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忘却は都市ゆえに | 篠儀直子
I only Lose My Memory for the City | Shinogi Naoko
掲載『10+1』 No.16 (ディテールの思考──テクトニクス/ミニマリズム/装飾主義) pp.30-32

スタッテン島行きのフェリーの船上で、暮れかかるマンハッタンのスカイラインを背景に、甘いテナーで男が恋人に歌う。「今夜は星は出てるかな?/曇りか晴れかわからない/瞳に映るのはきみだけだから(……)」。山下達郎もア・カペラで歌ったこの楽曲はハル・ウォーレンとアル・デュービンのコンビの作による「瞳は君ゆえに(I Only Have Eyes for You)」、恋人たちはディック・パウエルとルビー・キーラー、映画は一九三四年のワーナー・ブラザーズ作品『泥酔夢』(すごい日本語題名だが、原題は『Dames』)。バズビー・バークリーが同社で振付けを担当した五本目の作品である。
当時のバークリーは映画全体のストーリーには無関心なまま仕事をしていたと言われるが、そんな証言を待つまでもなく、彼の手がけたナンバーは実際きわだった自立性/自律性を示している。そこでは彼自身による楽曲の解釈が、独立したストーリーをともなったりともなわなかったりしながら、グラフィカルに展開されていく。人体の連想的な変形を繰り返す彼のメガロマニアックな宇宙は、楽曲本来の内容をグロテスクに変質させさえするかもしれない(これを自覚的な批評行為として自作の楽曲に対して行なったなら、及川光博のプロモーション・ヴィデオの域である)。そうは言ってもワーナーでの仕事で見るかぎり、これらのナンバーは、映画全体の物語とある重要な主題を共有しているようだ。その主題とは「都市」である。同社で彼がたずさわった一連の映画は、たいていニューヨークである都市のショウビズの世界で、タフに生き抜く男女が登場するバックステージ・ミュージカルなのだが、のちの時代の批評家によって「アメリカのシュルレアリスト」とも呼ばれることになるバークリーは、そこに都市のエネルギーを注ぎこむ。機械仕掛けで回転するステージ上にディスプレイされた人体、増殖し反復されるモチーフ[図1]。「瞳は君ゆえに」が二度目に歌われるとき、それは舞台上のショウという設定であり、またキング・ヴィダーの『群衆』(一九二八)との類似性を指摘される箇所のひとつ(前号中村秀之氏の論考を参照されたい)でもあるのだが、その冒頭部の舞台装置として構築されていたのも、マンハッタンの大通りであり地下鉄であった。バークリーのこの演出は楽曲の歌詞によって正当化されている。歌詞の末尾部分は、大都会の喧騒なしには着想されえないものであったから。「ぼくらは公園ガーデンにいるのかな?/それとも大通りの雑踏に?/(……)行き交う何百万もの人々も/みんな視界から消え失せて/ぼくの瞳に映るのはきみだけ」。
「公園にいる」のであれば、「何百万もの人々」が「消え失せ」たとしてもそれは自然なことだろう。ミュージカル映画において公園、特に夜のセントラル・パークは、恋人たちの隠遁の場として機能してきたのだった。バークリー自身『ゴールド・ディガーズ』(一九三三)で、この公園の享楽的側面を「うわっ、バカバカしい」としか言いようのない御機嫌さで表象したのだが、もつとロマンティックな例としては、フレッド・アステアとシド・チャリシーが「ダンシング・イン・ザ・ダーク」を踊る『バンド・ワゴン』(一九五三)、ジェイムズ・ステュアートがコール・ポーターの「イージー・トゥ・ラヴ」を(無理なキーで)歌いエリナー・パウエルとそぞろ歩
く『踊るアメリカ艦隊」(一九三六)──『素晴らしき日曜日』(一九四七)の黒澤明(と、脚本の植草圭之助)に無意識のうちに影響を与えていたろう映画──あたりが、すぐさま思い浮かぶ。
