RUN BY LIXIL Publishingheader patron logo deviderLIXIL Corporation LOGO

HOME>BACKNUMBER>『10+1』 No.31>ARTICLE

>
ダイアローグ:「現代建築思潮研究」のための序 | 今村創平+日埜直彦
Dialogue: Overture to "Studies on the Ethos of Contemporary Architecture" | Imamura Sohei, Hino Naohiko
掲載『10+1』 No.31 (コンパクトシティ・スタディ, 2003年07月01日発行) pp.32-42

「批評」は必要なのか?

今村──今度始めようとしている「現代建築思潮研究会」には、「建築を巡る言葉の力を取り戻したい」というモチーフがまずあります。そして、そこにはとりわけわれわれの世代は上の世代と比べて言葉が弱いのではないかという前提があります。したがって、『10+1』誌の他のページとの違いは、この研究会の主体は、周囲の世代からは言葉が弱いと言われている二〇代、三〇代であることです。
日埜──言ってみればリハビリテーションみたいな意味合いで、批評というある種の筋肉が現在衰えてしまっているとするならば、それを実体験を通してあらためてトレーニングしてみるというか、批評の体力みたいなものをなんとか鍛えていきたいということですね。
今村──ただ、一般的に日本の建築界には批評がないとよく言われますが、磯崎新原広司のように、その言説によって建築をリードしてきた人たちがいますし、これほど建築家が文章を書く国というのは他に例がありません。建築家の批評の言葉はクリアに状況を切ったり、また自らの作品の解説を通して建築の可能性を言い当てようとしてきたと思います。例えば、〈建築の解体〉、〈住居に都市を埋蔵する〉、〈住宅は芸術である〉などと明快なフレーズを生み出し、そうした言葉の力によって本当に建築を前へ動かしてきた。しかし、ここ一〇年くらいは、建築家の言説が状況を動かしたことはほとんどないのではないでしょうか。それは、若い世代の建築家もそうだし、かつて有効な発言をしていた人たちも今はそうした言葉を発せなくなっている。だからそこには世代的なものと、時代的なものと、両方の問題があるんだろうなと思います。
日埜──磯崎さんや原さんたちが放っていた言葉はある時代の空気を背負っていて、それと対応した「前衛」としての気負いがあったのでしょう。一種のスローガンを状況に投げ込むことでその状況を活性化できるという素地がそこにあり、それに対する応答も成立していた。そうした言葉には一定の水準が備わってましたから現在のわれわれが読んでも刺激的ですが、しかし当時と現在の基本的な隔絶を無視することもできない。
……ただ言葉を投げかけることの効果が失われているからといって、現状を嘆き愚痴をいくら言ったところで生産的ではないし、われわれにとっての批評の可能性を具体化することにはならない。その種の状況論に陥るのではなく、むしろなぜ批評が必要なのかということがあらためて考えられなくてはならないと思います。
今村──とりわけモダニズム建築は、イデオロギーを投げかけることによってムーヴメントを作り出した。また、六〇年代、七〇年代というのは、社会を変えるとか、新しい世界を切りひらくというヴィジョンがそれなりに共有できた時代だった。しかし、ムーヴメントは無理矢理作ろうと思ってもできるものではないし、われわれの世代は単一の価値といったものを信じていないこともあって、上の世代がやっていたように強いメッセージを投げかけることによって時代を動かすということは簡単にはできない。ただはっきりしているのは、磯崎さん、原さんたちは、言葉に対する鍛え方や知識の量といったものがわれわれの世代とは圧倒的に違うということです。その違いはどこからきたものなのか。知識や教養のあるなしはその時代とは深いかかわりがあるのでしょうが、この時代にあって一度失われたものを取り戻すことは可能なのでしょうか。
日埜──いわゆる「教養の崩壊」という話ですね。まぁ実際にそうしたことがおこっているんでしょう。カルチャーなきサブカルチャーの時代とか、それはそれで憂慮すべき状況にあるのかもしれない。しかし結局のところ批評の必要性を各々が感じているのかどうか、そこからしか話が始まらない問題ではないでしょうか。「教養の崩壊」という現実があり、そのことが言葉の衰弱、とりわけ批評の衰弱を招いているという理解が正しいとしても、それでも批評の必要性を感じている人はつべこべ言わずやるほかない。「ここがロードス島だ。ここで跳べ」、ということですね。

