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屋上に佇んで | 林道郎
Pausing on the roof | Hayashi Michio
掲載『10+1』 No.26 (都市集住スタディ) pp.158-165

東京という都市の現在を考える上で、「屋上」はひとつのキーワードとして流通している。そしてそれは、言わずもがなかもしれないが、二つの異なる文脈においてそうなっている。それを確認することから始めよう。
ひとつは、宮台真司の「『屋上』という居場所」と題されたエッセイに代表されるように、都市の死角としての屋上を、その「どこでもなさ」において積極的に捉えようとする言論群、イメージ群★一。宮台は、その文章の中で、自分自身の子供時代を回顧しながら、屋上という「どこでもない場所」で「誰でもない人」になる──「脱力」する──ことの安楽を語り、「九〇年代のキーワードは『屋上』なのだと思う」と発言している。私自身、この宮台のエッセイを目にした時には、なるほどそうかもしれない、と思った記憶がある。そう思わせる背景には、おもに八〇年代以降、漫画、映画、テレビドラマなどのメディアにおいて、さかんに屋上のイメージが使われてきた蓄積がある。したがって、宮台の主張に応えてなのか、同時的な共鳴現象なのか、サブカルチャー研究においても、作家分析や作品分析を中心にして、屋上が重要なトポスとして繰り返し議論の俎上にのせられるということになっている★二。
二つ目は、ここ二、三年、官の主導のもとで実際に計画が進められメディアでも積極的に取り上げられてきた「屋上緑化」の文脈である。これからの都市空間の有効利用と環境への配慮から、屋上緑化という手法(人の上がれない屋根上と、人が出入りできる屋上の両方が対象だが、ここでは後者に焦点を絞る)が、にわかに注目されだしたことは周知のことだが、それにしても、東京都によるそのための法整備や優遇税制の適用の早さには驚く。これまでは、好事家の趣味かデパートの屋上の味付けでしかなかったものが、ここのところ、これまでのさまざまな困難をクリアする緑化のための素材や技術の開発も急速に進んでいる印象を受けるし、またそういったハード面からトータルなデザインまでを手がける業者も増加して、一挙に屋上をめぐる「事業」が拡大かつ多角化したようである。それだけ、ヒートアイランド現象を始めとする東京(およびその他の大都市)の環境問題への対策として屋上緑化が期待されているのだろうが、事の運びの速さにどこか危うい印象を持つのは、私が専門外のアマチュアだからだろうか。いずれにしても、現実に屋上緑化の実験は次々と始まっていて──たとえば渋谷区役所の神南分庁舎──、屋上関連の企業の集合体として「屋上開発研究会」(建設、ディベロッパー、住宅、造園、防水、土壌などさまざまな関連業界から三〇社前後が参加)なるものも誕生した★三。都市開発の最前線を示唆する「スカイ・フロント」なる語も流通し始めたようだ。
この二種類の「屋上」をめぐる言説は、対極的な屋上観の上に成り立っている。一方は、学校や病院といった典型的な近代の管理空間の上/裏にあって、しかしその管理の眼差しからは死角になっている屋上。空間として固定的な機能や役割を与えられず、ただ、外気・外光に曝された水平面として存在している場であり、そこでの人間の行動は、昼寝から飛び降り自殺まで、一定の様式の枠に収まらない無方向的拡散の傾向を帯びる。他方は、この忘れられた場に人為的に介入することによって、くつろぎの場として積極的に構成するという意図に貫かれている。緑と風と水──そして場合によってはテニスコートやプールなどのレジャー施設──といったようなお決まりの環境セットの中で、くつろぎは、あらかじめシミュレートされたものの追体験となり、予想外の事態・事件の管理・排除によって支えられている★四。
