RUN BY LIXIL Publishingheader patron logo deviderLIXIL Corporation LOGO

HOME>BACKNUMBER>『10+1』 No.42>ARTICLE

>
「桂」/タウト──重層的なテクストとしての | 磯崎新+日埜直彦 聞き手
KATSURA/ Taut: As a Multilayered Text | Isozaki Arata, Hino Naohiko
掲載『10+1』 No.42 (グラウンディング──地図を描く身体, 2006年03月発行) pp.147-157

Electa社版『KATSURA』の成立と構成

日埜直彦──前回は岸田日出刀を中心として日本におけるモダニズム受容の最初期の状況について話していただいたのですが、当時と今では日本の意味合いはずいぶん違います。
今回はその点も踏まえ、とりわけ《桂》、そして《桂》と切っても切れない関係にあるブルーノ・タウトについてお話しいただければと思っています。既に磯崎さんの『建築における「日本的なもの」』でも《桂》論とでも言うべきものを書かれていますね。例えば井上章一の『つくられた桂離宮神話』(弘文堂、一九八六)にあるように、イデオロギー的バイアスのかかったさまざまな視点から桂離宮は捉えられてきた歴史があります。一九六〇年代あたりからその見え方は複雑化していくわけで、丹下健三さんの『桂』(造形社、一九六〇)[図2・3]もその中の節目となるでしょう。当時見えていた《桂》の像、あるいは現在それをどう考えておられるかというあたりから話を伺えればと思うのですが。
磯崎新──ずイタリアのElecta社が二年前につくった『KATSURA: La Villa Imperiale』[図4]という本の成立のいきさつから説明して、そこからタウトの時代に遡ってみたいと思います。実はこの『KATSURA』はフランチェスコ・ダル・コーがElecta社の編集長的な立場にいることから作られました。僕の『建築における「日本的なもの」』(新潮社、二〇〇三)の中に《桂》の章「カツラ──その両義的空間」がありますが、これを書いた八三年に《桂》の解体修理が行なわれ、修理が終わったときに石元泰博の撮影で『桂離宮──空間と形』(岩波書店、一九八三)[図5─7]がつくられました。これに僕が文章をつけました。一九六〇年に出た石元さんの撮影による『桂』(MIT Press)はモノクロで、ハーバート・バイヤーがトリミングをして、グロピウスが序文を書き、丹下さんが論文を書いていました。その二〇年後に《桂》が解体修理されたときに、同じ石元さんが今度はカラーで撮影したわけです。丹下さんの書いた文章やグロピウスの序文を前において、僕なりの考え方を述べなければならない。そのときは田中一光がデザインしています。かつての先生にあたる人たちが関わったものを、新しいスタイルで考えたらどうなるかと思って引き受けたとはいっても、一番の目標は、解体修理したとしても中は一般公開しないので、でき上がるときに石元さんの撮影についていって、細かく見ることでした。中を細かく見ることは、伊勢神宮も一緒なのですが、こんな機会を逃すまい、そんな程度のきっかけですよ。ブルーノ・タウトは自分の「桂論」で《桂》が有名になったと自負している。僕がそのあとに「桂」論で重要だと思うのは、堀口捨己さんの『桂離宮』(毎日新聞社、一九五二)[図8・9]です。これは非常にはっきりした考証に基づいた、さまざまな面でユニークな桂論です。そのつぎにグロピウス─丹下による『桂』という三代目の論がある。ですからこちらは四冊目になるわけです。同じ《桂》に対して、ひとりの人間が論じたものでも違った見方が出てくる。そういう意味で《桂》解釈は見る側の視点と考えとその記述法に基づいて組み立てられ、結果として、全く違った論になる。解釈学と言われているものの組み立ての基本形はこういうものです。つまり決定的な像がひとつあるのではないということが二〇世紀になってから言われてきたテクスト解釈の方法です。ならばこれまでの「桂論」に対して僕が付け加えることはできるかもしれないと思いました。
石元さんは最初はライカでモノクロ、三五ミリで撮って、それから今度は大型カメラでカラーで四×五で撮られていました。モノクロ、三五ミリに比べたら粒子の数も圧倒的に多いし、かつ色彩があるということは情報量は一挙に上がるわけです。ひとつの細部をとってもその写真の情報量は段違いになる。それにしても写真は写真であり、撮る対象は同じです。しかし実際の写真を見ると、同じ場所を撮っていながらモノクロとカラーで違うものが出てくる。解釈学的にいろいろな人が桂を解釈するのと同じように、ひとりの写真家のなかでさえ、使うメディアや時代が変わると違って見える。これを手がかりに僕なりの視点で捉えようとしたわけです。石元さんの同じ場所を撮ったカラーとモノクロの写真をこの本では並べてあります。トリミングはハーバート・バイヤーと田中一光ですが、まったく同じ場所で見え方が違う[図10・11]。ここで問題が出てきます。何が本物の《桂》なのか。モノクロとカラーだと違って見えることになります。たとえば《桂》でさえ、決定的なひとつの見方なんてあり得ない。視る人間やメディアによって違って見えているということです。ならば僕はどういう解釈を付け加えたらよいのか。タウト、堀口捨己、丹下健三、それに僕と続くことになってしまった。