未整理のままリセットされる建築

日埜──実際問題としては批評の衰弱と言われる状況は建築に限ったことでなくて、文学であれ美術であれ近年よく言われることですね。その意味で一般的な問題意識なのかもしれないのですが、ただ建築の状況は文学や芸術と必ずしも並行しているわけではないような気がします。そこを具体的に見ることでわれわれにとっての手がかりというか徴候を得ることができるかもしれません。例えば文芸批評の場合は『小説神髄』から現在までの通史を書くことができる。さまざまな傾向が現われて、それ以前の傾向に対する反発があったり、外部から移入された要素が従来の流れに重ねられたり、単なる前後関係ではなく相互の混交や干渉をそこに見ることができるわけです。しかし建築の場合は、例えば戦争前後、七〇年代あたり、それからバブル崩壊後、といくつかの切断面で大きく流れが切れているんじゃないか。新しい傾向が立ち上がってきた時に、従来のものとそれがどう関係付けられるのか整理されないまま押し流されて、まさに木に竹を接いだようなことが起こっている。あたかもコンピュータをリセットして再起動してしまったかのような印象があります。皆がリセットすることを承認することで、事態が次のフェーズに展開していくというような……。時間的な隣接以上のものがそこに見えてこない。その意味を問わないままにリセットし続けてきたことが、明治以来のプロセスのなかで建築を次第に疲弊させているような気がします。それは僕の個人的な印象にすぎませんが、のれんに腕押し的な状況のなかで、言葉によってムーヴメントを励起させていた世代だって、やはりわれわれと同じように、ここで跳ぶほかないという覚悟から知的修練を自らに課していたのかもしれません。
今村──ここ二週間ほどの間に、穂積信夫さんと原広司さんとに続けてお話しする機会があったのですが、図らずもお二人からそろって今ここで話題にしていることに関連した、印象的な話を伺うことができました。穂積さんは戦後すぐ、芦原義信槇文彦に次いでアメリカに留学し、エーロ・サーリネンのもとでも働きました。何故アメリカか、何故サーリネンかと問うと、当時の朝鮮戦争が始まるまでの五〇年代前半のアメリカというのはすごく輝いていて、サーリネンはそのアメリカが非常によかった時代の空気を持つ建築家であった。だからその時にとにかくアメリカに行って、貪欲にいろいろ吸収してこようと強く感じていたのだそうです。また、原さんも学生時代から若いときには、ヨーロッパには日本にはない圧倒的な知性というものがあり、それをとにかく貪欲に吸収したいという強迫観念のようなものがあったそうなんです。それは明治維新の時期の人々が、西洋に追いつけと言っていた感覚に近いかもしれない。穂積さんや原さんの世代のように、外部はとても巨大でとにかく戦わなくちゃいけないようなものがあるといった意識は、今の若い人々の間には希薄ですね。
日埜──われわれの世代の教養の欠落というような話は、建築に関する議論そのものに限ったことじゃなくて、ごくごく一般的な意味での社会性の欠如であったり、論理性の脆弱さであったり、そういうところに見るべきなのかもしれません。モダニズムと近代的な精神とかいうような高尚な話ではなくて、ごく当たり前の常識からちょっと突っ込まれるだけで破綻してしまうような「レトリック」が、少なくとも僕の見る限り野放図に流通してしまっている。きちんとしたことを言っている人といい加減なことを言っている人が一緒のフィールドにばらまかれていて、そして結局全体として見ると要するに何も起こらない、という感じで、いい加減な言葉というのは言葉の力を衰弱させる以外いかなる意味もない。あんまりまっとうなことを言っているように聞こえるといけないのでちょっと言葉を変えると、批評というのはそれが究極的にフィクションの類いである限り一種の通用する偽金みたいなところがあって、いい加減な言葉というのは言ってみれば通用しない偽金なんです。通用しない偽金の存在が露呈している限り偽金作りは非常に困難になります。それが真であるか偽であるかを問う以前に、それが通用するのかという最低限の問題は、かなり大きな問題として現状において提起しなければいけないと思います。常にあらゆる面から周到に検討された包括性を持つことはできないにしても、せめて論の内部で首尾一貫した言葉、視野内における最低限の語の定義みたいなものを明確にしないと言葉として成り立ちません。
かつて社会とそれなりに対応して建築があり、建築を支えた社会というものがあったという前提で言えば、いわゆる岩波文化人と建築家、そして彼らが建てた建物というテーマを考えることができるような気がします。七〇年代ぐらいまでの経営者なり学識ある人たちは、全面的に賞賛するようなものじゃないにしろ一定の見識を持っていて、自分が建物を建てるとしたら当然この程度のグレードの建築になるという、建築に対する意識のレヴェルが成立していたわけです。ここ銀座の周りにもそうしてできた建物はいっぱいありますよね。それらを当時の建築家は対話しながら建てることができたのだけれども、今われわれはそうした良質な建物が取り壊されるという場面でそれを止める言葉さえ持っていない。単に建築家の言葉の説得力だけの問題でないのはもちろんですが、さまざまな価値基準と建築の価値を天秤にかけるという問題ではある。いつからか建築に対する社会的な期待や、質に対する最低限の水準が希薄になり、あるいは単純に解体してしまった。建築の専門家だからといって建築の価値を絶対的に擁護しなければならないわけではないですけど、擁護したいと思っても通用する言葉をわれわれは持っていないんじゃないか。だからごく普通の人でもその建築を漠然といいなと思っていて、日々そのことを体感しているんだけれど、結果的に、建築の価値がこういうものだと人に想起させるような具体性をきちんと提示することができない。こういう状況の対比から、かつてと今を対象化することはできるでしょうね。

日埜直彦氏

日埜直彦氏

今村創平氏

今村創平氏

アメリカ/ヨーロッパの建築状況

今村──日埜さんの話を聞いていると、社会の持っている教養というものが必要なのかなと思いました。阿部謹也さんも「教養」と「世間」を近しい概念として説明していますが、関係があるのかなと思って聞いていました。話をそこから展開させますと、先日日埜さんの事務所のオープニングで、丸山洋志さんと話をした際に、丸山さんが「アメリカという国はもう建築はいらないんだ」とおっしゃっていて、それは僕には非常に腑に落ちる話でした。その丸山さんの発言から自分なりに考えてみたのですが、アメリカはここ二〇年くらい建築家の顔ぶれはほとんど変わってないし、いい建築ができていない。それは、アメリカという国がもはや建築に興味を失ったためである。ですから、アメリカでは才能やマネーは建築にではなく、バイオやコンピュータに流れます。対比的に、ヨーロッパは本質的に建築を必要としていて、それは生活の一部だから理屈じゃないし、社会の一部として建築は厳然としてある。アメリカという国は独立以来一貫してヨーロッパに対するコンプレックスを持ち続けた国であって、アートなどは典型的ですが、自分のアイデンティティを形成するために常にヨーロッパ的なものを求め続けてきたわけです。その中の一部に建築もあって、だから典型的にヨーロッパ的である新古典主義というスタイルをすべてのモニュメンタルな建物に採用するわけです。ところがイラクとの戦争におけるブッシュの振る舞いをみても、アメリカはいまや傲慢にも、フランスやドイツを遅れた足手まといな国のように扱っています。ヨーロッパの文化に対する憧れはもはやない。先ほどの穂積さんと原さんの話とは対照的に、アメリカの社会全体が建築(=ヨーロッパ的なもの)に対して関心をなくしている。現在の日本の社会もきわめてアメリカナイズされていますから、明治の頃のように西洋建築に一生懸命追いつこうとしたり、自分たちの社会に「建築」を持ってないのは国際的に恥ずかしいというような意識はないんじゃないか。
日埜──アメリカの場合はお金を持っている人の層が変わったんでしょうね。ヨーロッパから来たある種のアイデンティティを背負っている人たちは、ヨーロッパ的なカルチャーのスタンダードに照らして建築をつくる。それは必ずしもキャッチアップにとどまらず、新しい建築スタンダードを自分たちが牽引するという文化戦略があったと思います。だけど今アメリカで、建物を建てている、あるいは直接建てるのでなくてもそれをファンドしている人たちの意識の在処というのは、コマーシャルもしくはセンセーショナルな方向に動いている。文化に対して建築がこうあるべきだというのではなくて、単にゲーリーのビルバオの成功の次を狙うというような功利主義的意識があるんじゃないか。それが損得勘定できる限りは、例えば建築への投資のリターンとバイオへの投資のリターンは形式的に比較できてしまい、そこからファンドした自分の意味を見出すという感覚じゃないか。
今村──批評に関して言えば、アメリカは有名なMoMAのインターナショナルスタイルの展覧会を皮切りに、それ以降も理論的志向が強く、実際に「建築」が建たない時代になってもずっと研究的な実践や議論は大学などで行なわれているわけです。でも、建築が前提条件のようなものであるヨーロッパでは、議論しなくても建築を信じられる。結果今でもいい建築が次々と作られる。一方、日本の場合には理論より現実のほうが強すぎる。とにかく自由にものが建つ状況があり、それに理論が追いついていかない。アメリカはハードな理論があってすごいと思うことも多いのですが、日本と違い建築が建たないから、そうした言論は実際のものから反撃されたり裏切られたりしない。それは日本とは状態が違うと思いますね。