この屋上緑化への動きそのものを私は必ずしも否定しない。経済効率的な意味に加えて、どう屋上が体験されるかという意味においては、たとえば、病院という空間に起居する患者にとって緑の導入が価値をもちえる局面はかならずあるように思う。しかし、屋上緑化に代表される積極的開発の思想が屋上という場を社会的な意味の衣装によって覆ってゆくことは、宮台の言うような屋上の「どこでもなさ」「無意味さ」が失われてゆくということでもある。言うまでもないことかもしれないが、「開発」というものは、必然的に説得の言葉を必要とするのであり、その言葉による社会的「意味」の裏づけに応じて資本は投下される。無意味な屋上がいまや、投機的な言説と眼差しによって価値づけられ、次第に無意味さを奪われつつある。いや、すでにそのようなものとしての屋上は、現実の世界では経験することが難しくなりつつある。それは、屋上緑化以前にすでに、学校の屋上の多くが立ち入り禁止になったり、あるいはプールや運動場をそこに造ることによって再開発されてきたことに明らかで、ある意味では、今の屋上緑化への動きは、このような手法の進化形とも考えられる。二種類の屋上は、すでに、学校という空間の中で一方が他方に代入される形でぶつかり合っていたのである。
このような屋上の変容は、おそらく七〇年代以降の顕著な傾向と思うが、私が関心を持つのは、にもかかわらず、屋上という場が、前言したように漫画や映画やテレビ・ドラマ、ポピュラー・ミュージックなどにおいて独特の意味合いを持った設定として使われ続け、ある一定の「屋上イメージ」を生産し続けてきたことである。そしてそれが、高度経済成長以降の日本の社会が抱え込んできた病理の糸が絡まりあう不思議なイメージの磁場となってきたように見えることである。このイメージとしての屋上の引力は、どうやらいまだに衰えてはいない。失われつつある屋上のイメージに吹き溜まる澱は重層化している。
あらためて明確にしておきたいのは、ここでの「屋上イメージ」は、おもに七〇年代以降に登場する「空き地」的な屋上であって、それ以前の文学や映画などで屋上イメージの中心に君臨していた「デパートの屋上」との間には少し距離があるということだ★五。「モダン」な時代の象徴としての、あるいは家族団欒の場としてのデパートの屋上は、ここで問題にしようとする「屋上」とは違う。デパートの屋上にも、たしかに、いまのミニマルな屋上のイメージに通ずる要素がなくはない。たとえば、萩原朔太郎が「虎」でモチーフにした銀座松坂屋の屋上に囚われている虎の孤独、寂しさは、現代の屋上イメージを予告していると言えるだろう★六。しかし、その朔太郎の虎にしても、アドバルーンやエレベーターという当時の都市のモダニズムを象徴する物との並列において描写されているのであって、物が削ぎ落とされてしまったミニマルな現代の屋上とはやはり距離がある。言いたいことは、この論の「屋上」の範例的なイメージは、学校や団地、病院、オフィスビルなどに見られる、ビル構造の基底が露呈した何も無い水平面としての屋上だということである。
このミニマルな屋上の中でもっとも多彩な屋上イメージを提供してきたのは学校だが、今述べたように、学校の屋上は、現在、その殆どが立ち入り禁止である。これは、私が大学の授業でアンケートを取ってみて確認できたことだが、現在の中学校、高校の殆どは、屋上への自由な立ち入りを禁止している。その禁止の度合いはさまざまで、厳重な鍵を掛けたり階段そのものを無くしたりして屋上へのアクセスを物理的に不可能にしている例から、一応禁止だけれどもこっそり入ろうと思えば入れる程度のバリアしか設けていない例まである。いずれにしても、まったく自由に屋上に出入りさせている学校は皆無に近く、多くの学生の屋上体験は、先生に付き添われての授業や記念写真撮影などの特殊な機会に限られている。これは、宮台が自己の屋上体験として言及する団地の屋上についても言えることで、今は、多くの団地が屋上へのアクセスを禁じているようである(学校に比べれば解放している割合は多いと思えるが)。そして、アクセスが開かれている屋上では、学校にしろ団地にしろ、あるいは病院やオフィスビルにしろ、大概はかつてないほどに高いフェンスが周囲を囲繞することになっている。
