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都市の伝記──自伝という死の訓練 | 田中純
Analyses of Urban Representation 16 | Tanaka Jun
掲載『10+1』 No.34 (街路) pp.2-11

ヴェネツィアにほど近いパドヴァのの中心に、転倒した船の船底のような屋根をもつパラッツォ・デッラ・ラジォーネは建つ。「サローネ(大広間)」と呼ばれる巨大なホールを二階に有するこのパラッツォは、一二一八年から翌年にかけて建造され、幾度もの焼失と破壊をくぐり抜けてきた。サローネのほの暗い空間を囲む壁面は四方びっしりと、占星術にまつわる図像を中心とするフレスコ画によって埋め尽くされている。小宇宙をかたちづくろうとするこうした室内装飾のモチーフは、一四世紀初頭にパドヴァ大学で教えた医者・自然科学者ピエトロ・ダーバノの著作に由来するものだという。
この巨大空間の脚下、建物の一階は、八〇〇年以上にわたり、商店が軒を連ねる市場としてにぎわっている。そこは隣接する広場に立つ市と自然な連続をなして、パドヴァにおける商業活動の活気あるセンターとなってきた。パラッツォ・デッラ・ラジォーネは、際だって目に付く形態をもった建築物であると同時に、人びとや商品・物資の流れが縦横に行き交う交通の空間でもあるのだ[図1]。
アルド・ロッシが著書『都市の建築』中で「都市的創成物」と呼ぶのは、都市の構造の強固な一部として複数の機能を果たしつつ、そうした機能とはほとんど無関係な形態によって強い印象を与える、パラッツォ・デッラ・ラジォーネのような建築群のことにほかならない。そして、そのような都市的創成物の例として彼が真っ先に取り上げるのが、このパラッツォなのである。ロッシは形態の存在感は機能構成の問題より上位であると断言し、とりわけ「類型的形態」は機能構成とはまったく無関係であると言う★一。そのことについての、ほかに勝るもののない適例がパラッツォ・デッラ・ラジォーネである。それはいわば「類型的形態」なるものの典型なのだ。
このパラッツォのような建築の個性は何に由来するのか、とロッシは自問する。形態そのもののもつ力がそこに大きく与っていることは確かであるにせよ、それだけではない。さらに大きいのは、その形態が場所や時間のなかで複雑化され、再編成されているという、一見したところ単純素朴な事実だ。ここは、『都市の建築』全体を導く問いをロッシが手探りで確認しているさまを忠実にたどっておくべきだろう。引用しよう。

何かの価値や機能が当初の形をとどめているかと思えば、その他のものは完全に変わってしまっているとか、形態のある様相については様式を確かめることが出来ても、他はそれとは程遠い幻のようなものであるという、そうしたなかで、我々はそこに遺るかぎりの価値に想いを致し、そして気づかずにはいられないのが、たといこれらの価値がみな等しくその素材と結びついているにせよ、またこれらがこの問題にまつわる唯一の経験的データであるにせよ、どうしても私たちは精神的価値の方に気を取られてしまうということだ。こうした点にまで至れば、そこで論じられるべきは、我々がこの建物について抱く観念、この建物にまつわるより一般的な意味での記憶、それも集団により創成されてきた記憶といった事柄となろう。また私たちが有する集団との関わり、すなわちその建物を媒介として有することとなる関わりが話題となるはずである★二。


こうした着眼から、ロッシはこの書物のなかでモーリス・アルブヴァックスによる「集団的記憶」の研究を援用してゆくことになる。だが、このアプローチが孕む困難は、ロッシがすぐ続けて述べているように、パラッツォ・デッラ・ラジォーネを訪れたり、またはどこかの都市を探訪したりしているとき、人びとはみな異なった印象と経験をもつという、これまた当然とも言える事実にほかならない。
にもかかわらず、こうした種々雑多な経験の総和こそが都市をかたちづくっている。それゆえに、現代の思考様式では非常に難しくなっていることではあるが、是非とも必要なのは、「場所にその質を見いだすということ」だ、とロッシは言う。「そのような感覚によって古代人たちはある場所を聖別していたのであり、そしてこれを行なうために前提されていた思想はきわめて深い内容を持っていたのであって、到底、例の単純化された心理テストなどが提供するようなものでは及びもつかず、これはひたすら形の読み取り能力を試しているだけに過ぎないのである」★三。
「場」と建築との関係を模索するなかで、もうひとつの典型例としてあげられるのがローマのフォルム・ロマヌムである[図2]。急傾斜の丘に囲まれた谷にあるこの低湿の地では、柳や葦のあいだに水が溜まり、雨が降れば完全に冠水してしまっていた。丘のうえに暮らしたラテン人たちは、死者たちをそこに葬った。この墓地はやがて宗教儀式の場所となり、やがて、丘に散らばって住んでいた部族たちがそこに集い、都市が建設されてゆく。谷を最小勾配の経路で登る小径が街路となったがゆえに、土地の地形に順応した構造の不規則性がその特徴となった。
四世紀前後にフォルムはその基礎的機能であった交易の場所としての活動を止め、まったくの広場となって、彫像や神殿、モニュメントで満たされてゆくようになる。そこは豪華なバジリカや神殿、凱旋門で覆われ、そのあいだをヴィア・サクラとヴィア・ノヴァという二つの大通りやそれらをつなぐ様々な小路が走る。アウグストゥスやトラヤヌスによるローマ中心部拡張、あるいはハドリアヌスの建設事業によっても、そして、ローマ帝国終焉後でさえも、フォルム・ロマヌムは「出会いの場」としてのローマの中心であることをやめなかった、とロッシは言う。そこはこの都市における特別な「創成物」、「全体を集約する部分」となった。

