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鈴木理策《サント・ヴィクトワール山》(承前) | 清水穣
Risaku Suzuki Mt. Ste-Victorie, Part Two | Minoru Shimizu
掲載『10+1』 No.41 (実験住宅) pp.13-15

一九一七年のポール・ストランドの言葉を見よう。「写真家の問題とは、己のメディアの限界と同時に潜在的クオリティを、明確に見極めることである。というのも、生き生きとした表現のためには、撮影されたヴィジョンの強度に勝るとも劣らず、誠実さというものがまさにそこで前提となるからだ。つまり、写真家の前にキアロスクーロで表現されている事物に対する本当の敬意である」★一。あるいは、f/64グループを代表する写真家、エドワード・ウェストンは一九二三─二六年のメキシコ滞在中、こう書き付けている。「カメラは生を記録するため、物自体の実質と本質を表出するためにこそ用いられるべきなのだ。(…中略…)写真への道はリアリズムを通っているという私の信念は堅い」★二。ありのままの世界、物それ自体の存在に対する、信念と誠意──ストレートの倫理を語る二人の写真は、しかし、周知のように、その写真の純粋主義においてこそピクトリアル(構成主義、キュビスム)であった。
ストレート・フォトグラフィーが、その構図や構成の点でもプリントの美学の点でも、現代絵画に合わせてアップデートしたピクトリアル・フォトグラフィーに他ならないことは、すでに同時代から指摘されていた(例えばクラレンス・ホワイト)。そのときストレート・フォトグラフィーの純粋性は、もはや絵画との差異にではなく、もっぱら写真外の「物語」より独立した写真の自律性に求められることとなる。芸術のための芸術にも似たこの写真作品の自律性が大不況期に持ちこたえられず、社会派ドキュメンタリーのリアリティが意味をもってくるわけだが★三、ドキュメンタリーはそのジャーナリスティックな出自からして物語にまみれている。そこでドキュメンタリーから、あらゆる物語性を取り去らねばならない。後に残される純粋な──ちなみに「ドキュメンタリー」という用語を初めて用いたグリーアソンはこのことを「リリカル」と呼ぶ★四──ドキュメンタリーが、ウォーカー・エヴァンスの写真である、とされる。なるほどエヴァンスはストレート・フォトグラフィーの批判者として登場した★五。しかし、あくまでも写真には純粋さが求められ続けているのであって、写真の純粋性は、写真美の自律性から、物語の彼方の「ありのままの現実」へと移植されたにすぎない。実際、ストレート写真の四つの基本についてエヴァンスは後に、まるでストランドやウェストンのように書くだろう。「1、メディアそれ自体に対する絶対的な忠実。2、自然でわざとらしくないライティングの完璧な実現。3、フレーミングの正しさ。4、一般的な、決して突出しない技術的熟練」★六。ここに本当の意味で「ストレート」の倫理が完成するわけである。
この「ストレート」というモダンの支配的なイデオロギーからはずれた流れ、不純で言わば反写真的な傍流として、前回、自然主義写真とセザンヌのあいだの意外な符合を見たが、このような「符合」は、写真史の立場からは非常識なものである。エマーソンの実作を見れば明らかなように、ディファレンシャル・フォーカシングは、見る人がそれに気がついてはならないような微妙なものであるから、セザンヌの《エクス近郊の松の大木》はやり過ぎに入るであろう。実際エマーソンが評価していた画家(ミレーなど)のうちにセザンヌは入らず、また自然主義は、アカデミー絵画をなぞるロビンソンの批判として打ち出されたものであった。しかしピクトリアル批判イコール「ストレート」ではない。ロビンソンのピクトリアリズムを、ポストモダン写真と再接続することなど重要ではないし、あるいはまた、エマーソンにストレート・フォトグラフィーの源流を見出す必然もない。エマーソンの「自然」とは、ピクトリアルでもなく、ストレートでもないものである。セザンヌとの符合はそこに位置する。ディファレンシャル・フォーカシングについてエマーソンは次のようにも述べていた。「ハードエッジな輪郭をもつものなど自然には存在しない。すべてはすべてを背景にして見られるのであり、あるものの輪郭は徐々に別のものへと移り変わっていくのであって、その移行はしばしばあまりにも微妙なのでどこであるものが終わり、どこから他のものが始まるのか気がつかれないほどなのだ。決められると決められ
ない、見失うと見出すのあいだのこの入り交じりのなかに、自然のすべての魅力と神秘が横たわっている」★七。この言葉と、晩年のセザンヌの震えるような輪郭線は呼応していないだろうか。
「彼らはモネが風景でなしたことをするであろう(…中略…)彼らは写真を撮るであろう」というセザンヌの言葉は、何を意味していたのだろう?  晩年の睡蓮の連作で、モネは光の反映でもなく睡蓮の花でもなく、その間にはさまれた水面を描き出す。それはすべての映像の基盤となっているがそれ自体は不可視であるような面=スクリーンである。このとき「写真を撮る」とは、目に見える像を一枚の非物質的な平面へ還元するということである。ピクトリアル=ストレートな写真はいうに及ばず、写真化した絵画とは、映像が透明なレイヤーの上にのっているという感覚に基づいている絵画のことなのだ。「ストレート」である、とはスクリーンやレイヤーという不可視で透明な基盤面を前提とし、さらに「ありのままの現実」に対して能う限り「透明」であることを要請することだ★八。反対に、「ストレート」ではない絵画や写真は、それらを前提も要請もしない、ということになる。「透明」に対して、人間の視覚の「濁りturbidity」(エマーソン)こそが中心的な問題になるのである。
鈴木理策の《サント・ヴィクトワール山》もまた、この外れ者の系譜に連ねることができるだろう。わかりやすい美しさを漲らせたいくつかの作品を除けば、彼の作品の大半は、何故撮られたのか、どこが良いのか、よく分からない写真というべきである(この項の冒頭で述べたように写真は無防備であるから「これが良い」とか「美しい」とか連呼することは可能であるが)。それは、一枚の絵として完結するように作られていないからであり、彼の作品をそのように眺めると、構図もフレームもピントも特に優れているとは見えないであろう。むしろ連作《サント・ヴィクトワール山》は「良い写真」などではなく、そういう写真の構図やフレームやピントに先立って、何かを「見る」ということについての実験である。
まず被写体がセザンヌ晩年のモチーフであるということが、われわれを「見る」という主題へ導いてくれるが、同時にそれはいわば美術史上のレディメイドでもある。「レディメイド」に対象を固定することで、「見る」という行為のうちに紛れ込むさまざまな連想や記憶をある程度パターン化して捨象するのである。その上で、作品の画面は単純な要素の組み合わせでできている。作品はすべて横位置のフォーマットに収められる。縦位置のフォーマットは、自動的に奥行き(下から上へ=近景から遠景へ)の印象を導き出してしまうからそれを避けるためである。画面はパンフォーカスとディファレンシャル・フォーカシング、オールオーヴァーとソロショット、引いたアングルと寄ったアングル、これら2×2×2の組み合わせである。言い換えれば、「全てを等しく眺める行為」と「特定の物だけを取り上げて観る行為」、「中心のないフラットな画面」と「ある被写体が中心を占める画面」、そして「フレームを広げて全体を収める動き」と「全体から部分へフレームを狭めていく動き」ということになる。
風景のなかをそぞろ歩きしながらあたりを見回す人の視線をなぞるかのように、作品は三つの極のあいだを連続的に動きながら撮られている。これらの組み合わせは同じ撮影場所や同じ被写体をベースにして試され、その場所や被写体としては(セザンヌのモチーフに則って)画面奥へと続いていく小道が、特権的なモチーフとして頻出する。ここから、作者によって問われているのは、人が「見る」ことについてのみならず、連想や記憶を展開することとは別に対象に「見入る」こと、すなわち「奥行き」という、知覚される空間の人工的創出についてであり、そして写真という基本的に透明なレイヤーに基づくメディアが、その空間をどのように表現できるのかという問題なのである。
(この項続く)


