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「ヨセミテ」から松江泰治へ(承前) | 清水穣
From Yosemite to Taiji Matsue, Part Four | Minoru Shimizu
掲載『10+1』 No.43 (都市景観スタディ──いまなにが問題なのか?) pp.53-54

ある程度まで既視感の範囲に収まるのに残りの部分が頑強に抵抗する、そういう論じ難くさをもつ写真がある。例えば、一部の作家たちによく見られるフラットで構成主義的な作品のように、「オールオーヴァーでフラットな抽象画に見えてじつは現実の無人風景」「都市の雑多な現実の様相が同時に美しいグラフィックパターンを描く」という類のディスクール、つまり前回述べた二極の往復運動のなかにとりあえず収まるように見えながら、そういう写真には不必要な過剰さを備えた、松江泰治の写真がそうである。地平線を廃した無機的な風景写真や都市の俯瞰写真のシリーズで知られるこの作家は、ここ数年内外で評価が高まり、展覧会や写真集の出版が相次いでいるが、その最新作は色鮮やかなカラー写真へと移行している。彼の美しい白黒写真を「既視感」で賞賛してきた人は、カラー写真で「残りの部分」にぶつかるだろう。
松江泰治にストレート写真の倫理はない。したがって白黒とカラーの対立はなく、アナログとデジタルの対立もない。美学が空虚にたどり着かないので、見る者がカタルシスを覚えることもない。ピクトリアルでもストレートでもない松江泰治はモダニズム写真の「ディスクール空間」には属していないのである。むしろ彼の写真は、一九世紀のカールトン・E・ワトキンスの作品、あるいはステレオ写真や自然科学的写真(空中写真、電子顕微鏡写真)と本質を等しくする。それを「絶対ピント」と「高解像度のエロス」と名付けておこう。両者は、絶対ピントが解像度からエロスを生じさせる、という関係にある。
カールトン・E・ワトキンスは、ゴーウィン、アダムズ、大自然(ヨセミテ)という系列の先駆者であり、しかしそのディスクール空間からは排除された写真家である。長らく忘れ去られていたこの写真家が再発見され、再評価されるようになったのは七〇年代半ばから、つまりモダンなディスクールの磁場が弱体化してきた時期である。アダムズなどに比べれば、ワトキンスの写真のほうがまだ無垢の自然を写し出していたのに、これは奇妙なことではないか。つまりワトキンスの「ありのまま」は、スティーグリッツ以降に成立する二極的なディスクール空間が要請する「ありのまま」とは異質だったということになる。ストレート写真の倫理とは空虚の倫理であった。すなわち「ありのままの現実」は、表象体系の外部としてあくまでも否定的にしか表現されえない空虚でなくてはならない。それがスティーグリッツ以降の「芸術写真」にとって「リアル」ということであった。
ワトキンスの「現実」はそうではない。ヨセミテは圧倒的な存在感を持ってポジティヴに、自然科学的に、現前していた。芸術写真が結局は絵画性と絶縁できない一方、ワトキンスの写真はむしろ彫刻的だ。その「リアル」とは、あらゆる情報が解像度を落とすことなく隅々まで詰め込まれていることである。光が巨大ネガに刻印した情報(イン・フォーム=形を刻み入れる)をそのまま保存する、「空虚のリアル」に対する「情報のリアル」である。光の刻み跡のエッジのリアルなのである。有名なマンモスネガプレートは必然であった。ワトキンスには、引き伸ばしによって鋭いエッジが鈍ることが許せない。だからある大きさのプリントのためには、その大きさのネガが必要だった。この単純な直接性の前でピクトリアルとストレート、人為と自然の対立は存在しない。
「情報のリアル」で充填されたワトキンスの写真は二つの特徴をもつ。ひとつは視点の浮遊感、もうひとつは樹木や岩盤の細部、遠くの点景にまでピントが合い、くっきりと立体的に写し取られている、画面の驚くべきテクスチュアである。そしてこの二つの特徴を通じて、われわれはワトキンスのもうひとつのメディア、ステレオ写真を理解できるであろう。視点の浮遊は、空中写真、電子顕微鏡写真、そしてステレオ写真に共通する経験である。見る者は肉体を離脱し、浮遊する眼差しのみの存在となる。そしてテクスチュアは、画面中へのダイヴが可能な高い解像度に由来すると同時に、純粋に視覚的な触覚性を生み出す。絵画的空間とは異なる、この純粋に視覚的な立体感こそステレオ写真の本質にほかならない。けっして触れることのできない、画肌の硬くささくれた触覚感、それをテクスチュアのエロス、プリントのエロスと呼んでおこう。情報のリアルと純粋な視触覚性のエロス、非空間的な深さと純視覚的な触感、モダニズム写真のディスクール空間からこぼれ落ちたこれら二つの本質はまた、松江泰治の作品が反復しているものでもある。
解像度とは、静止的なものではなく粗密の両方向プロセスである。それをエッジの立ったテクスチュアの地点で止めると、逆説的に、視覚は高解像度による深さや高さを感じさせられるようになり、純視覚的触感のエロスが生じる。その地点を決めるのが「絶対ピント」の感覚である。
絶対ピントの「絶対」は「絶対音感」のそれである。いわゆる「音痴」でない人間は、絶対音感か相対音感をもっている。ここで「音感」とは、調性と平均律という歴史的地域的に限定された音システムに対する感覚をすり込まれていることである。連続的な音響の世界を、全音と半音からなる音階を通してのみ聴取するわけで、絶対的に貧しい感性とも言える。絶対音感にとってひとつの音は常にそれ自体の音である。ドは絶対にソではないし、低いドと高いドは違う音である。それに対して相対音感とは、調性に基づくドレミファ……だけを正確に聴取する。だからハ長調のドとト長調のドは同じであり、同じ調性内の高いドと低いドはどちらも同じドである。カラオケでキーを上げ下げしても抵抗のないのが相対音感であり、キーが変わるとすべてが変わるのが絶対音感である。
松江泰治は絶対ピントの人であり、彼の自然科学系の出自(理学部地学科)はまさにそこにある。松江作品は、一般にピントと言われるものが「相対ピント」にすぎないことを教える。この絶対ピントは両義的である。それは一方で、世界は絶対的にひとつだ、という近代自然科学的な世界像、言い換えれば絶対音感の耳の「貧しさ」が、作品の前提であり続けているということである。しかし他方で、絶対音感がまさに一音の自己同一性において調性からの離脱を可能たらしめ、自然界のすべての音響を音階として聞く貧しさが、逆にあらゆる自然音響を等しく音楽として聴取させるように、すなわち、絶対音感から無調音楽やミュジーク・コンクレートへの道が開かれたように、松江泰治の絶対ピントはストレートではないピントの写真、ピクトリアルではないカラー写真へと開かれているのである。
プリントのエロスはどのような歴史的な位置を占めるだろうか。まず、ストレート写真のプリントの美学にとって、プリントの質とは解像度の問題ではなく、均一で滑らかなグレイスケールの問題である。解像度と均一性は相容れない概念である(均一で滑らかな平面も、解像度を上げるとむらが現われる)。プリントの美学とは粒だったワトキンスの立体性ではなく、均一で滑らかな平面性なのである。
写真映像が印刷媒体を通じて遍在するようになると、このような均一性に対する反美学が現われる。焼き付けではなく印刷という意味でのプリントが、写真に影響し始めたと解釈してもよいだろう。ウィリアム・クラインの荒れ、ブレ、暈けは、印刷写真の低い解像度の、写真表現への逆流であり、それによって、クラインは均一なプリントに対抗する不均衡な美を実現した。芸術写真としてエスタブリッシュされたストレート写真に対して、荒れ、ブレ、暈けはプリントのレヴェルで、個人と現実世界のあいだで生じる、生々しい摩擦のリアリズムを表現していた。
クライン流プリントの反美学が、六〇年代の日本において、多くの写真家たち、とくに森山大道に決定的な影響を与えたことはよく知られている。そして初期の松江に大きな影響を与えたのは森山の『光と影』であった。ここから触覚性が低解像度印刷の物質的ざらつきを離れ、絶対ピント感覚のもとにワトキンス流の高解像度(情報のリアル)と結びついたとき松江泰治のプリントのエロスが成立する。高解像度ピクセルデータの操作によって実現される、純粋に視覚的な触覚のエロス、彼の写真はここに位置するのである。

