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夢の島になった軽井沢 | 南明日香
Karuizawa: Dream Repository | Minami Asuka
掲載『10+1』 No.31 (コンパクトシティ・スタディ, 2003年07月01日発行) pp.16-17

まずはここでの景観の意味を定めておこう。都市や山岳がゲシュタルトとして即自的に(客観的にではない)あるものとして、景観はその一部を何らかの枠組みを通して切り取ったときに構成されるものである。建築で、土木工事で、絵画で、写真で、言葉で景観は作られ、操作され、複数の人間が共有するものとなる。ひとつの景観には常に先行する言葉やイメージが介在している。風景から受けた言語化以前の体感も、それが自覚的になるときにはすでにどこかで(小説、歌詞、広告、TVの解説等)刷り込まれた形容の解読格子を潜り抜けているものだ。しかもそれは時代によって変化する。忘れられていた表現がレトロスペクティヴに復活することもある。
景観の史学といっても、都市計画やアーバン・デザインの領域でなされる地域の風土的・社会的・歴史的文脈の掘り起こしを試みるわけではない。その土地の歴史を尊重するのは当然のことだが、その歴史を語る言葉がややもするとドキュメンタリ風人間ドラマになり、また風土に目をやるとひと昔前の校歌の歌詞にも似た山紫水明のヴァリエーションになり、結局個性を引き出せないでいるようなものであってはならない。ひとつの地域(あるいは街路のような都市を構成する一要素であってもよい)が複数の景観を抱えているその様相を、地と図の区別をつけずに見つめること。性急にタウンシンボルを求めることも物語を要求することもなく、ただ直視すること。
たとえば軽井沢。イメージアビリティの高さは言うまでもない。様々なキャッチフレーズを付与されてきた空間の代表格。今、大版のガイドブックを手にとると表紙には「お得なランチ&贅沢ティールーム」や「あこがれのリゾートホテルにちょっと立ちよる」のピンクの大文字と該当場所の写真とが並び、裏表紙を見ると小説家堀辰雄の山荘のモノクロ写真と彼の軽井沢を舞台にした作品の紹介がある。現代風俗とレトロな文学散歩。この対照的な表現が、この土地を過去と現在の意匠でパッケージしている。しかもこれは文字通り表裏一体の関係にある。
この不思議な土地の景観の起源を一言で言えば、明治以来の「住民参加の街づくり」と商業主義の開発とがせめぎあったことにある。この現代なら常識的な指針が一二〇年まえに可能になったのは、開発の特殊事情による。文化学の視点でみると軽井沢のスタートはhill station、すなわち宗主国の人間が植民地の山間部に自国の風習を持ち込んで建設した保養地としての体裁をもつものだった。具体的には一八八五年にイギリス系カナダ人宣教師ショーが軽井沢を訪れ、さわやかな気候と大木の並木のある風景に惹かれ、温泉地のもつ遊興の気分のない簡素で清潔な、家族で欧米型の夏のヴァカンスを過ごすに最適の土地を見定めたことに端を発する。この宣教師は友人家族を誘い、空き家になった木造住宅を改造してイングリッシュ・カントリーハウス風のコテージを作った。これが木造切妻下見板張り紅殻塗りのバンガロー風別荘が並ぶ軽井沢の景観を構成する。ちなみに彼らの好んだ落葉松の並木や彼らの食卓を彩った野菜や乳製品を提供した農場、牧場は、一八七〇年代から約四〇年続けられたプランテーション開発の産物である。寒冷な湿原地であった軽井沢は、このように開拓者と宣教師らの手によってモダンな避暑地にふさわしい景観を供えていったのである。
軽井沢にはハイソサエティなイメージもある。現天皇夫妻の「テニスコートの出会い」は、ウイリアム・ヴォーリズ設計のクラブハウスを構える軽井沢会テニス・クラブを舞台とする。これは徳川公爵、細川侯爵ら欧州での生活を知る富豪が軽井沢を別荘地にしたことと関係がある。野澤組の仲介で政治家や華族が土地を購入し、日本初の住宅メーカであるあめりか屋の大型洋館と手入れされた庭(といっても並木道を含むような規模の)が、軽井沢の風景に高級なハイカラさを加えた。
欧州の富豪貴族の生活を上手に学んだ彼らは、ソフト面での品位の維持向上もなおざりにしなかった。一九一六年には「軽井沢避暑団 Karuizawa Summer Residents Association」を結成し、家族ですごす品のよい保養地であるための取り決めを行ない、遊興娯楽施設の建設を禁じた。二年後には「軽井沢通俗夏期大学」をオーガナイズし、学者や文学者を講師にまねいた。皇太子(後の大正天皇)のご学友に選ばれたこともある小説家の有島武郎はその一人である。一九二一年には星野温泉の方になるが、童話作家で雑誌編集発行人の鈴木三重吉の呼びかけにより詩人北原白秋、画家山本鼎、ロシア文学者で大学教授の片上伸らによる「芸術自由教育夏期講習会」が開催された。箱根土地会社などデヴェロッパーの参入が増えるにつれ、次第に大学人が簡易な別荘を求めるようになり、別荘をもたないものも有島家の親戚にあたる山本直良経営の三笠ホテル(一九八二年重要文化財指定)などでつかのま西洋のヴァカンスの夢を見ることができるようになった。
とはいえ、風景がととのい文学者たちが集まったといっても、そこからオリジナルな景観を表現する言語テクストを生むには新たな枠組みが求められる。北原白秋が「自由教育夏季講習会」への参加をきっかけに読んだ落葉松林の情景は(「落葉松」一九二一)いわゆる軽井沢のイメージを呼び起こすというより、むしろ近代の風景論の嚆矢、志賀重昂の『日本風景論』(一八九四)のそれに近いものであった。地理学者の志賀が叙述する火山と潅木の高原風景からおしゃれな避暑地とそれにふさわしいヒーロー、ヒロインの誕生までには、風景から別な要素を浮かびあがらせる語彙レベルでの発想の転換が必要だった。
ここで堀辰雄の登場となる。後に軽井沢を代表する文学者になる堀が私淑する芥川龍之介に連れられてはじめて当地にやって来たのは一九二三年である。やがて彼の書簡に、詩に、今日からみていかにも軽井沢らしい情景が言語化されるようになる。

