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議会制民主主義の果ての狂い咲き国会前サンダーロードを偲ぶ(別称=昭和残響伝) | 小田マサノリ
Mourning the Thunder Road to the Japanese Parliament on the Limit of Parliamentary Democracy. (a.k.a. An Echograph of the Showa Era) | ODAMASANORI
掲載『10+1』 No.33 (建築と情報の新しいかたち コミュニティウェア, 2003年12月発行) pp.38-40

今後、この映像は、
繰り返し使われるだろう
「ヒゲとボイン。国会と雷」


平成一五年九月三日の夕刻、東京・永田町の〈国会議事堂〉におおきな雷が落ちた。議事堂の段状の屋根を直撃したその雷の激しい衝撃で、尖搭の外壁の御影石がはじけとび、バケツにたっぷり一杯分もの石の破弾が、激しい雨とともに、衆議院側の中庭の地面の上にふりそそいだという。このニュースを聞いたとき、即座にいくつもの連想と記憶が頭をよぎった。なかんずくそこで砕け散ったのが、慰霊碑などに使われることの多い御影石だっただけに、わけてもまずは、死者たちのことが頭に浮かんだ。ひとりはまず、花森安治のことだった。戦時中、〈旧国会議事堂〉の中にあった大政翼賛会宣伝部の花形部員として、戦意高揚の国策広告を数多く手がけた花森は、一転して戦後は、雑誌『暮しの手帖』の編集長として、「庶民」の暮しをなによりもまず第一にするというラディカルな(というのはつまり、その「根本」にたちもどった)「民主々義」を唱え、平和憲法の保持と武器の廃棄を、戦後かけて訴えつづけた。「ぼくらの暮しと企業の利益とがぶつかったら 企業を倒すということだ ぼくらの暮しと政府の考え方がぶつかったら 政府を倒すということだ それがほんとうの〈民主々義〉だ」★一。ことに死を前にした晩年の花森は、時の政府に対するきびしい批判の文を数多く書き遺している。「ぼくらにとって〈くに〉とは、ぼくたちの暮しや仕事をじゃまするものでこそあれ、けっして何かの役にたってくれるものではないのである」と花森は云い、「〈くに〉というのは、具体的にいうと政府であり、国会である」と書いた。そしてその文には、花森自身の手になるものと思われる、暗転した議事堂のファサードの写真や、大粒の雨にうたれる議事堂の遠景ショットのほか、翼賛体制時代のグラフィックワークを思わせるような仰角のアングルで撮られた議事堂の写真などが効果的に添えられていた★二。そんなこともあって、議事堂を襲った落雷は、先の国会で有事法制をあっさり通過させてしまった現政府(小泉政権)と、それをうっかり許してしまった私たちに対する、花森の怒りの雷(いかづち)ではないのかと、そう思ったのである。そして、いまひとりの死者は六〇年安保闘争のさなかの一九六〇年六月一五日の国会前デモで落命した樺美智子のことである。その日の夕刻、樺たちが仲間たちと共に突入していったのは衆議院の南側通用門だった。今回の落雷で砕け散った御影石の礫(つぶて)が落ちてきた場所が、衆議院側の中庭だったということもあって、なにやらそこにこの土地と建物にまつわる昭和の恩讐のようなものを感じずにはいられなかったが、そもそも、国会議事堂のあの奇妙な屋根のかたちに思いをいたすならば、こうした因縁もさもありなんである。鈴木博之中谷礼仁の論考を通じて★三、「国会議事堂墓標説」として知られているように、国会議事堂の上に載った段状の屋根は、紀元前四世紀のギリシャ時代の霊廟(マウソレウム)が、その原型になっている。