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犬の街──境界の都市人類学のために | 田中純
Dog Town: For an Anthropology on the Border of the City | Tanaka Jun
掲載『10+1』 No.42 (グラウンディング──地図を描く身体) pp.2-12

1 都市の通過儀礼──パサージュから無用門へ

境界は異人たちの棲み処だった。橋や坂には遊女や乞食、呪術遣い、卜占師、芸能者といった異類の人々が群れ棲んでいた。橋は「端」、坂は「境」を含意する。そこはひだる神や産女うぶめといった神霊や妖怪が出現する他界との接点であり、この場を守護するために、坂神や橋姫といった神々がその一端に祀られた。「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」──盲目の琵琶法師蝉丸もまた坂の住人であり、謡曲『蝉丸』に登場するその姉「逆髪さかがみの宮」は文字通り「坂神」にほかならない。この蝉丸伝説は境界を棲まいとした異形の芸能者たちの存在を背景としている。そして、彼ら盲僧ないし僧形の芸能者たちは本来、境を守って悪霊の侵入を防ぎ、土地を鎮める司祭者であったという★一。
ここで言う境界とはただの線ではない。異なる領域が接し合う界面だけが問題ではないのだ。そこは画定された複数の領域のいずれでもあっていずれでもない、両義的で曖昧な場所である。共同体への現実的な帰属関係や所有関係、あるいは、コスモロジカルな秩序という意味を担うことこそが、場所が「場所」であるための条件であるとすれば、境界はそんな場所ならざる「いかがわしさ」を漂わせている。
聖と俗、死と生を分かつ境界線であれば、そこを横断して移行することだけが問題であればよい。しかし、境界自体が拡がりをもった空間であるがゆえに、人はこのいかがわしい場所の呪縛に囚われ、あるいはそこに強制的に追いやられて棲み処ともする。異人の存在によって境界が妖しい場になるというのではない。境界の妖しさが人を異人に変える。異なる領域への「通過」それ自体が延々と引き延ばされたこの空間に棲まう者は、聖俗、生死のいずれにも完全に属すことがない。
それはちょうど、ヴァン・ジェネップ(ファン・ヘネップ)が「通過儀礼」を細分化して取り出した「移行(過渡)儀礼(Rites de marge)」の性格である。これは、通過儀礼一般を「分離儀礼(Rite de séparation)」、「Rites de marge」、「合体儀礼(Rite d’agrégation)」に分けてとらえた、その中間段階に相当する。margeに本来「移行」や「過渡」の意味はない。margeが指すのは、「余白」や「余裕」といった、ある一定の空間的ないし時間的拡がりである★二。この点に関連してジェネップは、キリスト教の普及した土地がヨーロッパの一部でしかなかった時代において、それらの土地を取り囲んでいた「中立地帯」に言及している。同様の地帯は、古代ギリシャにおいてもまた、市場を開く場所や戦場として使われるという重要な役割をもっていた。こうした中立地帯は概して、砂漠や湿地帯、処女林などに置かれた。
「聖なるものの概念の反転現象によって、中立地帯にいる人にとっては、両側の占有された土地が神聖とされ、またそれらの地域の住人にとってはその中立地帯が神聖なものとされる。一方から他方に移る人は誰でも、しばらくの間は具体的にも、呪術─宗教的にも、特殊な状態におかれる。すなわち彼は二つの世界の間をゆらゆらと揺れているのである。この状態こそ私が移行(marge)と呼ぶものであり、本書の一つの目的は、この理念的かつ具体的な移行が、ある社会的または呪術─宗教的な状態から他への通過に伴うすべての儀式に、多かれ少なかれ明確な形態のもとに見いだされるということの証明にある」★三。
margeとは理念的であると同時に具体的な状態である。ジェネップによれば、通過儀礼において、各種の社会的状況間の「通過」と空間的移動という「具体的通過」とはしばしば同一視される。margeは、かつての中立地帯に始まり、それが縮減された果ての境界石や建物の梁、あるいは敷居にいたる、身体で具体的に通過される空間としての「余白」であり、Rites de margeとはそうした余白において、「二つの世界の間をゆらゆらと揺れ」る境界経験の儀礼にほかならない。
『パサージュ論』が一九世紀のパリにそんな境界としての敷居の数々を見出そうとする試みであったことをはじめとして、ベンヤミンは敷居のイメージに憑かれ、その著作はひとつの「敷居学」を形成している★四。『パサージュ論』は、その名からしても、通過儀礼(Rites de passage)と無縁ではない。それは、「通過」の場を対象として、それ自体が夥しい引用からなるパサージュとなり、集団的な夢から目覚めへと向けた移行を導こうとする試みだった。ベンヤミン自身、通過儀礼に直接言及している。

通過パサージユ儀礼──死や、誕生や、結婚や成人などに結びついた儀式を民俗学ではこう呼ぶ。近代の生活ではこうした節目は次第に目立たなくなり、体験できないものになってしまった。われわれは、別の世界への敷居を超える経験にきわめて乏しくなってしまっている。おそらく眠りにつくことが、われわれに残された唯一のそうした経験だろう(したがって目覚めも同様である)。(…中略…)──敷居(Schwelle)というものは、境界線(Grenze)とはっきり区別されねばならない。敷居は一種の領域である。変化や、移行や、満潮などの意味合いが、「溢れる」(schwellen)という言葉には含まれている。語源研究はこれらの意味合いを見逃すべきではない。しかしその一方で、この言葉がそうした意味合いを持つようになった直接の構造的、儀式的な連関を確定することが必要である★五。


