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工学的世界のなかの都市 | 金森修
City in the Engineering World | Kanamori Osamu
掲載『10+1』 No.30 (都市プロジェクト・スタディ) pp.22-23

1「母なる大地」

豊かな土と光と水、それがあれば見事なまでの実をたわわに実らせる植物。その生命力は、光合成のような直接的には把握しにくいメカニズムを知らなければ、まるで何もないところから「存在」が生成してくるとでもいうかのような驚きをわれわれに与えてくれる。季節ごとの循環のなかで、何度も不思議な存在生成を現前させる力強い植物たち。それがもし自律的生命の卓越した提喩として感じられるとするなら、多くの植物に囲まれた農村こそが、創造性の確固たる基盤だと考えられてきたとしても無理はない。たとえどれほど個別の農民たちの生活が苦しく厳しいものであったとしても、大地とその傍に佇む農村は、社会全体が瓦解の危機に瀕したときには頼りになる準拠点のようなものとして存在している。このように論を進める思想は、昔からいくつもあった。例えばクラーゲスの『人間と大地』★一などは、土着農民の基底性を讃える農本主義的な伝統を、順当に引き継いだものに他ならない。そしてそれが、二〇世紀前半、政治的場面でのある種の非合理主義に繋がったというのは、いまでは有名な事実である。
ところで、その農本主義的な文脈のなかでは、「真なる創造性」を湖のように湛えた広範な農村のなかに、頼りなげに点在する都会という「寄食者」がぶら下がる、という概念地図が描ける。都会は、仮にそれが表面的には流動や邂逅、刷新や撤去の嵐のなかに、生命活動そのもののような躍動感があるように見えたとしても、その実は、「実質的生産性」をそれ自身のなかにはもたない陽炎のような存在だ、ということになる。
確かに、その構図にも一理ある。メガシティはどこか人の〈陽炎性〉を増幅するようなところがあり、雇用創出や生活基盤の整備の許容限界を超えると、スラムのような〈澱〉を必ず析出してしまう。場合によっては、都市全体が放棄されることさえある。そういう危うさは、都市には付き物なのだ。一方、〈大地と農村〉のほうは、なにか極めて重大な人為的災禍が加えられるというのでもなければ、仮に戦争などで一時的に一定区域が使いものにならなくなったとしても、やがて、生命の原基としての植物がまたどこかから顔を出してきて、それが生命活動の新たな出発になり、人もいつかは戻ってくる、という図柄が描き記されることになる。
このいかにも「古くさい」図柄は、産業社会が洗練の度を極めた今日のような社会においても、どこか文化の基層に眠ったようになっているが、時に応じて目覚めてくる妖怪のように、必ず存在しているということに変わりはない。それが古くさかろうが新しかろうが、それは強制的性格を伴って、われわれの概念絵図を拘束している。「母なる大地」。この固陋で野暮ったく、まるで小言のようにうるさく響く表現は、われわれの心理に通底する淀みのような重さをもっている。ちょうど、かつて近世初頭のヨーロッパで好んで繰り返された「メメント・モリ」の連祷のように。いまは元気なように思えても、そのお前もいつかは必ず死ぬのだからな、それを忘れるな、というあの言葉のように……。