1──パドヴァ、パラッツォ・デッラ・ラジォーネ、 18世紀

1──パドヴァ、パラッツォ・デッラ・ラジォーネ、
18世紀

2──ローマ、フォルム・ロマヌム全景 ともに出典=アルド・ロッシ『都市の建築』

2──ローマ、フォルム・ロマヌム全景
ともに出典=アルド・ロッシ『都市の建築』

それはローマを要約しかつローマの一部となっており、そこのモニュメント群の総和であるが、しかしその個別性はそれらモニュメントのどれよりも強力なのだ。それが表現している明確なデザイン、ないし少なくとも明確なヴィジョンは形態の世界のそれ、つまりは古典的世界のそれなのだが、しかしそのデザインの古さはかつて原始の丘の羊飼いたちが集っていた谷あいの最古のものであり、ほとんどそこに居座り、前世から存在していたようにすら思われる。私はこれ以上に一個の都市的創成物を言い表わすようなものを知らない★四。


フォルムはこのような圧倒的な「古さ」とともに、驚かされるような近代性をも備えた都市的創成物だった。ロッシはこのフォルムをめぐる書物から、ヴィア・サクラを歩く古代ローマの遊び人をめぐる一節を引用している。──この大通りやそこにつながる街路には、贅沢品を商う店がひしめいており、人びとは物珍しげに通り過ぎるものの、何を買うわけでもなく、何もせずにただぶらぶらと、見世物の始まる刻限や浴場が開く時間を待っている。ホラティウスの風刺詩に描かれた「厄介者」の描写には「ibam forte via Sacra(たまたまヴィア・サクラを通って)」というくだりがあるが、似たような「たまたま」の出来事は、フォルム・ロマヌムで無数に繰り返されていたに違いない。

わずかに何か悲劇的な事件が、パラティヌスのカエサルたちの宮殿内かあるいは近衛軍団のキャムプなどで起こったときだけは、鈍いローマ人の心を奮い立たせることが出来たのであった。それというのも、フォルムは帝政期にも時々は血腥い事件の舞台とはなっていたがしかしその事件はそれが起こる場所の方に、言うなればまちそれ自体に、吸い取られ自ずと終わり消えてゆくような事件であった。事件の結末はここ以外の余所でならもっと派手なものとなっていただろう★五。


フォルム・ロマヌムは悲劇的な事件さえ色あせてしまうような、強力な「夢」の磁場とも言える場所だった。そこを訪れる人びとは場所の魅惑に酔うあまりに、出来事の意味を正確に受容することができない。彼らは夢見ているがゆえに「鈍い」のである。その夢から束の間目覚めることができるのは、フォルムという場の呪縛を逃れた事件の衝撃によってだった。
ホラティウスの「厄介者」をフォルムに結びつけている何か、それこそ、こうした都市的創成物の神秘である。現代の都市におけるのと同様に、人びとはそこを通り過ぎるだけで、何もしようとはしなかった。遊び人という「群衆のなかの人間」は「都市の機構に巻き込まれ、イメージのなかでだけそこに参加している」★六。ロッシはこうした都市経験が、古代ローマと現代のパリに共通するものであることを示唆している。
古代のフォルム・ロマヌム、中世のパラッツォ・デッラ・ラジォーネと並ぶ都市的創成物を、われわれはベンヤミンにならって、一九世紀パリのパサージュに見いだすことができるのではないだろうか。そこが商品によって囲まれた、ぶらぶら歩きをする群衆の「夢の空間」であったこと、あるいはまた、とりわけパラッツォ・デッラ・ラジォーネと似た、建築空間(というよりも建築物の狭間に産み落とされた残余の空間)であると同時に交通空間でもあるというその両義性などについて、ここで繰り返すことは避けておこう。集団的な記憶に根ざしながら、それを同時にかたちづくりつつ、その表現となって変化を続ける都市空間(都市的創成物)をめぐるロッシの歴史への視線が、ベンヤミンのそれと重なり合っていることを確認できれば十分だ。
「歴史への視線」と書いた。ロッシが読みとろうとしているのは、『都市の建築』の序でソシュールに言及しながら言語学と都市研究との類比について述べていることが示しているように、テクストとしての都市の歴史的な変形過程だからである。そして、そこで問題となるのは、この変形プロセスの具体的な現象形態である都市的創成物の記述方法にほかならない。
その方法をめぐって注目されるのが、『都市の建築』末尾にいたって、ロッシが「伝記」という記述スタイルに触れている点である。

