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なぜ音楽について語りたがるのか?──音楽の倫理学に向けて | 増田聡
Why Do You Want to Talk about Music ? : Toward Ethics of Music | Satoshi Masuda
掲載『10+1』 No.30 (都市プロジェクト・スタディ) pp.24-25

誕生から約一世紀半にわたる音楽学の歴史は、テクスト中心主義からコンテクスト主義へのゆるやかな移行の歴史として描くことができる。人文学の一分科としての音楽学が確立されたのは一九世紀後期のドイツでのことであるが、そこでは国民国家イデオロギーを底流としつつ、当時世界に君臨していたドイツ芸術音楽を中心とするヨーロッパ音楽を主な対象に、優れた音楽作品「それ自体」の来歴を実証的に後づけ、その構造を「客観的」に構造分析する作業が学科の中核をなしていた。いわゆる歴史的音楽学=音楽史学と、音楽理論の二つが音楽研究の中心的なディシプリンであったわけだ。しかし一方で、「諸民族の音楽の比較研究」を目的として半ば付け足し的に音楽学成立当初の体系に組み入れられていた比較音楽学(それは当時の社会進化論的な観念によって、高度に発達したヨーロッパ音楽の「原型」と考えられていた非西洋民族の音楽を、登場したばかりの録音テクノロジーによって採集し分析することが念頭におかれていた)が、二〇世紀中盤に至るとアメリカの社会科学と結合し「民族音楽学」と呼称を改められてから、音楽研究の力点はドラスティックに変容することになる。すなわち、音楽学が解明すべき対象は「音楽それ自体」から「音楽する人々」へと焦点を移すことになったのだ。
諸民族文化の構成原理を西洋文化の原型としてではなく、独自の「野生の思考」(レヴィ=ストロース)として捉える文化相対主義が支配的な思潮となるにつれ、音楽学の側でも「音楽それ自体」の自律性を過剰に強調する西洋文化の特異性に反省が向けられることになる。むしろ逆に、「音楽それ自体」を、音楽に関わるさまざまな実践を過不足なく映し出す、すべての意味が集約された宝箱のごとく考える一九世紀自律美学こそが異形のイデオロギーではなかったか? この認識はこんにち、西洋芸術音楽の研究にも大きな影響を及ぼし、文学理論・社会学・歴史学・精神分析などの隣接諸学の影響のもとに、音楽テクストをそれ自体で自律した「意味の素」と捉えるのではなく、「それを取り巻く人々の活動」というコンテクストからさまざまな方法論を導入しつつ理解する、ある意味では至極まっとうな観点が学界でヘゲモニーを持つようになってきている(八〇年代半ばからとりわけ英米圏で盛んになってきたこの動向は一般に新音楽学New Musicologyと呼ばれるが、日本ではいまだほとんどまともな紹介はなされていない)。
民族音楽学は二〇世紀の音楽思想を代表する思潮である(そのインパクトに比べれば、ジョン・ケージのアナーキズムなど一九世紀の浜辺で遊ぶ子供に等しい)。音楽の意味とは「音楽それ自体」にあるのではない。それは生産し創作し、演奏し、聴取し消費し意味づけるさまざまな人々の活動の総体のなかに文脈化されて存在する。音楽テクストの自律性を前提してその「理解」で音楽の理解を代行する愚を、あるいは自身の個的な聴取のありようを絶対化し、たまたま聴いたものをその音楽の本質と勘違いしてしまう愚を、はたまたロマン主義のエートスを恥ずかしげもなく垂れ流し作り手の「天才」を疑わない愚を、ジャン=ジャック・ナティエは次のようにエレガントに総括する。

ある人たちに言わせれば「音楽作品はすべて作品のもつ内在的な特徴に還元することができる」。これはたいていの構造主義者たちが取る立場である。しかし、これは(一見したところ矛盾しているとしか思えないのだが)大部分の伝統的な音楽学者たちが取る立場でもある[引用者註:中立レヴェル重視の立場]。また、別の人たちに言わせれば「音楽作品は作曲活動や作品の成立状況のすべてを考え合わせなければ意味を持たない」。これは明らかに作曲家たちが取る立場である(しかしそれは何も作曲家たちだけに限られるわけではない)[引用者註:創出レヴェル重視の立場]。ところが、また別の人たちに言わせるなら「音楽作品は現に聴き理解している限りのものとしてしか存在しない」。これはたいていの人たちが取る立場、いやそれどころか常識的な立場ですらある[引用者注:感受レヴェル重視の立場]。
しかし、もし音楽の研究や分析が
 《音楽作品のもつ全体的なあり方》を明らかにすることを目的とするものであるなら、音楽作品はこれらのうちの一つだけに《還元》することはできない★一。


