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編成的指向と解釈的指向 | 日埜直彦
Compiling and Interpreting | Hino Naohiko
掲載『10+1』 No.36 (万博の遠近法) pp.43-44

建築が計画されるプロセスにおいて「そこで何が起きるか」という想像が止むことはない。どのような建築計画もいささか頼りないこの予測的想像力に基礎付けられている。建築であるかぎり、そのプロセスは最終的に物質という建築の基底材の定義へと帰着するのだが、その物質にはつねにこの想像がまとわりつく。建築が遂に純粋な即物でありえないのはこのためである。ここでイメージとモノの関係について、先立って構想された理想のイメージにモノを従属させ近似させる指向と、その逆、つまりモノのあるあり方を前提としてそこから想像力を起動させる指向の、二つのタイプを想定し、前者を編成的指向、後者を解釈的指向と呼んでみよう。
編成的指向とは、つまるところ建築物を理想の物質化として捉える態度である。理想のイメージの真正さと、そのイメージからモノへの写像の正確さの、二つの古典的クライテリアがそこに存在する。例えばエンジニアリングの水準においては、しかるべき性能が想定され、それを実現するモノの組織が規定される。プログラムの水準においては、たいていは習慣的規範に基づいてプログラムの系統的分節・統合が行なわれ、その組織化の写像として建築物の平面が規定される。社会的な水準においては、外部の文脈との関係が構想され、端的にはヴォリュームと立面が規定される。編成的指向とは、このように建築に先立つ理想像が分析統合を経ながら描かれ、それがモノへと転写されるプロセスだと言えるだろう。
これに対して解釈的指向のもとでは、想像力の発動に先立ってなんらかのモノの編成が前提されるが、しかしその編成に真正さを求めない。極端な場合にはそれはモンテカルロ・シミュレーション★一における乱数に似たものであって、正しさよりも網羅性が重視され、その編成を与えられたものとして、「果たしてこれは機能するだろうか?」という形式で想像力が起動する。こうしたプロセスは本質的に真正さへの経路を持たない。まずはアレとコレとを比べる相対的評価によって、そしてまたある特定の編成が実現する固有の可能性の発見によって、計画プロセスは進行する。いわゆる「非線形的」な構造スタディに代表されるエンジニアリングの分野においては、こうしたアプローチは計算能力の飛躍的な増強によって可能となったが、プランニングのような領域を見れば、例えば膨大な模型によるスタディのように、むしろきわめてアナログな検討が力任せに繰り返されている。こうしたプロセスはよく言われるようにある程度は技術的手段によって可能になったものだが、その必要性が実感されるような状況がむしろその背景に存在するのだろう。
前回描写したような典型的設計プロセスは、編成的指向のトップダウンのフローを条件の複雑さに対応してフィードバック・ループ化したものと考えられる。計画に関わる当事者間で理想像の共有が可能であり、またそのモノへの転写の妥当性が共有されるとき、こうした速やかな収束を保証するプロセスが有効となる。ここで前提される二つの条件は結局のところ透明性への信頼、イメージとモノの透明な関係付けに関する習慣的信頼である。解釈的指向とここで呼ぶプロセスのイメージが一般化しつつある状況は、こうした仮定に依存することが意味を失った現在をおそらく反映している。
ここで極端な例を考えてみよう。パラディオはわれわれには正当なものとは思えない因習的根拠に基づいて建築を構想し、われわれにはとても共有できない古典的ドグマの徹底によって建築を作った典型的建築家である。彼がそのドグマを疑うことはほとんどなく、ただドグマの内部において完全性を誇る。これに対して厳格な近代主義者であれば、こうした古典建築を時代錯誤として躊躇なく一蹴するだろう。しかしわれわれはどうだろうか。パラディオに特に関心がなくともヒステリックな拒否はせず、パラディオの建築に魅力を感じる者もあるいは少なくないのではないか。この落差は、ある程度はスタイルそのものに対するわれわれのシニカルさ、あるいは無分別を示しているのだろうが、むしろ本質的には関心の方向性の遷移に由来するものであるように思われる。われわれはおそらく建築の質がその依拠する論理と関係するとは考えていない。パラディオの魅力がそのドグマの共有に依存しないように、結局のところ理解しかねるが良い建築もあれば、文句の付けがたい正統性を誇りながらあからさまに酷い建築もある。こう言うとすれっからしの開き直りのようだが、しかしそれがわれわれのリアリティではないか。そしてそうだとすれば、建築において共有される基盤はモノしかない。パラディオとわれわれがともにおなじモノ(=建築物)に直面している、という事実だけがそこにある。その意味でコーリン・ロウが「理想的ヴィラの数学」★二においてパラディオとル・コルビュジエを並べた視点は、驚くべき符合というよりはむしろ、現代の建築家の日常と言って良いかもしれない。
イメージとモノは根本的に非対称なものであり、一方から他方への透明な転写などありえない。これはいわゆるポストモダニズムが明らかにしたこととまったく同形の知見である。例えば記号論を介して意味と言葉について、価値形態論を介して価値と貨幣において、精神分析を介して意識と無意識について、この古典的透明性の崩壊は並行している。人文科学の諸領域において展開された構築主義的批判と、建築における現在の動向はきれいに符合すると言って過言ではない。そのような不透明性を直視したとき、編成的指向は危機に直面せざるをえない。古典性の二つのクライテリアがともに信頼できないとき、そこで可能なことは、不確かな期待に賭け望みを繋ぐか、あるいはその不確かさを生きることをあらためて選択するかだろう。それはすでにかなり非古典的な地点であり、強いて言うならばそれこそが近代主義にほかならない。これに対して解釈的指向は不透明性を前提として、茫漠とした野性的な領域へと向かう。イメージを欠くモノの編成とは、文字通り盲目で彷徨い歩くことである。いわば実験であり、何が見出されるか保証のない領域へと踏み出すということだ。