★一── Beaumont Newhall, The History of Photography, MoMA, 1982, p.174. 強調は引用者。
★二── The Daybooks of Edward Weston, Aperture, Vol.1, 1972, p.55.
★三── cf. Michel Oren, ”The Impu-rity of Group f/64 Photography”, History of Photography, Summer 1991, p.119.
★四── Grierson on Documentary, Faber and Faber London, 1946, p.35ff.
★五── cf. Walker Evans, ”The Reappearance of Photography”, in Unclassified - A Walker Evans Anthology, Scalo, 2000, p.81.
★六──Unclassified - A Walker Eva-ns Anthology, Scalo, 2000, pp.100-101.
★七──P. H. Emerson, Naturalistic Photo-graphy for students of the Arts, 1889, p.150.
★八──この点に関してグリーンバーグとエヴァンスの並行性についてはMike Weaver, “Clement Greenberg and Walker Evans Transparency and Transcendence”, History of Photography, Summer, 1991, p.128ff.参照。

鈴木理策《サント・ヴィクトワール山》連作より

鈴木理策《サント・ヴィクトワール山》連作より

鈴木理策《サント・ヴィクトワール山》連作より

鈴木理策《サント・ヴィクトワール山》連作より

鈴木理策《サント・ヴィクトワール山》連作より すべて引用図版=Risaku Suzuki, Mont Sainte Victoire,  Nazraeli Press, 2004.

鈴木理策《サント・ヴィクトワール山》連作より
すべて引用図版=Risaku Suzuki, Mont Sainte Victoire,
Nazraeli Press, 2004.

>清水穣(シミズ・ミノル)

1963年生
現代写真論、現代音楽論。

>『10+1』 No.41

特集=実験住宅

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狭義には、フランスの哲学者ジャン・フランソワ=リオタールによって提唱された時代区...