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軽さ・速さ その一 | 日埜直彦
Lightness and Quickness Part 1 | Hino Naohiko
掲載『10+1』 No.41 (実験住宅) pp.22-23

古典と現在に向かう二つの指向に分裂しながら、それを結びつけることで文学の歴史は展開してきた。文学はきわめてゆっくりと変化するジャンルであって、新しい作家、作品は次々と現われるが本当に画期的な仕事というのはそうはない。まして一ジャンルが確立され、内容と手法があるまとまりをもって見えてくるのにはずいぶん時間がかかるものだ。わざわざフーコーを持ち出すまでもなく、パラダイムとはその変化がゆっくりとしているからこそそう名指されるのであって、新しい枠組みが可視的になるためには結構な時間が必要になる。マイナーなジャンルが既成のジャンルの内側で胚胎し、しだいに読者を獲得し、過去の形式を脱ぎ捨てていく。例えばヴォルテールの『カンディード』からスタンダールの『赤と黒』まで実に半世紀、そんな緩やかなリズムで文学史は成り立っている。長く豊かな伝統をもつ芸術だからこそかもしれないが、文学における変容は過去を土壌として発芽し、テクストの可能性をいわば遡行しつつ、その内側からゆっくりと成長する。
これときわめて対照的に、その誕生以来たかだか一五〇年ほどの歴史しか持たない写真は古典を持たないジャンルと言うことができるかもしれない。ちょうど今、写真はフォトケミカルな銀塩写真からエレクトリックなデジタルカメラによる写真へと移行しつつあるわけだが、暗室のなかの古典的な写真術への郷愁は残るとしても、技術的基盤を根本的に変化させてしまうこの根本的な変化を、写真は意外なほどスムーズに受け入れつつあるように見える。技術的変化への貪欲な積極さばかりではない。既成概念を廃して新しい領域へと向かう気質がどうも写真には備わっているようだ。前回述べたような変化、絵画的写真からストレートなリアリズムへ、客観主義から主体的写真へ、といった指向の変化は写真の本質への一種の性急な問いに促されて加速的な進展を見せる。写真とは本来何なのか? 写真はなにを写しうるのか?……等々、こうしたラディカルな問いはあまりにも抽象的で、過去の蓄積がそこに介在する余地はほとんどない。そこで変化しているのは、パラダイムというよりもむしろトレンドに近いものだったかもしれない。絵画とともに形成された二次元芸術の伝統との葛藤がなかったわけではないが、基本的に写真は冒険的に自らの領域を探索し、やつぎばやにさらなるフロンティアへと向かう。安定した写真の基盤などかつて存在したことがないし、仮にそう見なされる何かがあったとしても、それを解体し陳腐化する性急な試みがたちまち突き崩すだろう。
文学と写真に見られる二つの対照的な歴史に対する姿勢を、建築は同時に並行して持っているのではないだろうか。つまり、一方で文学に負けず劣らず長いその伝統を背景として、古典建築から近代建築に至る歴史上の建築について、時に畏敬の対象として、時に鏡として、現代建築は関心を寄せている。それら一切を括弧に括った地平で建築をあらためて考え始める、などということはまず考え難いことだ。だがまた一方で、その伝統がよってたつ状況とは相当異質な現在をどうやって咀嚼するか、あるいは現代的な手段によって新しい可能性をいかに実現するか、といった過去との疎隔の感覚も実感であるに違いない。過去と無関係であることが有りえないのと同様に、過去の延長線上に建築を作ることも不可能なのである。建築においては、文学におけるよりもその現在性への要求が具体的かつ即物的で、写真におけるよりもその伝統の厚みが豊かであり動かし難い、そういうことかもしれない。言わば宿命的に、歴史に対するこのような分裂的な態度を建築は抱え込まざるをえなかったのだろうか。

