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正確さ・視覚性 | 日埜直彦
Exactitude and Visibility | Hino Naohiko
掲載『10+1』 No.43 (都市景観スタディ──いまなにが問題なのか?) pp.61-63

カルヴィーノは講義の第三回を「正確さ」に当てている。
今日さまざまなメディアから垂れ流され、一瞬にして忘れ去られていく言葉が、本来の姿を現わす約束の地としての文学、その倫理として正確さを彼は掲げる。言葉がなし崩しにされている状況に対する抵抗の砦としての文学というわけだ。
正確な言葉によって明確に縁どられたイメージや、微妙な曲折を辿る正確なストーリー・テリング、どうもいささか文章指南の教科書めくのだが、文学の基礎が言葉を正確に彫琢するポエティクス=詩学にあることは確かだろう。泡のような言葉が無為に押し流されていく状況に対して、文学が自らの領域を防衛するために用いることができるのは実のところこの愚直な技芸ぐらいしかない。ある意味でそれはマジックのようなものかもしれない。というのも文学のための特別な語彙や文法があるわけでもなく、ごくあたりまえの言葉と文法によって文学だけが定着し、とどめることができるなにかがあるというのだから。
言葉自体が自ずと正確さへと向かうわけもなく、むしろ言葉はどのような不正確をもぬけぬけと言ってのけるプリミティヴなメディアである。一般に西欧文化の文脈においてプリミティヴなもの、自然のもの、即物的なものはなにか野生的なものであって、文化的蓄積とはそれを乗り超える伝統を意味するが、その意味で言葉というプリミティヴ、言葉という自然、言葉という野生を手なずけ、コントロールするのが文学的技芸である。
しかしカルヴィーノは言葉が常に真実を説くべきだという類いのカビ臭い教条主義を説いているわけではない。むしろ真実の硬直から離反する言葉に潜む一片のリアリティを慎重に洗い出す、そういう正確さに文学の可能性を見出していると言うべきだろう★一。

文学とは逆に、写真は生まれつき正確さを課されたメディアであった。
ドキュメンタリズム、リアリズムといった言葉に込められたニュアンスからわかる通り、現実の写しとして、写真は絵画とは根本的に異なる客観的イメージとして生まれた。事態の正確な描写、そして技術によって裏打ちされた正確な伝達。こうしたものによって写真が感じさせる生々しいリアリティは、他のメディアとはまったく異なる写真特有の性格を形成した。バウハウスがその教育課程において写真に重きを置いたことは偶然ではなく、写真はとりわけモダニズムの客観主義を体現するメディアであった。
だがわれわれもよく知るように、写真は事実の客観的な記録などではない。しばしば実際とは異なる印象を与え、むしろ積極的な印象操作の手段ともなりうる。写真は本来的にある視点からある瞬間を選んで撮影された一断片にすぎず、キャプションなどを付されてあるバイアスとともにわれわれの目の前に現われる。写真の絵画的な操作を拒否するストレート写真が唱えられたこともあったが、その実態は写真自体のメディア的特性を徹底しようとするモダニズムの他の分野でも見られた傾向に従っただけであり、むしろそのようなイデオロギーが現われねばならなかった事自体に写真の危うさが現われている。
だからといって写真の主観性を十分に意識し、イメージに積極的に介入することで写真家の内的イメージを焼き付ける表現媒体として写真を捉えようとしても、すぐに限界に直面するだろう。つまり写真には目に見える表面しか写らず、なんらかの内的リアリティに肉薄しようとすればいずれかの象徴作用に依存せざるをえないのだ。このような写真特有のメディア的特性が漸進的に露呈するにしたがって、写真と正確さを結びつける基盤はモダニズム末期にはすでに色褪せていた。
リアルあるいはリアリティとの関係が崩れ始めたとき、写真はようやくメディアとしての野生を取り戻したと言ってもよいかもしれない。携帯カメラや監視カメラ、そして高機能化したカメラの普及、遍在するカメラアイによって定着される膨大な、だが無為のイメージ。もはや正確さとは縁もゆかりもなく、そのどれが特権的な視点ということもなく、気散じの対象として浮遊し、あらぬ方向へと漂流する。 “image juste(正しい映像)”ではなく  “juste une image(単なる映像)”、というゴダールの言い方はまさに至言だろう。写真は世界の断片的像の一枚であって、それ以上のものではなく、だがそのような野性的な世界の像として相応のことをたしかに証し立てている。ただその写真にいかなる世界が現われているか、それだけが問われるだろう。日常的な視覚が見過ごすものを、現代の写真は強力な眼力によって見定め、つぶさに画面に定着する。圧倒的な精細さは視覚の記号的なフィルターを引き剥がし、世界をひたすら見ることを促す。

