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砂町銀座と阿佐ヶ谷団地 | 三浦展
Sunamachi-Ginza and Asagaya Housing Development | Atsushi Miura
掲載『10+1』 No.27 (建築的/アート的, 2002年04月20日発行) pp.34-35

街歩きを仕事の一環にしている私だが、普通は消費の最先端を探るために街を歩く。だから、原宿とか代官山とか下北沢とか高円寺とか、そういう街をぶらぶらする。
で、次はどんな街が流行りますか?って聞かれることが多いんだが、あのさあ、街なんて、そんなにどんどん流行ったり、すたれたりするわけないでしょ? 昨日は高円寺だが、明日は板橋が流行るなんてこと、あるわけない。
とはいえ、別に先端的な消費の街でなくても、何か面白いテーマを街から見つけたいと思っている私としては、どん欲に街を歩くわけです。で、ワタシ的に最近のヒットは砂町銀座と阿佐ヶ谷団地ですね。
砂町は、行政的には北砂、南砂、東砂などの地名になっているが、古くは砂町と呼ばれた。おそらく昔は砂浜だったのだろう。この砂町に砂町銀座という商店街があるのだ。駅でいうと、以前は都電の境川という駅があり、そこから三〇〇メートルほどだったらしい。しかし今は、北は都営新宿線の西大島、南は営団地下鉄東西線の南砂が最寄り駅。しかしいずれの駅からも一キロメートルはある。だから誰かがひょいと訪ねていく町ではない。
さてその砂町銀座、明治通りと丸八通りを東西に結ぶ約六〇〇メートルの商店街である。安藤忠雄の双子の弟、北山孝雄氏(北山創造研究所所長)が大好きだという話を雑誌で読んだことがあり、いつか行ってみようと思っていたのだが、ようやく最近行くことができたのだ。
で、行ってみたら、いやあ、ホントにすごいです、素晴らしいです、極楽です、砂町銀座! 何といっても驚くのが、その道の狭さ。おそらく幅は三メートルもない。そこに店が野菜や魚を置いた台を出す。やきとりやおでんを店先で売る。だから実際の幅は二メートルもないほど。そこに夕方になると、夕餉のおかずを買い出しにたくさんの人がやってくる。もちろんおばあちゃんが多い。そこにおでんの湯気ややきとりやつけもののにおいが漂う。生活のにおいだ。ケーキ屋なんてものはほとんどなく、あってもショートケーキしか売ってない。まさにマンガ『四丁目の夕日』の世界! 夕暮れ時がこんなに似合う町があるんだ!! なるほど街づくりプランナーなら誰でも好きになる、愕然とする、俺のつくりたいのはこういう町だ!と叫びたくなる、そういう町なのである。
次は阿佐ヶ谷団地。JR中央線阿佐ヶ谷駅から徒歩で一五分ほど。青梅街道を横切って、善福寺川方向に下っていったところにそれはある。
いやあ、ここも極楽。ここに行ったのは実はもう去年の九月末なんだが、赤とんぼがたくさん飛んでいて、緑の芝生がまぶしくて、散歩に来てぼんやりするには絶好の場所だった。
この阿佐ヶ谷団地はれっきとした日本住宅公団の団地。一九五八年につくられた。総戸数三五〇戸。普通のいかにも団地らしい四角い集合住宅が数棟あるが、この団地の中心は二階建てのテラスハウス。玄関方向から見ると一階建てに見えるが、庭方向から見ると二階建てのデザイン。外壁は白く、屋根は赤く塗られていて、可愛らしい。しかし永年の月日と共に、当然色は褪せ、ペンキが剥げ落ちているところも多いが、それが逆に「いい感じ」になっている。可愛いのに、味があるのである。
各戸の前には小さいが庭があり、どの庭にもいろいろな植木や花が植えられているが、あまりきれい過ぎるほど手入れされておらず、自然にまかせて伸び放題になっているあたりがまた気持ちいい。
この気持ちよさは、たしかに時間の流れがつくったものであるが、しかし、それだけであろうか。私にはもうひとつ重要な要素があると思う。
それは「公」と「私」、あるいは「私」と「私」の境界の曖昧さだ。先ほどの庭にしても、各戸の庭の草木が生い茂ってきたために、どの木がどの家のもので、どの花がどの家のものか、もはや判然としない。
また、棟と棟の間には細い小道があり、この小道に面して各戸の玄関ドアがある。玄関の反対側が隣の棟の庭になっている。つまり、住民は自分の家に出入りするとき、必ず隣の棟の家の庭の前を歩くことになるわけだ。だから各戸にとって庭の草木は目隠しの意味を持つが、その目隠しは、ちょうど暖簾のように曖昧な目隠しであり、俺の家を覗くんじゃないぞという排他的な雰囲気はまったくない。庭の草木は各戸の私物でありつつ、同時に共有道路である小道にとっても財産になっている。つまり「公」と「私」の境界が曖昧なのである。
さらに阿佐ヶ谷団地では、住棟が大きな中庭を囲む形で配置されている。中庭には古びたすべり台やブランコがあり、時代を感じさせるのだが、各戸の庭で生い茂る草木は、この中庭という共有空間と庭という私空間の境界もまた曖昧化している。もしかすると庭から種子が飛んでいったのではと思われる草花も中庭に咲いていて、まったくどこからどこまでが誰のものなのかわからなくなっているのである。
もちろんこのように公私の境界が曖昧になったのも長い時間のなせる技だとも言える。しかし古い団地や住宅地がすべてこのようになっているわけではないし、むしろ、何十年経っても「公」と「私」、「私」と「私」の境界が明確な住宅地のほうが多いだろう。なのになぜか阿佐ヶ谷団地では、その境界が曖昧になったのだ。
そこに何か特定の住民協定や管理規約の影響があったのかどうか、調査していないのでわからない。しかし思うのは、おそらく一九五八年という時代にそこに住み始めた人々の意識のなかに、まだプライヴァシーとか私有財産とかいった観念が希薄だったのではないかということだ。人々は洗濯機も、冷蔵庫も、テレビも、掃除機も、自動
車も持っていなかった。家は借家、風呂は銭湯、娯楽は映画館に行くことくらい。そこには私有の領域がほとんどなかった。
やはり一九五八年以来一切時間が止まったように見える砂町銀座の姿も、どこからどこまでが自分の店のなわばりなのかわからない、どこが公道で、どこが自分の土地かも曖昧な空間であると言える。
しかし一九五八年以降の時代は、言うまでもなく高度経済成長期。人々は私有財産の獲得、拡大を目指して働いた。人々は、家電を買い、自動車を買い、最後には郊外にマイホームを買った。そしてマイホームの中を、椅子やテーブルやベッドやソファや人形や、無数の私物で埋め尽くした。そしてそうした私生活主義は、公共性という観念を雲散霧消させ、さらに逆説的だが、「私」と「私」同士の関係づくりの技術すらも衰弱させたのではないかというのが私の認識である。そしてさらに言えば、今、そうした私生活主義に限界を感じ、新たな関係性、社会性、公共性のあり方を求めている人々が増えているのではないかと思われるのである。

1──砂町銀座 筆者撮影

1──砂町銀座 筆者撮影

2──阿佐ヶ谷団地 筆者撮影

2──阿佐ヶ谷団地 筆者撮影

>三浦展(ミウラ・アツシ)

1958年生
カルチャースタディーズ研究所主宰。現代文化批評、マーケティング・アナリスト。

>『10+1』 No.27

特集=建築的/アート的

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1941年 -
建築家。安藤忠雄建築研究所主宰。