この屋上の閉鎖という事態は、おおむね七〇年代を通じて進行したようで、その背景には、屋上での暴力や自殺といった反社会的な行為が、実例の増加とともにイメージとして流通していったということがある。ちなみに、七〇年代は、校内暴力の表面化の時代であった。七二─三年にその言葉がはじめて新聞紙面などを賑わすようになり、高校における対学校、対教師の暴力に始まり、七八年頃にはそれが中学にまで広がってゆく。やがてそれは、警察権力の介入などの事態を通過して、八〇年代に入ると学生相互間の暴力、つまり「いじめ」の広がりという方向へ展開してゆく。このような経過の中で、屋上が、監視の眼の届かぬ不良たちの溜まり場として、あるいはいじめの現場として認知されるようになり、次第に立ち入り禁止の方向へと向かうというのが大勢のようである★七。
一方、団地の七〇年代から八〇年代にかけては、飛び降り自殺の時代であった。それを象徴するのが自殺の名所となった高島平団地であるが、この団地が完成したのが七二年。この年に五件の飛び降り自殺があって以降、着実にその件数は増加し、八〇年には二〇件を越している。八〇年に金網フェンスを設置するが、やがて八七年には屋上そのものの立ち入りを禁止することになった。高島平の例は極端かもしれないが、このような動きは、全国的な傾向として広がりを見せる。現在の高層集合住宅の屋上で立ち入り禁止は、学校ほどではないにしても、かなり多い。さらに、飛び降り自殺全体について付け加えると、八六年のアイドル岡田有希子の自殺直後その件数は一気に増え、以降日本全国で年間二〇〇〇人以上を維持し続けているという(首吊りに次いで、自殺の方法としては二番目に多いらしい)★八。
宮台が、子供のころよく団地の屋上に出て一人の時間を過ごしたというのは、彼の子供時代が六〇年代から七〇年代にかけてだったからと言っていい。学校においても、当時なら、そのような屋上の経験は多くの子供たちに共有されていただろうし、宮台と同世代の私自身の記憶を辿っても、学校(私の場合は中学・高校一貫教育の学校で六年間同じ学校だった)の屋上は自由に出入りすることが可能だった。それほど頻繁に実際には使っていなかったが、自分一人、あるいは友人たち数人と過ごした屋上での経験は、たしかに忘れがたい感触を記憶の襞に残している。ちなみに、私は、大学に入って上京した時に、浦安の学生マンションに一年ほど暮らしたが、そこでも屋上は解放されていて、時折一人で屋上の時間を過ごすことがあった。まだディズニーランドができるまえの浦安は、埋立地にポツリポツリとマンションが建ち始めたばかりで、ザラザラとした砂埃を運んでくる海風に吹かれながら、屋上で荒涼たる埋立地の風景を眺めていたことも記憶に生々しい。
翻って、そのような屋上体験を、今の一〇─二〇代の多くは、あまり実体験としては持っていない。にもかかわらず、彼等に屋上についての想像は具体的かつ豊かである。「屋上で人は何をするか」という問いに対して、彼等の回答の中から列挙してみると、こんなリストがたちまちできあがる。「景色を眺める」「空を見上げる」「ぼんやりする」から始まって、「昼寝をする」「寝転がる」「弁当を食べる」「告白をする」「秘密の話」「友人と語らう」「洗濯物をほす」「煙草を吸う」「飛び降りる」「授業をさぼる時に行く」「セックスする」「喧嘩の呼び出し」「先輩が後輩を殴る」「地上を見下ろす」「歌う」「叫ぶ」「踊る」「抱き合う」「キスをする」「泣く」「落書きする」「人を追い詰める」「写真をとる」「ガーデニングする」「花火を見る」「星を見る」……。これらは、実体験に根ざしたものもあるだろうが、おおむね彼等がどこかで出会った屋上イメージとつながっている。大雑把に言えば、彼等にとって、さまざまなメディアの中で流通している屋上イメージは、宮台の言うように単に「脱力」する場としてだけあるのではなく、より多元的な広がりを見せている。それらは、勉強や仕事といった日常行為からの遠ざかりにおいて共通しているとは言えるだろうが、一枚岩ではない。
このリストの中には、幾つかの元型的なイメージがあると思うが、そのひとつは、宮台や私自身の経験ともつながる、一人か数人でのんびりと過ごす屋上のイメージである。ことに学校の屋上での経験として、授業をサボって煙草を吸う、あるいは昼寝をするというようなイメージは、さまざまなメディアにおいて反復されてきた。そのようなイメージが圧縮された例として、たとえば、RCサクセションが一九八〇年にリリースして大ヒットした「トランジスタ・ラジオ」を挙げよう。

