | Maruyama Hiroshi
掲載『10+1』 No.30 (都市プロジェクト・スタディ) pp.37-40

三次曲面を流用した建築(角がとれて、分析的というよりも感応的な形質)に対する、人々の反応は興味深い。もっとも大方の人にとっては、その形質を成り立たせている幾何学的本質などはどうでもよく、むしろ直観的に(建築として)経験しているわけであり、それゆえに正直なものであろう。その形態が感応的であるがゆえに、「私の内部」を大事にする人、あるいは流行に敏感な人は建築のこのような傾向を歓迎するのは当然として、建築の歴史にある程度精通している人、建築そのものを度外視したとしても空間・時間に対して理性的に対応していく自覚をもった人は、あからさまに拒否反応を示す。そのような人にとっては、否定の理由は「言うまでもないこと」なのであろう。私が興味をひかれるのはこの「言うまでもないこと」の本質である。

われわれは何故、ニュートラルで空虚な空間を体現する建築──その代表がミース・ファン・デル・ローエの「ガラスの箱」であろう──を制作し、そこに価値を見出さなければならなかったのであろうか。もちろん、建築と生活のごく当たり前の結び付きに育まれた価値基準からミースの作品を素朴に批判できるであろうし、その近代性──ユークリッド幾何学の空間・時間的可分割性にもとづいた物理的実証性に真理の基準をおく──を糾弾してもよい。しかし、このような批判的な態度そのものは近代以前からあるものであり、目新しいものではない。それにもかかわらず、われわれは抽象的な「何もない空間」としての建築を何かの目的を持って制作したのであり、私はそのことを強調したい。ここで「何もない空間」すなわち思惟に値するだけの観念的枠組みは非個体的であり、どこまでいっても未決定的であるがゆえに、経験界を超えた英知界を実践的に思惟可能な枠組みである、と述べたらあまりに哲学的すぎるだろうか。ようするに、かつてわれわれは神や奇跡にすがって「自由」とか「不死」を考えようとしたが、いまさらそんな振舞いはできるはずもない。だからといって「自由」や「不死」といった考えが消え去るわけではない。ならば、科学なり合理にもとづいて人間的に「自由」や「不死」に思いを馳せることが可能な枠組みを作ってみよう、ということだ。もちろん、これが「建築」のすべてであるというには無理があるにせよ、ミースの「ガラスの箱」はこのような形而上学を純粋に体現した建築であると(効率性や美学的な理屈などは後からくっつけたものであろう)、さらには、この「何もない空間」はあらゆる近代建築に潜在的に実在しているとさえ指摘できよう。もっとも、このようなことを建築家として口に出して言うよりも、「言うまでもないこと」としてすり抜けたほうが、確かに気が楽だ。

ところで、この「何もない空間」によって自由なり不死なりといった先験的理念に「思いを馳せる」ことが正しい振舞いであったとしても、結局のところ人間は不自由を生きて、死んでいくだけであり、そんなペシミズムがほんとうの「生」ではあるまい。われわれは現実世界のなかに生命的な広がりをもって空間・時間に還元できない現実を生きている局所的存在であり、そこから環境なり外部への有機的相互浸透性を通して「全体」を直観する英知を持ち合わせていることを経験的に知っていると主張する人もでてこよう。ベルクソンの出番である。そもそもカントは空間を「私の外部」、時間を「私の内部」に対応するとしたにもかかわらず、時間の不可分割的相互浸透性=持続を確信しているその「私の内部」をさしおいて可分割的量(時間の空間化)に還元する誤謬を侵したのであり、そんな外在化された時間条件なるものに従わない「生」を基本に、われわれは自由なり情動なりを確かな実感として知ることが可能なはずだ──-大雑把ではあるがベルクソンの指摘はこうなる。彼の指摘は、ある意味で、ユークリッド幾何学にもとづく建築所作──因果律を基本とした実体の空間的顕在化=空間の実体的顕在化──を痛烈に批判している。われわれが事物を何らかの単位や量に分解して、再構成したり、配置していくことが可能なのは、ひとえに「私の外部」としての空間に対する思考によってである。そのような理性的態度は、対象を科学的・合理的に処理していく一方、物質の有機的連続性や質の問題を排除せざるをえないというのがベルクソンの考えなのだ。ここから「私の内部」すなわち不可分的・相互浸透的「時間」を求めて、角や境界のない曲線的な運動体のイメージを想起させる幾何学、非ユークリッド幾何学なり三次曲面が建築に要請されることになる。