『オポジションズ』の強度

日埜──アメリカやヨーロッパでの建築理論の追究は、アメリカの建築誌『オポジションズ』の圧倒的な批評の強度がその後の展開を促したんでしょうね。『オポジションズ』の創刊は七二年かな。ヴェトナム戦争末期ですから必ずしもアメリカが天真爛漫だった時期ではないですけど、建築の状況としては非常にオプティミスティックに建築を作ることができた時代だったと思います。六〇年代のアメリカほどハッピーではないにせよ、ポップへの指向もあったし結局のところ資本主義的状況と建築の結託に流されていたような雰囲気がある。そういう周囲の状況に対する違和感があの『オポジションズ』の強烈なテンションを生み出すバネになっていたと思うんです。『オポジションズ』という雑誌にはただ正しいだけのことは載らない。例えば近代建築が本来直面するはずの困難に向き合ってはじめて行き当たる問題、そういう水準の批評だけが取り上げられている。建築的知性が構想する建築と実体として目の前にある建築のズレ、のようなかなり思弁的な問題ですね。建築ができ上がったからOK、それのおまけに皆でその建築が良いとか悪いとかいう話をしていたわけではない。建たないということもあっただろうけど周辺の状況に対してクリティカルな意識があって、そのことが理論の徹底を促したのでしょう。
今村──僕は、九〇年頃にはロンドンにいました。その頃の日本では、すでに最盛期ではないけれどもニュー・アカブームやポストモダン議論の尻尾の時期で、建築界の人間にあっても、ジル・ドゥルーズだとかジャック・デリダとかを読むことが、暗黙の了解事項であるような、時代の空気がありました。もちろんイギリスにもそうした流れはあったのですが、ある日哲学や現代思想を読みこなしている、僕より世代的に一〇歳位上──三〇代半ば──の人が、自分のプレゼンテーションをした後に、ほんとに疲れ切ったように「No more theory──セオリーにはもううんざりだ」と、はき捨てるように言ったことが強く印象に残っています。彼はそれこそ見るからに哲学者のような風貌をしていて、驚嘆すべき知識の持ち主でしたが、十数年の間に次から次へと新しいセオリーが出てきて、それを読み続けるという状況にうんざりし途方に暮れていた。その時にはその時で、また次の世代のセオリーが出てきたわけですが、彼にしてみれば理論をずっとやってきたが、それはいったい何なんだろうと思ったところはきっとあったと思うんです。たぶん『オポジションズ』が終わったのも九〇年代……。
日埜──『オポジションズ』は八〇年代の中盤くらいで終わっているはずです。結局、アイゼンマン、リベスキンド、あるいは、チュミあたりが実際の建築をつくり始めちゃったあたりで、なんだ要するにそういうことかというような感じがあったと思うんです。レム・コールハースが実作家として出てきたのもその頃ですね。アイゼンマンや彼の世代とその下の世代が同じ土俵の建築家として世間が受け止めるようになってきて、上の世代としても意地を張ってなんとか頑張っていたわけだけれど、今から見るとゆっくりと理論が特定の建築のための説明に変質していった気がします。それはそれでおもしろいのだけれど、理論という普遍的水準をやりつつ特定の建築の強度を保ち続けることは、一方の水準が高ければ高いほどなかなか難しい。しかし『オポジションズ』のあの理論的追究の強度はすごいと素直に思うし、それに元気づけられるところもある。ああいうものがあってくれてよかったという感じです。
こう言うとどうも理屈をこねてるとモノは作れないっていう読まれ方をされてしまいそうですが、ナイーヴさと正しさを取り違えがちな昨今ですから明確にそういう連想に抵抗しておかなければならないですね。例えば強い言葉を打ち出していた頃の磯崎さんや原さんは、言葉によって建築への取り組みを励起し、その言葉を追い風にして建築に向かっていきました。その下の世代の七〇年代の議論にしても、ある種の強度を備えた言葉が建築を緊張させていて、密度のある取り組みが建築として実体化している。それに対して『オポジションズ』が取り組んでいた理論的追究というのは当時のポストモダンの思想の独特の困難さと同質のもので、いわば言語そのものの困難さです。「理屈をこねているとモノは作れない」っていう通俗的な話とは全く別の話ですね。

一九六八年

今村──六八年を中心とする運動は世界中で展開されたわけですが、その結果今になってみると現在のヨーロッパでは、おもしろい建築が建てられるようになっていますね。例えば、少し前の九〇年代のパリではグラン・プロジェと名づけて斬新な国家的なプロジェクトをばんばん建てるとか、昨今のオランダでは若手の建築家でも大規模な開発計画に加わることを要請され、そこで実験的な試みをすることを後押しされていたりします。それは彼らに理由を聞いてみると、どうもカウンターカルチャーを経験した世代が、現在公共か民間かを問わず、発注者側の要職についているようなのです。日本の場合は、六八年頃に学生運動とかありましたが、皮肉というか不幸なことに、六〇年代、七〇年代というのは世界でも類を見ない高度成長期だった。確かに大学などを舞台にしては、問題意識があったかもしれないけれども、社会全体はわりとオプティミスティックで現状肯定的であった。だから、変わらなければという危機意識は持ちにくかったと思うんですよね。日本で六八年頃に学生運動をやっていた人たちは、建築でいえばアトリエ派になっています。一般的にも、その世代の人たちで、現在権力側、力を持つほうにいっている人は他の国に比べて非常に少ないのではないでしょうか。こうした状況は日本と欧米とでは全然違うようなのです。これもまたステロタイプ化された見方かもしれませんが、フランスなどではインテリであって文化に対する教養がないと、政治でもビジネスでもトップは務まらないといったイメージがあるのですが、日本では政治家や財界人であるのにインテリや文化人である必要はなく、そうであればかえってその世界では浮いてしまう。僕は、かつて二〇世紀の前半には財界人や政治家の社交がお茶であったのが、戦後になって彼らの社交がゴルフやカラオケになったことが、そのことを典型的に物語っていると思います。
日埜──日本の六〇年代末の闘争は結局のところ非常に後味の悪い形で終わってしまったでしょう。論点が共有できるかたちで整理されず、お互いの言っていることを聞かないままに終わった。そのことについてわだかまりもあるだろうし、運動をやっていた側にも内部で整理しきれない屈折があるでしょう。そういう部分がズルズル引きずられているので、発注者と建築家という関係においても決してクリアにならない部分が絡みついてくる。本来そこで主張されていたことには、運動の実態における武闘性にかかわらず、どうあれそれなりの理があったわけですよね。だけどそういう理がすくい取られないまま、何となく問答無用で終わってしまった。終わらざるをえなかったことも事実だろうけど、互いの意識の共有できる部分とそうでない部分の整理すらできなかった。それを日本的な現象とみてしまうのは簡単だけれど、そういう歴史が現在まで延長しているわけで、われわれも一定の当事者的意識において捉えるべきかもしれません。