これを茶室の完成に深く関わった武野紹鴎、利休、織部、遠州と並べてみるというアクロバティックな設定をやってみるとどうなるか。日本の一六世紀終わりから一七世紀初めにかけての茶道の展開は、茶室空間、茶道の見方、それぞれの好みなどを反映していて、後の人は前の人の蓄積のうえでものを言っているわけです。後になればなるほど、前の人の言ったことは承認するか否定するか、一度態度を決めたうえで言わなければならない。そういうふうに見ると、タウトは紹鴎、捨己さんは利休、丹下さんは織部と考えられる。それならば僕は遠州的な見方をしなければならない。僕の視点を定めるために設定した枠組みです。たまたま《桂》は遠州好みと言われていますが、遠州を手がかりに遠州的な見方をしてみようとしました。加えて、岩波版の「桂」(『見立ての手法』所収)のときには四章しか書いていなかったのですが、『建築における「日本的なもの」』では五章目を加筆しました。それが「帰属─斜線」という章です。これは僕なりの遠州解釈です。建築学会の「批評と理論」シンポジウム(『批評と理論』[INAX出版、二〇〇五]に収録)では「密庵席と遠州」として「遠州好みとは何か」が議論されました。遠州は《桂》にはタッチしていないが、《桂》に遠州好みと言われている要素が見出される。遠州に焦点を当てようとしたタウトの考えは間違いではなかった。こういう日本の建築家像と建築の著作者との関係をひとつの章にして加えたのです。
『建築における「日本的なもの」』は、日本語版と同時にMITから英語版が出されるはずだったのですが、やっとこの春過ぎに出版されることになりました。すでに翻訳はなされていたのだけれど、ネイティヴにもう一度チェックしてもらったほうがよいということになり、さらに外国人が日本建築を理解するためのベーシックな参考文献なども足して、アカデミックなスタイルが整えられました。デイヴィッド・ステュアートがエディターになってやって二年くらいかかって、今やっと本になりそうです。その英文のドラフトをダル・コーが見て思いついたのが『KATSURA』の構成です。だから石元さんのモノクロとカラーの『桂』を比較するということを手がかりにして、近代建築家による「桂」論集としてできたのがこのイタリア語版の『KATSURA』です。
『KATSURA』の構成は僕の文章が最初にあるのですが、《桂》に関わる近代建築家たちのドキュメントが載せられていて、タウトの論文とスケッチと、それをテキストクリティックしているマンフレッド・シュパイデルの文章、さらにグロピウス、丹下さんの論文があって、そして最後にグロピウスがル・コルビュジエに京都から送った絵葉書が収録されています。この本で使われている写真は石元さんのとは違って非常に平明にドキュメントとして撮っている写真です。これまでの石元さんの写真集に比べて裏の裏まで全部撮ってあって、そういう点ではデータ的に面白い。石元さんが絶対に撮らなかった屋根まで撮っています[図12]。さらに僕は改修の時の実測図の図面を載せてくれと言いました[図13・14]。この実測図は宮内庁で管理されていますが、これを全部図面として載せました。ちょっと皮肉に言うなら、石元さんの白黒写真もカラーもどちらを見ても本物の《桂》とはいえない。そうすると「図面は変わらない、図面が《桂》だ」ということになります。何が《桂》という建物における真実なのか。つまり文章もそれぞれ違っていて、写真を撮っても撮った人間の主観が出てくるのでみな違う。しかしこの実測図は変えようがないということで、ぜひ載せてほしかったのです。そこで宮内庁に保管されている《桂》のすべての図面が撮影され掲載されたのです。そこでもうひとつアイロニーがあります。普通われわれが木造の建築の図面を描くとき、桂は四寸角、畳は京間で六尺一寸五分などと寸法を入れるわけですが、この実測図では、意図的に寸法を入れてない。それが修理報告の考え方なんですね。図面は一応図面として残っていて、スケールは入っているが寸法は入っていないんです。何百年か経つと部材の一本一本の径は縮んでいくわけです。四寸とあったとしても四寸一分だったのが四寸になったのか、四寸が三寸九分になったのかわからなくて、実際に測ってみると完全な四寸角ではありません。そうすると実測するとしても、いったい何が正確な寸法なのかも本当はわかっていない。それは記述できないという考えのようです。本当の建物のそのままのものをどんなに工夫を凝らしても、完全に記述するというのは本質的に不可能なのかもしれない。ただ一番接近しているのがこの実測図ではないか。この本には実測図が全部載っています。
《桂》についていうならば、最初のスタートはタウトだということになります。タウトが来日した頃に、日本の古典の美術や骨董や建築を扱う『座右宝』という雑誌があり、ここに志賀直哉が桂離宮の紹介を書いている。僕はその原文を見たことはないのですが、当時すでに《桂》は関心を持たれていたんでしょう。その時の《桂》の写真がここに出ていますが[図15・16]、確かに同じ《桂》ではあるのですが、写真が昔のものということもありますが、本当に今考えられているような《桂》がヨーロッパで一般の人たちに伝わったのだろうかと思うくらい現在とは違っている写真です。だけど少ない情報のなかでタウトが《桂》について語り始めたことが一番重要であると思います。

1──ブルーノ・タウト 引用出典=『タウト全集』第1巻 (篠田英雄訳、育生社弘道閣、1942)

1──ブルーノ・タウト
引用出典=『タウト全集』第1巻
(篠田英雄訳、育生社弘道閣、1942)