2 作られた土

この連祷からなんとか逃れようと、人は都会を緑で溢れ返らせる。「エコロジカル・シティ」という表現がわれわれに与えられるとき、われわれはまずは何を想像するだろうか。植物の種類や輪郭、広さや配置が考え尽くされた庭をもつ家が建ち並んだ場所、水の流れを巧みに使い、ときには既存の丘などの、あまり人に威圧感を与えない穏やかな地形も考慮に入れながら、自然と一体化したような区画を数多くもつ都市などなど。それは、あたかも〈大地〉が都市空間に侵入してきたとでもいうかのような景観構造のことを予想させる。もちろん専門的に見るなら、これは一次近似にすぎない幼い臆断なのだろうが、しかしそれが決定的に的外れなものだということにもならないはずだ。そしてもちろん、この流れのなかでは、「母なる大地」の小うるささは、ただ迂回的に馴致されているにすぎない。「エコロジカル・シティ」は上記の概念絵図をそのまま延長しながら、都市に模造的な大地を忍び込ませようとする運動なのである。別に私はそれが悪いといっているのではない。特にまだわが国のように、たとえ「大地の模造」でも構わないから、とにかく何かの〈潤い〉が欲しいと感じさせるような、殺伐とした空間が数多く点在しているような場合においては。
だが、他方で、人はただ、その一方向的な解決だけに邁進しているというわけではないことも確かである。別に大地などはなくても、また〈文化の基層〉が欠けた危うさをもってはいても、「情報」や「物流」の高度な制御を実現して、〈文化の上層〉を構築するのに全力を尽くすという流れはもちろん存在するのだ。というより、大部分の「都会人」が行なっているのは、それなのである。都会のざわめきのなかで、人が大地ばかりを探しているわけはない。基層と上層のどちらがより重要なのか、という問いかけは偽りの二律背反に人を追い込む不毛な問いだ。おそらく、大部分の都会人の心の底には、その種の判断が住み着いているはずである。しかし、その解決策も、ただ方向が違うことを互いを破壊し合わないまま並列させているだけだともいえるので、「母なる大地」論を直接に否定しているということにはならない、ともいえる。「母なる大地」は、影絵のように都市の周縁に雌伏し、都市の存在論的な際どさを浮き彫りにし続ける。
それがどれほど小うるさいものでも、確かに「母なる大地」なるものから、人は結局、逃れられないものなのかもしれない。だが、それは実は十全に実在するものというよりも、上層の激流に追いつくのに疲れた人間たちが、ときとして拝跪する神のようなものではないのか、と問いかけることもできる。冒頭で私は、大地の創造性の提喩として植物の生命力をあげておいた。確かに、それはある。だが、人がしばしば目にする植物は、稲や野菜のように、人に馴致され、高度な制御のなかで育成されてきた植物ではないのか。整然と並ぶ水田の風景を、誰が本当の意味での「自然」の景観などと考えることができるだろうか。水田は、大地の上に整えられた設計的企図の、植物的な具現に他ならない。そうなると、農村が自然で、都市が人工といった類の古典的な二元論は、実はあまり実質をもたないということがわかる。エコロジカル・シティは、人工に対する自然の侵入なのではなく、庭などに入念に準備された「自然風の事物」の人工的な設計で溢れかえった町、自然的成分を内部に抱えている分、一層複雑な設計思想を帯びた人工物なのだ。
こんな風にごく簡単に反芻しただけでも、自然と人工という対立項はあまり作動していないということがわかる。しかもそれは、どれほど巧みな人工物を作ろうとしてもそこにはしっかり自然が隠れている、という方向での対立解消ではなく、どれほど自然のように見えても、そこにはすでに人間の企図が入っているという方向での対立解消である。
農本思想がもつ曰くいいがたい魅力には、一定の敬意を払い続けよう。だが、同時に、より正確にいうなら〈農〉でさえ、自然そのものではなく、設計的企図が植物を主要な対象として措定した特殊な設計思想に他ならないということを自覚することが大切なのだ。われわれは〈汎工学的な世界〉に生きている。確かに、そんな汎工学的世界のなかでも、そう簡単に工学的設計の対象にはなりそうもないものはいくらでもある。代表的なものでいうなら、例えば土のことを思えばいい。悠久の時間を当然の前提として、岩石からの破砕や風化の繰り返し、腐敗した植物の封入、細菌の活動などの果てにようやく、多くの土が形作られてきた。その過程をそのまま工学的に再現するなど、夢物語のようなものだ。だが、それでも、汎工学的世界では、例えば世界中の多様な土を適当に混ぜ合わせることで、ある区域での設計的基盤に順応した土にすることができる。ある場合にはさらさらで大粒のものを、また他の場合には粘土質のものを、というように。われわれの眼前に繰り広げられる雄大な文明の絵柄は、「手つかずの自然」という、もはや誰も見たことがないような虚焦点を一応のまとまりとして要請してはおきながらも、事実上は無数の設計思想相互間の闘争や連携の果てに織り込まれてきたものなのである。