建築メディアと言葉の流通

今村──先に、日本には批評がないと言いましたが、現実としては建築出版物も関連文章も大量に出ています。これほど建築メディアが発達している──リビング系も含めると建築関係の雑誌だけで二〇近くある──国は他にないでしょう。アメリカでも学校が出しているものを除けば建築専門誌は数誌ではないでしょうか。ですから「現代建築思潮研究会」の場では、新しい理論なり動向の提示も必要ですが、現在流通している情報や出版物に何らかの評価基準とかヴァリューをつけて交通整理する作業をしないと、批評が前にいかないと思います。例えば、日埜さんの関わられた「アーキフォーラム」のレポートにしても、今回この対談のために初めて通して読んだのですが、このようにきっかけがないと埋もれたまま目に触れないテキストというものがいくつもある。これだけの量からいかに良質なものを読みとるか、またそれを他の人とどう共有できるのかは非常に難しい。対談の参考資料として新聞の「論壇時評」をお渡ししたのは、これが「研究会」の具体的なメソッドとして参考になると思えたからです。つまり、前の月にさまざまな雑誌に掲載された論文のなかからこれはすぐれているというものをピックアップして紹介しているわけですが、こうしたことが損得勘定なくできれば、いいと思う。
日埜──インターネットのホームページと似てますね。世界中の膨大な数のホームページを、一人の人間がフォローすることなど絶対できない。だから、あるトピックに関してニュースが出てきているのか、それはどういう意味なのかといった、ちょっとしたコメントがついているブログ(blog)なりアンテナみたいなページがあって、情報の海の中の、砂粒ほどのものをピックアップしながらある種のコンテクストを日々つくっている。
今村──建築関連の雑誌にしても、かつてはメジャーなものをおさえておけばよかったのが、この頃は『住宅建築』や『建築技術』といった雑誌にも、見過ごせない記事が載っていたりするでしょう。例えば『住宅建築』に掲載された「建築ジャーナリズムを問う」という記事は重要なものだと思いますが、こうした内容のものが『新建築』に掲載されることはないでしょう。
日埜──国内のメディアの過当競争みたいな状況に対して、その全部をフォローするなんてことは普通に考えてできないし、そこで冷静に情報をチョイスすることもできないから淘汰だって働かない。一種の麻痺みたいな状態なのかもしれない。目の前をただ情報が流れているだけで自分の中に入ってこないというような。同じような意味で気になるのは海外の動向の取込み、具体的には翻訳の件数の激減ですね。興味がないわけじゃないでしょうが、いちいちフォローできないから選択することすらできない。自分の興味を掘り下げていくというような主体的な判断も働かない。単なる出版不況とか、本を買う余裕がないというだけではないんじゃないか。
今村──一九五七年に、当時の新建築社の社長が、「建築雑誌は建築の新作の紹介に徹すればよく、批評は余分だ」という発言をしたという、いわゆる「新建築問題」というのが起きました。それ以降、建築ジャーナリズムには評論みたいなものは掲載されるが、批評はタブーとなった。その状況は現在に至っても基本的には変わっていません。これは、『新建築』がいいとかわるいということではなく、日本においてそういうあり方が建築メディアのスタンダードになっているということが問題なのです。雑誌ごとに強弱はあるものの、何となく前提として『新建築』的なあり方がある。メディア側だけでなく、受け取るほうの意識としても同じような感じを持たれている。それがよくないと思うわけです。いまの若い人はこういうことがあったということを当然知らないから、まず知ることが大切だと思いますが、それを今後にどう結びつけていくかですね。そもそも一般的には雑誌のピークというものは五年や一〇年というのが普通であって、それ以上続くと新鮮さを失い、どうしてもスタイルが固定されてしまいます。実際、誰もがよかったと言う『都市住宅』という雑誌は既にありません。外国の建築雑誌でも最近面白いのは、『エル・クロッキー』とか『フレーム』とか、九〇年代以降に出てきたもので、それらは瑞々しいわけです。そう考えると、今二〇代の人が大きな建築を作れるようになる五〇歳くらいの時には、今ある建築雑誌は一誌も残ってない可能性が高いので、今あるメディアにこびることはまったく意味がないかもしれない。日本の建築家は、建築雑誌に対して腫れ物を扱うように接しているのであって、やはりそれは不健全です。最近『Casa BRUTUS』とか『Pen』とかの一般誌が熱心に建築にアプローチしているわけですが、それらの編集者は一様に建築家と建築雑誌の異様な関係を指摘します。道路公団ではないですが、明らかに業界が慣習としている風通しの悪い構造が硬直化し時代遅れになっています。
日埜──「ムラ社会」みたいな共同性ですね。雑誌メディアにもそれなりの言い分がきっとあるでしょうが、建築をつくり、文章を書いたりするコンテンツ側としてはオルタナティヴなメディア、ネットのような選択肢もあるわけで、必要ならその種の共同性を跳び越えることもできる。状況論じゃなくて何を必要と思うかが問題なのでしょう。建築やあるいは論文に対してネガティヴな評価あるいは批判が世の中に存在しないのかというと、そうじゃないわけですよね。明らかにそういうものは存在していて、しかしそれはたぶん居酒屋みたいな場所で吐き出されているのでしょう。インターネット上の建築の掲示板を僕はやっていますけど、それをつくった時のモチヴェーションは、建築の議論を居酒屋みたいなところで吐き出すのではなくてパブリックに誰からも見えるところで建築についてやろうという意識でした。書くこと自体は誰でもできることで、それが不当であれば批判されるだろうし、同意を得れば評価されるだろう。コミュニケーションできる掲示板のようなメディアのいいところは鍛練ができることだと思います。雑誌のように一方向のメディアだと印刷物として残ってしまいますし、雑誌自体がそれなりの格付けとしても機能してしまうわけで、下手なことは書けないという萎縮は当然かもしれない。インターネットの掲示板はコミュニケーションによって修正が可能だし、こう言ってはなんですが見ている側もそもそもたいしたものを期待していない。でも実際やってみてどうかというと心許ない感じが正直言ってあります。結局のところやはり何か差し障りを気にする意識はありますね。パブリックにものを言う緊張感はもちろん必要なんですけど、それが抑圧になってしまう効果はネット上でもかなり強い。そうするとメディア云々ということよりも、発言すること自体の経験が足りないことが問題なのかもしれなくて、そういう意味でリハビリテーションの場を設けることの意義は小さくない。