「敷居(Schwelle)」が「溢れる(schwellen)」と語源学的に関連があるかどうかは実は怪しい。しかし、ベンヤミンは敷居が儀礼的な構造的連関を背景とするひとつの領域であることを正確に見抜いている。『パサージュ論』のなかでは、『ヴァールブルク文庫紀要』に掲載されたフェルディナント・ノアクによる古代ローマの凱旋行進と凱旋門の研究が引用されている。ノアクはそこで、ジェネップなどに拠りながら、凱旋門を通過する行進が通過儀礼に類することを指摘していた。凱旋門を潜る行進によって、軍司令官は市外での戦争行為に対してのみ有効だった戦争指揮権を失う一方、軍隊からは殺戮戦における卑劣な行為や犯罪といった汚辱が拭い去られ、それらは聖なる門の向こう側に置き棄てられる。軍隊はこれによって、彼らの後を追って迫ってくる、戦場で惨殺された敵たちの亡霊から逃れ去ろうとするのである★六。
しかし、このように敵意に満ちた領域から逃れ、穢れから身を洗い清め、病気や死者の亡霊と一線を劃すためには、大地に差し込まれた二本の棒や木の股を裂いた狭間といった、何となく通路らしく見えるものを通過するだけで十分である。亡霊たちは狭い通路を通り抜けて追ってくることができないからだ★七。フレイザーやジェネップに拠るこうした民族学的知識に基づいてノアクは、凱旋門がはじめは勝利を賞賛して記念する建造物などではなく、あくまで通過儀礼のためのものであり、もともとは水平の梁を渡した二つの支柱が築かれたに過ぎないだろうと言う★八。
「狭い隙間を通り抜ける」という行為によって、凱旋行進は再生を演じる。これに対してベンヤミンは、「パサージュに足を踏み入れるものは、門=道を逆の意味で進んで行く」と言う。それは「子宮内の世界へ入り込んで行く」ことにほかならない★九。すなわち、生まれる以前の、生死のあいだをゆらゆら揺れているような、遠く消え去った時間へと。それは、遊歩者にとって都市の街路がすべて、彼を下へ下と導き、「母たちのところというわけではなくとも、ある過去」へと、「彼自身の個人的なそれでないだけにいっそう魅惑的な」過去へと連れてゆく、「急な下り坂」★一〇であることに照応している。
パサージュや街路は群衆にとっての室内である。そこを独特なリズムでぶらつく遊歩者とは、境界に棲まう異人たちである。「遊歩者はなお大都市の境界シユヴーレ(敷居 Schwelle)、市民階級の境界の上に立っている」★一一。ベンヤミンは遊歩者を襲う陶酔感について繰り返し語った。それは「追憶アナムネーシス」としての陶酔であり★一二、時間的に空間的にも遠くのものが、今現在の風景と瞬間に侵入し類似して重なり合う、ハシッシュによる幻覚にも似た経験である★一三。それはほとんどシャーマニズムのような、呪術的幻視を連想させる。
ベンヤミンは陶酔する遊歩者たちの末裔をシュルレアリスムのなかに見た(あるいは、シュルレアリスムにおける「世俗的啓示」の原型を遊歩者の経験に見ようとした)。彼はブルトンの『ナジャ』に挿入された写真についてこう書いている。

これらの写真は、都市の街路や門や広場を通俗小説の挿絵のようなものにし、こうした数百年の歴史をもつ建築物から、その月並みな自明さをしぼりとってしまう。それはこれらの建築物が、もっとも根源的な迫力をもったかたちで、記述される出来事に配されるようにするためである。昔の女中が読んだ小説本とまったく同様、図版の下には本文からの文字通りの引用があってページ数がついており、本文における記述を指示している。そしてここに登場するパリのさまざまな場所ではどこでも、この人間たちのあいだにあるなにかが、回転ドアのように廻っている★一四。


こうした写真は、一九世紀中葉のパリにおける「遊歩者の基礎的な経験」であるとベンヤミンが言う、「空間が行商本コルポルタージユの挿絵めいたものになる現象」★一五を、眼に見えるかたちで定着している(それはハシッシュを吸引して見た幻覚にも通じている)。写真のなかで現実のパリのそこここが、「回転ドア」という敷居に変容するのである。
いままで見てきたように、「パサージュ神話」を対象としたベンヤミンの都市論には、民族学ないし人類学的な空間経験の分析と通じ合うものがあった。その視点から見れば、二〇世紀都市のあらたな神話を紡ぐように見えるシュルレアリスムも、大都市に「啓示」の場としての境界を発見しようとする、陶酔をともなった参与的観察だったと言えるかもしれない。こうした都市論、都市小説には、独特な都市人類学の先触れがあったのではないだろうか。少なくとも、レヴィ=ストロースが言う「冷たい社会」に応じた調査法を主体としてきた人類学が、巨大な流動性を特徴とする都市空間という「熱い社会」の参与的観察に向かおうとするとき、そこであらたに採るべき方法論は、こうした具体的都市経験に根ざさずにはおかないはずである。
文化人類学者である関根康正は「人類学は自らの身体をともなったきめ細かい対象への参与の過程(違和との遭遇と違和の克服との動態的過程)を不可欠にする点で、自己と対象とが相互浸透的に意味を紡ぎ出すことを特徴とする」★一六と定義づけ、東京のような大都市を「人類学する」ことの困難のひとつは、参与するフィールドが見えにくいことにある、と指摘している。それゆえ、「異なるもの」と交わるという人類学の参与性を生かすために関根は、「人、言葉、モノのネットワークが織りなす都市空間に見いだされる〈境界的な場の発見と凝視〉」を調査法として選ぶ★一七。そこで発見される境界は、都市に参与する主体に応じてさまざまなものでありうる(関根は世代の違いに基づく差異をことさらに強調している)。
大都市では密度の高い悉皆調査を中心とする従来型のフィールドワークはうまく機能しない。そこで関根は、川喜田二郎の言う「仮説発想」のための社会調査と「仮説検証」のための社会調査との区別に基づき、「仮説発想のためのフィールドワーク」の方法を探ろうとする。

