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「場所」のナラトロジー | 金森修
Narratology of "Place" | Kanamori Osamu
掲載『10+1』 No.27 (建築的/アート的) pp.19-21

1 時間の封入

もう少し「場所」にこだわってみよう。ただし今度は、場所という空間的概念のなかに文脈や履歴、記憶や言い伝えなどという時間的暈囲を封入し、そこからでてくる新たな場所感覚に刮目してみたいと思う。
まずは、いくぶん特殊な例を挙げる。その名も『場所の感覚』という★一、今の主題に関係が深い論集を編纂した文化人類学者のバッソは、その本のなかに自ら「知恵は場所に宿る」という美しい論文を投稿している★二。それは彼が八〇年代初頭に調査したアパッチの人々の場所感覚を巡るものである。
荒れた生活から何とか脱却しようとしていたアパッチの若者が土地の長老たちと言葉を交わす。そのとき、長老たちは言う、「ああ、おまえは『二つの丘の間を野道が通る』から来たのか、それなら丘を登ったり降りたりしてさぞかし疲れただろう。それに焼けた尿の匂いをたんと嗅いできたんだろう」と。ここで、「二つの丘の間を野道が通る」とは、土地の人なら誰もが知っている、ある特定の場所の名前である。アパッチは、自分たちに馴染み深い数多くの場所に「コヨーテが水のなかに尿をする」、「イナゴが積み重なる」、「苦い龍舌蘭」といったタイプの名前を付けているのだ。ただ、それを知っていても、上記の会話の流れは今ひとつ理解できない。そこで、この言葉にいわば面食らった調査者のバッソは、後でそれが何を意味していたのかを、長老のひとり、ダドリーに直接訊いてみることにした。するとダドリーは次のように話し始めた。
その土地にはそこにまつわる話があり、誰もがそれを知っているのだ。まずはひとつ目の話。あるとき梟おじさんがそこを通ると、二人の美しい娘が両側の丘から彼を呼び止める。まずはひとりが、「私を抱いて頂戴」と叫ぶ。おじさんは喜んで丘を登り始めるが、その半ばまで行くと、今度は反対側の娘が同じ言葉を叫ぶ。するとおじさんは丘を降りて反対側の娘のほうに行く。そして二つ目の丘を半ばまで登った所で今度は最初の娘が反対側からまた同じ言葉を叫ぶのだ。そこでおじさんは最初の丘をめがけてまた降りていく。そしてそれが何度も繰り返される。──丘を何度も昇降して疲れ果てるというのは、その話をほのめかしている。そして二番目の話。あるとき梟おじさんが大きなハコヤナギの木の下を通り過ぎると、その枝の上にいた娘がスカートをたくし上げて脚を見せる。ひどい近眼のおじさんにはよくは見えなかったが、それでも妙な興奮を味わい、この木はまるで女みたいだ、少し燃やして一部を家にもって帰ろうと考えて、それに火をつける。ところが木の上の娘が放尿してその火を消してしまう。不思議がるおじさんは、また火をつける。すると娘が再び尿で、その火を消してしまう。そしてそれが何度も繰り返される。──焼けた尿の匂いというのは、その話のことなのだ。
この場合、二つの丘があるという地形的特徴も、大きなハコヤナギが実際にその場所にあるという地理的特徴も、しっかりそれらの話に組み込まれており、それら複数の物語が、その場所の特徴を何らかの形で喚起するようになっている。若者と長老たちは、お互いが知悉している場所とその昔話の知識を暗黙に披露しあいながら、共同体の繋がりを確かめあっている。そして長老たちは、荒れた生活のなかで破滅しかかっていた若者が再起を期したというその心意気に、餞の言葉をおくっているのだ。確かにその昔話の内容自体は、たわいもないものだ。だが、その地域に長く住み着き、互いに微妙な地形や特徴を知り尽くした場所の群を、単なる自分の経験としてだけではなく、いわば過去にその場所に生き、その場所を知っていた人々の経験をも組み込んだ形で味わい尽くすためには、そのようにそれぞれの場所に見合った物語や、その場所でかつてあった事件を回顧する話を共同体全部で大切にしていく、というアパッチの姿勢には、重要な示唆が含まれている。