今村──僕が言った建築雑誌をとりまく風通しの悪さというのは、僕オリジナルの過激な発言でもなんでもなく、日埜さんも言われたとおり、こんなことは飲みながら誰もが言っていることです。でもそれが文字として出てこないのは、雑誌メディアの権力を恐れているのか、批評をすることは下世話なことという品格が抑制しているのか(笑)。最初は日埜さんの掲示板を読んで知った、東浩紀と笠井潔の対談『動物化する世界の中で』が最近本になりましたが、その最初のところで、東さんが最近の柄谷行人はだめだと論理的にはっきりと言っています。その世界の権威とも言える先輩に対して明確にものを言っている。議論の内容は門外漢の僕には厳密にどうこう言えないのですが、そうしたことが成り立つことが新鮮に感じました。しかし、日本の建築界では、これはほとんど起こりえないことだと思うんです。鈴木隆之さんがかつて磯崎新の大文字の建築批判をしたことがあり、それは正面切った議論として記憶に残っていますが、そうしたことは極めてまれです。
日埜──そうですね。やっぱり、決定的に違うと指摘しなくちゃいけない時ってあると思う。いつでもそうだというわけじゃないと思うんですが、ほんとに異を唱えなくちゃいけないタイミングというのは時々あるはずで、それをちゃんと捕まえて、そこでちゃんと問題を提起することは大切なことでしょう。成果をまとめるというと簡単ではないかもしれませんが、最低限投げるべきものはその時に投げておくということはすごく大切なことですよね。それというのは責任でもあると思うんですよ。なんだかんだ言ってわれわれが建築という分野の参加者である限り、何でもかんでも聞き流すという態度は非倫理的だと思う。
今村──印象批評に陥ってしまったり、とんちんかんな指摘をすることは慎むべきであるし、そういうことに対して教養であるとかマナーであるとかが大切であって、当然言いたい放題の放談とは違うわけですね。ただ場合によっては、われわれは捨て石になってでも、やっぱり批評はやらなくてはいけないのかなあと思いますね。今まで、あまりにもなされてこなかったので、場合によっては差し障りがあるかもしれない。的はずれな批評をしてしまうかもしれないけれど、そうした経験も通過していないことが非常に問題だと思いますね。例えばどこかの雑誌から依頼があって文章を書いた時に、編集者から掲載ストップがかかることがあるわけです。それは僕の署名で書いていても、掲載することによってそのメディアのポジションだと受け止められたくないからです。署名して書いているので、その人個人の意見であることははっきりしているし、当然人によって違う意見を持つことは自然ですが、そういうことにまだ建築界は慣れていない。自由に意見を言うのは、ある意味でデモクラシーの基本の基本。民主主義なんて大袈裟な言葉を持ち出すのはへんですが、エクササイズもできてないものを読んだ時にこれはおかしいと読者は思うかもしれないが、まずそうしたことから始める必要があるわけですね。
日埜──全体の問題設定からすると、いわゆる自己規制みたいなこと、言うべきことが内に籠もってしまうことというのは、本来マイナーな問題だと思うんですよ。そんなことはどうでもいいとは言わないけど、言うべきことは言うべき時に言わなくちゃいけないというのはそれよりはるかに重要なことです。考えていることを書くことは誰にでもできるわけです。そして、ある程度読むに耐える意見を述べれば、誰かがそれを読み反応することができる。賛意を表わすこともできるし、反対を述べることもできる。あるいは違う視点の存在を知るということもできる。そういう議論が発生することがまずは目標としてあるでしょう。ただリハビリテーションということから言うと、おそらくそれ以前の問題として通用する言葉になりえるかどうかというレヴェルである程度苦労することを覚悟しなくてはいけないのかもしれません。居酒屋ではなあなあでやり過ごす程度の言葉ですむでしょうが、パブリックにする言葉である限りは筋の通った話でなければ意味を為しません。この水準をクリアする訓練だけでも実は大変なことなんじゃないかと僕は思いますね。パブリックな言葉というのは、自分に向けた言葉とも、仲間内でのみ通用する言葉とも違う水準を要求します。独白でも共同性に担保された言葉でもないわけです。
もうひとつ今回の企画の場合に意識したいのはそこでの言葉が必ずしもあらゆる人に向けられたものではないということです。『10+1』という雑誌は明らかに建築に関係する人、それを学ぶ人からそれに実務的に取り組んでいる人までを対象とした雑誌です。新聞メディアのような不特定多数の読者層を対象としたメディアではない以上、そこで流通する言葉にも当然違いが出てくる。創刊当時はかなりインター・ディシプリナリーということを意識していたんじゃないかと思うのですが、今回の「現代建築思潮研究」という企画については建築という分野の専門性、建築というディシプリンを明確にその前提としてはどうかと思っています。ある意味では反時代的な設定ではあるのですが、敢えてそういう意識を持ちたい。それは先ほどの岩波文化人と建築家の関係とも関係するのですが、彼らの関係は全面的な共有において成り立っていたわけではない。むしろ建築のことはわからんけど、キミよろしく頼むよ、っていうような関係だったでしょう。もちろんそれは結果において評価される厳しさとともにあるわけですが、最終的には信頼関係において成り立っていたはずです。僕はこういう水準を忘れてはいけないと思うんです。どんな小さな建築であっても専門家としての建築家と一般のクライアントが完全に認識を共有し、透明な関係で結ばれることなどありえない。誰でもうすうす知っているように現代社会というのはそういう社会です。極端なことをいえば建築家は一種のブラックボックスなのでしょう。バブル以降の傾向だと思いますが、建築家とクライアントが認識を共有することが指向されていて、あたかも取り組み方によっては専門性を一般性に溶解していくことが可能であるかのような空気があるように思います。しかしこういう指向は建築の専門性という現実を曖昧なものにぼかしてしまっていて、結果としてその専門性の曖昧さが社会とのコミュニケーションを阻害しているような気がしてならないのです。その阻害の具体的な現われが例えば建築家の説得力の弱さじゃないでしょうか。抽象的過ぎる言い方になっているかもしれませんが、しかしそういう曖昧さが一般の眼から見てなにを彼らが言っているのかわからないという状況を作っているんじゃないかという気がします。本来クライアントの身の丈に合った論理で建築を一緒に作っていこうという指向は、社会から建築が遊離しているのではないかという危機感から出てきたのだろうと思うのですが、そのことが逆説的に建築を外部から見てわかりにくくしてはいないでしょうか。
一方で居酒屋的な論理ならぬ非論理は通用しないということ、他方で積極的に専門性の内部の論理を充実させようということ、こういう前提が共有できれば良いなと思います。