天使達が/僕の朝飯のために/自転車で選んでくる/パンとスウプと花を/(略)この村はどこへ行つてもいい匂がする/僕の胸に/新鮮な薔薇が挿してゐるやうに/そのせゐかこの村には/どこへ行つても犬が居る/*/西洋人は向日葵より背が高い/*/ホテルは鸚鵡/鸚鵡の耳からジユリエツトが顔を出す/しかしロミオは居りません/ロミオはテニスをしてゐるのでせう/鸚鵡が口をあけたら/黒ん坊がまる見えになつた
「軽井沢にて一九二六」


自転車と洋食と花々と少女とホテルとテニス。ここに軽井沢を語る語彙がそろっている。軽井沢には中国系の別荘客も多くいたが、堀の筆が描くのは西洋人である。そして恋物語の予感。だが天使の語も含めこの詩には、堀が翻訳しているフランスのモダニズム詩人コクトーの影響が強い。また堀が書いた軽井沢を舞台にした小説にも、プルーストの『花咲く乙女たち』の情景描写との類似がはっきりと認められる。つまり堀の軽井沢が異彩を放ったのは、実はそれが外国文学の文体と発想に倣ったものであったからなのである。植林と別荘とホテルは、フランス文学の表現を通して「物語」の舞台装置となったのだ。
そして「軽井沢物語」のヒーローに堀が仕立てられることにより、彼の描く軽井沢はマスレヴェルで流通することになった。堀の生涯それ自体が、彼の軽井沢を舞台にした小説からさらにメタテクストとして物語化されたのである。『ルウベンスの偽画』(一九二七)での別荘の少女のモデルになった令嬢片山総子への憧れ、『美しい村』(一九三三)で暗示される総子への失恋を癒す滞在での後に婚約する矢野綾子との出会い。彼女を結核で失った悲しみは『風立ちぬ』(一九三六)で表される。よくある作者と作中人物の混同だが、文芸サイドからトゥーリズムに押し出されることになったのは、その後の出版の経緯におうところが大きい。作家の死後多恵子夫人によって『風立ちぬ』執筆前後の状況をつづった夫人宛書簡が編集出版され、さらにその文庫本版が流布することで、堀辰雄は軽井沢の景観を背景に愛と死と生を主題とするロマネスクな物語の主人公になり、この地のカヴァーストーリーになったのだ。さらに一九七〇年の角川書店版の『堀辰雄全集』と、堀の若い友人でやはり高原の少女と花の詩人で別荘建築家でもあった立原道造も無視できない。筑摩書房版の『立原道造全集』の一九七三年の出版完了は、軽井沢地域での大学セミナーハウスの開設時期と重なる。さらにこの時期、二〇歳前後の女性を読者ターゲットにしてファッションやインテリアや旅を記事にした雑誌『anan』や『nonno』(現在とは編集方針はもちろん異なる)の発刊により、ロマンティックを求める若者の集う軽井沢の景観ができたのである。そして彼らの嗜好に合わせたクレープ屋や土産物屋の並ぶ高原版竹下通りか、グルメとテニスの女子大生放課後の地方版かといった旧軽井沢が出来上がる。
一方観光産業がかげりを見せた一九九四年以降、軽井沢ナショナルトラスト運動が、歴史建築遺産と文化的な憩いの場所としての再発見をアピールしている。その歴史的建築物の多くを設計したヴォーリズの軽井沢ユニオンチャーチ(一九一八)は、切妻屋根に下見板張り紅殻塗りという、明治期のヴァナキュラーな建築言語を踏襲したもので、彼の軽井沢教会同様、軽井沢銀座の賑わいの中でシンプルなたたずまいを保っている。
教会といえば軽井沢でおそらく最も多くのヴィジタのあるのはアントニン・レイモンド設計の聖パウロ・カトリック教会(一九三五)であろう。建築家の故郷のチェコの建築に倣ったようで、木造の鐘塔が愛らしい。ただ外観の牧歌的なのとは異なり、内部空間は祭壇に向かって視線を収斂させるのではなく、鋏状トラスで頭上に見せ場を作っている。この手法は、キリスト者であったヴォーリズならとらないはずで、建築が建築家という個人の個性の形象になっている典型的な例といえよう。軽井沢を訪れた文学者はこの内部空間の造形的特長を表す表現をもたなかったが、近年建築の言語がこの教会の特性を語り、建築遺産としての価値を高めている。
だがここを訪れる建築巡礼者は、隣接する複数のウエディング衣装の店舗を、見て見ぬふりをして通り過ぎることはできない。カトリック教会の寛容さにならって、他の教会も信者以外の結婚式場としての解放に積極的になろうとしている。軽薄さと俗悪さを指摘することはできるが、清潔なロマンティシズムのイメージを積極的に利用していることも事実であろう。かくも異質な夢の集積所となったこの土地のゲシュタルトを直視するだけでなく、あらゆる景観イメージのからくりを問うこと。そこから新たにこの土地を語る詩学が生まれるはずだ。

>南明日香(ミナミ・アスカ)

1961年生
比較文学・比較文化。相模原女子大学教授。

>『10+1』 No.31

特集=コンパクトシティ・スタディ