このように複雑な都市の構造が、一つの議論のなかから、それも、その参照語彙が至って断片的であるようなそれのなかから、浮かび上がってくる。おそらくそれは、ちょうど個々の人間の生活や運命を支配する法則と同じものなのだ。どの伝記にも興味を惹くに充分な話題が詰まっているものであり、およそ伝記というものがすべて生と死との間のことに限定されているにもかかわらず、そうなのだ。確かに、都市の建築は、このすぐれて人間的事象は、こうした伝記の具体的記号なのだ。意味や感情を超えたところで、それにより我々は都市を知るのだ★七。


都市の伝記は、家や学校、教会といった建造物、モニュメント、そして複合的な「創成物」としての「ファッブリカ」といった要素を通して、そこに隠された願望などまでも明るみに出してみせる。そのなかには都市の進路から見放されたかのようにして放置された断片としての「中断された作品」の数々も含まれる。都市とは無数の計画案の墓場にほかならず、いわば一枚の印画紙にそうした計画の諸々を重ねて焼き付けた画像である。そのうえに散らばっている断片とは、いったん切り開かれながら、可能性を残したまま捨て置かれたものたちであり、そこにはいまだ計り知れない潜在的な力が秘められている★八。
そうした力を発見し、都市の伝記を書くために必要とされるのが、現代の都市へと向けた、「古代のミケーナイを見つめる考古学者の目」にほかならない。「そのようにすればやがて建築のファサードや断片の背後に我々の文明の昔の英雄の面影を見いだすこともできるはずだ」★九。
これは『都市の建築』アメリカ版初版への序文の一節だが、そんな伝記作家として、ほかならぬニューヨーク・マンハッタンの「自伝」を書いたゴーストライターがいなかっただろうか。──言うまでもない。レム・コールハースの『錯乱のニューヨーク』である。念のために、この伝記作家の弁明を引いておこう。

波瀾万丈の人生を送った映画スターなどは、我が強過ぎて決まりきった人生のパターンには飽き足らず、かといって己れの意図を述べるほどには頭が整理されておらず、また事件を記録または記憶しておくほど用意周到でもない場合が多いものだ。そこでゴーストライターの出番になる。
そんな意味での、私はマンハッタンのゴーストライターであった。 (いずれ分かるように、これにはさらに複雑な事情が加わる。つまり私の考察の源であり主題でもあるものは、自分の「人生」を全うする前に早々とボケてしまったのだ。このために私は自分で勝手な結末を書かねばならなくなった)★一〇