批評のリハビリテーション

今村──この研究会は僕と日埜さんが中心メンバーであっても、われわれが全てをやるわけではなくて、建築について思考することに興味を持つ人を捜してきて、そういう人が参加できるシステムをつくりたいわけですね。これは実践的なレヴェルですが、何か考えを持っている人がいれば発言でき、それに対して応答できるということ。開かれた交流の場であることが大切です。
日埜──今回の企画が一種のリハビリテーションだとすれば、最初からまともなものがアウトプットされるかどうか、正直言ってわからないですよね。相互の議論においてその質を担保するほかないのでしょう。何が出てくるのかはわからないし、ある水準に対する緊張感を持ちましょうという以上のことはとりあえず今の段階ではなかなか言いにくいと思います。でも、そういうものがわれわれにとって切実に必要だという意識を持ちえるならば、共有したいと思います。
今村──われわれとその下ぐらいの世代が、あそこは面白いところなんだと思える場所にしたいですね。
日埜──僕よりも若い人たちをみていると、決して議論が嫌いじゃないですよね。すごく優秀だと思う人もいます。ただ議論の場がないし、その経験が足りない。議論の能力というものは経験によって伸びるものですから、そういうことを積み重ねていければ一定の水準はおのずと現われてくるんじゃないかと思います。
今村──多くの人が現状に対する危機感を持っていて、今だからやらなくてはということを、直感的に感じていると思うんですね。だからこれに参加する人は多いと思う。日本と欧米の違いを切実に感じるのは、日本では大学を出ると議論をする場が極端になくなることです。向こうの学校では、レクチャーだとかシンポジウムがあるというと二〇代から三〇代の人たちが押しかけるし、三〇代の建築家は自分を鍛えるために教えているようなところもある。そうやって、レムもチュミもリベスキンドもザハもデビューしていったわけです。若い時にリアルな議論に触れることも大切ですが、一〇年くらい経験を積んでノウハウもひととおり身につけた後に、もう一度立ち止まってしっかり考えたいという人が参加できる場というのが日本では持ちにくい。その場を提供するという役割も、この研究会にはあると僕は思います。
日埜──設計事務所のスタッフとして仕事をしている人たちは、アイディアをモノにし、解決に向けて進んでいくということの訓練はされているでしょう。でも議論というのは必ずしも解決を求めて行なわれるものじゃなくて、むしろ問題を枝分かれさせて増やしていくためにやる部分もある。実務をやったから建築を考えられるようになるのかというと、必ずしもそんなことはないでしょう。現実的にはある種の内面的な姿勢を持つことで、そういうことに取り組んでいくんでしょうけど、現実に押しつぶされている状況だってきっとある。ある場を共有することで習慣的にこういうことができるというのはすごくいいことでしょうね。
今村──最後に、この対談が「現代建築思潮研究」の初回なので、いままでに言い残した問題点をあげましょうか。
日埜──批評というんだけれど、例えば建物の批評なのか、あるいは雑誌掲載論文みたいなものを対象とするのか、この研究会ではまだ限定されてないですね。いわゆる建築論みたいな水準は当然そこに含まれるでしょうが、同時に技術的なことから浮上する批評的水準もあるし、建築についてのアカデミックな枠組み、計画学であるとか構造力学であるとかいう学の体系も批評の視野に入ってくるでしょう。図面のような記述言語の水準だって忘れるわけにはいかない問題です。そういう総体が建築にまつわる知識の体系=ディシプリンとしてある。『オポジションズ』だっていわゆる建築論の範疇にすっぽりおさまるようなものでは決してなくて、さまざまな側面が複雑に絡みあっている建築を念頭に置いて、そういう側面が相互にクリティカルな関係にある場面を追究していったわけです。特にヨーロッパの建築家にはそういう全方位的な意識が日本からみてると想像できないぐらい明確にありますね。建築はどういうレヴェルで存在しているのか。例えば都市論のようなことをある程度ふまえてはじめて建築家だということなのでしょう。日本の場合はそこが曖昧で、都市論について全然関心がなくても「ワタシは建築家です」と言えてしまう。そういう偏向も視野に入れながら、いろんな水準から立体的に批評の萌芽をすくい上げると良いんじゃないかと思います。日本の建築の言説のなかで一方向からアイディアを展開していって結果としてある建築ができました、というレトリックはすごく多いんですが、二つの方向から考えて分裂してしまいましたというタイプの言説、あるいは建築というのはほとんどないんですよ。クリティカルな困難に直面するということを疎んじるという傾向が日本にはあるのかもしれないけど、それを避けてはいけないと思います。本当は例えば実務をやっている人は常にそういう事態に直面しているはずで、それが言説の表面に表われないということなのでしょう。しかしそれは単なるレトリックではなく、根深い問題をはらんでいるはずです。例えばオランダの建築で、与件を分析して可能な範疇を絞り込んでいくとこんなとんでもない建築が実はもっとも適当だという結論に至った、というレトリックがありますよね。あれはこうしたクリティカルな現実を逆手にとってやっているわけで、基底にあるそういう意識を共有せずにそれに感嘆したり呆れたりするのは、ほとんどナンセンスですよね。