セザンヌの一枚の絵が、ディフェレンシャル・フォーカシングのように見える、という思いつきから出発して、ピクトリアルvs.ストレートという二元論から外れた自由な写真表現のあり方を展望してきた。それを「ピクトリアリズム」と呼んだ理由は、とりあげた作品が、作家により撮影された「picture」を前提としているからである。鈴木理策、杉本博司、柴田敏雄、エメット・ゴーウィン、松江泰治、カールトン・ワトキンス……現在のピクトリアリズムは、「現在」と言いながら、断片化したモダニズムの残照のように見え、あるいは時代錯誤的要素の回帰のようにも見える。それ以外の時制をもつ写真表現はないのだろうか? ここ数年出版や企画展という形式で写真作家たちの関心を集めているテーマがある。タシタ・ディーンのアーティストブック『Floh』、あるいは森山大道による自作のリミックス再版などがそうだが、スナップ写真の文脈でデュシャンのレディメイドをあらためて召喚する「ファウンド・フォト」の編集による表現が、それに当てはまるだろう。レディメイドは「芸術」を問うたが、「ファウンド・フォト」はレディメイドの「リアル」を問う。[了]

Carlton E. Watkins,  First View of the Valley Yosemite, ca.1865-66 引用図版=Carlton E. Watkins Photographs 1861-1874,  Fraenkel Gallery, 1989.

Carlton E. Watkins,
 First View of the Valley Yosemite, ca.1865-66
引用図版=Carlton E. Watkins Photographs 1861-1874,
 Fraenkel Gallery, 1989.

松江泰治「JP-22」シリーズより 引用図版=『JP-22』(TARO NASU GALLERY、2006)

松江泰治「JP-22」シリーズより
引用図版=『JP-22』(TARO NASU GALLERY、2006)

>清水穣(シミズ・ミノル)

1963年生
現代写真論、現代音楽論。

>『10+1』 No.43

特集=都市景観スタディ──いまなにが問題なのか?