2──テキスト=ワルター・ グロピウス+丹下健三、 写真=石元泰博『桂』 (造形社、1960)扉

2──テキスト=ワルター・
グロピウス+丹下健三、
写真=石元泰博『桂』
(造形社、1960)扉

3──月見台付近広縁 引用出典=同上

3──月見台付近広縁
引用出典=同上


4──Katsura la villa imperiale  (Mondadori, Electa, 2004)

4──Katsura la villa imperiale
(Mondadori, Electa, 2004)

5──磯崎新ほか 『桂離宮──空間と形』 (岩波書店、1983)

5──磯崎新ほか
『桂離宮──空間と形』
(岩波書店、1983)


6──中書院東南隅 引用出典=磯崎新『桂離宮』

6──中書院東南隅
引用出典=磯崎新『桂離宮』

7──外観南面 引用出典=磯崎新『桂離宮』

7──外観南面
引用出典=磯崎新『桂離宮』


8──堀口捨己『桂離宮』 (毎日新聞社、1952)扉

8──堀口捨己『桂離宮』
(毎日新聞社、1952)扉

9──月波楼次の間より 中の間を見る 引用出典=堀口捨己『桂離宮』

9──月波楼次の間より
中の間を見る
引用出典=堀口捨己『桂離宮』


10──松琴亭のふすま写真の比較 上がワルター・グロピウス+ 丹下健三『桂』、 下が磯崎新『桂離宮』 引用出典=Katsura  la villa imperiale

10──松琴亭のふすま写真の比較
上がワルター・グロピウス+
丹下健三『桂』、
下が磯崎新『桂離宮』
引用出典=Katsura
la villa imperiale

11──笑意軒写真の比較 上がワルター・グロピウス+ 丹下健三『桂』、 下が磯崎新『桂離宮』 引用出典=Katsura  la villa imperiale

11──笑意軒写真の比較
上がワルター・グロピウス+
丹下健三『桂』、
下が磯崎新『桂離宮』
引用出典=Katsura
la villa imperiale

12──新御殿中書院の屋根 引用出典=Katsura la villa imperiale

12──新御殿中書院の屋根
引用出典=Katsura la villa imperiale

13、14──中書院実測図 引用出典=Katsura la villa imperiale

13、14──中書院実測図
引用出典=Katsura la villa imperiale

15──『座右宝』に掲載された新御殿、1929 引用出典=Katsura la villa imperiale

15──『座右宝』に掲載された新御殿、1929
引用出典=Katsura la villa imperiale

16──『座右宝』に掲載された月波楼 引用出典=Katsura la villa imperiale

16──『座右宝』に掲載された月波楼
引用出典=Katsura la villa imperiale

「こと」の建築──保存・改修・復元

日埜──そうするとこの本を構成しているのは、《桂》をめぐるいくつかのテクストと写真はひとつの切り取り方であって、プロポーションの読み方を含めてひとつの解釈の仕方ですが、そういうある見方の揺らめきを反映した写真、それから図面ということですね。図面は建物を定義するドキュメントとしてある種の客観性を持っているでしょうが、でも実際に存在するのは柱の径のような情報を欠落させたドキュメントでしかない。いったい本当の意味で《桂》はどこにあるのか、というわけですね。今ある建物にしても幾度も改修を受けて当初のままというわけではなく、そういう改変を含めて日本的な建物のありかたなのかもしれませんが、しかし敢えて言うならば近代に現われた《桂》の像とは、あそこに建っている建物そのものというよりも、この本に収録されたものだったのかもしれません。
磯崎──古い建築の保存改修が議論になりますが、僕はたまたまリヨンでオペラの舞台装置をやったときにちょうどこのオペラ座を、ジャン・ヌーヴェルがコンペをとって改修をしている最中でした。改修されたときにエレベーションは昔のファサードをそのまま残して、その上に巨大なヴォールトをのせて、これがダンスシアターになるという案をやっていました。一枚のペラペラのファサードを表からも裏からもサポートして壊れないようにして内部を掘り下げて施工しているわけです。「そんなことやるくらいなら、一度全部ばらして、きちんと番号を付けて再度組み立てればいいのではないか」と僕が言ったら、「それはわかっているが、そうやったらもう文化財ではない」と言うわけです。これがヨーロッパの考えで、要するにそのままの格好で残されないといけない。あとで壊して改修したりするときもその部分は壊してはいけないというのが原則らしい。だから無理してでも補強しながらやるということです。このヨーロッパの解釈の仕方の対極に日本のように木造なんだから何度でも組み替えができるという考え方があります。例えば伊勢神宮は丸ごと改修をやっているから、ユネスコの見解は伊勢は新築建築であって歴史的な文化遺産には入らないと言われていると聞いたことがあります。《桂離宮》も解体修理されている。法隆寺はすでに焼けたか焼けていないかという再建論争があって、その間で数十年の差があるわけですが、仮に再建があったとしても創建時の部材は何本残っているかと考えたらそれはもうほとんど無いに等しいくらいでしょう。何回も解体修理しているわけです。だからその新築のものにも一四〇〇年前の建物の一部が含まれるとなってくると矛盾してきます。いったいその基準はどこにあるのか、僕はいろいろな人に聞いたのですが、誰も答えてくれない。そこで僕は基本的に建築というのは「もの」ではなくて「こと」であると『建築における「日本的なもの」』に書きました。日本では建築を「こと」としてみればわかるので、「もの」は消えてもまた改めてつくればよいということです。だからそこはヨーロッパの概念とは違うと言わざるを得ない。そう考えると、《桂》は全面的に解体修理をしているわけですから、「二〇年しか経っていない新築建築である」とも言えてしまうわけです。事実中に入ると、本当にきれいでそんなに汚れていなくて、結構きちんと残っています。これがまたあと何十年後かに解体修理するかもしれません。そのほかにも薬師寺の塔の例をみてもよい。東塔は焼けていないから残っている。最近全く同じものをもうひとつつくった。これはもうディズニーランドと同じだと言われたりします。新しいほうはフェイクで、古いほうはリアルだと言われる。でもよく考えてみると、ついこの間つくって手の内がばれているからフェイクであって、もう忘れてしまったらリアルとなるのかもしれない。おかしな話ですよ。
日埜──何年か前に室生寺の五重塔が台風による倒木で大破してしまい、その後再建されたのを見たのですが、薬師寺西塔とは違って朱塗りの赤が小豆色のようなくすんだ色でした。かえって前のほうが鮮やかだったような気がするほどで、新しいというのでも古びているのでもないなにか作り物めいた感じがしました。この場合、かつての姿に戻すということでもなく、新しいフェイクで置き換えるというのでもなくて、なにを基準としているのかさらに曖昧になっているように思います。
磯崎──例えば修復の問題から考えると、ヴィオレ・ル・デュクの中世建築の復元改修が今批判されていています。彼なりに中世建築に対する理論があって、「ゴシックとはこういうものである」というゴシックの純粋形のようなものを一九世紀に考えていたんです。それを手がかりに彼なりのゴシックの基本形にそって修復している。後で実証的に考えていくと、ゴシックの純粋形というのはその時代に存在しているわけがなくて、つぎはぎになっていたり、コンセプトがはっきりしないままできたということになってきた。だから今ヴィオレ・ル・デュクは間違いであったと言われるわけです。僕は彼のようなやり方を「想像的復元」と言っているのですが、イマジナリーな復元をやったと考えるしかない。