このアイロニカルなゴーストライターの著作を、都市の伝記をつづるひとつの文体の成果として緻密に解読している余裕はいまはない。ただ、議論を先取りして一言だけ述べておくならば、コールハースが勝手に付け加えた結末なるもの(『錯乱のニューヨーク』の補遺である「虚構としての結論」)は、ロッシの言う「類推的都市」にほかなるまい。それはマンハッタンの都市的創成物の解読を通じて、その記憶と類推から、もうひとつのマンハッタン、類推的マンハッタンを作り上げようとする試みだった。ロッシからコールハースへと直接の影響があったかどうかはつまびらかではない。しかし、都市をめぐる思考が、都市社会学や人文地理学といったディシプリンから離れたところで、建築史からも逸脱し、ベンヤミンからロッシ、コールハースへと流れる、ある系譜を描いていたことは確認されておいてよい。逆に見れば、『パサージュ論』とは、これもまたゴーストライターによる、遅ればせながらの一九世紀パリの伝記たらんとした試み、と言えなくもあるまい。
そして、ベンヤミンが『パサージュ論』と併行して、『一九〇〇年頃のベルリンの幼年時代』へと、つまり、一種の自伝の試みへと向かった経緯は、『都市の建築』から『学としての自伝』へのロッシの歩みに重なって見える。ロッシは物理学者マックス・プランクの『学としての自伝』に書名を負っているほか、スタンダールの自伝『アンリ・ブリュラールの生涯』に魅せられた経験を語っている。ロッシは建築の知識をこの「自伝と建築図面の奇妙な混合物」から初めて得たという★一一。『学としての自伝』にいたるロッシの建築、建築論を導いたのはまさしくこの「混合」だった。
『アンリ・ブリュラールの生涯』は二〇センチ×三〇センチの大型用紙八七八枚に書かれており、本文のほかにおびただしいスケッチや書き込みを含んでいる。スケッチの多くは生地グルノーブルをはじめとする都市のある一画の地図や、建物の部屋割りなどを示す平面図である[図3]。スタンダールは執拗に、過去の空間内における自分の位置を視覚的に明示しようとするのである(頭文字Hでその位置が書き込まれている図も多い)。
ロッシの心を動かしたのは、手書きという技法が、文章を書くとともにドローイングを描く、複合した技法であるという点と、スタンダールの図面が都市や建築の形態や規模を無視し黙殺して、骸骨の骨組みのようなものだけに還元してしまっている点だった。古代の遺跡のように、平面的な区切りだけが浮かび上がったものこそが、これから出来事が発生する直前の、「類型」としての都市であり、建築なのである。「戦時下の都市の写真、集合住宅の断面、壊れた玩具」といった断片化した「骸骨」、こうした遺跡のみが「事実を完璧に表現する」★一二[図4]。それは、ロベルト・ロッセリーニの映画『ドイツ零年』冒頭に映し出される第二次世界大戦直後のベルリンの廃墟にこそ、「映画」としての「建築」があるという鈴木了二の認識と響き合うものであるかもしれない。ロッシはすでに『都市の建築』序文のなかでこう書いていた。

先頃の大戦爆撃後のヨーロッパ都市を憶えておられる人なら、眼のあたりに、無残にはらわたをさらけ出した家々を思い浮かべずにはいられないはずであるが、そこには瓦礫の間にいかにも確かに、その土地の家族生活の断面が印されていて、それが色褪せた敷物や天井からぶら下がった洗面台、もつれたパイプなどといった光景、つまりかつてそれらの場所を占めていたはずの親密性が解体されてしまった情景のなかにも、遺っていたのである。そしていつでも、我々自身にとっても不思議なほど古いもののように見えてしまうのが幼年時代の家々の姿であって、移ろいゆく都市のなかにそれらを見いだすのだ★一三。


都市に向けた考古学者のまなざしはこうして、「不思議なほど古い」、自分自身の幼年時代へと向かう。ベンヤミンがベルリンに向けたものもそんな視線であっただろう。ロッシは自伝のなかで、再発見されるべき建築という対象は「事物の関係」にほかならず、それゆえに、純粋化された事物それ自体のデザインはもはやありえないと言う。そして、彼がそこで引くのがこんなベンヤミンの言葉である。「それゆえ、ここで私を取り巻いているものすべてとの関わり合いから、私の姿は崩れていく」★一四。
ロッシはこの引用の典拠を示していない。けれど、それはわれわれに、『一九〇〇年頃のベルリンの幼年時代』で回想されている、写真撮影の経験の思い出を連想させる。写真スタジオをベンヤミンは「拷問部屋」や「処刑の場」に譬えている。そこは撮影用の書き割りやクッション、柱の台座といった小道具たちが、「生贄の動物の血に飢えた冥界の亡霊のように」、「私のイメージ」を手に入れようと狙っている修羅場だった。

3──スタンダール 『アンリ・ブリュラールの生涯』より

3──スタンダール
『アンリ・ブリュラールの生涯』より

4──ミラノ、 破壊されたパラッツォのカリアティド 出典=アルド・ロッシ『都市の建築』

4──ミラノ、
破壊されたパラッツォのカリアティド
出典=アルド・ロッシ『都市の建築』

私の写真では、私は無帽で立っている。左手に大きなソンブレロを持ち、それを、教え込まれた通りの優美な手つきで垂らしている。右手はといえば、杖を一本持たされていて、斜めに曲がったその握りの部分が手前に見え、これに対してその先のほうは、ガーデンテーブルからあふれ落ちた駝鳥の羽の飾りのなかに隠れている。(…中略…)まるで仕立屋のマネキン人形のように、母は、モード雑誌に倣ったものらしい、縁飾りが山ほど付いた私のビロード服に、目をやっている。けれども、私自身は、ここにある身のまわりのいっさいに似させられて、すっかり歪められている★一五。