ナティエは民族音楽学の理論的蓄積を背景に、音楽を語る言説が直面するさまざまな理論上の混乱に診断を下す。すなわちその混乱とは、音楽とそれを取り巻く文脈についての人々の理解が、異なったレヴェルの現象を混同していることに起因する。その混乱を整理するために彼は、音楽が創られ演奏され、聞かれたり論じられたりする過程、彼の言葉で言うなら《音楽的事実全体》を、創出レヴェル(作り手の行動や概念)/中立レヴェル(創出レヴェルと感受レヴェルが接触する物理的痕跡)/感受レヴェル(受け手の行動や概念)の三つに分けて考えることを提案する。創出レヴェルと感受レヴェルは互いに干渉し合い、その狭間にある中立レヴェルを形成するとともに、その意味を「構築」することになる。音楽の理解とは、この三つのレヴェルの多様な運動を包括的に理解することにほかならない。
多くの音楽言説がその焦点を定める「音楽それ自体の意味」とは、ある特定の創出レヴェル/感受レヴェルから見出された「偶発的に構築された意味」に過ぎない。それは創出/感受それぞれのせめぎ合いから生じる音楽テクストの意味形成性を子細に汲み上げるというよりも、それを恣意的に限定する。中立レヴェル=音楽テクストの意味は言説によって奪い合われる賭金となるだろう。

これまで本稿では四回にわたって、音楽言説が構造的に陥る罠について述べてきた。楽譜という離散的記号系を「音楽の実体」と見なしてしまう音楽学的言説、ポップ・ミュージックのロマン主義的エートスを不可視なものにしてしまう「パクリ」というマジックワード、恣意的でありながら規範的に機能するジャンルの構造、そして歌詞と歌と声との錯綜した関係などは、われわれがポップ・ミュージックについて語るときにしばしば知らずして躓いてしまう美学的罠の一部をなす(論及できなかったが、ほかにも音楽言説を混乱させているいくつかのトピックが挙げられるだろう。思いつくままに列挙するならば、ポップにおける「作品」の存在地位の問題、音楽産業の「悪玉」的把握に伴う「アーティスト」の神聖化、あるいは聴取のあり方に無関心なテクスト論、などである★二)。
これらの「罠」に陥った言説は、ナティエに言わせれば端的に「レヴェルを混同した言説」であるに過ぎない。テクスト中心主義的な音楽学言説は、楽譜メディアに把握しうる記号系の範囲内での創出/感受レヴェルにより決定される中立レヴェルを「音楽の実体」として措定してしまい、異なる創出/感受レヴェルを排除してしまう。すべての感受レヴェルでの「類似」を創出レヴェルでの剽窃へと直接還元してしまう「パクリ」言説。中立レヴェルの歴史的な変遷によって輻輳的に形成されたジャンル観念は、現時点での受け手の感受レヴェルによって共時的に把握されることにより論理的な混乱をきたし、異なる創出/感受レヴェル戦略の混同に伴って「歌の意味」は歌詞の解釈へと切りつめられる。
初回にも触れたが、「音楽批評」を名乗る言説群がうさんくさく怪しげで、音楽に寄生してそのおこぼれを吸い上げ、アーティストとファンのコミュニケーションを阻害する不必要な存在としてしばしば観念されるのは故なきことではない。それは単に、アーティスト(送り手)あるいはファン(受け手)いずれかの「なり損ね」でしかない言説であって、アドホックに選び取られた創出/中立/感受レヴェルの一系列を絶対化することにのみ執着するためだ。それら言説群の関心は(恣意的に措定された中立レヴェルにある)「音楽」にのみ照準され、「批評」の自律にはほとんど関心がない。
自律した批評とは、もちろん批評家の感受レヴェルを読者へと押しつける独断的な作業のことを言うのではない(そんなものはすでにいやというほど溢れている)。それは、対象を語っているこの言葉自体が、いかなる前提的条件のもとに営まれているかについて自覚的であり、さらにその前提的条件に対して原理的な水準で批判を行なうような言説である(言うまでもないが批判とは否定を意味しない)。現在の音楽言説にその「自覚」は希薄であり、「アーティスト」になれなかったルサンチマンと「ただのファン」に自足できないルサンチマンとが悲喜劇を繰り広げる場でしかない。これは批評にとって不幸な事態であるし、音楽にとってもおそらく不幸なことである。
つまり批評は「音楽」のためにあるのではない。それはノースロップ・フライが強調するように「文化の仲買人」ではけっしてなく、対象と異なる方法と目的とを備えるそれ自体で自律した言説の体系である。ポップ・ミュージック批評を巡って生じるさまざまな摩擦や混乱は、この批評の立場についての了解が未成熟であることから起因する。ファンは音楽批評を「アーティストの創造の秘密」あるいは「音楽の本質」に近づくための手段として眺め、アーティストや音楽産業は流通の合理化と販売促進のためにある(あまり効率の良くない)言説装置として捉え、そして批評家自身は先述のようなルサンチマンを自己合理化するために批評を用いる。広告出稿と記事掲載がリンクし、インタヴューと読者投稿によって誌面の大半が占められる現在の音楽紙誌のなかでは、ポップ・ミュージックの批評が自律したあり方をなすのは困難だ。故に言説の混乱は、改善の方向よりもむしろ拍車がかかる傾向にある。
ポップ・ミュージックにおける批評的言説が、自らの土台を反省的に捉え返すというよりも、批評家個人の美的趣味に基づきながら開陳される「芸」として生産され受容されるのは以上のような構造的要因による。「様々なる意匠」はけっしてその範囲を越えることはせず、ポップの生産と受容の構造内で安定した位置を保つために働くこととなる。
そのことは、音楽言説がある種の倫理的アジテーションとして、文化生産と消費の循環回路のなかで機能していることを意味する。例えば「ジャンルを越えろ」という言明は、ジャンルの存在こそがそのような言説を可能にしている事態から目を逸らさせることによって、逆説的にジャンル分類──それは産業における流通の合理化に寄与すると同時に、批評家相互の分業体制を維持する装置ともなる──を強化するように働くだろう。「パクリ」というマジックワードは、ロマン主義と共謀しつつ音楽テクストの微細な類似と差異に聴取の焦点を向けるようにしむける。それは言説自体がおかれている基盤に注意を向けるというよりも、そこから視線を逸らす行為を「良きもの」として促進させるだろう。
結果、音楽言説は矛盾した道徳規範をそれと知らず同時に押しつけることとなろう。先端的様式を追い求めると同時にヴィンテージの価値を強調し、ファンの共同体のオーセンティシティを祝福すると同時にアーティストの「天才」を崇拝する。これらの矛盾は、資本主義の商品でありながら同時に芸術的・民俗的実践でもある、こんにちの社会における音楽の矛盾した立場を反映したものだ。ポップはとりわけその矛盾をよく反映する。それをとりまく言説がさまざまに混乱したあり方を見せるのは当然であろう。批評がなすのは(そして批評にしかできないことは)その言説の混乱を解きほぐし「いくらかましにする」作業にほかならない。それが向かう方向は、仮に「音楽の倫理学」とでも名付けることができるかもしれない。