例えば先に挙げた「イナゴが積み重なる」という場所にも、次のような話がある。昔イナゴの大群が押し寄せてきたので、トウモロコシを守るために雨を降らそうと、ひとりの祈祷師が歌を捧げた。だが、雨はいっこうに降らなかった。土地の人は、複数の祈祷師が力を合わせることを提案したが、その祈祷師は頑として聞かず、ひとり徹夜して雨乞いの歌を歌った。だがそれでも駄目だった。遂に複数の祈祷師が一斉に歌を歌い、それが功を奏して、ようやく大きな嵐になった。その嵐の後、イナゴは死に絶えて道に山と積み重なったが、人々はこう嘆くのだった、もし最初の祈祷師が自分の力を過信せず、早くから共同で歌を捧げていればもっと被害は少なかっただろう。だがもはや、残るトウモロコシはごくわずかなのだ、と。──この話の場合には、昔にあった事件とそれに対する対処法の巧拙を巡って、一種の道徳的な含意が明確に刻み込まれている。
そして、ダドリーはバッソに呟くのだった。知恵があるというのは、その地域のできるだけ多くの場所を自分で訪ね歩き、その場所その場所にまつわる多くの昔話を学んだ人のことをいうのだ、と。場所には、共同体の共通の経験が宿るわけだが、その場合の「共通経験」とは、単に同じ景観を眺め、同じ水を飲み、同じ木から果物を取る、というような行為だけではなく、梟おじさんやイナゴの襲撃のお話を親や年上の人々から聞き、その話の妙味やおかしさ、そこから引き出せる道徳的規範などを心で咀嚼していくことを含んでいる。ひとつの場所に住み着くということは、文字通り、生存条件の鍛え上げという生物的次元だけではなく、その共同体固有の歴史と文化を身につけていくことを意味している。
もっとも、そう言い換えてしまうと、あまりに当たり前に響く。だからここでは、そこまで一般的な位相に話を拡散させるのではなく、「場所」が、より生動的にわれわれの心に響いてくるためには、その場所がどんな履歴をもつのか、その場所に住んだ昔の人々の生活はどんなものだったのか、といった場所の時間性へ着目をすることが重要なのではないか、という位相に話を留めておくべきなのかもしれない。
ところで、「場所の時間性」が語られるとき、そこには二つのかなり違う水準のことが併置されているということに気づくのは難しくない。「場所の時間性」は、それ自体を時間的、または空間的に理解することが可能なのだ。「場所の時間性」を時間的に理解するとは、今述べた通りのこと、つまりその場所にまつわる過去の逸話、歴史、変遷の様子をできる限り思い出し、過去の場所を重ね合わせた複層的な眼差しでその場所を眺めることを意味している。そして実は、われわれは、あまり意識せずともそれに似たようなことはしょっちゅうやっている。確かに銀座を通るからといってかつての金融界に思いを馳せ、高田馬場では馬の勇姿が脳裡に浮かぶ、というようにはならないかもしれない。だが、とにかく、◯◯市北町といった感じの名前よりは、その場所がかつてどんな風に意味づけられていたのかをほのめかす地名ができる限り存続していくほうが、「場所の時間性」の保存には有益なのは間違いない。もちろん、何も町名だけが問題なのではない。例えば「目黒のサンマ」と言われれば、かつての庶民生活、それに「お殿様」の遊山の様子などが彷彿とするというように、別にアパッチならずとも、われわれは生理的な目を使ってだけではなく、文化的な目で周囲や特定の場所を眺め回し、過去と現在、虚構と現実、夢想と実体とを重層的かつ混淆的に「知覚」しているのだ。例えば馬喰町のダドリーを探そう。そして、彼からその町を喚起する楽しい話をたくさん聞こう。
仕事に追われて、若い頃のことを忘れているあなた。一度、大学生の頃に数年住んでいた町並みに戻ってご覧なさい。そのままの所も、変わってしまった所も、どちらを見ても、胸に突き上げてくるような時間の重みと厚みが必ず体験できるでしょう、という言葉は、あまりに明らかな命題のように響く。もし、それが「古地図」を片手にした探索だとするなら、時間への旅はより本格的なものになり、空間が指し示す時間の断片模様は、複雑怪奇、個を越えた凹凸の目眩を与えてくれることは請け合いだ。