この最後の一節こそ、もともとのベンヤミンの言葉だったとすれば、ロッシがベンヤミンを引いて言う「事物の関係」とは、事物相互の類似を意味することになろう。ベンヤミンの思い出もまた、間違って聞き取られた言葉が子供に強いる、住居や家具や衣服などのさまざまな事物に似ようとする演技をめぐっていた。「類似を見てとるという人間のもつ才能は、似たものになるように、また似た振舞いをとるように強いた、かつては強大であった力のその痕跡にほかならない」という認識がその背景にある★一六。照 応コレスポンデンツへの感受性や類 推アナロジー的思考のうちに表われているのは、そんな魔術的な類似認識の能力、模倣の能力のかすかな残滓に過ぎない。
写真のなかで、数十年前の自分は「すっかり歪められている」とベンヤミンは言う。歪められていると言っても、被写体との可視的な類似が問題でないことはもちろんだ。では、何が歪んでいると言うのか。ベンヤミンの回想を残された写真と比較するとき、ベンヤミン自身も気づかなかったであろう、そんな歪みのありどころがたまたま明らかになる。それは彼が左手にもっていると述べている「大きなソンブレロ」である。ここで言及されていると思われる写真で、少年ベンヤミンは左手には何ももってはおらず、その手を左膝に載せているのだ[図5]。では、問題のソンブレロはどこから現われたのか。
ベンヤミンが自分の少年時代の写真撮影を回想するたびごとに、それに関連して彼が思い出しているもう一枚の写真がある。子供時代のカフカの写真だ[図6]。それをベンヤミンは「あの『あわれな束の間の幼年時代』がこれほど感動的に写真に定着されたことはめったにない」と評している★一七。襞飾りのあるカーテン、棕櫚の木、ゴブラン織り、画架などがごてごてと配置された温室のようにも見えるスタジオで、六歳ぐらいの幼いカフカは縁飾りのたくさん付いた窮屈な服を着せられ、左手には異様に大きく、つばの広いソンブレロのような帽子をもたされている。服とおそろいになっているのか、てっぺんの渦巻き文様がやけに印象的なこのソンブレロが、回想のなかでベンヤミンの幼年時代へと移し替えられているのである。異様に巨大で、渦巻き文様で目を引きつけるソンブレロという「歪み」を通路にして、カフカとベンヤミンの幼年時代が回想のなかで互いに似通い、混じり合う。

5──「チロル風の服を着たヴァルター・ベンヤミンと弟ゲオルク」(1902年頃)

5──「チロル風の服を着たヴァルター・ベンヤミンと弟ゲオルク」(1902年頃)

6──「フランツ・カフカ」(1888─89頃)出典=ヴァルター・ベンヤミン『図説  写真小史』 出典=ヴァルター・ベンヤミン『図説 写真小史』(ちくま学芸文庫、1998)

6──「フランツ・カフカ」(1888─89頃)出典=ヴァルター・ベンヤミン『図説  写真小史』
出典=ヴァルター・ベンヤミン『図説 写真小史』(ちくま学芸文庫、1998)

類似が同一性ではない以上、そこには歪みが宿る。類推は差異の系列以外のなにものでもない。それうえにロッシにとって「関係とは、決して閉じられることのない円環」なのだ。「多分、デザインとは、事物のアイデンティティ獲得の中で類推が働き、それが再び沈黙に辿り着いた空間でしかない。(…中略…)事物や対応関係が純粋な状態ではなく、それが果てしなく濁ったところに沈黙は回帰してゆく」★一八。その結果として、この閉じることのないサイクルのなかで、オリジナルなものは複製と同じような曖昧な対象になってゆく。そのとき、ここで言う「沈黙」とは、「最後にはみずからを消去してしまう正確なイメージ、もしくは重ね合わせ」である、とロッシは言う★一九。それは類推の円環がほとんど閉じようとする状態にほかなるまい。そこは、プルーストの作品世界をめぐってベンヤミンが述べているような、覚醒時よりもはるかに深い類似性の世界だろうか。「夢の世界では出来事が、決して同一のものとしてではなく、似たものとして、つまり見分けがつかないほどそれ自体に似たものとして出現する」★二〇。
「どの夏という夏も私には最後のものに思われた」と書くロッシの「発展のない体液停止スタージの感覚」は★二一、この建築家が現実とほとんど見分けがつかない類推的都市の建築へといたる「発展」のための条件だった。彼はその道程を「建築を忘れること」とも呼ぶ。スタンダールの自伝のように、グラフィックが手書き文字と混合されてしまうような、二次元的で絵画的な建築類型への志向は、そんな忘却を目標としていた。
繰り返される夏の午後、長く延びた影をかたちづくる建物──キリコの絵画が帯びているメランコリーに通じるものを思わせる、永遠回帰的な反復と希望のなさが、ロッシの作品世界に巣くうひとつの要素であることは確かだとしても、彼はこの反復は同時に「幸福の探求」であるとも言う。そして、「今や私にとって、白痴の形態、根っからの馬鹿馬鹿しさ、さもなければよみがえった馬鹿馬鹿しさの形態を含み込まない完全な幸福の瞬間などありえないのは明らかである」。「つまり、二人の子供が睨めっこをして最初に笑った方が負けというようなものなのだ」★二二。
ロッシのデザインする、建築に似たコーヒーポット、あるいはコーヒーポットに似た建築は、馬鹿馬鹿しい「白痴の形態」がもつユーモアにより、乾いた笑いを誘い出す。それは、もはやキリコ的というよりも、カフカのオドラデクに似た、無目的で呆けた機械のような代物なのだ。そして、あの「歪み」としてのその醜さ、この形態の白痴性を発見するための、際限もない類推的反復なのである。ロッシがひとつの建築の定義として書きつけているこんな言葉、「部屋のもっとも高いところから一気に一〇メートルも落っこちた」★二三──そんな部屋ほど、白痴的に滑稽で、カフカ(あるいはベケット)的な笑いを引き起こす建築空間も滅多にあるまい。
ロッシにとって「幸福の瞬間」を実現した建物のひとつが、ヴェネツィア・ビエンナーレに際してデザインされた、水に浮く「世界劇場(Teatro del Mondo)」だった[図7・8]。ロッシはヴェネツィアを「原型的な都市」★二四、「目立って類推的な都市」★二五と呼んでいる。それゆえそこでは、とめどない類推が溢れて尽きることを知らなかった。架空の光景を描いたカナレットによるヴェネツィア風景画に似て、都市ヴェネツィアの類推的な似姿を多層的にかたちづくるこの建築については、大島哲蔵の明晰で簡潔な叙述を引いておこう。

