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醜い景観狩り | 五十嵐太郎
Hunting Unsightly Landscapes | Igarashi Taro
掲載『10+1』 No.42 (グラウンディング──地図を描く身体) pp.22-24

美しいものと醜いもの

今年の初め、小泉首相は、日本橋の上に架かる首都高を移設するプロジェクトに取り組むよう指示を出した。景観法が制定された頃から、この計画に関連したコンペが実施されるなど、首都高の地下化が噂されたが、いよいよ本格的にお墨付きが与えられたわけである。以前、筆者は「景観を笑う」というテキストにおいて、こうした流れについて批判的に論じた★一。ポイントは以下のとおり。ひとつは美観という名目による、かたちを変えた公共事業であること。もうひとつは、戦前は良かったという保守的な議論との関連性。そして空間の管理強化につながる可能性である。小泉首相は、首都高のプロジェクトが「実現したら、文化都市・東京のシンボルになる」という。彼に入れ知恵をしたのは、内閣の都市再生戦略チームの座長をつとめる伊藤滋である。
伊藤は、かつて千里ニュータウンや浦安地区住宅地の基本計画を手がけ、森ビルのアーク都市塾塾長でもある都市計画の学者だ。そして現在、景観改革の旗ふり役として、二〇〇四年末、各分野の専門家を集めて、「美しい景観を創る会」を設立している。興味深いのは、どのような景観が美しいかをきちんと論じるよりも、まず「悪い景観一〇〇」のリストを作成していることだ(当初、「醜い景観」という名目で収集されていたが、途中から表現が変わっている)★二。彼は、その理由をこう説明している。「日本は美しくない、と日本人自身が知るところから始めないといけない。『美しい日本』と宣伝しながら実際はお寒い限りでは、外国からの観光客はすぐに来なくなります。現実を直視してもらうために、あえて醜い場所を選ぶことにしました」★三。言うまでもなく、日本橋をおおう首都高もリストに入っている。そして「建築家など開発者側が、好き勝手なデザインの建物を無秩序に建て続け、景観を悪くしてしまった」という。しかも、会社の実名を挙げて攻撃し、「訴訟も受けて立つ」と述べている。さらに各企業に質問状を送り、回答がない会社を公表し、批判を続けることを表明していた。いわば醜い景観狩りである。
昨年末、「美しい景観を創る会」のホームページ上では、七〇の物件が写真とコメント入りで紹介された★四。銀座のマツモトキヨシや看板だらけの宇都宮の駅前、電線や電信柱、あるいは路上の自動販売機や宝くじ売り場などである。しばしばカオス的とされる日本の都市風景。わかりやすく記号化された敵=悪い景観要素といえるかもしれない。すぐにウェブ上では大反響を呼び、建築系とは関係ない人も多くの感想を自分のブログに書き込んでいた。景観をめぐる議論を巻き起こすという目的は、大成功と言えるだろう。もっとも、筆者が検索した限りでは、「美しい景観を創る会」の意図とは裏腹に否定的な見解が(意外に?)多いように思われた。例えば、選び方が独善的過ぎる、大きなお世話だ、説得力がない、自分はむしろ好きだ、などなど。また電柱さえなくせば、それだけで景観が美しくなる幻想が認められるという本質的な批判も見受けられた。サイバーパンク好きにとっては魅力的な風景であるとか、『攻殻機動隊』の草薙素子が走るシーンによく似合うのではないかという感想もある。
もろん、「美しい景観を創る会」の会員が六〇代や七〇代の比較的高齢の人間であるのに対し、ネットで素早く書き込んでいるのは、おそらく二〇代から三〇代が多く、世代差がこうした結果を招いている可能性は高い。とすれば、当たり前のことだが、ウェブの反応は、なにを美しいとするかは相対的な価値であることを示している。ただし、ネットでは、あえて突っ込みを入れるという行動パターンをとる人が多い可能性もあるのだが、伊藤自身も「美しさは相対的な価値観であって、市民共通の理解はなかなか得られない」と認めている★五。しかし、続けてこう言うのだ。「それに対して街の汚さとは、毎日毎日の生活で皆が確認している事実」である、と。ゆえに、醜いものは誰もが同じ価値観を共有するから、それを除去していけば、自動的に美しい景観になるというのだろう。やはり、美しさと醜く汚いものを二項対立のようにとらえているが、それでは論理的に矛盾している。醜さも相対的な価値であり、美しさと重なるような事例も少なくないだろう。だが、「美しい景観を創る会」のホームページは、こうした反省的な考察がなく、自信に満ちあふれている。