つまりこの国の国会議事堂は、鈴木博之が指摘するように「メメント・モリ(=死をおもえ)」という「意味」がぬりこめられた場所であり、またその建築は「様式主義建築そのものの墓標」(中谷礼仁)であり、そして、川添登が六〇年安保闘争に寄せて述べたように、そこは「民主主義の墓場」である……のだが、はたして、そこでたちどまってしまってよいものだろうか。もとより私はあくまで通りすがりに建築をながめる通行人にしかすぎず、建築/史を専門とする者ではないので、この定説に異論を唱えるつもりなどこれっぽちもないのだが、それにしても、こうした話はあまりにわかりやす過ぎる話ではないか、という印象を抱いてしまい、ついゝゝ身構えたくなってしまう。いや、むしろそれは、先に自分で書いたような、花森の怒りや樺の因縁という物語についてこそ云えることで、因縁という説話や墓というしかけが持つわかりやすさには、私たちの政治的意識を眠りこませてしまう、ある種の催眠効果があるように思う。私がそう思ったのは、今回の議事堂への落雷事件の三年前にあった別の落雷事件の報道のされ方を知ってである。まず今回、私が国会への落雷のニュースを知ったのはテレビによってであり、そこでは落雷の瞬間のスペクタクル映像が流された。その後に見たネットのニュースなどでもやはりその決定的瞬間の写真が掲載されていた。あいにく私はテレビを持ってないので、翌日のワイドショーなどでそれがどのように報じられたかは知らないが、おそらくそれは二〇〇〇年七月四日のそれと、さほど変わらないものではなかったかと思う。それは森喜朗が総理大臣に指名された日のことで、その日の東京は交通機関が麻痺するほどの激しい雷雨に見舞われていた。その時は国会そのものへの落雷こそなかったが、テレビはこの組閣のニュースに「雷を背負った国会議事堂」の映像を挿入し、こんなコメントを添えて報じたという。「森内閣に雷の祝福」、「国会に天の怒りか?」★四。こうしたことから推するに、今回の国会への落雷の映像や写真もやはり「天の怒り」というような語り口で報じられ、またそのように受けとめられたのではないかと思う。実際、この事件の翌日「きのう国会に落ちた雷は天罰だね」と人がそう云うのを耳にしたし、さらには「どうせなら小泉に落ちればよかったのにね」という者もいた。たしかにテレビやネットが配信するスペクタクル映像と、そこで流通する神話的な語りは、政治に対する「ザマーミロ効果」とでもいうべきカタルシスを与えてくれるものだが、実はそれとひきかえに、私たちの政治的意識を奪うものである。つまり国会議事堂を「墓場」として見ることにも何かそれと似たようなものを感じるのである。いうまでもなく、議事堂に雷の一つや二つ落ちたところで、いまの狂いはじめた国の政治は変わったりしない。また議事堂を「墓場」よばわりしたところで、民主主義が成仏できるわけでもない。いや、それどころか、いま、雷に撃たれて目醒めねばならないのは政治家たちではなく、むしろ私たちのほうなのだということを、それは忘れさせてしまいかねない。政治は天から降りてくるものではなく、地から揺り起こしてゆくものだという意識もそこからは生まれてこない。そしてなにより第一に、そうしたスペクタクルや天罰の物語りには、ドゥルーズが生前、何度もカフカをひきながら書いた、地をはいずる「民」たちが登場してこないのである。いいかえれば、民主主義の理想形態としての「直接民主主義」の夢を忘却した(あるいは忘れたふりをしている)議会制民主主義の政治にとことん絶望した果てに、声をあげはじめるあの「民」たち、すなわち、「ぼくは、もう、投票しない」と書いて「投票ストライキ」を宣言した花森や、「もう二度と政党に投票しないで下さい」と呼びかけて「民衆投票による直接民主主義のための機構」をたちあげたヨゼフ・ボイス、そして民主主義の「原点」でありながら、いまだ実現されていない「来たるべき民主主義」の夢を見続けることをやめないジャック・デリダ、そして、樺美智子のように自らが雷となって国の政治を撃とうとする「様々なる民」たちとその直接行動が、欠けている……七〇年代の爆弾闘争を描いた若松孝二の映画『天使の恍惚』に、「十月組」の「金曜日」と呼ばれる女の革命家がでてくる。