7──燈台の基礎および劇場(1980) 出典=アルド・ロッシ 『アルド・ロッシ自伝』

7──燈台の基礎および劇場(1980)
出典=アルド・ロッシ
『アルド・ロッシ自伝』

8──世界劇場(Teatro del Mondo) 出典=Aldo Rossi, Gandon Editions, Architectural Design, 1983.

8──世界劇場(Teatro del Mondo)
出典=Aldo Rossi, Gandon Editions, Architectural Design, 1983.

その形態は聖堂の塔屋や浮標を模し、機能はルネッサンス─バロック期の「舟遊び」に端を発する。しかしそれはロッシにとって文字通り出発点であって、更に高次の諸問題がここでは扱われている。つまり仮設性や(逆)ユートピアの幻影はヴェネツィアの不動性と虚構性に対立し同調し、避難小屋のイメージは蛮族に追われた祖先の記憶へと回帰し、劇中劇の様相がこの都市の舞台性を逆照射している。それは折れ重なった連想を誘起し、都市ヴェネツィアに捧げられたテンポラリーな「都市的創成物」、都市が辿った運命の注釈となっている★二六。

 
それはロッシが建築として書いた、都市ヴェネツィアの伝記だったのだ、と言えるだろうか。その大学で教鞭をとり、十数年間も暮らした場所であるにもかかわらず、彼が決して語ろうとしてこなかった街であり、他の多くの都市で感ずるよりもはるかに強い疎外感を覚え、どこかよそ者の感じをぬぐうことができなかった場所であるというヴェネツィアの。
建築家は都市の伝記に(時には勝手な)結末を書き込むことができる。しかし、それが都市のもろもろの創成物と歪んだ類似の関係に入っていなければ、それ自体が都市的創成物になることはないだろう。これは都市的コンテクストの尊重などといった方法論の問題ではない。類推の過程は、徹底した反復であるかのように見えて、実はまったく逆に、オリジナルの完全な忘却をへた、無意識からの想起であり、差異と歪みの変形プロセスの果てに浮かび上がる「類型」へと、濁って曖昧な道のりをたどることだからだ。
一枚の印画紙に都市計画案の諸々を重ねて焼き付けた画像のなかから、その都市の全体を集約するようにして浮上するパラッツォ・デッラ・ラジォーネやフォルム・ロマヌムといった「類型」には、その都市の「おもかげ」という名がふさわしい。類推的都市とは、現実に存在する都市の「おもかげ」が、ほんのごくわずか歪んだ何かにほかならない。『学としての自伝』のロッシがベンヤミンの読者であったことは確認した。ドイツあるいはオーストリア文化狂いだったこの建築家が、ゲーテの原型概念に触れていたことは十分考えられるだろう。都市的創成物の理念に、メタモルフォーゼによって具体的な植物の形態を生み出す、ゲーテ的な原植物の「おもかげ」を見て取ることも不当ではあるまい。都市の伝記とは、その都市の「おもかげ」としての原型を記述することなのだ。そして、世界劇場のような類推的都市の産物は、ある都市のそれぞれ異なる「おもかげ」を幾重にも織りなしてみせる重層的な映像にも似た何かだろう。
ロッシは自伝の最後に、「それ自体の内に何か予知不能で偶然なものを含み込んだプロジェクト」が眼前に浮かんできた、と書いている★二七。自伝には必然的に終わりはない。「終局の機会」はいつも逃げ去ってしまう。「別の記憶、別の動機が視野に入ってきて、まだ私にとってはとても愛しい元のプロジェクトを変化させていく」★二八。これを逆に言いかえれば、自伝とは終局の機会を実現しようとする願望の産物である、ということではなかろうか。ベンヤミンが書いたような幼年時代をめぐる自伝だけが、すでに終わって完結した時間についてのテクストになりうる。ロッシが自分の「分身」と呼ぶ作品の筆頭に取り上げるファニャーノ・オローナの小学校、彼がもっとも気に入っているというその写真のなかで、階段にたたずんでいる子供たちの頭上の、永久に止まってしまった巨大な時計が表わす完結した時間の──「この時計は、その時の時間とともに幼年期の時間をも示している」★二九[図9]。