新しいものと古いもの

昨年、筆者はある大学の建築学科の一年生に対して、美しいと思う建築と醜いと思う建築を探して、写真で撮影するレポート課題を出した。ただし、そのときは「美しい」と「醜い」という言葉だけを提示し、筆者がどのような考えをもっているかなどは一切説明しなかった。キーワードから各自がそれぞれ連想してもらうことが重要だからである。伊藤滋が早稲田大学の大学院生に醜い景観を集めさせたときは、学生が先生の喜ぶような場所を探しており、選定を誘導していたと思われる。それを避けるために、あえて言葉の定義を説明をしなかった。ちなみに、採点は何を選んだかではなく、それを選んだ理由をどれだけ文章できちんと説明しているかによってつけることは、あらかじめ伝えた。この場合、筆者の美的センスに合う合わないかではなく、言葉による説明を評価しようと考えたからである。もちろん、建築学科とはいえ、一年生の最初の学期だから、先まわりのきく大学院生とは違い、ほとんど素人の感覚に近いと考えてよいだろう。レポートの結果は、予想をうわまわるほど興味深いものだった。ある意味では、筆者にとって衝撃でもあった。
筆者にとって、到底美しいとは思えない建築が美しいものとして数多く挙げられていただけではなく、醜い建築として挙げられたものの方が美しいと思える事例も少なくなかったのだ。例えば、美しいとされたのは、よくあるミニ開発や建売り住宅。また郊外の結婚式教会や、過剰にデザインされ、かえってキッチュになっているオブジェなどである。これらは決して少数派ではない。一年生なので、まだ知識もなく、評価の高い有名な建築がどこにあるかもわからず、まわりの風景からお手軽に探したと想像されるのだが、醜いとされた物件とは明らかに違う選び方をしており、本音だろう。そもそもいわゆる建築家の作品を美しいと思っていない可能性も高い。醜いものとして挙げられた事例も幾つかあったからだ。しかし、こうした感覚は、おそらく一般的に共有されているのだろう。実際、安くはない商品住宅が売れているのだから。醜いと思ったら、購入しないはずだ。
では、醜いものとされたのは何か。工場や古びれた倉庫。あるいは年季の入った看板建築や、つたのからまるモダニズム風の校舎である。だが、写真を見る限り、デザインそのものは決して悪くない。レポートを眺めながら気づいたのだが、学生にとって、美しい/醜いという評価軸は、おおむね新しい/古いという評価軸に変換されているのだ。そう考えると、選び方が納得できる。これは新しいもの好きで、清潔好きな日本人の感性なのかもしれない。電化製品の更新頻度やスクラップ・アンド・ビルドにも通じる。ヨーロッパ旅行から戻ると、日本の公共空間はデザインはいまいちでも、キレイ好きでは格段上だと感じることがある。実際、ミニ開発は新しいからキレイだし、倉庫はボロいから汚いという風にコメントされていた。確かに建築を専門に学んでいると、いつしか新しい/古いという要素は大きな判断材料ではなくなる。その代わりに、空間のプロポーションやヴォリュームを観察するだろう。機能的な工場や倉庫が美しいと思える感性も、モダニズム以降に育まれたものだ。
ならば、建築を学ぶとは、こうした価値観を身につけることであり、一種の洗脳と言えるかもしれない。いや、プロフェッショナルになるということは、一般人とは異なる認識を獲得するプロセスなのだ。ともあれ、レポートを通じて、完全に筆者もそれに毒されていることを改めて認識した。したがって、世間的にはマジョリティではないかもしれない。美を問うときは、ひとつの価値観をむやみに相手に押しつけ、同意させる前に、まず自分が深く考えるべきではないか。「美しい景観を創る会」は勇ましく景観狩りを推進しているが、美しい/醜いをめぐる判断は簡単に割り切れるものではない。美を自明のものとせず、それぞれがどのような価値観をもっているかを再認識するという自己批判が必要となるだろう。
なお、ホームページで「悪い景観」に選ばれた物件には、以下のような説明が記されていた。自販機の乱立について、「夜の道を照らす照明の役割ではあるまいし、夜中に買い求める客は少ないはずだ」。新宿南口のサラ金看板について、「下品な会社ほど赤色を使う」。マツモトキヨシは、「世界の銀座にふさわしい風格が見られない」。あるいは、「コンクリートの護岸堤や消波ブロックで覆われた砂浜には、かつての自然らしさが感じられない」。それぞれのコメントはこれだけである。ほとんど説明になっていない。筆者が前述のレポートの採点基準で言えば、せいぜい可のレヴェルである。しかし、個人ブログではなく、専門家集団による選定リストなのだから、せめて四〇〇字以上の論理的な説明文は必要ではないか。そうしないと、景観について考える場ではなく、感覚的な好き嫌いをもとにした、ただの言いがかりだと思われても仕方ない。なぜこれが醜いのか、なぜ美しいと判断するのかについて、「美しい景観を創る会」は説明義務があるはずだ。今や数千億円以上の税金を動かす団体なのだから。


★一──拙稿「景観を笑う」(『新建築』二〇〇四年一二月号)
★二──伊藤滋「『醜い日本の景観』リスト初公開」(『文藝春秋』二〇〇五年八月号)
★三──「景観と歴史の間」(『読売新聞』二〇〇五年一二月二日)。
★四──URL=http://www.utsukushii-keikan.net/
★五──伊藤滋「摘発せよ、市民!  美しい街づくりは、極彩色看板の撤去から」(『日本の論点二〇〇六』文藝春秋、二〇〇五)。

*この原稿は加筆訂正を施し、『美しい都市・醜い都市──現代景観論』として単行本化されています。

>五十嵐太郎(イガラシ・タロウ)

1967年生
東北大学大学院工学研究科教授。建築史。

>『10+1』 No.42

特集=グラウンディング──地図を描く身体