しかしイメージとモノのどちらが先行するかによって区別した二つの指向について、対立的に捉えるのは抽象的すぎる。結局のところなんのイメージも媒介とせずアレンジメントを作ることはありえず、解釈的指向とここで呼んだプロセスの実態は、むしろイメージとモノの混在をまるごとブラックボックス化しモノと見なす意識的切断を伴う。例えば大きなスケールにおいて解釈的指向が見られるが、細部においてはむしろ編成的指向が徹底されているというように。あるいは編成的指向をオブジェクト・レヴェルで行ないながら、解釈的指向がメタ・レヴェルで行なわれているというように。さらに建築が本質的に抱える複雑性を全面的に引き受けて、解釈的指向の場当たり的な実験を網羅的に行なうことは現実的に不可能でもある。例えばヴォリューム・スタディにおいて、膨大な数の模型を並べたプレゼンテーションは近年珍しくない。しかし例えばサーキュレーションとヴォリュームを一度にスタディしはじめれば、涙なくしては見られないゴミの山が築かれるのは間違いない。要素の数と自由度を増やすことでスタディのコストが急速に非現実的になるのは論理的な必然である。こうしたプラグマティックな条件は、ひとつの全体として編成される古典的な建築に対して、いくつかの部分の組み合わせへと現代建築を誘導しているように思われる。
あるモノの編成を解釈的に評価することが計画プロセスの決定的な位置を占めるということは、言い換えればある編成がどのような固有の可能性を実現するかを鋭敏に看取することが最大の問題となるということである。そこでは全体を一貫して規定するイメージなど必要ない。耐震壁や空調機にある建築の論理が一貫しているわけではないのと同じように、建築物のある部分が別の部分と異なる論理で組み立てられることはありうるし、すでにある程度はそうなのだ。かつてはシステムという全体にモジュールが統合されることが当然だったが、そのようなシステムの必要性は少し考えてみればさほど根拠のあるものではないことがわかるだろう。システムのような全体性によらずとも、ある場合には剥き出しのモジュールのアレンジメント自体が固有のクオリティを実現する場合があるのであって、純粋性や統一性によって組織される古典的建築に対して、そのような非古典的統語法が開拓されつつあるのではないだろうか。


★一──乱数を用いたシミュレーションを何度も行なうことにより近似解を求める計算手法。解析的に解くことができない問題を解くために用いられる。
★二──コーリン・ロウ『マニエリスムと近代建築』(伊東豊雄+松永安光訳、鹿島出版会、一九八一)所収。

>日埜直彦(ヒノ・ナオヒコ)

1971年生
日埜建築設計事務所主宰。建築家。

>『10+1』 No.36

特集=万博の遠近法

>コーリン・ロウ

1920年 - 1999年
建築批評。コーネル大学教授。

>ル・コルビュジエ

1887年 - 1965年
建築家。

>伊東豊雄(イトウ・トヨオ)

1941年 -
建築家。伊東豊雄建築設計事務所代表。