得体の知れない現代都市の疾走風景はすぐに仮説検証型調査に向かえる(簡単に仮説が思いつく)ような既知の事象ではない。一番大事なところは、目下進行中のその現象の「分からなさ」をまずは描くことである。未知なものと思われるものを対象にすればするほど、適切な仮説発想を導くための着実で柔軟な構えのフィールドワークが不可欠となる。現代の巨大都市の状況を計り出すのに何が重要で適切な物差し(問題対象に即した適切な仮説)であるかは誰にも明確には分からない。それをまず探さなければならない★一八。


そのために関根は学生に対して、現場となる都市を歩き回り、心動かされるもの、力を感じるもの、「わからなさ」を訴えてくるものを写真に撮らせた。この方法が参考としているのは、社会学者後藤範章の提唱する「集合的写真観察法」である。それは参加者が例えば「東京」や「東京人」の有り様を先鋭的・象徴的に表象すると感じた場面を写真に記録し、そのイメージ・データを用いて集団で(集合的に)社会事象を観察することにより、社会の解読を試みようとするものである。個人の記録した都市写真は、観察者たちの集団内における議論の相互作用によって、集合的な解釈枠組みのなかへ置き直されてゆく。こうした共同主観性の形成やさまざまな実証データの収集・分析を通じた「集合性」により、データの均質化や一般化された解釈の妥当性が高められる、と後藤は言う★一九。実際にこの方法によって作成された、タイトル・東京の写真・解説文の三つの要素からなる作品群は、寓意画集を連想させるとともに、東京という都市から抽出された社会学的な「パタン・ランゲージ」であると言ってよいかもしれない★二〇。
社会学的分析のための実証的観察法が集合性の獲得を心がける意味は理解できる。均質化や一般化の可能性を追求することもやむをえないだろう。しかし、作品を眼にした印象によれば、社会学的な視点から「東京」や「東京人」の現状をもっとも象徴的に表象する場面を記録しようとする観察者の意識こそが、そもそもの初めから結果を均質化する枠組みとして働いてしまっているように思われる★二一。この手法が不可視的な社会変容を可視化し、社会的なリアリティを実証プロセスのなかへ組み込む可能性を秘めていることは十分認めながらも、そこにあらかじめ定められた限界の存在を覚える(共同主観性を求める以上、それは避けがたいことであるにしても)。
その点、仮説発想に徹底した関根の方法はより柔軟である。「わからなさ」の発見を呼びかけるその手法は、後藤のそれに似た、しかしはるかに遊戯的な「集合的写真観察法」が、すでに二〇年以上前に東京を主たる舞台として実践されていたことを思い起こさせる。赤瀬川原平たちによる「トマソン」である★二二。それは都市に「無用物件」を発見して写真で記録し、雑誌という媒体を通じて集団でそのイメージ・データを共有して、それぞれの物件が「超芸術」であるかないかを判定し、さらに、その物件に「無用門」などという名を与えるに至る、徹底して即物的なデータの「均質化」と解釈の「一般化」を組み込んだ知的ゲームだった。
赤瀬川たちは発見された物件に共通する無用性はことさら強調しても、超芸術的物件に通底する構造を語ることはしなかった。そうした「物件」なるものが、「空間」と呼ばれる都市構造を逸脱した細部と見なされ、まさにその点でこそ評価されていたからには、それもまた当然だった★二三。
しかし、無用物件の選択には一定の共通する傾向が認められる。最初に超芸術の意識化をもたらした三つのトマソン物件とは、「四谷の純粋階段」、「江古田の無用窓口」、「御茶ノ水の無用門」である。このいずれもが封鎖されて通過が不可能になった開口部に関係している。つまり、それらはみな、通過しえなくなった敷居か、その敷居へのアプローチなのだ。トマソン物件には、隣家の輪郭が壁に残された「原爆」のようにこうした性格が稀薄なタイプもあるが、「無用庇」や「高所ドア」あるいは「純粋トンネル」など、通過不能の敷居や本来の用途から逸脱したり畸形化した通過のための建造物の例がきわめて多い。それらは正常な通過を許す敷居がその機能を喪失して、「もはや自分は境界ではない」と語るためにのみ残されたかのような痕跡なのだ。赤瀬川たちは、いわば敷居たちの屍体を都市の路上で蒐集していたのである。熱に浮かされたような面白がりかたにもかかわらず、それは本質的にメランコリックな喪の営みであった。
しかし、敷居の屍体は少なくともそこにかつて境界があったことを語っている。赤瀬川たちは現実には喪われてしまった境界の屍体を記録・公開することにより、反語的な身ぶりで、ありえない境界通過を人々に想像的に経験させている。完全に封鎖された門は、それがまさに閉ざされているからこそ、異界への入り口にもなる。
パサージュのように特権的な都市の余白は一九七〇─八〇年代の東京にはすでにない。都市内部の「中立地帯」は消滅し、身体による具体的な通過儀礼はもはや起こりえないように見える。けれど、現実にはありふれた民家の門でしかない敷居が、門としての姿をとどめながら封鎖されているという事態の発見を通じて、想像的にのみ可能な通過儀礼の舞台となったのである。それを発見し記録した人々は、だから、結果的にはやはり、都市に眠っていた敷居を発掘していたのだ。その発掘行為そのものがひとつの通過儀礼であった。そのとき、門や扉といった敷居は、無用なものと化した姿によってこそ、境界の守護神たりえていたのである。
これはトマソンや路上観察学が残したイメージ群を読み替えるひとつの可能性である。写真を都市分析のイメージ・データとして用いようとするならば、彼らのように集団的なフィールドワークの実践にはとどまらず、個々の写真家たちによって記録されてきた膨大な都市イメージもまた、そのためのアーカイヴになりうるはずだ。後藤が要求するような集団性や共同主観性は確かにそこには求めがたいだろう。しかし一方で、境界的な場の発見が参与する主体のあり方と密接に関わっている以上、フィールドワークを行なう身体の感度を問題にしないわけにはゆくまい。参与的観察にあたって決定的な違いを生むのは、関根が強調するような世代の差異ばかりではない。その点で注目すべきは、撮影という行為を通して、都市空間に深く参与してきた写真家の身体である。