前回もとり上げた『カルヴィーノの文学講義』はハーヴァード大学での特別講義のために準備された原稿をまとめた書物である。一九八五年に予定されていたこの講義は彼の突然の死によって残念ながら実現しなかった。来たる新たな千年紀にむけて、文学において「とりわけ大切なものに思われる文学の価値、もしくは長所、あるいは特質」を列挙していく体裁で六回の講義が計画されていた。
その第一回講義のテーマは「軽さ」と題されている。ペルセウスのサンダルから古代ギリシャの哲学者ルクレティウスの思想、ボッカチオ『デカメロン』からシラノ・ド・ベルジュラック『月世界旅行記』、そして幾人かの現代イタリアの詩人たち、極め付きにはカフカの短編「バケツの騎士」と、文学の豊かな遺産の方々から「軽さ」のさまざまなヴァリエーションが取り集められている。これらの文学作品が書かれた時代状況が現在より過酷でなかったわけはないが、そんな重圧をものともせず軽やかに昇華してきた文学の輝かしい戦果の数々である。カルヴィーノは現実の身も蓋もない即物性とシリアスさに抵抗する文学的な「軽さ」の可能性を、現在、そして将来に向けて称揚する。神話のファンタジックな軽さ、実体的なものの頑迷さを解体する言語の力、比喩の跳躍の途方もない軽やかさ、詩的想像力と荒唐無稽なユーモアの軽み。もちろんこの列にカルヴィーノの例えば『見えない都市』を付け加えても良いだろう。際限のない荒唐無稽な語りの折々にざわめくディティールの厚みによってこそ、目の前の即自的な都市の姿からは掴みきれない都市のヌエのような姿を文学は定着しえた。フィクションの軽やかさによってのみ到達できるリアリティを一貫して追求してきたカルヴィーノ自身の作品自体が、古典から汲み取りうる軽さの現代的効用の雄弁な実例である。さして理由もなく古典はどこか抑圧的なイメージを持たれがちだが、むしろ世界の重さをはねのける軽さの豊富な実績が文学の伝統にあるではないかと彼は言う★。
だが建築において同様に古典をその軽みにおいて捉えることなどありえるだろうか。古典的文学にもまして古典建築は、一般に重苦しいイメージがつきまとうものかもしれない。古典的建築の様式を旧弊と見なしたような近代建築に従う限り、そう考えるのも自然だろう。しかし例えば、パラーディオはどうだろう。パラーディオの《ヴィラ・ロトンダ》の繊細な形式的完全性と細部における典雅な破調の両立を、「軽さ」と形容することが可能ではないだろうか。あるいはある種の小間茶室の実際の軽さをはるかに超えて軽快な、あの軽みについては? そう考えてみれば、幾何学の抽象性を経由して物質的な建築がある軽さに到達する場合があることを想像できるはずだし、実際の堅固さにもかかわらずその組み立てが柔らかく浮き上がるような印象を覚える瞬間もイメージできるはずだ。あるいはむしろ名建築とはそういったある種の軽さを帯びた建築のことではなかっただろうか。
その軽さは、例えばスパンを飛ばしキャンチレバーを大きく張り出すことや、鈍重な壁を廃しガラスその他の物質的重みを感じさせない外装を用いることとはほとんど関係ない。両者が混同されることはよもやないだろうと思うが、ほとんどクリシェと化したその種の視覚的軽快さの追求は上記の軽さとはまったく別の水準の問題であって、それは建築におけるトレンドの類いと言うべきだろう。要するに石で作っても鉄で作っても建物の質量と無関係に、ある軽やかさが建物に現われることがあり、極言すればそのとき建物が建築であるということになるなのだろう。われわれは建築の歴史からそういうことを学びうるはずだ。(この項続く)

『カルヴィーノの文学講義』 (朝日新聞社、1999)

『カルヴィーノの文学講義』
(朝日新聞社、1999)


★──これと対応しうる「軽さ」を写真において見出すことができるだろうか。おそらくかろうじて、ジャック=アンリ・ラルティーグにおいて。しかしこの点は次回まとめて検討することにしたい。

>日埜直彦(ヒノ・ナオヒコ)

1971年生
日埜建築設計事務所主宰。建築家。

>『10+1』 No.41

特集=実験住宅