磯崎新氏

磯崎新氏

オーセンティシティ

日埜──建物の場合はオリジナルの意味が美術品とは少し意味合いが違うと思います。例えば絵画の場合は画家の最後のひとタッチで完成ということになりますが、建築の場合は竣工当時の姿がある一方で、その後の歴史において手を加えられた場合、それも歴史の一部となるでしょう。単純にもとの形に戻したからと言って歴史の復元ということにはならないでしょうね。
磯崎──一種のオーセンティシティですね。歴史をやっている人たちは、オーセンティシティを最も重視しています。これはオーセンティックだとか、そうではないという分類でやっているわけです。ただ現実問題として、例えば美術の方だって二つしか手がかりはないはずです。ひとつはサインです。サインをしてその作品が作者の承認を得たということです。中国の明末期に董其昌という人物がいて、有名でも実物がほとんど残っていない作者を自分で発見したと言って、自分で鑑定してこれは本物だと言ったと言われています。そうすると自分で描いた偽作までが本物になってしまう。すると今度それが有名なコレクターである清の乾隆帝に繋がります。董其昌が鑑定したならばということで、判子を押して、もちろん故宮博物館に入る。彼は自分でかなり独特のスタイルの山水画を創め、これは中国美術史で高く評価されている。この作品は非常に近代的で面白いと思います。だけれど彼が描いてしまった贋作は霧の中に消えている。それと同じことをつい最近まで生きていた張大山という人がやっています。彼も非常に絵がうまくて、この間中国に行ったら五〇〇年にひとり出るような重要な作家というふれこみで一流の美術館で展覧会をやっていたりします。ものすごくうまいのですが、偽作を描くともっとうまいと言われている。彼が発見したと言われている、元の時代の作品というのがあってこれも本物かどうかわからないのですが、みなそれを偽物だと思っています。「どうして偽作を描くのか」と聞くと、「自分が描いた値段の百倍で売れる」「自分のサインを入れると儲からないけど、偽作だと百倍になる。それはやめられないよ」と平気で言ったなどと評伝に残っている。しかもそれが重要人物なのだから本当にわからないですよ(笑)。書はどうやって評価するのかと言うと、もっと曖昧です。真筆というのはありえないんです。例えば東京国立博物館で「書の至宝」展がありましたが、書道家では王羲之が一番有名です。王羲之は、親子でかつては何千点か書いていたのだけれど、何百年か経つと十分の一になって、今はコピーしかありません。コピーしたり、なぞったり、木版でつくったりといろいろです。日本ではそれを切ってばら売りにしている。国宝になっている。だけどそれは西欧的基準でいうオーセンティシティの観点からすれば、偽物でありコピーにすぎません。
日埜──彼らとしてはオーセンティックなものが存在しないと言うことは絶対にできない。
磯崎──要は《桂》は本物かどうかということです。少なくとも先ほどの志賀直哉が書いた『座右宝』に掲載された写真と、現在僕らが見ている写真を比べた場合でも、庭の手入れの仕方などを見ると違っています。だからタウトが見た《桂》と僕らが今見る《桂》は違うのではないか。だけど同じ《桂》と呼んでいる。しかしこういう議論はある意味では《桂》の持っている魅力です。テクストとしての重層性です。だから依然として面白いと言えるわけです。だからオーセンティックなんて言わなければいいわけです。
日埜──ある意味でイヴェントというか出来事としての《桂》というものがあって、それがこの本にまとまっているわけですね。
磯崎──歴史教科書問題も似たようなものです。あれは歴史的にどう解釈するかで、論の組み立て方が違う。誰もが正当なオーセンティックな歴史を記述できないということは知っている。どれだけそれを説得力ある形で解釈するかということです。
日埜──そういう意味で言うと、本のタイトルにもなった「日本的なもの」さえもやはりいろいろな人が記述してきた歴史が雲のようになって、その雲全体ということになるのでしょうか。
磯崎──核になる確固とした存在としての建物なり美術状況があるということそれ自体が曖昧だと思っています。それらしいものはある、だけどその周りにいろいろな議論があって、そのあげくもやもやとした全体が生まれていくとみたほうがいい。これらの組み合わせのすべてが《桂》を組み立てていると読んだほうがよいと思います。