1──アウグストゥスの凱旋門、リミニ、紀元前27年 引用出典=Fritz Saxl (Hg.):  Vorträge der Bibliothek Warburg. V. Vorträge 1925-1926. Leipzig: Teubner, 1928.

1──アウグストゥスの凱旋門、リミニ、紀元前27年
引用出典=Fritz Saxl (Hg.):
Vorträge der Bibliothek Warburg. V. Vorträge 1925-1926. Leipzig: Teubner, 1928.

2──「もちろんそれは、あの実に美しくかつ役立たずのサン・ドニ門でもない」(アンドレ・ブルトン『ナジャ』より) 引用出典=ブルトン『ナジャ』(現代思潮社、1976)

2──「もちろんそれは、あの実に美しくかつ役立たずのサン・ドニ門でもない」(アンドレ・ブルトン『ナジャ』より)
引用出典=ブルトン『ナジャ』(現代思潮社、1976)

3──トマソン第3号。お茶の水三楽病院、無用門(撮影=飯村昭彦) 引用出典=赤瀬川原平『超芸術トマソン』(ちくま文庫、1987)

3──トマソン第3号。お茶の水三楽病院、無用門(撮影=飯村昭彦)
引用出典=赤瀬川原平『超芸術トマソン』(ちくま文庫、1987)

2 犬としての写真家──森山大道の新宿

森山大道は写真集『遠野』をめぐり、写真と民俗学に共通する叙事性について、こう述べている。

写真っていうのは当然のことながら目に見えるものしか写らないですね。僕が写真を好きな理由のひとつには、その見えるものしか写らないってところがいいわけです。だから僕がどんなに心情をひきずってみたところで、写真はそんなものをいとも簡単に断ち切ってしまうんですね。そういうことで言えば、写真とはもともと民俗そのものだって感じがするわけです。だから、民俗学が抒情ではなく叙事であるように、写真もやはり叙事そのもののことだろうと思うんです。僕のなかの、ふるさとへという一種の叙情性も、ただいまの叙事そのものとしての遠野にカメラを持ち込むかぎり、心情と現場との拮抗とギャップを、どうしようもなく強いられることになるわけです★二四。


『遠野物語』の世界をノスタルジックに再現するのではなく、遠野のアクチュアルな生活を写し撮ることこそが、民俗学の叙事性に通じる。なぜなら、『遠野物語』の世界は、「昔のいま」★二五にほかならなかったからだ、と森山は言う。では、そうした写真は純粋に客観的な記録であろうとするのか。そうではない。重要なのはむしろ、心情と現場、叙情と叙事との拮抗であり、ギャップである。

たとえば、柳田国男の『遠野物語』が、ただ民俗学上のみで評価されているわけではなくって、あまねく名作とされているというのは、たんに伝説の記録というのじゃなくて、やはり記憶と原景とにふれてくるからなのだと思うんです。それは、日本人のと言いきってしまう以前に、もっと柳田国男個人に根ざした記憶と原景の問題だったんじゃないかって僕は思うんですね。よく僕が、写真は記録というよりもむしろ記憶や記念だ、と言う意味はこのあたりのことなんです。つまり写真は、カメラという複写機の存在がある以上、機能としての記録性は言うまでもない原則・前提であって、撮られたものはすべて記録なんです。そういう意味でカメラはハードウエアなんであって、それに記憶という相対的な現実をプログラミングして撮る側がソフトウエア、つまり個人カメラマンだってことですね。そして、そういう抜きさしならない個人が抜きさしならず立っているところが、ほかならぬ写真であり現場であると僕は思っているのです★二六。