要するに、批評は、そして一般的に美学は、倫理学がすでになし得ていることを学ばなければならない。人間の行為を、善と規定されるところのあるべき人間行為と比較するという単純な形態をとっている時代が倫理学にもあった。(…中略…)今日の倫理学者は、価値観念を持っている点では変わらないが、かなり違った眼で問題を見る傾向にある。しかし、倫理学では救いがたいほどに時代遅れの手続きが、美学の問題に関わる著者の間ではいぜん流行している。たまたま自分の好みに合ったものを真の芸術と定義し、次にたまたま好みに会わなかったものを先の定義に照らして真の芸術でないと主張することが、批評家にあってはいぜん可能なのだ。この議論には、すべての循環論法と同じく、論破できないという大きな利点があるが、この論法は影であって実体ではない★三。


「ロックは反抗する音楽であるべきである」、「オリジナリティの欠如は恥ずべきだ」、「既存のジャンルをただなぞるばかりの退屈な音楽は望ましくない」、「Jポップの英詞は文法的に正確であるべきだ」等々、音楽を巡る言説にはあまりにも多くの美的=倫理的定言命法が満ちあふれているが、それらは「たまたま自分の好みにあった」アドホックな主張に過ぎないことがほとんどだ。それらの言明が実際に「何を」指図しているのか。その欲望はどのように混乱し、何をもくろんでいるのか。音楽批評が「まともな言説」であるために目指すべき方向は、「音楽それ自体」の意味を独占するべく奮闘することではなく、これら倫理的言明の解読と脱構築を推進することによって、窮屈で混乱した音楽言説の道徳律を相対化することにほかなるまい。


★一──ジャン=ジャック・ナティエ『音楽記号学』(足立美比古訳、春秋社、一九九六)──二頁。
★二──これらのトピックの美学的問題に興味があるむきは以下の拙稿を参照されたい。「ポピュラー音楽における『作品』とはなにか──記号学的考察の試み」(『ポピュラー音楽研究』創刊号、一九九七)、「『この音楽は商品だが、それに何か問題でも?』──音楽産業論の三つのパラダイム」(『鳴門教育大学研究紀要芸術編』第一六巻、二〇〇一)、「聴衆の生産──カルチュラル・スタディーズと音楽美学」(『ExMusica』四号、二〇〇一)。
★三──ノースロップ・フライ『批評の解剖』(海老根宏ほか訳、法政大学出版局、一九八〇)三九頁。

>増田聡(マスダ サトシ)

1971年生
大阪市立大学文学研究科。大阪市立大学大学院文学研究科准教授/メディア論・音楽学。

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