日埜直彦氏

日埜直彦氏

実証主義というイデオロギー

日埜──ここ数年で磯崎さんの日本に関する本がそろって出ました。『漢字と建築』(INAX出版、二〇〇三)、『建築における「日本的なもの」』と福田和也さんとの対談集『空間の行間』(筑摩書房、二〇〇四)ですが、実はこの三冊のレヴューを去年の末に『10+1』に書きました。そのときに気になったことが二点ほどあります。一点は神代雄一郎さんの言葉なのですが、彼は「九間ここのま論」の序論で、「これは時代考証ではなく、意匠論である」と書いておられます。前後の文脈からその正確な意味を読み取ることは難しいのですが、あるいは広がりとしてそういうモヤモヤとした歴史への指向を読み取れるのかなという感じがします。
磯崎──それは桂論争中にいろいろな形で出されたものと重なっていると思うのです。もともと一九二〇年代に議論されていた日本の実証主義はかなり簡略化されていました。すなわち、一切のイデオロギーを介した解釈をはずしたあげく、その後に残る事実、もの、存在があるはずだ、これを探し出していくことが一番確実な研究の方法だということです。歴史的に見るならば、この実証主義は、ある種の勝手な歴史解釈を排除する、それに対抗するような捉え方を考えていた。そこにひとつの意味があったとは言えますが、これも非イデオロギーというイデオロギーに過ぎなかったとも言えますけどね。それが日本では戦後になると実証性がない、考証されていないと学会の論文として評価されないという通念になる。要するに学会論文で批評を出しても認められない。だけどこれを調査して、データをつければオリジナルな見方がなくても論文になる。このような転倒した状態が学会の原則になっていました。そこで神代さんの論文をみると、仮説がたくさんあるわけです。実証されたものしか受け取れないとする先生方からすれば、そんな仮説は韓国の黄教授によるES細胞論文のデータ捏造と一緒です。あの人はデータとして実物の実験データを載せているわけですが、写真が捏造だということですべての議論が否定されてしまいました。ああいう証明のやり方の原則は建築の議論においても、論文の評価のされ方は同じだったのではないでしょうか。写真は捏造できる。そのように考えてみると、実証主義は非常にプラスの側面がある一方、限界もある。神代雄一郎はそれを知っていました。彼の「九間論」やそのほか日本の村落構造に関する論があるわけですが、こういうものについてはいわゆる実証する手続きを踏むことが難しい。そうするとこれは学会論文ではないということになる。だから神代さんはちょっと卑下してデザイン論としか言えないと言ったと考えられます。「巨大建築」論争で神代さんは組織事務所のイデオローグたちから、袋だたきの目に遭っています。実証や考証しか認めない建築学会のムードも、こんなイデオローグと同じに見えていたんじゃないですか。神代さんは遠慮したからつけ込まれたので、遠慮しなければよかったというのが僕の見方です。大学でのポジションも学会が支えているから、曖昧な姿勢を取らざるをえなかったのだと思います。アカデミズム批判にはならなかった。だけど逆説的にアカデミズムの持っている限界を露呈させたとは言えるんじゃないですか。