2 「場所」の筋

さて、もうひとつの側面、「場所の時間性」を空間的に理解するとは、いったいどういうことだろうか。その時間的理解についてなら、たいていの人は私が何を言おうとしているのかはわかってくれたと思うし、ある意味で私が言っていることなどは「陳腐の傍ら」にあることなのかもしれない。だが、これから素描しようと思う「場所の時間性」の空間的展開のほうは、うまく表現できるかどうかおぼつかなく、逆にその分、それほど陳腐でもない可能性もある★三。とにかく、これはうまく展開すれば面白い着想になるかもしれない。とはいっても、実はアーバニズムの専門家には既知の問題系にすぎないのか
もしれない。残念ながら、私は現代のアーバニズムの理論状況を知らなすぎる★四。
要するに、こういうことだ。今、ひとつの物語があるとする。それが比較的まっとうなものなら、その一部分を取り上げてみたとき、その場面での登場人物の行動や情念、その回りの道具立てには一定の「理」があるはずだ。物語は、次々に場面や登場人物が変わるときでも、ひとつの場面の後に次の場面が来る理由というものがある。物語は、線のように流れる時間のなかを次々に断片が羅列的に浮上しては消える、というようなものではない。主人公の情念がその人物を突き動かし、悲劇やハッピーエンドにまで導いていく。その理は、時間のなかで築き上げられる建築物のようなものだ。物語の「筋」は、時間をつなぐ空間的な理なのである。そして、それと同じことが都市や田舎の一画で表現できないか、ということなのだ。「場所」に筋をつけて、その「場所」を散歩すればそれがひとつの物語であるかのようにすること。ひとつの気軽な散歩が、文字通り「プロムナード」の設計思想を歩く人に示唆するように、そんな空間を構成すること。個別の建造物なら、よりわかりやすい例示ができる。例えばヨーロッパのゴシック・カテドラルのように。それは正面バラ窓の下から入り、中央奥の祭壇を中心としたヒエラルキーをもっている。側廊を歩いて祭壇の後ろに回り込むこともできるが、祭壇が空間的に最も濃密な凝集をしているということに変わりはない。カテドラルのなかの空間は微細かつ厳正に秩序づけられている。正面から入り、祭壇に近づいていく人には、筋づけられた空間感覚が味わえる。例えばスペイン、コルドバのモスクのように、多くのアーチが林立する構造で、どこから入ってもあまり中心がはっきりしないような場合もある。だが、ここでは、ゴシック・カテドラルのように一定の筋を刻みつけられた「場所」のことを考えてみたいのだ。
その一画を歩けば一種の物語を経験できるような、そんな一画。プロローグのような誘い、そして歩く人の目を奪う「事件」のような発端。その後しばらくはなだらかな反復が続き、しかもその反復の細部に微妙な「伏線」がしつらえられている。そして例えば三〇分前後も歩き、やや疲れてきた足を休ませたいと思う頃に訪れるひとつのクライマックス。音でも、色でも、形でもいい。反復という単調な語りを破る、ある種の驚きの空間的演出だ。よく見れば、それは「伏線」と同じ曲線をもつ形態であったり、同じモチーフをより目立つようにしたものだったりする。クライマックスの場所は、人目を惹くし、歩行者の疲れる時間でもあるので、彼らが休めるスペースを取っておく。そしてしばし休んだ後で、コーダのようにゆっくりとその「場所」の終焉に向かう。そんな一画を味わいたい。ちょうどひとつの物語をなぞるように、時間性の作動のなかで「場所」にまとまりを与えるのだ。
私が「場所の時間性」の空間的理解と呼んだときにまずは念頭にあったのは、たったそれだけのことだ。必ずしも歩行速度を規準にしなくてもいいが、やはり徒歩の鑑賞者が一番相応しい。そんな「場所」が散在するような都会は、ないものか。アーバニズムの専門家なら、私の夢想自体をプロローグにして、私には想像もできない「物語空間」を作ってくれるだろう。そんな所に出くわして、おっかなびっくり歩き始める私の心には、インクの匂いと美しいイラストがちらついているはずである。


★一──Steven Feld and Keith H.Basso ed., Senses of Place, Santa Fe, School of American Research Press, 1996.
★二──Keith H.Basso, "Wisdom Sits in Places: Notes on a Western Apache Landscape", op.cit., chap.2, pp.53-90.
★三──例えばエントリーキンという学者も似たようなことを言っており、別に私の独創というわけではない。cf. J.Nicholas Entrikin, The Betweenness of Place, Baltimore, Johns Hopkins University Press, 1991, chap.2, chap.7 etc.
★四──ここでこれから問題にすることが、もし貴方にも引っかかる内容をもっているとすれば、それに関係することをよかったら教えてください。kanamori@educhan.p.u-tokyo.ac.jp

>金森修(カナモリ・オサム)

1954年生
東京大学大学院教育学研究科教授。哲学。

>『10+1』 No.27

特集=建築的/アート的