記憶の底に沈んだ原景と実景とはけっして完全には重ならない。叙情はカメラの記録する現実に裏切られる。写真に通じる民俗学の叙事性とは、個人の叙情をいったん断ち切る記録性にある。しかし、一方で写真という記録には撮影者の記憶が否応なく入り込む。記録された実景は単に客観的なのではない。そこには原景が秘かに浸透している。
森山は自分と写真との関係をジグソーパズルに譬えている。彼にとっては、「ふるさと」のような原景自体が遠い記憶の断片をつなぎ合わせたジグソーパズルであるから、そうした原景が現実の特定の場所と過不足なく一致することはありえない。写真による記録とは、実景の断片をパズルのピースのように拾い集めて、原景という記憶のかたちを組み立てようとする営みなのである★二七。
犬の記憶」と題された文章のなかで森山は、実景に記憶が重なって見えてくるという、遊歩者の陶酔を思わせる経験について繰り返し語っている。それは例えば、生地である大阪の池田を訪れた際の、「目のまえの実際の風景が、次第にイメージの風景と重なり合いはじめ、もう何所を見ても、此処が生れた場所ではなかったかという奇妙な錯覚に捉われてしまう」経験である★二八。あるいはまた、車窓を流れ去る風景の残したとらえどころのないイメージの破片が、幾層もの残像の層をなして心のなかに沈み込み、そうやって逃げ去った風景のかずかずがやがて、東京の街角や深夜の酒場の壁、赤い暗室の現像液のなかといった、時空を越えた場と意識のなかに「もうひとつの風景」となって突然出現するといった出来事である★二九。十数年前に撮影した場所を再訪すると、寸分違わぬフレーミングで過去と現在の二枚の像がぴたりと合致し、遠い日付といまとが、一瞬であれ同時的に知覚される★三〇。過ぎた時間は決して死滅しているのではなく、覚醒を待って準備されており、経験の底に沈み込んだ記憶の断片は、新しい記憶を呼び覚まそうとする。「痕跡のない風景をカメラで写し撮ることはできないが、痕跡のない風景のまえに再び立ち会うことで新たなる痕跡が呼び込めるのではないか」と森山は言う。それゆえ、「過去とはつねに現在いまの比喩」なのである★三一。

つまり、僕が、写真家が「いまだ」と思って撮っている現実らしきものが、じつは彼方に溶け込んでしまっているきりのない世界の過去と、遠くからある予兆と懐かしさをともなって歩いてくる、未来との交差点なのではないだろうか。いいかえれば、記憶とは過去をくりかえし再生するだけのものではなく、かぎりなく打ちつづく「現在いま」という分水嶺を境界として記憶が過去を想像し、さまざまな媒体を通過することで再構築され、さらにそれが来るべき未来のうえにも投影されていくという永遠のサイクルのことではないだろうかと、僕は自分自身の記憶を通してシャッターを押している現在そう思っているのだ。写真の記録性とは、たんに出来事の時間を止めるだけではなく、えんえんと前後につらなっていく時間の全体に絶えずかかわっていく性質を持っているように思える。たった一枚の写真を、多くの人々が個々に共有することが出来るということは、その解読に各個の記憶がかかわっているからだと思う★三二。


だからこそ、「過去はいつも新しく、未来はつねに懐かしい」。森山の写真には時間が稀薄だとされるのも、ここで述べられているような「記憶」の時間性によるものだろう。「僕がいま、カメラを手に実際の街なかを歩くことは、かつて在った街が語りかけてくる夢の記憶に耳をかたむけつつ、来たるべき街の夢に向けて、あるささやかな実証をもくろんでいることに他ならない」と森山は書いている★三三。そして、そのとき識閾下にあるのは「まだ見ぬ戦後の風景」だと彼は言う★三四。写真を撮る一瞬にその戦後風景が生起する。古い映画を思わせるような、そんな時空の暗がりとしての戦後のイメージとは、「零年」の風景と呼ぶことができるかもしれない。それは、ロッセリーニの「ドイツ零年」あるいはゴダールの「新ドイツ零年」に記録された「戦後」であり、クロノロジカルな時間の「余白」、つまり、時の「敷居」である。零年とは、過去と未来のいずれでもあっていずれでもない、二つのあいだを揺れ動く時間のパサージュにほかならない★三五。
街を歩くときに森山は、対象を凝視するのではなく、一瞥するだけで、むしろ目を逸らしているという★三六。「均等に漂う注意」(フロイト)、あるいは、「散漫な受容」(ベンヤミン)である。そうやって写真家は、今いるこの場よりも、角を曲がった先の風景をつねに幻視し、焦燥感に追い立てられ、官能に引っぱられるようにしながら、一種のトランス状態に入ってゆく。写真家の身体はそのとき、鋭敏なセンサーとなって、凄まじいスピードで都市を知覚し直感している。「すべてを目にしなければ」と先を急ぐ意識と、「すべてはすでに目にして撮影してしまった」という感覚との奇妙な同時共存が、このトランス状態の特徴である★三七。
後者の感覚は、森山の語っている「撮る前から写真は写っている」、「世界はすでに写真である」という印象に通じている。街を歩くことがそこでは直ちに、「写真の森」のなかに分け入ることにほかならないのである★三八。実景と記憶との葛藤やギャップに呪縛されてトランス状態になっている写真家の身体はそのとき、立体的な世界と平面的な写真とのあいだでも引き裂かれている。「ある種、自分がトリップ状態にハマってしまったときは限りなく街の表面だけをペラペラに撮りたい、タタミイワシのように撮りたい」と森山は言う。「ビンが凹凸道で光ってころがっていてもペッタンコにしたい」くらい、「ざわざわざわざわ限りなく平面性に向かって」細胞がざわめくのだ★三九。
ポスターのような印刷物を被写体とすることに対する森山の強い執着はよく知られている★四〇。それは「写真における記憶」が「写真の記憶」をも含まざるをえないことに関わっていよう。三次元的な外界が混沌とした状態におけるデザインとしてフラットに視界に映って見えること、現実の世界がポスターやイラスト、あるいは劇画のように、ペラペラの人工的なものとして迫って感応されてくることへの興味をこの写真家は語る★四一。森山の写真集で顕著なのは確かに、白黒のコントラストを強められた写真が、劇画やイラストのように実景をパターン化ないしデザイン化している点である。
しかし、この平面化への志向は同時に、被写体とした平面である壁のポスターが逆に立体として映らなければならないといった逆説的な振幅を孕んでいる★四二。森山が建物の壁面やポスターといった平面的な素材を被写体として撮影するときにも、風化して剥がれかけたり波打っていたりするそのテクスチュアを際立たせている点に、そうした振幅への配慮がうかがえる。写真においてすべては否応なく平面化され、森山はその平面性を強調するのだが、しかし、その一方で、被写体としての平面はあくまで「平面的な立体」に見えなければならない。「写真の記憶」を「映像環境」などと呼ぶことはたやすいが、その環境それ自体を被写体にしようとする写真家にとっては、二次元映像の基底材である物質の有り様やテクスチュアこそが問題なのである。森山の写真が追求する平面性とは、このように錯綜した振幅の幅を残したまま、それを極限まで薄くしてゆくところに生まれるべき何かにほかならない。その写真は三次元のイリュージョンによってまなざしを欺くのではなく、二次元と三次元の狭間の極薄の厚みという中間地帯に見る者を捕らえるのである。
このような森山の写真にとって決定的に重要な都市空間が新宿である。彼は新宿を「巨大な書き割り」、「拡大された劇画」、「永遠のバラック都市」★四三と呼ぶ。それは新宿がすでに写真であるということにほかならない。そこには「時間が見つからない」。