グローバリゼーションとリージョナリズム

日埜──もうひとつ、それは歴史に対する視線のあり方に関する問題だと思うのですが、『建築における「日本的なもの」』で「グローバリゼーション状態のなかに沈殿物が発生し、これが〈しま〉をつくり、世界は無数の凝固の集合体としての、群島アーキペラゴとなるだろう。そのひとつの〈しま〉のつくりだされかたは、”退行 “や”擬態 “のみならず、もっと多様に開発されねばなるまい」と書かれています。これは歴史を把握する云々よりもむしろ、建築家が歴史をどう利用するかということへ踏み込んでいるように読めて、ちょっと驚いたのです。これを書かれた時と今とは少し違うのかもしれませんが、ある種確信犯的な感じがしないでもないのですが。
磯崎──いつも確信犯的でありたいと思っているので、そう読んでいただいて感謝します。このアーキペラゴについては、海洋国家論や東アジア共同体論なんかを語る人と近い部分があるかもしれないけど、僕はもっと広義のメタファーとして考えたいと思っています。例えば〈しま〉の浮かぶ海は大航海時代の海というよりも、グローバリゼーションの進行するメディアの海、つまりウェブサイトでもあり得るのです。こんな視点に一番近いのは昨年、再びヴェネツィアの市長に返り咲いたマッシモ・カッチャーリのアーキペラゴ論に近いと私は思っています。
日埜──でも一般的に見てグローバリゼーションの展開とともにある種普遍的なスタンダードというか意識の共有がなされるとするならば、むしろかえって固有性のようなものがそこに養分を供給するものになっていくだろうという筋書きは、それ自体ごく普通のひとつの見方だと思います。そういう意味で歴史的に形成された「日本的なもの」が固有性のリソースになっていくというイメージを感じることもできる。やはり建築家として歴史に対面するときに、神代さんが歴史に対して取らざるをえなかった微妙なニュアンスとは違った、言ってみれば戦略的なスタンスがそこに見えているのかなとも思うわけです。
磯崎──そこまで読んで下さると僕もわからなかったことがはっきりしてきますが、少なくともさっき言ったような固有性を取り出す、組み立てていくという意味というのは、これから後も必要になってきます。ケネス・フランプトンの言う「クリティカル・リージョナリズム(批判的地域主義)」は、要するにグローバリゼーション、当時は国際建築という普遍性をもった近代建築という波の中で、地域の特徴を世界の全体の動向に対する批評として組み立てていくということで、フランプトンはそれを取りだそうとしたんだと思います。いまだに似たような発想でリージョナリズムの問題を中国もやっているし、ポンピドゥーセンターのキュレーターだったブルックハルトから手紙が来て、今回あらためて『Rossenia』という雑誌の編集長になったという通知がきました。その第一回目の特集がリージョナリズムと言っています。グローバリゼーションに対するある種の抵抗の核としてのリージョンということを言おうとしていると思われます。フランプトンの限界は普遍性をもって世界に浸透してきたモダニズムに単に対抗するということで「クリティカル・リージョナリズム」を取り出しています。だから「クリティカル・リージョナリズム」は、固有性の問題ではなくて、対グローバルという形に裏返そうとしたものです。言い換えると、両方ともロジックの組み立て方が一緒です。反対というのは相手の裏表にすぎない。もうひとつ、グローバリゼーションを海としたときに、海に無関係な何ものかを考える、あるいは海に共通した基準に何ができるのか、その期待みたいなものを考えることはあるのではないか、と思います。中国はリージョナリズムを考えようとしているけれど、大国という仕組みの中でリージョナリズムをやるとすると、やはり裏返し、単にグローバリゼーションの裏がえし、単純なナショナリズムになりかねない。そこを抜ける方法論を組み立てられないと、どのようなロジックを使っても結局グローバリゼーションに回収されてしまうでしょう。ある意味ではグローバリゼーションというのはひとつのベースなので、反対してもしょうがない、容認したうえで、その中に異物が発生する方法を考えていくことが重要です。和様化が「日本的なもの」になっていくことを考えていたのですが、その例外になるのかどうかはまだ何とも言えません。日本的なものができ上がっていく過程は説明はできますが、これをやったところで異物の発生に繋がるのかどうかは保証できません。
一九世紀末に、アール・ヌーヴォーや分離派、ゼセッション、アール・デコなどがありました。アール・デコの中からモダニズムが出てきたというのは常識的な話ですが、アール・ヌーヴォーあたりのファッション性と今日本で流行っている細かい模様、モアレであるとかプリントのものとかの流行り方は僕はそっくりだと思います。どちらも表層です。骨組みや形式や中の空間の質は問わずに、アール・ヌーヴォーやアール・デコとかは、剥げばすべてクラシックです。今日本で流行っている建築の表層の模様も同じで、剥ぐとモダニズムが出てくる。だけど何とかして意匠のデザインとして売りを作ろうという方向で、それはファッション性を持っているわけです。歴史的にどう位置づけられ、どう流れていくかという予測は簡単で、それはアール・ヌーヴォーの運命と同じだと思えばいい。