読む能力/書く能力のトレーニング

今村──僕が、興味がありまた期待しているのは、上の世代と違い、われわれの世代が有利なところは、外国に対してコンプレックスがないために、わりと自由に外国にアクセスできることです。実際今多くの二〇代の建築家志望者が海外に渡っています。今の二〇代、三〇代の理想のモデルは、中田とかイチローだと思うんですよね。インターナショナルな感覚と卓越した技術を持っている。スポーツ選手には鍛え方のメソッドというのがあり、昔と違って、根性や精神力で乗り切ろうという古いやり方では、世界のレベルでは通用しない。さらにどんな球にも対応できるリーディング・ヒッターであったり、刻々進むゲームのなかでスルーパスをアシストするなど、状況の変化に対しても極めて柔軟です。でもそのためにベーシックなトレーニングを反復するわけで、それが彼らの特徴となっているわけです。ウサギ跳びを闇雲に倒れるまでするのではなく、どのように効果的に休憩したり栄養を取るかということも含めて、トレーニングの方法論は非常に科学的ですね。スケートの清水や、マラソンの高橋も、トップアスリートであれば皆そうやっています。いま、建築を考える時に、その方法論というのが非常に欠落している。身体能力の鍛え方というのは、個人差はあってもシェア可能な情報にできるはずです。その最先端のことを知っていなければ、今の世の中では生き残れないはずなんです。たぶん、金融をやっている人なんかであればそうしたことは常識で、ノウハウがしっかりあって、思いつきだけではやれるものではない。建築家も天才であれば別でしょうが、こうやればできるという、ベーシックなトレーニングの仕方を身につける必要があると思います。
日埜──基礎体力をつけるという意味で、教養主義的な本のブックガイドが一時期だいぶつくられて、その種の情報は既にかなり充実していると思います。でも鹿島出版会の黒本がぜんぜん読まれてないとか、ほんとに最低限読まなきゃいけない本が絶版の状態になっているっていう状況からして、基礎体力の不備という問題は絶対的にあるんでしょうね。例えば近代建築を云々しようと思えば『インターナショナル・スタイル』を読んでないとまず話にならないわけですよね。それはいわゆる建築史の基礎教養としてでもありますが、むしろそこから今の建築へと繋がる文脈が存在していて、ヘルツォークがやっていることの近代性というような問題を設定するためには、やはり必要になる。そういう意味で現在を考えるために必要な最低限の水準は存在するはずですね。
今村──建築家の文章はわかりにくいとよく言われますが、それは文章の内容が問題というよりも、文章を書く能力が基本的に欠けているというのが大抵のケースだと思います。昔の建築家は文章がうまかったですよね。谷口吉郎とか吉阪隆正は多くのエッセイを残しています。当時は建築家に限らず、あるレヴェルの人は人に読ませる文章を書けるということを基本的な能力として皆持っていたのでしょうね。今、建築図書の必読書といわれるものを読むことはもちろん大切だけれども、建築家の文章だけ読んでいると文章が下手になる。建築以外の本も読まないと、多領域の知識を得られないだけではなく、言葉を使うというトレーニングがどうしても足りなくなる。それを建築のメディアを使って他分野のこの本を読めと言うのはできませんが、根本的に言葉の力をつけるには建築関係の本を読むだけではだめだし、社会に通用する言葉という意味でもだめだと思います。
日埜──例えば誰かに自分の書いたものを読んでもらって、これひどい文章だねと言われると単純に傷つくわけですよね。でもそういう経験はすごく貴重だと思うんですよ。内容はともかく文章がひどいとか、論理的にあなたは矛盾しているとか指摘されてドキッとするとかいう経験は、僕自身も当然身に覚えがあるわけですが。でもそういう経験抜きにものを考える能力を磨くことはできないし、そういうことで消極的になる人ばかりじゃないはずです。自分はすごいアイディア、すごい批評的な視点を持っている、とか自信のある人は結構いるようですが、そういう人はちゃんと文章に書いてみればいい。文章に書いてみると直視するほかない現実としてその質が露呈するはずです。
今村──経験がない人に文章を書く機会を提供するということはそういうことですね。僕にしても書く経験がまだまだ少ないから毎回苦労しているのであって……。
日埜──自分のことを棚に上げて言うのもなんなのですが、「人が読むものを書く」という緊張感に欠けているが故に読むに耐えないものはいっぱいあるわけですね。思考を鍛えるために文章を書くということは必要な経験であって、ためらう理由なんかない。
今村──昨年出版された『エル・クロッキー』の「ジャン・ヌーヴェル特集」で、他の建築家とコミュニケーションしたり興味を共有することの難しさ、つまりは彼の孤独について触れた部分がありました。またレム・コールハースは一九九九年の「Anyコンファレンス」のなかで、それまでの三年間話し続けてきたことが、ほとんど誰の興味も引けず、寂しい気分だと述べている。二人とも世界で最も注目を集めているスーパースターの建築家であって、レクチャーにはたくさんの人が聞きに来るし、本は売れるけれど、それに対するきちんとした反応がない。巨匠ですらそうであれば、僕が文章を書いても反応がなくても当然、というのは冗談ですが。スーパースターに限らず、人のアウトプットに対して反応するということが大きなファンクションとしてあるんだと思いますね。
日埜──例えばレムが正しいかどうかは別の問題として、レムが出てくるコンテクストというものをあまりにも皆が理解していない。そのことがレムの孤独じゃないでしょうかね。ある種の共感を得る回路というのは、日本に限らず国外でもあんまりないんだと思うんですね。面白いとかファンタスティックだとか評価されているだけだと、本当に疲れると思うんですよ。コンテクストを共有するということはすごく大切なことで、レムの見つけた問題を共有したうえでレムの示した解決が吟味されていれば、彼が孤独だなんて言うはずがない。
今村──六〇、七〇年代までのように議論をやらなくなったから、他人にたたかれる経験がなくなっている。だから、伊東豊雄さんや長谷川逸子さんより下の世代が何となく軟弱でナイーヴに見える。この研究会の内容でわれわれも、人にたたかれることがあるだろうけれど、それは大事なことだと思っています。攻撃を受けること、非難されることに対して免疫をつける。批判に対して次はどう反論するだとか、自分の間違いに気づくとか、議論をするにもマナーがあるとか。
日埜──ある意味じゃ説得力のある文章すら書けないのに、説得力のある設計なんかできるはずないんですよね。そういう意味でも、批評の力というか、批評が建築においてどういう意味を持つのかというのは考えていかなきゃいけないと思います。
今村──自分でも怖いことだと思っていますが、批評的なことをやると何かに気付きます。そしてそれがすごい発見か何かだと誤解し、自分が偉くなった気がしてしまうわけです。自分自身を客観化しきれず、傲慢な言葉ばかりが流通しても全く意味がないですよね。
日埜──たしかにそうですね。議論というのは必ず参加者にそういうことを迫るわけで、そういうなかからなんとか生産的成果を得ていきたいですね。
最後にちょっと飛躍したことを言うと、そうした常識的な意味での論理とか、きちんと整理された思考を追究していくと、『オポジションズ』がそうであったように、なんらかの屈折抜きに考えられない領域に行き着きます。ある意味ではそこからが批評の問題なんですね。今回いろいろ言ったことはごく常識的で普通の近代的思考の範疇におさまるはずですが、そういう取り組みがついに行き当たる限界というのがその先に控えているわけです。七〇年代以降、矛盾の意識をどこかに底流させつつ建築が考えられていくようになっていくわけですが、その意識に自分で行きあたってみないと、彼らがどうして屈折するのか理解できないし、もちろん共感できないでしょう。そういう意識を自分のなかに抱えると、きっとどこかで跳躍せざるをえない場面にぶつかるはずです。論理的に解決できないけれどある方向へ踏み出すべきだという確信において前へ進むということです。こういう判断をする主体を実は社会は期待しているんじゃないでしょうか。
[二〇〇三年五月一二日]

現代建築思潮 Profile

今村創平

一九九〇年から九二年まで僕が在籍したAAスクールでの時間は、本当に濃密で充実したものであった。一方、当時のつらさを思い出すと今でも憂鬱な気分になる。二年目に師事したラウール・ブンショーテンは、驚嘆すべき存在で、大いに影響を受ける。ラウールのユニットに毎週来ていたゲストは、建築家であったことは一度もなく、いつも文化人類学者とか、言語学者であった。いろいろな本が読まれていたが、強いて挙げればミッシェル・セールの『パラサイト』か。
一年目のスクール・トリップは、イスタンブールに行くことが予定されていたが、湾岸戦争が勃発し中止に。二年目はラウールに率いられ社会主義政権が崩壊してちょうど一年たったプラハに。プレチュニックが設計した元王宮の中で、これからのチェコの住宅政策について話を聞いたりしたが、建設大臣兼副大統領がジーンズ姿であったりして、まだ混乱している政府の状況がうかがえた。
イギリスは、公立美術館の類の入館が無料であったため、学校の近くにあった大英博物館には毎週寄っていた。また、当時ダ・ヴィンチとデュシャンに心酔していたので、月に一回はナショナル・ギャラリーの《岩窟の聖母》とテート・ギャラリーの《大ガラス》を見に行っていた。ちなみに先日、彫刻家の舟越桂さんより《岩窟の聖母》の横にあるその下絵のドローイングがすばらしいとの話を聞いたが、あれほど通ったのにまったく記憶にない。やはりプロとは見るところが違うということか。また、当時一番の親友が舞台監督であったため、演劇を見るようになる。本場の舞台をいくつか見ることができたのは、財産になった。
日本に帰る直前、ラウールに付いて一一月ですでに凍てつくモスクワのワークショップへ。こちらもソ連崩壊後一年であったが、ロシアの木造建築の本を買い、次の日にもう一冊買いに行ったら値段が五倍になっており、その次の日には半額になっていた。ここにも混乱が。ロンドンから一〇名近くの建築家が一緒に行ったのだが、一日モスクワの建築ツアーが組まれた。スミッソン夫妻がかつて理想と思っていた構成主義の集合住宅を初めて見、それらが朽ち果てている姿に目を真っ赤にしていたのが印象的であった。
長谷川逸子・建築計画工房には八年お世話になったが、前半はコンペ、展覧会、本づくりに関わることが多く、後半は現場が多かった。ちなみに僕が入所したときは、《墨田生涯学習センター》、《フルーツミュージアム》、《大島町絵本館》などの設計が進み、また《新潟市市民文化会館》のコンペで一等を取った直後であったため、非常に熱気があった。《新潟市市民文化会館》の設計に並行し、長谷川さんがワークショップを二年半主催し、そのコーディネーターをつとめる。観世栄夫、平田オリザ、野村萬歳、米倉誠一郎などといった多彩な講師を月に二名迎えるという贅沢なもので、仕事を超えて大いに楽しむ。最後には、田中泯演出、出演の舞台を受講生の自主企画として立ち上げるが、僕も舞台製作に加わり、挙句の果てには黒子として舞台に上がった。平日は実施設計に追われ、週末はワークショップに参加するという不思議な日々が続く。
一九九五年、デンマークのルイジアナ美術館にて開催された「ジャパン・トゥディ」展の、長谷川さんのインスタレーションを仕込みに現地に二週間滞在する。肉体労働はきつかったが、すばらしいランドスケープのなかで、ジャコメッティやムーアに囲まれて仕事をし、昼と夜には他の日本人アーティストとおいしいワインを飲むという毎日は、夢のような日々であった。このときに知り合った、柳幸典さん、椿昇さんとは交流が続き、特に今年水戸芸術館での椿さんの展覧会に参加したのは、この縁による。二〇〇一年にもインスタレーションの仕込みに、ポルトに行く。
一九九七年、だんだんと実施設計や現場などの実務的な仕事が多くなり、フラストレーション解消のために五人ほどの仲間と、近代建築についての研究会を始める。一度きちんと近代建築について勉強しておこうと思ったからで、月一回のペースで二年間続く。まだ翻訳されていない英語のテキストを使うことをルールにし、初回はケネス・フランプトンテクトニック・カルチャー』のミースの章だった。
二〇〇一年、南洋堂のスペースを借りてのレクチャーシリーズを始める。初回は、ケン・タダシ・オオシマさんと木下壽子さんに、彼らが実際に訪れたモダン住宅について話していただく。その後もAAスクールの星野拓郎さんやロンドン大学のシージェイ・リムを招くなど、今までに七回開催する。
二〇〇二年、長谷川逸子・建築計画工房を退社。