9──ファニャーノ・オローナの小学校、中庭 出典=Aldo Rossi

9──ファニャーノ・オローナの小学校、中庭
出典=Aldo Rossi

最後に、文字通り失われた幼年時代を再発見する男の物語が、都市的創成物の解読をともなった小説(これもまた一種の伝記であろう)として、W・G・ゼーバルトの『アウステルリッツ』を取り上げておこう★三〇。一九六七年、アントワープ中央駅の待合室で小説の語り手は主人公アウステルリッツに初めて出会う。アウステルリッツが取り組んでいる研究は「資本主義時代における建築様式」という、『パサージュ論』を否応なく連想させるものだ。一方、彼が講師として働いている、大英博物館にほど近い「ロンドンのさる文化史研究所」は、ウォーバーグ研究所を思わせる。
出会いの時からすでに、中央駅に見つかるベルギー資本主義のシンボリズムや軍事要塞の象徴性と歴史的実態をめぐるアウステルリッツの博識が披瀝され、語り手はそれに導かれて、ドイツ軍が強制収容所に転用した、怪物じみた異様な形状のブレーンドンク要塞を訪ねる。ひとたびはぐれては偶然によって再会したアウステルリッツはさらに、ブリュッセルのメガロマニアックな最高裁判所の迷路のような構造について解説する。──数多くの写真や図版が差し挟まれるこの作品は、建築物をめぐる物語であり、一種の都市小説なのだ。読者がほとんど気づかぬよう、巧みにさまざまな引用が織り込まれているところからも、これは『パサージュ論』めいた、それ自体が都市的創成物のような書物であると言える。
音信不通になってから二〇年後の一九九六年に再び偶然が重なって再会したアウステルリッツは、語り手に子供時代以来の思い出を物語る。職を辞めて孤独になった彼が見つけ出していったのは、自分の幼年時代の記憶にそもそも欠落があるという事実だった。その失われた時を求めて、この都市小説はロンドンからプラハへと舞台を移し、さらにテレジン、マリーエンバート、ニュルンベルク、パリへと移動してゆく。建築写真や地図、要塞の平面図、風景写真に人物のスナップ写真まで、イメージもまた物語に埋め込まれた引用として、この架空の伝記を二〇世紀の歴史に縫いつける役割を果たしている[図10─12]。

10─12──W・G・ゼーバルト 『アウステルリッツ』より

10─12──W・G・ゼーバルト
『アウステルリッツ』より

アウステルリッツの記憶の穴が歴史のどんな裂け目と重なり合っていたのかをここに書き記すことは控えておこう。われわれにとって重要なのは、アウステルリッツという建築史家が、資本主義時代の集団的記憶の場であるさまざまな都市空間──駅舎、裁判所、要塞=収容所、図書館、動物園、墓地──をさまよいながら紡ぎ出す物語──都市の伝記──が、彼自身の自伝と交錯してゆく様相のみだからだ。彼はその過程で過去という迷路に翻弄され零落してゆく。幼年時代の回復は決して過去との宥和ではなく、むしろ、想起することが致命的な破壊でしかない記憶があることを、それは暗示するかのようでもある。
ロッシは一九九七年、ゼーバルトは二〇〇一年に、それぞれ交通事故で急死している。都市の伝記作家にして自伝の著者(ないしそんな著者をめぐる伝記作家)であった人びとは、突然に訪れた自分の生の終わりを予期する間もなく死んでいった。しかし、自伝とはそもそも、ロッシが述べていたように、終局を招き寄せ、確定しようとする欲望の産物ではなかっただろうか。ベンヤミンも含めて、そんな死の訓練が都市の伝記と交差するのは、都市自体が、終局にいたった個人を迎え入れる、冥界めいた場所をあらかじめ備えているせいかもしれない。自伝を書くとは、そのような場所に似ようとすること、ひとが都市に類似した「おもかげ」を帯びようと努めることなのだ。それは幼年時代の模倣の能力を取り戻そうとする試みなのである。「けれども、私自身は、ここにある身のまわりのいっさいに似させられて、すっかり歪められている」。
都市的創成物とは恐らく、個体が死してのち集団の記憶へと流れ込む、門のような境界でもあるのだろう。そして、そんな異界への閾越しに都市の「おもかげ」をかいま見ることが許されるのは、みずからの生に考古学者のまなざしを向けることを知る者だけであるに違いない。