モダニズムの変容と「日本的なもの」──タウトの「桂」論

磯崎──今回の主題である一九三三年頃のタウト周辺をどう見るかということにもどります。おそらく一九三〇年代前半のモダニズムの受容がひとつのポイントになるような気がします。前回のインタヴューでも言いましたが、堀口捨己さんたちの分離派やその周辺の流れは、結局ヨーロッパの近代建築を流行として受容するものでした。表現派や初期バウハウス、アール・デコなどをごちゃ混ぜにしたのが日本分離派です。それに対して日本がいわゆる近代建築のなかでのモダニズムを輸入し始めたのは前川國男さんがル・コルビュジエを学んで日本に持ちかえったときです。フランク・ロイド・ライトの手伝いをしていたアントニン・レーモンドですら、ル・コルビュジエスタイルに変わっていった。ライトのところにいた土浦さんも──あの人はル・コルビュジエというよりはバウハウスですが──そうなりました。ル・コルビュジエを選択的に受容したというのは、日本の近代建築の大きな特徴です。それに対して同時期にジョンソンはミースを選び、これがニューヨークのMoMAのポリシーになった。アメリカというのはル・コルビュジエは受け取っていない。今のアメリカの状況を見ていると、現在のコールハースはル・コルビュジエと同じような拒絶のされ方をしているように見えます。もちろんコールハースは自分はオランダ人のミースの直系だと思っているけれども、彼のミース解釈は違います。つまり、一九三〇年から三五年の間を取ってみると、日本とアメリカは同じようにヨーロッパを受容する状態だったと言える。当時建築に関してアメリカは全然先進国ではないんです。そこでモデルとして選んだ相手が違っていたことが、アメリカと日本の流れを分けたと思います。
タウトはル・コルビュジエを受容しようとしている日本に来たとみなければならない。タウトは純粋なヨーロッパの近代建築の流れを日本に移植する仕事をした人ではありません。どういうところで違っているかというと、一九二九年の大恐慌が全世界でモダニズムの流れに大きな影響を与えました。ロシア、ソ連、ドイツ、フランス、イタリアといった国々はモダニズムを政治的主題に繋ごうとしていたわけです。そこでは、純粋モダニズムの抽象化されたレベルの運動ではなく、もっと政治的解釈が入っている。スターリン時代の社会主義的運動、コミュニズム運動も同じ意味を持っていました。ドイツにはシュペーアがいて、アメリカでもジョンソンはミースを紹介した足でアメリカのファシズム運動に参加して、通信員としてヒトラーのドイツに行きました。その前はMoMAのキュレーターとしてドイツに行っているのですが、今回はファシズムのレポーターとして行っているわけです。アメリカではそれがニューディールと繋がっていました。フランスは人民戦線の運動なんかと、右翼が衝突したりしながら、後期アール・デコを公共建築の意匠につくりかえています。イタリアはムッソリーニのファシズム。すべての言説が政治化しています。このように政治が全世界のモダニズム建築のテーマに入り込んでいったわけです。その頃タウトが日本に来ました。タウトが持ってきたものは、バウハウスでもル・コルビュジエでもなかった。自分のスタイルをそのまま日本に移植することが不可能なのは最初からわかっていたのではないですか。だから日本文化との関わりの中での建築論を書き始めました。タウトは、建築の言説の組み立てが純粋なモダニズムとは違って、政治性を持ったパラダイムに移行しているとわかっていました。モスクワでスターリニズムがモダニズムを抑圧しはじめるのを見てきているし、それが故にドイツでのポジションが危うくなったあげくの来日で、日本もまた政治の季節へ突入していたことも理解していたと思われます。そこから彼の桂論が始まっている。堀口捨己さんが一九三二年くらいに「日本的なもの」を語り始めているように、すでに言説がシフトを始めていた。その決定的なオリエンテーションをタウトが編成した。ここでのタウトのイデオロギーは明治維新の反復です。明治維新において、将軍的なものの代わりに天皇をたてる。この単純な流れを踏まえて、明快な分類をしたわけです。いわゆる天皇的=ほんもの/将軍的=いかものという二分法ですね。彼の建築のディスコースの戦略がうまくあたったんでしょう。そこでタウトの桂論は評判になったのではないでしょうか。その論を受け入れる素地が日本にすでにあったし、世界的状況としてもあった。タウトがナチスに追われたのは彼が社会主義者であったことが理由ですけれど、彼は日本では一言もそれをしゃべったこともなかった。
僕はタウトの世話をした井上房一郎さんと晩年付き合いました。タウトが借り住まいした洗心亭はこの井上房一郎さんが段取りしたものです。戦後になって、彼の個人的なコンセプトやプロジェクトはレーモンドに頼んでいました。高崎音楽堂などです。レーモンドが引退する時期になったときに、僕が呼び出されて群馬県立近代美術館をやることになりました。井上さんの旧宅が哲学堂になっていますけれど、実はその前に哲学堂というのを作りたいと考えていて、レーモンドにプランを頼んでありました。レーモンドはプランは作ったけれどファンドレージングができなくて、つくる条件がなかった。レーモンドが亡くなってから続いて僕がやってくれと言われました。そのとき何をやってよいかわからず、水戸現代美術館のタワーの原型のようなものを考えていたので、そのシステムを建物にしたプランをやりかけたのですが、条件が整わないうちにつぶれました。
日本建築論を執筆しているときのタウトは、洗心亭という六畳・四畳半くらいの小さな建物に住まざるを得なかった。そのとき特高が周りを見張っていたといわれています。社会主義者のタウトは危険人物だったわけです。日本の特高は彼がドイツから追われて逃げた理由も全部わかっていた。でも彼は何も言えないわけです。タウトはユダヤ人だからナチスから逃げたという人もいますが、彼はユダヤ人ではありません。ドイツを離れたのはモスクワに呼ばれてプランをやりに行ったことで目をつけられ、ブラックリストにのったからです。井上さんという人は面白い人で、タウトが特高に見張られていたことについても知っていました。じつは彼の奥さんの父親が当時の内務省警保局長だった唐沢俊樹で、なかなかの通人で、墨絵のコレクションなんかしていました。戦後も、警視総監をやり、政界でも活躍した人です。この特高の元締だった人のところにタウトはいって墨絵を見せてもらって、自分の墨絵の見方も進歩していることがわかったと日記に書いています[図17]。そういうことで、特高から見張られていても何とか事なきを得たのでしょうが、すれすれの状態でいたことは確かです。政治的にもあぶないし、誰も経済的なバックアップもしていない。タウトが一番やりたかったのは、グロピウスのように大学の先生になることで、東大の先生か何かになれればと思っていたようです。だけど、日本の大学がそういう人をいきなり着任させることは滅多にできない。当時唯一、東北帝国大学に、ユダヤ人でカール・レーヴィットというハイデガーの弟子でハイデガー批判をした哲学の先生がいました。九鬼周造の推薦でしたが、戦争中にドイツ人で大学でそういうポジションに就いた人は彼くらいです。経済的にも誰もまともにタウトをバックアップできる力はなかったですし、ときどき東大で講義をしたくらいです。その時に立原道造が東大の二年生で、タウトの授業でとったノートが残っているはずです。その段取りをやったのは岸田日出刀さんです。タウトの桂論や日本文化論は、非常に政治性をもった言説だった。むしろそれが狙いであったと見たほうがいいと思うし、タウトはそれをわかっていてわからないふりをしてしゃべっていたと思うんです。
日埜──ソフトに状況を受け止めつつ、巧みに振る舞うような感じですか。
磯崎──そう思いますね。井上さんは単刀直入にものを言う人で、それにタウトはしょっちゅう腹を立てている様子が、日記に書かれています。井上さんはその日記が発表されてからガックリきて、あんなに世話したのにひどいことを書かれたと思ったようです。ともあれ、タウトの日本における言説は、あの時期の政治情勢とのかかわりのなかで評価すべき点が大きいことに注意したいですね。すると、そんなイデオロギーに直結した部分をはずしてみると、建築物に裸の眼で接しているタウトがやはり残ります。
タウトには《桂》をこれこそが機能的な建物だという、有名な台詞があります。丹下さんが「美しいものこそが機能的だ」と言ったのと似たような台詞です。機能的が近代建築の代名詞であったのだから、この新カント派的な説明はこの時点では効力があったのでしょうね。こんな解釈には、「目の愉楽」をいうのとつながっています。これがタウトの《桂》に対しての只ひとつの美学的な説明です。プロポーション、テクスチュアーなど、一九二〇年頃、プラトンのイデア論などが手がかりになって、建築美学が組み立てられていますね。抽象的なものをあらためて正当化する方法が探されていた。これに機能的という切り札をつなぐ、まあこんな企図がバウハウスなんかを介して流行していた。このあたりがタウトの限界でもありました。この頃に、日本の古典建築を、近代の持つ、近代を学んだ感覚でどう読み取るか、どのように鑑賞するかという視点が《桂》を舞台にしてなされていきます。石元さんはいきなり「《桂》はモンドリアンだ」と言いきったのです。堀口さんは、むしろ周辺の実証的、考証的なデータを取り上げて考察する。それで堀口さんの庭論、建築論は違っています。それに対してタウトが取り出した説明というのは近代を通過したこんな視点、枠組みでした。これは岸田さんの日本建築の写真による解釈と通じるところがあります。
《桂》に「目の愉楽」の対象になる視点があることがわかったうえで、これを避けて語ったのが僕の桂論のもうひとつの筋書でした。いろいろ批判すると手間がかかるし、わかっていてあえて避けた感じです。むしろ僕は《桂》の解釈を形式論や空間論に置き換えた。この二つは前の人たちがやってこなかったことです。
ほんの数年の間に日本がシフトしていく。いきなりル・コルビュジエからシュペーアにいくことはないでしょうから、その中間にタウトという人がいたというのはこの時期の説明には、座りがよい。文学の人がタウトをほめるのは僕には理解に苦しむところですが、それはどうも先ほどの政治的な部分に理由があると思っています。建築界ではどう見られているんでしょうかね。タウトは伝記的なことをいろいろ書いたりする人だから、苦労したとか、厳しい状態でよくやりましたという同情があるだろうし、熱海の崖の下にある赤い茶室の《日向邸》も、面白いといえば面白いけれども、絶妙のデザインでステップのデザインが出たと僕は思いませんけれどね。
[二〇〇六年二月一六日、磯崎新アトリエにて]