日埜直彦

まだインターネットが個人で使えなかった頃、一九九一年頃のことだ。当時はパソコン通信全盛期であった。今と変わらずマイナーなMacintoshを使っていたため、必要な情報やオンラインソフトはパソコン通信から仕入れるほかなかった。CPUの能力が今の五〇〇分の一、ネットの接続速度にいたっては数万分の一という石器時代のような頃である。そこで主にチェックしていたのは、Macの情報が流通する場でも建築関係の場でもなく、なぜか現代思想の掲示板だった。それまでも思想書の類いをあれこれ読んではいたが、そこに参加した具体的なきっかけがなんだったか覚えていない。ともかくなにか書いて、突っ込まれて、悔しいからあれこれ読み、不勉強もモノともせずまた書いて、ちょっと議論をして、なるほどと感心してまた別の本を読み、といった具合でまさしく没頭していた。ずいぶん後に一度だけ、当時やり取りしていたメンバーで同窓会よろしく集まって知ったのだが、参加者は思想誌のライター、文芸批評を志すフリーター、哲学科の助手、そしてなぜかトラックの運転手(と言えば誤解するだろうが、後に彼は『群像』の新人賞を取った)、言ってみればセミプロ級の議論にひとり青臭い学生が乱入して、思いつくまま何ともしれぬものを書き散らしているのに付き合ってもらったという格好だ。いわゆるニュー・アカブームの終わり頃ではあるが、ドゥルーズやデリダの翻訳が遅まきながらぽつぽつ出ていた段階で、今と違って主著の翻訳も揃っていないからあれもこれも読んでいなければまるで話についていけないというほどではなかった。そうして数年間膨大な量の文章を書いているうちに応答と議論が体をなしてきた。当時のデータは全て失われてしまっているのでなんとも言えないが、単なる思想カブレと言うほどひどいものではなかったと思う。その後インターネットに移行してホームページを開き、建築の掲示板など立てるうちに、こうして雑誌で文章を書くようになり、今に至る。
今でもモノを書くときごく稀に彼らのかすかな影を感じることがある。彼らに読ませても恥ずかしくないものを書かなければというような、負債に対する責任だけではない。ドゥルーズは主体について「匿名性のつぶやきの中に置かれた可動性の場」と言ったが、議論それ自体がある種の主体と化すことは珍しくなく、そのとき参加者はそれを分有し内在化するのかもしれない。むろん議論はそのためにあるわけではない。しかし彼らというよりももはや〈誰か〉としか呼びえない存在が定着すると、考えること自体が同時に一種の議論の様相を呈する。
クライアントが存在する建築においても、建築家とクライアントが出会うばかりではない。〈誰か〉に差し向けられた水準においてわれわれは建築を見ているのではないだろうか。建築の批評もまたこの水準にあるはずである。

「現代建築思潮研究会」は、建築/都市/デザインに関する多様な動向を議論し、新しい認識の創出を目的に設定されるフォーラムです。研究の詳細は本誌次号以降、誌面に掲載予定です。

>今村創平(イマムラ・ソウヘイ)

1966年生
atelier imamu主宰、ブリティッシュ・コロンビア大学大学院非常勤講師、芝浦工業大学非常勤講師、工学院大学非常勤講師、桑沢デザイン研究所非常勤講師。建築家。

>日埜直彦(ヒノ・ナオヒコ)

1971年生
日埜建築設計事務所主宰。建築家。

>『10+1』 No.31

特集=コンパクトシティ・スタディ

>磯崎新(イソザキ・アラタ)

1931年 -
建築家。磯崎新アトリエ主宰。

>原広司(ハラ・ヒロシ)

1936年 -
建築家。原広司+アトリエファイ建築研究所主宰。

>芦原義信(アシハラ・ヨシノブ)

1918年 - 2003年
建築家。東京大学名誉教授。

>槇文彦(マキ・フミヒコ)

1928年 -
建築家。槇総合計画事務所代表取締役。

>丸山洋志(マルヤマ・ヒロシ)

1951年 -
建築家。丸山アトリエ主宰、国士舘大学非常勤講師。

>ポストモダン

狭義には、フランスの哲学者ジャン・フランソワ=リオタールによって提唱された時代区...

>レム・コールハース

1944年 -
建築家。OMA主宰。

>東浩紀(アズマ ヒロキ)

1971年 -
哲学者、批評家/現代思想、表象文化論、情報社会論。

>ジャン・ヌーヴェル

1945年 -
建築家。ジャン・ヌーヴェル・アトリエ主宰。

>伊東豊雄(イトウ・トヨオ)

1941年 -
建築家。伊東豊雄建築設計事務所代表。

>ケネス・フランプトン

1930年 -
建築史。コロンビア大学終身教授。