ところで合衆国の三〇年代といえば未曾有の大不況、現実のセントラル・パークには多くのホームレスが暮らしていた。アメリカ経済が最悪の状態にあった三三年一月、この公園に暮らすホームレスを主人公にした、オペレッタ形式のミュージカル映画が公開される。主演はアル・ジョルスン、監督は『西部戦線異状なし」(一九三〇)のルイス・マイルストン、映画の題名は『風来坊』。ではこの映画は、ホームレスの実情を見据えた「社会告発的」ミュージカルなのだろうか。なるほど多くの書物には「大恐慌時代と失業問題に正面から取り組んだ初めての映画」と紹介されているし、リベラルとして知られるベン・ヘクトが原案者にクレディットされているのにふさわしく、主人公の相棒として黒人俳優が当時としてはかなり対等な立場で活躍し、はてはサイレント時代の道化ハリー・ラングドンがインテリ浮浪者として「共産主義的」な熱弁をふるったりさえする。しかし実際に観ていただければおわかりのとおり、当時の失業者の現実がこの映画に反映されているとは、とてもじゃないが言えっこない。なぜか。
最大の理由は「ホームレス状態」の性格づけにある。この映画でのホームレスたちは要するに「自由人」なのであり、それ以上でも以下でもない。恋をきっかけに職に就く決心をするジョルスンのキャラクターは、ジャネット・マクドナルドに心奪われる粋なプレイボーイのモーリス・シュヴァリエの、あるいはジンジャー・ロジャーズにひと目惚れする気ままなダンサーのフレッド・アステアの同類なのだ。ジョルスン扮する主人公とセントラル・パークの仲間たちは、苛酷な産業経済に追われその矛盾の犠牲になったからではなく、みずからの選択としてホームレス状態を生きている。職を得ようと決心した主人公は、実際、親友であるニューヨーク市長(!)の口利きで、いとも簡単に銀行員になってしまうのだ。その主人公を仲間たちは非難するのだが、それは彼が「ぬけがけ」をしてひとり就職したというのが理由なのではない。唾棄すべき都市経済秩序の軍門に下るという裏切り行為を、彼が働いたからなのである。そもそもこの映画の原題からして「万歳、オイラは宿無しさ(Hallelujah, I'm a Bum)」というのだから、何をか言わんやなのだが。
ホームレスが都市経済秩序を離れた自由を謳歌する場であるこの映画のセントラル・パークは、無時間的なユートピアである。明らかにここには、公園の外とは別種のエコノミーが働いている。そうした分離性を強調するかのごとく、主人公の愛称は「セントラル・パークの市長」というものだ[図2]。その彼が恋する娘は、彼自身は映画の最後になるまで知らずにいるのだが、実はフランク・モーガン演じる本物の市長の恋人である。市長との不幸な行き違いからセントラル・パークの池で投身自殺を図り、記憶を失った彼女は、助けてくれた「セントラル・パークの市長」に対しこう言うだろう。「こわくてたまらないの、そばにいて」。都市のエコノミーを捨てた男と、記憶を捨てた女との出会い。だが、記憶を取り戻した彼女は入れ替わりに主人公を忘れ、「こわくてたまらないの、そばにいて」と、今度は本物の市長に言うだろう。この映画の物語を「現実」と照らし合わせた場合、興味深く思われるのは失業状態についての洞察よりもむしろこの点である──都市と記憶が、等価のものであるということ。記憶の集積体としての都市は、自身の内部に記憶の真空地帯を要求するということ。その真空地帯への出入りに際しては、暴力的な忘却の儀式が必要とされるということ。
『風来坊」は興行的に失敗し、リチャード・バーリオスによれば、これによってミュージカル映画の第一の時代が終わったのだった。バーリオスの言う次の時代、それは、バークリー振付けのワーナー作品によって始まる時代である。そこでは都市はスピードと扇情性に満ちて、暴力的ならざる慢性的な記憶喪失を人に要請することだろう。公園はもはや独自のエコノミーを持たず、喧騒からの一時的な退避の場としてのみあるだろう。そして恋人たちは互いの姿を、都市のエコノミーのただなかで、瞳に映すことになるだろう。

1──『泥酔夢」(Turner Entertainment, 1989.) 「瞳は君ゆえに」機会仕掛けと増殖

1──『泥酔夢」(Turner Entertainment, 1989.)
「瞳は君ゆえに」機会仕掛けと増殖

2──『風来坊』(MGM/UA Home Video, 1993.) 「セントラル・パークの市長」と仲間たち

2──『風来坊』(MGM/UA Home Video, 1993.)
「セントラル・パークの市長」と仲間たち

>篠儀直子(シノギ・ナオコ)

翻訳者。表象文化論、アメリカ史。

>『10+1』 No.16

特集=ディテールの思考──テクトニクス/ミニマリズム/装飾主義

>中村秀之(ナカムラ・ヒデユキ)

1955年 -
社会学・映像社会論。立教大学現代心理学部教授。