17──タウトによる《桂》の墨絵とテキスト 「小堀遠州政一 我々は爾の建築を讃嘆するぬきさしを許さぬ究極の単純 ほどのよさ それ故にまた 自由 御殿の最初の大きな翼(古書院)では障子の上に 軽快な鴨居があるだけ それだから 釣合は 単純の極致であるこれほど簡素な住宅がほかにあるあらうか」 引用出典=『タウト全集』第1巻

17──タウトによる《桂》の墨絵とテキスト
「小堀遠州政一 我々は爾の建築を讃嘆するぬきさしを許さぬ究極の単純 ほどのよさ それ故にまた 自由 御殿の最初の大きな翼(古書院)では障子の上に 軽快な鴨居があるだけ それだから 釣合は 単純の極致であるこれほど簡素な住宅がほかにあるあらうか」
引用出典=『タウト全集』第1巻

>磯崎新(イソザキ・アラタ)

1931年生
磯崎新アトリエ主宰。建築家。

>日埜直彦(ヒノ・ナオヒコ)

1971年生
日埜建築設計事務所主宰。建築家。

>『10+1』 No.42

特集=グラウンディング──地図を描く身体

>ブルーノ・タウト

1880年 - 1938年
建築家、都市計画家。シャルロッテンブルグ工科大学教授。

>丹下健三(タンゲ・ケンゾウ)

1913年 - 2005年
建築家。東京大学名誉教授。

>桂離宮──空間と形

1983年11月1日

>ル・コルビュジエ

1887年 - 1965年
建築家。

>ジャン・ヌーヴェル

1945年 -
建築家。ジャン・ヌーヴェル・アトリエ主宰。

>空間の行間

2004年1月20日

>ケネス・フランプトン

1930年 -
建築史。コロンビア大学終身教授。

>批判的地域主義

クリティカル・リージョナリズム(Critical Regionalism)。アメ...

>バウハウス

1919年、ドイツのワイマール市に開校された、芸術学校。初代校長は建築家のW・グ...

>前川國男(マエカワ・クニオ)

1905年 - 1986年
建築家。前川國男建築設計事務所設立。

>フランク・ロイド・ライト

1867年 - 1959年
建築家。