渋谷の《ナチュラル・エリップス》はそんな三次曲面の内外部からなる四層の住宅である。三次曲面そのものに対して、設計者である遠藤雅樹さんは、劣悪な都市環境に瞬時的・多様的に対応する変幻モデルが必要であったこと、さらには「個々の幾何学内で成立していたものを、ひとつの連続性あるものにまとめ生活空間として現実化させる」(『建築文化』二〇〇二年一二月号、彰国社)ためであると述べる。本来は「個々の幾何学内」を「個々の幾何学的単位」と言うべきであろうが、些末なことはこの際どうでもよい。われわれは、この遠藤さんの解説をベルクソンの空間批判と同列に理解すべきであろう。もちろん、実体(ほんとうは「実在界」という言葉を使いたいのだが)に即した実空間的連続のことを述べていると解することも可能であるが、その手の実空間的連続性を問題にするならばタリバンの洞窟のほうがはるかに興味深い。さらには、遠藤さんがわざわざ(既存の)幾何学批判を持ち出した意味がない。だから、いささか漠然的に説明されている
 《ナチュラル・エリップス》の連続性も実体的な連続性ではなく、時間的な連続性、もっとはっきり言うならば「私の内部」の有機的・相互浸透的時間、すなわち「内在」であることが言外においてあきらかであろう。

ある意味で、《ナチュラル・エリップス》の壁なり天井なり(もちろん、すべての壁や天井ではない)は、理性的に認識された表象を実体化したものではなく、ある広がりをもって現われる正しい意味での「物質」であろう。そしてその広がりとは「抽象化した別な置き換え作業を通して」顕在化する「実体」の空間的広がりではなく、「私の内部」すなわち感覚的なものに対する時間的な投射としての広がりのことであろう。別段、だいそれたことを述べているわけではなく、われわれが例えば洞穴を掘ったその壁面を実体とは言い難いこと、ごく普通の建築には実体的判断を下すのにゲーリーの《ビルバオ》のようなグニャグニャ面に対しては理性が「???」となることを勿体振って言っているだけである。遠藤さんはそんなゲーリー的な曲面の扱いが気にいらないらしく、「こうした表面のありかたは、コンピュータ解析だからこそ可能なデジタルなものとしてではなく(…中略…)モノのあり方をトレースするアナログ的な表面のつくり方の提案」をするために、部材的な構成の痕跡を残している。ここでも、ベルクソンやドゥルーズならば「表面」ではなく「イマージュ」というであろうが、再び、些末なことはどうでもよい。私はこのようなイマージュ的広がりが、「私の内部」の時間を反映するものとして、ここまで論を進めてきた。ならば、それが「私の内部」のどのような時間かを問わなければならないであろう。