その映画のラスト近く、羽根のついた黒いドレスを身にまとった彼女は、次のようなモノローグとともに国会議事堂前の道を、ピース缶爆弾を積んだ車をふらふらと走らせてゆく……「いかなければならない、あたしは、あたしは、はるかむこうからやってきたんだ、だから、だから、あたしはむこうまでいかなければならない、いかなければ、いかなければ、いかなければ、最前線へいかなければ」と、そう呟いた瞬間、突然、場面は国会議事堂前から富士山の見える荒野に切り替わり、車が爆発して炎上する。花森が『一銭五厘の旗』を世に問い、ボイスが「民衆投票による直接民主主義」を訴えた、その同じ年(一九七一)の秋に、この脚本を書いた出口出こと、足立正生にとって国会議事堂は、もはや死を賭してぶつかってゆくべき場所や墓場ではなく、その「はるかむこう」にある「最前線」のほうへ突きぬけてゆくための場所でしかなかった。当時の足立にとって、その最前線はパレスチナにあったが、それからほぼ三〇年が過ぎたいま、私たちはようやくこの政治的前衛の意識に追いつき、国会議事堂がもはや抵抗の最前線ではないことに気づきはじめている。と同時にいま、首都を移転して〈新国会議事堂〉を建てる計画が進められている。例えば、渡辺誠が「新首都国会議事堂計画」として提示したプランのなかには「インターネットのようなメディアを用いた直接民主制の復活さえ予測される時代」という認識が書きこまれているが、そこで渡辺は「直接民主制」を「選択肢」のひとつとし、そのプランでは「議会制民主主義の存続を選んだ場合の議事堂の提示」を行なっている★五。この選択はある意味、当然のことで、もし「直接民主制」を選択すれば、そもそも議事堂などという建物をつくる必要が感じられないからだ。また仮になにがしかの建築がなされたとしても、その新しい議事堂に続く道は、「民」がデモを組んで突入したり、爆弾をもって突っ込んでゆくような場所とはならず、せいぜいそれは議会制民主主義の記念碑か遺跡のような場所となるのでないか。というのも、ネグリとハートが語るように、いま、国家の主権を超えたグローバルな組織や企業が私たちの前に新たな「帝国」としてその姿を現わし、私たち個々人の身体とその「生」を直接的に管理し支配しようとしているのであれば★六、国会議事堂はかつてのような「民」による抵抗の最前線としての意味を失うからだ。現に今、東京のデモはその最前線を、新たな「帝国」の資本が占領する都心の路上にシフトさせた。「大衆とは人民でも社会でもなく、通行人の群れにほかならず、革命的な群集の一団が理想的形態を取るに至るのは、生産現場においてではなく、街路においてである」★七という、ヴィリリオの言葉や、「デモンストレーションのデモはデモクラシーのデモだ」というフレーズを想わせるデモが、去る一〇月五日の夜、再び渋谷の路上で行なわれた。このサウンドデモに対して公安警察と機動隊は歩道と車道の間の交通を遮断し、デモの隊列を分断するというやり方で「民」の自由な流れを封じこめようとしたが、それでも漏出する「民」の流れをくいとめることはできなかった★八。おそらくこのようなデモはこれからさらにその前線を移動させ、そのつど強度と配置を変えながら続いてゆくだろう。そして、国家の古い権力があの墓場から目覚めでもしてこない限り(勿論それは大いにありうることだ)、この時代の気象が国会議事堂のほうへ逆行してゆくことはないだろう。永田町の国会議事堂前の道は、「民」たち自らが「発動機」(ヴィリリオ)となり、そして無数の雷鳴となって疾走してゆくサンダーロードではもはやなくなりつつある。