新宿という名のモンスターは、定点もなく時間も不分明。ただひたすら表皮の蠕動と脱皮ばかりくりかえす不気味な生き物となってあらゆるものを併呑するのだが、なぜか時間を捕食しない。ただ一度、新宿がめくるめく政治的ラデイカルであったあの六〇年代の末期、「10・21」という日付けのみが銘記される唯一の例外として、それ以前にもそれ以降にも、新宿から一切の時間が消滅してしまっているのだ。


「10・21」とは、一九六八年一〇月二一日、国際反戦デーで学生や市民のデモが激化し、国鉄新宿駅が占拠され、機動隊と衝突、騒乱罪が適用されて多数の逮捕者を出した、いわゆる「新宿騒乱」の日付である。森山はその現場に遭遇し、写真を撮った。この日付を例外として新宿から時間が消えているという、先に引用した言葉とは矛盾するようだが、彼はまた、東京を構成するほかの街が戦後五〇年以上に及ぶ時間のグラデーションをすっとばして、「白く衛生無害サニタリーな風景となり果てている」のに対し、「新宿はいまだに原色の、さまざまな時間の痕跡を内包している」とも書く。
しかし、これは同じ事態の表と裏である。唐十郎の「新宿見たけりゃ今見ておきゃれ、いまに新宿焼け野原」、寺山修司の「あゝ荒野」といった演劇的、文学的マニフェストとは、「見てくれの繁栄や歓楽が拠って立つ地表をたった一枚めくってみれば、そこは一面ペンペン草が生えて冷たい風が吹く荒野なのだ」という、新宿に対する苛立ちと予兆の表現だったのだ、と森山は言う。新宿とは森山にとって「戦後」の風景であり、その時間性とは零年のそれなのである。「10・21」とは、この零年の時間がクロノロジカルな歴史の流れを突き破って噴出した、例外的な日付である。そこはつねに零年の戦後であるからこそ、時の進行とともに衛生無害な風景に変わってゆくほかの街とは異なり、過去と未来の時間の断片的な痕跡を混在させつづけている。「カメラマンであれば、やはり新宿を撮るほかない」──なぜなら、この「大いなる場末」こそがすでに鬱蒼とした、そんな「写真の森」だからである。
その森に踏み込むことは脅威と危険に満ちた狩りに似ている。「夜、カメラを手に、歌舞伎町から区役所通りへ、そして大久保通りを新大久保駅へと歩いていくとき、ぼくはときおり背すじがスッと寒くなる思いがする」と森山は言う。何ということもないのに、どこかでひるむ自分を感じる。暗がりのなかで蠢く人々の「昆虫のように敏感な反応」が、手にするカメラに電流となって伝わってくる。その緊張感が身体の細胞をざわつかせ、あたりの空気がザラリとひと荒れして知覚される──その「そこはかとなく暴力的なアトモスフィア」。得体の知れない、鵺のような、「心の遠近法パース」を混乱させる迷路のような街、新宿。
森山の写真集『新宿』には、すでにして膨大な写真の集積である新宿という「森」のあらゆる表情を、「タタミイワシのように」平面化して複写しようとする、写真家の陶酔感が横溢している。それがこの写真集を見る者にも伝染する。分析的なまなざしをそこに凝らせば、類似したパターンやアングルの反復とそれが創り出すリズムが容易に見つけ出せるだろう。しかし、むしろそんな凝視によっては失われてしまう速度、写真家のそれと同じく、横目でちらっと一瞥するだけで移動してゆく速度を、この写真集は要求しているのではないか。前後にページをせわしなくめくりながら、読者はそうやって森山の新宿を通過してゆく。彼はこの街についてこう書いていた。「妖しさに惹かれ、いかがわしさに酔い、ヤバさをさかなにしながらも多くの人々は決してここに棲みつくわけではなく、いつもいつも圧倒的に通過するばかりだ」──すなわち、この「大いなる場末」、「したたかな悪所」は、その本性からして「通過」の空間なのであり、領域的な拡がりをもった敷居としてのパサージュ、異人たちや神霊、妖怪が横行する境界なのである。
それゆえ、その複写にほかならない森山の写真集のページをめくる経験もまた、文字通り、ひとつの通過儀礼となる。それはあの極薄の厚みに囚われることによって、パリのパサージュに足を踏み入れた者がそうであったように、遠い過去と未来、未生と死後が揺れるように浸透し合う時間へと入り込んでゆくことにほかならない。
ベンヤミンはそれを「子宮内の世界へ入り込んで行く」と表現した。森山の写真家としての出発点である作品「PANTOMIME」とは、フォルマリン液に漬けられた胎児たちを撮影した連作写真である。森山はこの「青春の写真」が「以降の僕の全ての作品に係わっていく一種デッサン的役割をも持っている気がする」★四四と言う。それは、黙劇を演じたこの胎児たちが体現している時間、つまり、未生であるとともに死後の時間が、森山のその後の作品群すべてに影を落としている、ということかもしれない。この写真家自身がそんな時間に魅せられつづけ、新宿のような境界を撮影上の棲み処にした、異類の人にも見える。
そしてもしそうだとすれば、基地の町三沢で撮られた一匹の犬の写真が、森山の一種の自画像にも似たものと見なされていること、『犬の記憶』『犬の時間』といった著作・作品名が表わすように、彼自身が自分をどこか野良犬に見立てていることもまた、こうした脈絡とおそらくまったく無縁ではない。犬は古くから、此岸から彼岸への移行を象徴する動物であり、死者を導く存在と考えられていたからだ。神話上の犬や狼が棲まいとするのは、この世とあの世のあいだの中間地帯である。彼らは敷居を守る獣たちだった。そんな犬としての写真家が記録した新宿という境界的な街とはいわば、人類による占有を逃れた、犬狼都市キユノポリスなのである。
東京の人類学のために、その異界や境界を探し求めようとする者は、みずから野良犬めいた異人に変容しなければならぬのかもしれない。あるいは我が身を繊細極まりないセンサーにして都市を徘徊しながら異界に深く入り込んでゆく過程で、彼、彼女はそんな犬の眷属に変身してしまうのだろうか。森山の双子の兄、一道(かずみち)は数えの二歳で世を去っている。『犬の記憶』はこう書き起こされていた。