あくまで「現在」に固執する人間──とてつもなく素朴な人──は、このような感覚的な広がりを「いま」の疑いのなさをもってそのまま受け入れるであろう。だからそのような人間にとって、その表面のあり方がデジタル的に抽象的であるとか、モノのあり方をアナログ的にトレースするとかなどに関心などない。ある程度時間の「時間性」を意識するものは「現在」が単独に広がりをもってあるわけではなく「過去」に支えられてあることに気がつく。といっても、「現在」を媒介にして想起される「思い出」としての過去など問題にしてもしょうがないのであり、記憶の純粋な入れ物としての「過去」、ベルクソンが言うところの純粋過去が問題になるはずだ。「モノのあり方をアナログ的にトレースする」ことは、まさにこの「純粋過去」という入れ物としての時間に対応するものとなる──-遠藤さんの解説を無理やりベルクソンに結びつけようとしていると思う人もいるだろうが、「モノのあり方を……トレースする」を他にどんな風に解釈できよう。確かに、この「純粋過去」によって、われわれは現在と過去との相互浸透的な円環運動が可能となる。そして、この住宅をみせていただいたから言うわけではないが、《ナチュラル・エリップス》はここまでは成功しているだろう。ただ、この住宅に否定的な人は、おそらくこのようなことを直観的に踏まえたうえで、「だから、どうだっていうのだ」「なんら、新しいことなどありはしない」と指摘しているのだと思う。「だから、どうだっていうのだ」「なんら、新しいことなどありはしない」の背後には、あきらかに、過去と現在の、記憶と物質の円環作用の「深み」に潜在する何らかの「力」、時間的な「私の内部」という殻を否応なく食い破る(生成の)「流れ」としか言いようのない「時間」の現出が期待されている──時間のことを考え出したら、誰しもこのことまで考えが及ぶはずだ。ただし、そのような人は、実際にそんなアナーキックなものが現出したら、慌てふためくにちがいない。「だから、どうだっていうのだ」「なんら、新しいことなどありはしない」は、それゆえに、そのようなものが時間を確認できなかったことで「ひとまず安心した」とも解することができよう。そして、このことがそのまま《ナチュラル・エリップス》に対する批判にもなる。ここでひとつだけ指摘しておくべきことは、そのような「生成」の時間なり、「私の内部」をばらばらにしてしまうような時間、(ドゥルーズが言うところの)正しい意味での「理念」(潜在的に実在であるもの)を、これまでの建築的常套手段、すなわち空間なり、空間的価値に起因する道徳感情に条件づけられた「生活」に期待することは論理的に無理があるということである。例えば、「クラインの壷」が内と外の「相互浸透性」を構成するといっても、あくまでも空間的に把握されたモデルにすぎない。もっとも、遠藤さんの試みは、コンピュータによる抽象的な置き換え(=アルゴリズム)によって「人間」的条件としての空間や時間を飛び越え、生物学的な意味での「個体」への接近をはかろうとするアメリカの若手建築家の振舞いとは確かに異なると言える。

「二〇世紀的形式主義」を出自とするピーター・アイゼンマンは、同じようにコンピュータによる抽象的な置き換えに奔走しているようで、その作品(といっても、コンピュータを使いだしてから彼の作品はひとつたりとも実現していない)はいささか「切れ味が悪い」ゆえに、上述した問題点を浮き彫りにしているといえよう。最近の論文からも明らかなように、彼の建築的関心も空間ではなく時間であり、それゆえにベルクソンにしばしば言及しながら、「現在」や「過去」に結びつかない「新たなもの」「異質なもの」を生成する「潜在的な実在」を可能にしている「時間」を建築的に追求しようとしている。
 