★一──アルド・ロッシ『都市の建築』(大島哲蔵+福田晴虔訳、大龍堂書店、一九九一)二九八頁(ポルトガル語版序文)。
★二──同、二二頁。
★三──同、二二─二三頁。
★四──同、一九一頁。
★五──Pietro Romanelli, Il Foro Romano. Bologna: Licinio Cappelli Editore, 1959,p.368.引用はロッシ、同、一九〇頁による。
★六──同、一九〇頁。
★七──同、二七一─二七二頁。
★八──同、三一五頁(アメリカ版初版への序文)参照。
★九──同、三一六頁(アメリカ版初版への序文)。
★一〇──レム・コールハース『錯乱のニューヨーク』(鈴木圭介訳、筑摩書房、一九九五)一〇頁。
★一一──アルド・ロッシ『アルド・ロッシ自伝』(三宅理一訳、SD選書、一九八四)二〇頁。
★一二──同、二四頁。
★一三──ロッシ『都市の建築』、五─六頁。
★一四──ロッシ『自伝』、四六頁。
★一五──ヴァルター・ベンヤミン「一九〇〇年頃のベルリンの幼年時代」(『ベンヤミン・コレクションIII 記憶への旅』浅井健二郎編訳、ちくま学芸文庫、一九九七、五六一頁)。訳はアドルノ─レックスロート稿に従う。
★一六──ヴァルター・ベンヤミン「模倣の能力について」(『ベンヤミン・コレクションII エッセイの思想』浅井健二郎編訳、ちくま学芸文庫、一九九六、七六頁)。
★一七──ヴァルター・ベンヤミン「フランツ・カフカ」(『ベンヤミン・コレクションII エッセイの思想』一二三頁)。
★一八──ロッシ『自伝』、八〇頁。
★一九──同、一七七頁。
★二〇──ヴァルター・ベンヤミン「プルーストのイメージについて」(『ベンヤミン・コレクションII  エッセイの思想』四二一頁)。
★二一──ロッシ『自伝』、九頁。
★二二──同、五七頁。
★二三──同、五六頁。
★二四──同、一四八頁。
★二五──同、一五五頁。
★二六──ロッシ『都市の建築』、四二五頁、大島哲蔵「あとがき(記憶の廻廊にて)」。
★二七──ロッシ『自伝』、一九五頁。
★二八──同、一九六頁。
★二九──同、一二九頁。
★三〇──W・G・ゼーバルト『アウステルリッツ』(鈴木仁子訳、白水社、二〇〇三)。

*この原稿は加筆訂正を施し、『都市の詩学──場所の記憶と徴候』として単行本化されています。

>田中純(タナカ・ジュン)

1960年生
東京大学大学院総合文化研究科教授。表象文化論、思想史。

>『10+1』 No.34

特集=街路

>パサージュ

Passages。路地や横丁、街路、小路など表わすフランス語。「通過」する「以降...

>レム・コールハース

1944年 -
建築家。OMA主宰。

>錯乱のニューヨーク

1995年10月1日

>鈴木了二(スズキ・リョウジ)

1944年 -
建築家。早稲田大学教授(芸術学校校長)。鈴木了二建築計画事務所主宰。

>大島哲蔵(オオシマ・テツゾウ)

1948年 - 2002年
批評家。スクウォッター(建築情報)主宰。

>建築写真

通常は、建築物の外観・内観を水平や垂直に配慮しつつ正確に撮った写真をさす。建物以...

>福田晴虔(フクダ・セイケン)

1938年 -
西日本工業大学教授/建築史。日本建築学会、建築史学会、米国建築史学会。

>三宅理一(ミヤケ・リイチ)

1948年 -
建築史、地域計画。慶應義塾大学大学院政策メディア研究科教授。

>ヴァルター・ベンヤミン

1892年 - 1940年
ドイツの文芸評論家。思想家。