3 農村と都市の地崩れ的な融合

さて、このように、想定する思想的図柄の構想を極めて大きな射程に据えてものを見てみると、機能的なモダンと、脱機能的で装飾的なポストモダンなどというような図式的闘争が、どこかかすんでしまうのは無理もない。そこで暗黙の内に想定されている「機能性」が、たかだか二、三〇〇年の内に練り上げられてきた産業社会での行動様式を前提とし、そのなかでの合目的性の観点から機能的価値を評定したものにすぎないからだ。だがなぜ、例えばこれまでその種の社会で代表的な物質だった鉄の〈行動特性〉に人間の知能を順応させ、またモダニズムが錬磨されていた当時の工学的水準に見合った機械性に、工学的知性の水準を順応させてしまう必要があるのだろうか。なぜ直線や直角が機能性に連結しなければならないのだろうか。バレリーナの優雅な動きを想起するまでもなく、われわれの身体が生み出す微妙な運動は、見方を変えるなら実に機能的なものだ。直角にしか腕を動かさないバレリーナは存在するか。かつてディスコでロボット様の動きをもつダンスを楽しんだ若者たちは、ロボット様の動きを真似ることもできる、その背景のしなやかさを当然の前提としていたからこそ、自分を一世代前のおんぼろロボットのように動かして楽しい、と感じることができた。曲線と植物模様の機能性、バレリーナの機能性。これらの表現は、なんら〈逆説〉ではなく、ある特定の時代の工学的基盤に固着しない知性から見るなら、しごく当然の表現なのである。そのとき、あえてことさらにポストモダンなどという表現を使う必要性はまるでなくなっている、ということに人は気づくはずだ。モダンという言葉が抱える工学思想の極度な貧困さをただ放擲しさえすれば、それで話が済むことだからである。
この性急極まりない議論を少し整理しよう。私は農本思想が想定する創造性の源泉としての大地にまずは目を向けて、それとの対比のなかで都市の存在論的な危うさに触れた。だが、その図式がまったく無意味とはいえなくとも、よく考えてみればわれわれが目にする大地にも、無数の設計思想が練り込まれており、その意味で手つかずの自然など存在しないこと、われわれが住む世界は汎工学的な世界なのだということを確認しておいた。そのとき、かつて一時期、建築思想史を賑わせたモダン、ポストモダン論争も、しょせんはその背後の工学的基盤の広がりをどのように想定するのかで両者の位置づけが決まってくるものだ、と述べたのである。言い換えるなら、かつてモリスやアール・デコなどで必ず称揚された〈手作り〉のもののほうが自然に近いところにある、というような判断は、あまり意味がないということだ。
まだ、私にもためらう部分は残っている。だからこそ農本思想に敬意を払い、土の存在論的な卓越性に思いを馳せた。だが、私がここで不器用に述べ立てようとしていることは、今後ますますその意味を強化させていくことは間違いなかろう。つまり、われわれはますます所与をどう扱うのか、ではなく、構築をどのように行なっていくのかという問いかけのなかで生きていくことになるだろうということだ。工学的思想は、おそらく今後も順調な成長を遂げるだろう。問題なのは、その汎工学的世界のなかでどのように生きていくのかを考える、工学に随伴する非工学的な思想の群が、その思考対象のなかにどの程度まで工学的世界の折り目を組み込んでいくことができるかどうか、にあるだろう。
私は、本連載で何度か、私なりの「都市論」を書こうと試みてきた。だが一連のエッセイの最後にあたり、直接に都市を論じることを事実上は放棄して、その背後に存在しうるより大柄な思想の図柄についての瞥見を書き留めた。なぜなら、私がここで素描してきた大きな図柄に自分の身を置いて考え直してみると、ことさらに「都市」をひとつのまとまったトポスとして切り取るだけの意味が実はあまりなくなってしまうからである。近未来の汎工学的世界のなかで、仮に都市と農村が区別しうるものにまだなっているとしても、それはおそらく人口の粗密の違い程度のことによるものであるにすぎず、より本質的な生活の実質については、それほどの違いらしい違いが感じられないような世界。そんな世界がきっとやってくるのではないのか。いま私は、ひとりでそんなとりとめのない夢想をしている。


★一──L・クラーゲス『人間と大地』(千谷七郎ほか訳、うぶすな書院、一九八六)。

>金森修(カナモリ・オサム)

1954年生
東京大学大学院教育学研究科教授。哲学。

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