例えば、ベルクソンは「カントは(その本質が潜在的相互浸透性にある)時間を空間化する誤謬を侵した」(高峯一愚)ともっともらしく指摘したが、反対にベルクソンこそ「空間の実在的概念と論理的概念とをまったく混同している」と指摘できなくもない。もちろん私はその「真」「嘘」を哲学的に吟味する資格など持ち合わせていないにしても、空間を実在界に即して経験するかぎり、時間と同じように不可分的相互浸透的であることは建築にかかわる者ならば誰しも実感することであろう。さらに言うならば、そのことを如実に証明したのがコーリン・ロウの「虚の透明性」である。ある意味で、冒頭に述べた知性だけが要求する「何もない空間」と、実在界に即した相互浸透的空間の間での「知覚」の実現を試みてきたのがルネサンス以降の建築であると断言できよう。ここで、それを遵守すべきであるなどと言うつもりはない。まさにそのことが批判されるべきであり、実際さまざまなレヴェルで糾弾されてきた。しかし、建築家にとって「何もない空間」と「相互浸透的空間」は表裏一体であり、「時間」なり「物質」なりを持ち出して空間を糾弾することは究極的には「何もない空間」を思惟できるわれわれの能力、すなわち「知性」を捨ててしまえと言うことに等しい。個人的には、私自身そうすべきだと思っているが、残念なことにそんな勇気はない。建築家としての歴史的役割に自覚的なアイゼンマンならば「それだけは許さない」と言明するであろう。たしかに、二〇世紀後半において彼ぐらい「知性」のための建築を志向した建築家はいないであろう。そんなアイゼンマンだからこそ、幾分流行に遅れまいとしてベルクソンやドゥルーズに言及しながら自らの作品を解説しているにもかかわらず、作品そのものは「生命」なり「物質的持続」にほど遠い。彼の作品をそのCGなり模型に即して捉えるかぎり、やはり空間的な相互浸透性を試みているのであり、そのなかで「新たなもの」、「異質なもの」を生成する「潜在的な実在」としての「時間」らしきものを捉えようとする「知覚」の実現を企図しているのであり、人間的な「何もない空間」のなかに「知覚」の自律を実現しようとしたかつての建築所作との同一性が窺える──それゆえに、作品的な切れ味に欠けるのであり、そんなことなどどうでもよいフランク・ゲーリーの建築などは、はるかに天衣無縫に見える。時間・空間にかかわる建築的知覚の問題に言及するスペースは残念ながらないが、私はここでアイゼンマンの作品の良し悪しを言おうとしているのではない。そこから垣間見られる、歴史的使命に自覚的な建築家の痛々しいまでのもがき──こんな形容など似つかわしくない風体であるが──が尊敬に値することだけを指摘しようとしているのだ。私自身、知性なるものを捨ててしまう「勇気」がないと述べたが、残念なことにその知性をどんな状況になろうとも死守していこうとする「道徳心」もない。このように述べたら身も蓋もないであろうが、単に私だけではなく、多くの建築家がおかれている状況を正確に示しているのではないだろうか。

今回でこの連載も終了であるが、最初から何らかの方向性、纏まり、言説的な価値などをめざしていたわけではなく、結果もまさにそのように拡散していくだけのものとなった。言い訳めいたことを述べるなら、一九世紀末、二〇世紀初頭に多くの芸術家、建築家が断片的に「わけの解らないこと」を考えていた……とりわけ、ロシア・アヴァンギャルドはその宝庫であろうことを、歴史に興味を持つ人ならば知るであろう。断片的であるがゆえに稚拙ではあるが、今となってはイデオローグ的に成功した、それゆえに近代主義の真っ当な言説となったものよりはるかに興味をひかれる。めざしたのはそれであると言うつもりはないが、状況認識的に意識していたことだけを最後に付け加えておきたい。

遠藤雅樹┼池田昌弘《ナチュラル・エリップス》 写真提供=EDH遠藤設計室

遠藤雅樹┼池田昌弘《ナチュラル・エリップス》
写真提供=EDH遠藤設計室

遠藤雅樹┼池田昌弘《ナチュラル・エリップス》 写真提供=EDH遠藤設計室

遠藤雅樹┼池田昌弘《ナチュラル・エリップス》
写真提供=EDH遠藤設計室

>丸山洋志(マルヤマ・ヒロシ)

1951年生
丸山アトリエ主宰、国士舘大学非常勤講師。建築家。

>『10+1』 No.30

特集=都市プロジェクト・スタディ

>ミース・ファン・デル・ローエ

1886年 - 1969年
建築家。

>アルゴリズム

コンピュータによって問題を解くための計算の手順・算法。建築の分野でも、伊東豊雄な...

>コーリン・ロウ

1920年 - 1999年
建築批評。コーネル大学教授。

>ルネサンス

14世紀 - 16世紀にイタリアを中心に西欧で興った古典古代の文化を復興しようと...