兄を森山家のコピイだとするならば、僕は兄のリコピイである。兄の名の一の字に人の字が割って入って、僕は生きのびることになった★四五。


そして、大道の名の大の字に点が傷口のように穿たれて、彼は境界を彷徨う獣になった。
そんな変身は人間的な叙情を断ち切った「コピイ」「リコピイ」の叙事性に徹底しようとするかぎりではじめて可能になる。「複写せよ、複写せよ、複写せよ」という都市の命令に突き動かされながら、憑かれたように街の表情を記録することで写真家が行なおうとするのは、そんな「ささやかな実証」にほかならない。新宿を舞台にした森山の分厚い写真集は、パントマイムめいた写真家の身ぶりの追体験を見る者に強いる、平面化された都市の冥い森という通過儀礼の真空地帯、犬や狼たちが駆けめぐる「戦後」の荒野だ。それは、境界の都市人類学が現場の実証主義に徹するためにこそ、己の起源として選ぶべき、犬祖神話の叙事詩なのかもしれない。

4──森山大道『新宿』より 引用出典=URL=http://getsuyosha.jp/kikan/shinjuku/shin3.html

4──森山大道『新宿』より
引用出典=URL=http://getsuyosha.jp/kikan/shinjuku/shin3.html

5──森山大道「PANTOMIME」(1964) 引用出典=『25人の20代の写真』

5──森山大道「PANTOMIME」(1964)
引用出典=『25人の20代の写真』

6──森山大道「三沢の犬」(1971) 引用出典=『日本の写真家 37  森山大道』(岩波書店、1997)

6──森山大道「三沢の犬」(1971)
引用出典=『日本の写真家 37  森山大道』(岩波書店、1997)