Woo 授業をサボって
陽のあたる場所にいたんだよ
寝ころんでたのさ 屋上で
タバコのけむり とても青くて

内ポケットにいつも トランジスタ・ラジオ
彼女 教科書 ひろげてるとき
ホットなナンバー 空にとけてった

ああ こんな気持ち
うまく言えたことがない ない ない


「授業をさぼる」「寝転ぶ」そして「タバコを吸う」。そして、タバコの煙の向こうには、青空が広がっている。先ほど、七〇年代は校内暴力が始まった時代だと言ったけれども、この歌には、まさに、学校というシステムにとけこめずに、屋上という仮の楽園で、一人、授業とは違う時間を過ごす優しき不良の姿が捉えられている。いや不良と言ってもここには暴力的なイメージはまったくなく、恋の告白をすることができない一人の純朴な少年の姿でもあり、学校という制度への不適応をどこかで感じながら思春期を過ごしているすべての少年が自己投影できる普遍性を持った牧歌的なイメージだろう。事実、このような、まさに脱力の場としての屋上イメージは、岡崎京子の『東京ガールズブラボー』を初め、多くの漫画やドラマに登場する。しかし、このRCサクセションの歌が特に興味を引くことは、この屋上の不良/少年が、一個のトランジスタ・ラジオという魔法の箱を手にしていることである。このラジオには、外国から「ホットなナンバー」が届き、その彼方から届く音が、広大な空と溶け合って、屋上世界を包んでいる★九。そこで流れる時間は、教室で彼女が教科書をひろげてる「時」とは異質な時間なのである。その異質な時間がこの歌では、音楽を媒介にした世界の共時性によって暗示されている。「彼女」をその共時的な時間の方に振り向かせることができるかどうか、それがこの不良の前に難問として立ちはだかっているのである。
屋上という空間が、管理の眼差しを逃れるエア・ポケットとして存在していることが、解放感をもたらし、「脱力」の場となることの格好の例がここにあるわけだが、同時に、見逃してはならないことは、この「眼差し」の回避が、全感覚的な身体の解放をもたらしていることである。この歌においてそれは、寝転ぶという所作と聴覚の拡張という形で表われているが、それ以外にも、前に挙げた学生たちの言葉を借りれば、屋上は風を感じたり、踊ったり、抱き合ったりする場なのである。この解放感はしかし、屋上が視覚的なエア・ポケットであることのみに帰すことはできない。とりわけ、音の問題は重要で、聴覚の拡張を含め、そのような全感覚的解放が可能になる条件として、ミニマルな屋上に音が無い、つまり音響的にもそこがエア・ポケットであるということが極めて重要に思える。視覚と音の両面で孤島化している屋上が重要な役割を果たす漫画作品として、ひとつ、松本大洋の『GO GO モンスター』を挙げておこう★一〇。この作品の場合、屋上は、世界というよりも、不可視の異世界への通路として屋上が描かれていて、その異世界に行ってしまったユキという少年とこちら側の世界に残されたマコトという少年をつなぐものとしてハーモニカの音が重要な役割を果たすのである。
実際、屋上という場に出ると、その周囲に音を反射させる壁と天井がないために、下界の音が随分と遠ざかって聞こえる。近代以降の都市空間の経験が、視覚にまさるとも劣らぬ程度に音の経験でもあるということは、すでにドナルド・ロウなどが指摘していることだが、屋上の解放感は、通常我々が都市を生きている時の緊張した聴覚の状態(見えない方向からやってくるかもしれない危険に絶えずアンテナを向けている耳の状態)の解除にも多くを負っている★一一。