それでは建築において正確さとはどういうことを意味しているのだろうか。
まずは整合的という意味の正確さがある。例えば構成の一貫性という意味において。古典的な建築は明晰な構成とプロポーショナルな幾何学によって、形態を三次元的にコントロールし、全体の構成から各部分、そして細部に至るまで一貫した体系によって組織した。二軸対称の平面と三層の立面を比例関係によって立体的に関係づける幾何学や、スパン間隔から各部分の寸法を導く分割配分のオーダーといったまさに古典的な様式がその典型である。こうした整合性は、おおむね構造合理的であり、生産性にも寄与しただろう。だがなによりも重要なことは、よく組織化された建築的構成は、体系的に統御された建築的思考の反映であり、同時にそこに住むものの知性を体現し、揺るぎない権威の表象となることだ。逆に全体と部分の不均衡、性質を異にする要素の無造作な併置、辻褄の合わない乱雑さ、即興的で任意な要素の混入のような逸脱は、統制能力の欠如の兆候と映ったかもしれない。
整合性とは結局のところ建築における野性的なものを統御するために形成された古典的技芸なのだろう。荒馬を乗りこなすがごとくマッスを整然と統御することは、社会的体面と関係し、均整を欠いた姿は服装の場合と似た意味でみっともないことだった。しかるに現在、そのようなこけおどしの権威の表象が通用するわけもない。英雄が喝采を浴びる時代から有名性の時代へ、などと言えば薄っぺらくもなるが、そのような時代において整った均衡は単なる凡庸さに変じ、破天荒で個性的な形態が歓心を得る。野生なる領域から持ち帰られた驚くべき姿の建築がしだいに具現化していく。もちろん単に均衡を欠くだけではない。野性的な形態が持つ野性的空間の可能性を現実のものとしてコントロールする術が少しずつ確立され、形態の潜在的な効用が経験的に蓄えられていく。現在急速に展開されつつあるこうした傾向は、単にデタラメなのか、それとも一目にそれとは知られぬがなにがしかのコントロールがそこに存在するのか見定め難い領域にまで至るだろう。
こうして見たとき、文学と建築が遂げようとしている変化にどこか相似的なところがあると言えないだろうか。ともに真正さや理性的な一貫性へと方向付けられた古典的美学を離れ、むしろあらぬ方向にひそむリアリティを追求している。長い歴史を持つ文化領域はこうした屈折を経て、抑制されてきた野性的な可能性の探求を行なうものなのかもしれない。

正確さには精密さという意味もある。例えば納まりの精密さのような。寸法的あるいは施工精度的な正確さ。そういう意味で言えば現代建築の精密性は古典建築と明らかに異なる水準に達し、むしろどこか過剰で神経症的なところさえあるかもしれない。どちらかと言えば古典建築にはある種のおおらかさがあり、そうやたらな精度を追求することはない。おそらくある程度まではそれは当時の生産技術からくるものだったかもしれず、あるいはおおらかな時代に余裕を持ったスケールで建てられた建物に過度の精度は単に無用だったのかもしれない。だがともかくミリ単位でディメンションを決定することが当然となった現在、精度自体が空間の質に与える影響の大きさは近代建築以来の空間の様相の変容を見れば明らかだろう。近年一般化したガラス面のプリントのような、素材表面の改質による微細な表情もまたこうした変化に合流しているように思われる。ルスティカ積みと切石積みがコントロールされた精度の選択であるのと似た意味で、プリントの施されたガラス面と透明なガラス面の使い分けは精度のコントロールだと言うことができるとすれば、現代的な技術によって表面の表情を変容させて生まれる多様なクオリティは、少なくとも結果として建築空間の精細さを一段と上げるのに寄与しているだろう。
精度の高さは限界的なディテールと特有のきめ細かさを実現し、そのことで生まれる緊密な空間は古典的な建築空間にはありえなかった表情を持つ。壮大さのもたらす緊張感とは性質の異なる、高精度のしつらえによる緊張感である。素材とその組み合わせというような問題は古典建築においては二次的な問題であって、目的に応じた適当な素材のような当然の条件のほかには、風土性の反映として素材が時たま意識される程度にすぎない。だが工業生産された多様な素材をコンポジットして建築が作られるようになるにつれて、素材の取り合わせとディテールワークが空間に多大な影響を与えることが意識されるようになった。一見クラシックな雰囲気を持つカルロ・スカルパの建築にすら素材の取り合わせと分節におけるモダニズムが明確に表われている。ドローイングのような古くからの建築のメディアでは捉えきれない微細で触覚的なクオリティはかつてとは異なる空間コントロールの手段となり、今日ますます重要になってきているだろう。
こうして見たとき、建築と写真は精彩さという点で、非古典的な世界の開拓に向けてともに進んでいるとは言えないだろうか。どのような写真も真実とは無関係だが、ある特定の世界を正確に切り出して見せてくれる写真が存在する。それと似た意味において、素材の選択に正しさを求めても意味がないとしても、デリケートで緻密なコーディネーションによって形づくられるスペシフィックな空間が存在するのである。

クエリーニ・スタンパーリア 財団に佇むカルロ・スカルパ 引用図版=R. Murphy and C. Scarpa, Querini Stampalia Foundation, Phaidon, 1993.

クエリーニ・スタンパーリア
財団に佇むカルロ・スカルパ
引用図版=R. Murphy and
C. Scarpa,
Querini Stampalia Foundation,
Phaidon, 1993.


★一──カルヴィーノの趣味ではないだろうが、サミュエル・ベケットのとりわけ後期の作品にはこうした探求の驚くべき成果がある。

>日埜直彦(ヒノ・ナオヒコ)

1971年生
日埜建築設計事務所主宰。建築家。

>『10+1』 No.43

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