★一──折口信夫の民俗学における境界観念の簡潔なまとめとして、次を参照。赤坂憲雄『境界の発生』(講談社学術文庫、二〇〇二)四二─四六頁。
★二──A・V・ジェネップ『通過儀礼』(秋山さと子+彌永信美訳、新思索社、一九九九)二五頁、訳注一六─i参照。
★三──同、二三─二四頁。
★四──このテーマに関する包括的な研究として次を参照。ヴィンフリート・メニングハウス『敷居学──ベンヤミンの神話のパサージュ』(伊藤秀一訳、現代思潮新社、二〇〇〇)。
★五──ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論  第三巻』(今村仁司+三島憲一ほか訳、岩波現代文庫、二〇〇三)二六三─二六四頁、断片番号O2a, 1。
★六──次を参照。ベンヤミン『パサージュ論  第一巻』(今村仁司+三島憲一ほか訳、岩波現代文庫、二〇〇三)二一三─二一四頁、断片番号C7, 4 および二一六頁、断片番号C7a, 3。ノアクの原論文書誌は次の通り。Ferdinand Noack: Triumph und Triumphbogen. In: Fritz Saxl (Hg.): Vorträge der Bibliothek Warburg. V. Vorträge 1925-1926. Leipzig: Teubner, 1928 (Reprint. VI. Torino: Nino Aragno Editore, 2002), S. 147-201, Tafel. I-XXXIX.  該当箇所はS.150-151; 154.
★七──次を参照。ベンヤミン『パサージュ論  第三巻』七〇─七一頁、断片番号L5, 1。Noack, ibid., S.153, Anm.2. ノアクはここでジェネップの『通過儀礼』とフレイザーの『金枝篇』を参照している。
★八──次を参照。ベンヤミン『パサージュ論  第一巻』二一五─二一六頁、断片番号C7a, 2。Noack, ibid., S.168.
★九──ベンヤミン『パサージュ論  第三巻』七一頁、断片番号L5, 1。
★一〇──同、七七─七八頁、断片番号M1, 2。
★一一──ベンヤミン『パサージュ論  第一巻』二一頁、「パリ──一九世紀の首都」(ドイツ語草稿)。
★一二──次を参照。ベンヤミン『パサージュ論  第三巻』七九頁、断片番号M1, 5。
★一三──次を参照。同、八一頁、断片番号M1a,1、および八五頁、断片番号M2, 4。
★一四──ヴァルター・ベンヤミン「シュルレアリスム」(浅井健二郎編訳、『ベンヤミン・コレクション一  近代の意味』ちくま学芸文庫、一九九五、五〇三頁)。
★一五──ベンヤミン『パサージュ論  第三巻』八三頁、断片番号M1a, 3。
★一六──関根康正「〈「東京」を人類学する〉ための覚え書き」(関根康正編『〈都市的なるもの〉の現在──文化人類学的考察』東京大学出版会、二〇〇四、五一四頁)。
★一七──同、五一六頁。
★一八──同、五一八頁。
★一九──次を参照。後藤範章「都市を観る、都市を読む──写真で語る:「東京」の社会学」(現代伝承論研究会『現代都市伝承論ムム民俗の再発見』岩田書店、二〇〇五、一〇五─一〇七頁)。
★二〇──寓意としてのパタン・ランゲージについては、次を参照。中谷礼仁『セヴェラルネス──事物連鎖と人間』(鹿島出版会、二〇〇五)二〇九─二一九頁。
★二一──作品の実際については次を参照。後藤、前掲論文、八六─一〇〇頁および一〇九─一一三頁。後藤のホームページでも作品が公開されている。URL=http://www.chs.nihon-u.ac.jp/soc_dpt/ngotoh/tokyo/
★二二──資料として次を参照。赤瀬川原平『超芸術トマソン』(ちくま文庫、一九八七)。
★二三──この点については、拙著『都市表象分析I』(INAX出版、二〇〇〇)七一─七三頁参照。
★二四──森山大道『過去はいつも新しく、未来はつねに懐かしい』(青弓社、二〇〇〇)二一四頁。
★二五──同。
★二六──同、二二一頁。
★二七──同、二一八─二一九頁および二二四頁参照。
★二八──森山大道『犬の記憶』(河出文庫、二〇〇一)一七頁。
★二九──同、四〇─四一頁参照。
★三〇──同、五四頁参照。
★三一──同、一二八頁。
★三二──同、一七六─一七七頁。
★三三──同、一一六頁。
★三四──森山大道「絶対平面都市──凄みのあるフラットさへ向けて」聞き手:鈴木一誌(『d/SIGN』No.10、太田出版、二〇〇五、二六頁)。
★三五──「零年」の概念をめぐっては、前掲拙著、一〇四─一三五頁、「無人の風景──建築が見る不眠の夢」参照。
★三六──森山「絶対平面都市」四六頁参照。
★三七──同、二六頁参照。
★三八──同、四六─四七頁参照。
★三九──同、四八頁。
★四〇──この点については別の観点から論じたことがある。前掲拙著、五〇─五四頁参照。
★四一──森山「絶対平面都市」四四頁参照。
★四二──同、四五頁参照。
★四三──森山大道『新宿』(月曜社、二〇〇二)リーフレット「新宿は……」。以下、ここからの引用については出典註を省略する。
★四四──『二五人の二〇代の写真』(清里フォトアートミュージアム、一九九五)九〇頁。なお、森山はこの作品の背景として、小学校の理科の教科書に並べて描かれた兎と亀と魚と人の胎児の挿絵が、まったく似た姿かたちであったことから受けたショックと違和感に言及している。同、九一頁参照。
★四五──森山『犬の記憶』一四頁。

*この原稿は加筆訂正を施し、『都市の詩学──場所の記憶と徴候』として単行本化されています。

>田中純(タナカ・ジュン)

1960年生
東京大学大学院総合文化研究科教授。表象文化論、思想史。

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2001年5月

>ヴァルター・ベンヤミン

1892年 - 1940年
ドイツの文芸評論家。思想家。

>中谷礼仁(ナカタニ・ノリヒト)

1965年 -
歴史工学家。早稲田大学創造理工学部准教授、編集出版組織体アセテート主宰。

>鈴木一誌(スズキヒトシ)

1950年 -
グラフィックデザイナー。