この音の遠さは、屋上からの風景の感受にも大きな影響を及ぼしているのではないだろうか。屋上からの眺めが、妙に平板で、立体感を欠くのは、眺める自分と対象の距離の遠さに加えて、音が届いてこないことに多くを負っているだろう。さらに、自分の身体が風と光に曝されて妙に生々しく感じられることとの差異によって、その風景のリアリティの欠如は、余計に鋭くされる。その「落差」は、解放感とは裏腹に、再び自分と世界の関係性を測定せざるをえないような不安へと屋上の存在を促すことにもなるだろう。屋上からの眼差しは、したがって、つねに、自己と世界の距離の再測定に関わっている。屋上から故郷の方角を眺める、自宅の方角を眺める、または高層ビルを眺める。それは、無秩序な光景の中に、自分が認識できる記号を発見し、茫漠と広がる世界を分節化し秩序立てていく喜びであるとともに、平板化した世界とざわめく身体としての自分との量的かつ質的な距離──落差──を実感する、いわば寂しさの経験にもなる。屋上は、その意味で、寂しい者=曝されている者として存在している自己に直面する場でもあり、それが、屋上の経験を塔の経験と隔てる重要なファクターになっている。
イメージの中の屋上での行為が、一人での「脱力」とともに、いやそれ以上に二人の間で生起するエロティックな行為を含むことは、まさにその寂しさに関わる。見方を変えれば、「トランジスタ・ラジオ」も、一人で屋上にいながら、教室の彼女へと思いを馳せているのだから、二人の関係性を突出させる場として屋上があるとも言えるわけだが、多くの少女漫画や小説、映画など(八〇年代以降のものが多いと思うが)で屋上は、頻繁に「告白」や「秘密の打ち明け」の舞台として登場するし、また、セックスの舞台としても登場する。そしてその場合は、つねに、「いちかばちか」という賭けを伴うのである。自己は、屋上に立ちながら、脱力どころか、自らの生死を賭けて戦いもするのである。大抵それはハッピー・エンドが保証されているのではあるが、たとえば、漫画のいわゆる学園ものや病院ものには、多くの屋上告白・打ち明けの例を見出すことができる。学生たちに即答してもらったり、自分で即座に思いつくなりだけでも、栗原まもるの『屋上のキス』という短編、大野潤子の『うす紅の目薬の中で』、今市子の『あしながおじさん達の行方』、西森博之の『今日から俺は!!』、岩明均の『寄生獣』、吉田秋生の『櫻の園』などがある。テレビ・ドラマでも事情は同じで、『不揃いの林檎たち』や『未成年』といった例がすぐ挙がる。また、恋愛の告白ではなく、何がしかの決意表明の例としてランダムに思い浮かぶ例として、映画『キッチン』や『顔』などがある。テレビ番組『学校へ行こう!』の「未成年の主張」も、同じような文脈で考えられるだろう。
今、「自己の生死を賭けて」と言ったが、それが単なるメタファーにすまない文字通りの意味をも含んでいることは、屋上が、前言したように飛び降り自殺の場でもあるからである。告白や打ち明けといった、自己のアイデンティティを賭けた行為──踏み出し──は、現実の飛び降り/踏み出しと、少なくともイメージの上では表裏一体になっている。逆から言えば、屋上からの飛び降りには、単に落下するというだけではなくて、飛翔・希望のイメージが往々にして付随しているということでもある。あるいは、救済への欲望が。現実に飛び降り自殺をする人たちがどのような理由で飛び降りという手段を選ぶのか、私には知りようもないが、その背後には、もしかすると、この飛び降りという形式が他の手段に比べて救済への欲望をよりよく表現できるということに関わるのではないかと妄想したくなる。先ほど、八六年の岡田有希子の飛び降り自殺以降、飛び降りの件数が一挙に増えたといったが、とりわけ若者の自殺に飛び降りという形式が多いように思えるのは(しかも、同士心中や無理心中が多い)、九〇年代に入って変わらぬ傾向なのではないだろうか(この原稿を書いている今日も、埼玉で高校生男女がホテルの屋上から飛び降り心中を試みたというニュースが流れていた)。屋上からの飛翔と飛び降りが、きわどく背中合わせになったイメージの例として、一九九一年にブランキー・ジェット・シティがリリースした『Red Guitar and the Truth』というアルバムに収録されている「あてのない世界」を挙げよう。