1──国会議事堂を直撃した雷  提供=朝日新聞社 2003年9月3日のニュースより

1──国会議事堂を直撃した雷
提供=朝日新聞社
2003年9月3日のニュースより

2──民主主義の墓場 2003年10月、筆者撮影

2──民主主義の墓場
2003年10月、筆者撮影

3──マウソレウムの階段 2003年10月、筆者撮影

3──マウソレウムの階段
2003年10月、筆者撮影


4──「ぼくは、もう、投票しない」 (『暮しの手帖』2世紀44号、1976) より

4──「ぼくは、もう、投票しない」
(『暮しの手帖』2世紀44号、1976)
より

5──「ぼくは、もう、投票しない」 (『暮しの手帖』2世紀44号、1976) より

5──「ぼくは、もう、投票しない」
(『暮しの手帖』2世紀44号、1976)
より

6──「国をまもるということ」 (『暮しの手帖』2世紀1号、1969) より

6──「国をまもるということ」
(『暮しの手帖』2世紀1号、1969)
より


7──若松孝二『天使の恍惚』 (1972)より

7──若松孝二『天使の恍惚』
(1972)より


★一──花森安治『一銭五厘の旗』(暮しの手帖社、一九七一)。
★二──花森安治「国をまもるということ」(『暮しの手帖』二世紀二号、一九六九)、花森安治「ぼくは、もう、投票しない」(『暮しの手帖』二世紀四四号、一九七六)、拙論「花森安治と暮しの抵抗」(『図書新聞』二〇〇三年七月五日号)、拙論「前略、花森安治さま」(『暮しの手帖  別冊保存版III・花森安治』暮しの手帖社、二〇〇三)。
★三──鈴木博之「マウソロスの墓と伊藤博文──議事堂の屋根の隠された意味」(『is』八一号、ポーラ文化研究所、一九九九)、中谷礼仁「二〇世紀の国会議事堂と日本」(『is』同号)。
★四──この部分は以下のサイトに掲載された次の論考に感化されて書いたものである。特に記して感謝したい。
「ヒゲとボイン。国会と雷。」(URL=http://
homepage.mac.com/konmedi/2000_07_04.html)。メディアコンテンツ評「こんなメディアでした 見た・聞いた・思った」(二〇〇〇)。
★五──渡辺誠「新首都 国会議事堂計画」
(URL=http://www.makoto-architect.
com/capital/Capital2/capital2-j.html)
★六──アントニオ・ネグリマイケル・ハート〈帝国〉』(以文社、二〇〇三)。
★七──ポール・ヴィリリオ『速度と政治』(平凡社、一九八九)。
★八──小田マサノリ「東京フォークゲリラ・ノーリターンズ」『10+1』No.32(INAX出版、二〇〇三)、小田マサノリ+イルコモンズ「ぼくらの住むこの世界ではデモに出る理由があり、犬は吠えるがデモは進む」(『情況』二〇〇三年一〇月号、情況出版社)、「SET BUSH FIRE」(URL=http://asc.
shacknet.nu/)。

>小田マサノリ(オダマサノリ)

1966年生
東京外語大学AA研特任研究員。アナーキスト人類学。

>『10+1』 No.33

特集=建築と情報の新しいかたち コミュニティウェア

>鈴木博之(スズキ・ヒロユキ)

1945年 -
建築史。東京大学大学院名誉教授、青山学院大学教授。

>中谷礼仁(ナカタニ・ノリヒト)

1965年 -
歴史工学家。早稲田大学創造理工学部准教授、編集出版組織体アセテート主宰。

>渡辺誠(ワタナベ・マコト)

1952年 -
建築家。アーキテクツ オフィス主宰、淡江大学(台湾)講座教授。

>マイケル・ハート

1960年 -
思想家。デューク大学文学部准教授。

>〈帝国〉

2003年1月23日