レンガで出来た 五階建てのビルの屋上でダンスしてる
まだ少し寒い 冬の終りの青空の下で リズムにあわせて
僕は頭の中に ずっと鳴り続けてるクラクションを 思い浮かべながら

もしも 背中から白くてやわらかな翼が生えてきたなら
ここから飛び降りたって 死んだりはしないのに……


これは、ヴェンダースの『ベルリン・天使の詩』を意識しているのだろうか。屋上から「白くてやわらかな翼」を生やして、飛翔してみたいという願望が歌われているが、それは、「ダンスが終わった後の行き先」が見つからず、この世界が、「あてのない世界」であって、それに「誰も彼もがのみ込まれて行く」ように見えるからである。屋上は、最後のダンスのステージであると同時に、できれば、そこからさらに死を賭して飛翔してみたい場所としてイメージされている。屋上が追い詰められる場であることは、アクション映画やミステリー小説など枚挙にいとまがないほどその例を見つけることができるが、ここでは、誰かによって追い詰められているのではなく、「あてのない世界」の中に残る唯一の居場所──しかも沈みつつある孤島──なのである。
室井佑月の「屋上からずっと」という短編には、この飛翔への意志が、もっと端的に語られている★一二。まさに九〇年代的な湾岸沿いに設定された「みらい島」の高層マンションに住んでいる主人公の少女が、屋上で「ひょろっとした」男の子に出会う。この少年はいきなり彼女に襲いかかりレイプしようとするが、挿入する前に果ててしまう。彼女の学校では、いじめのゲームが進行していて、みな戦々恐々としながら登校している。彼女は、そんな中、「なにかを変えなければ」という強迫観念に衝かれて、なぜかユウジとセックスをすることを心に決めて、数日後また屋上へと向かう。ユウジは、前回の暴行をあやまるが、彼女は、「こないだの続き、してみない」といい、二人は屋上でセックスをし、彼女は処女を失う。それから毎晩彼等は屋上でのセックスに耽り、ユウジは彼女に、フェンスを越えて海に飛び込めたら天国にいけるという自分の夢について語る。それに対して彼女はこんなことを思う。

天国ってどんなところだろうと考えて、くすりと笑ってしまった。天国なんて、きっとない。なにもない。学校も、家も、なにもない。無だ。いまとどこが違うっていうんだろう。どうでもいい。

そしてユウジは、セックスで互いに果てたあと、棒高跳びの要領でフェンスを飛び越えて海へと飛び込むという計画を実行する。


助走が始まる。初めはゆっくりと、そしてじょじょに身体が前屈みになる。あたしは映画でも眺めるように、彼の姿を見つめていた。(…中略…)竿がしなる。彼の身体は浮かんだが、竿は弧を描いたまま直線に戻ろうとしなかった。右足がフェンスに引っかかった。頭から落ちていった。彼は片手を必死で上へと伸ばそうとしているみたいだった。月に向かって。(…中略…)それから、彼が消えた淵までいってみた。下を見た。ユウジの身体が、道路に落ちているのが見えた。小さなゴミみたいだった。


その後、ユウジの飛び降りの目撃者だったことが他の生徒たちに知られ、彼女はいじめの対象になるのだが、やがて、いじめる側の少年たちを屋上に呼び出し、そこでみずからスカートを下ろし、性器を露出する。少年たちは、「おまえはおれたちの奴隷だ、おもちゃだ」と叫びながら彼女の身体をまさぐるが、彼女は微笑みながら頭をふり、「違う。あんたたちが奴隷になるの」と思いながら、ペニスのひとつを強くにぎって、自らの「力の源」へと誘導するのである。
この小説において屋上は、なにも変わらない世界において唯一、主人公の少女が、被虐の状態──主体の廃墟──を積極的に繰り返して選びとることによって、かろうじて主体の残影をとりもどす──つまり「なにかを変える」──ことに成功する場として機能している。と同時に、ユウジにとっては、飛翔のためのステップであり、実際、彼の場合は、なんの躊躇いもなく棒高跳びの要領で「踏み切る」のであるが、右足がフェンスに引っかかって海/天国にその身体は届かず、あえなくゴミのように落下死する場となっている。
この殺伐とした屋上こそ、屋上における「賭け」の系譜の極北に位置するものだろう。天国への飛翔を夢見た少年のゴミのような死と、自らの身体を廃墟化することでかろうじて主体性を回復する少女。少年は賭けに負け、少女は勝つ。なぜだろう。それはおそらく、廃墟化して「あてのなくなった」世界の側に踏みとどまることができるかどうか、ということなのだ。そして、それが可能になるために少女は、自らの身に起こった暴力の経験を反復する。ユウジに襲われた後、彼女は自ら屋上へと出向きその彼とセックスをし、同じように、いじめを仕掛けてくる少年たちには、教室で一度襲われた後、屋上へ自ら呼び出しをかけるのである。ここに反復の反復という構造があることに注目しよう。そして、屋上という場が、この少女が、二回目の被虐を生き直すことで、自らの受動性を主体性へとひっくりかえす逆転の場として機能していることに。ここで屋上は、彼女にとって、単なる飛翔台でもなく、避難所でもなく、また、リセットの場でもない。我が身に起こった悲劇をそのまま反復することによって、現実との関係性を逆転するためのミニマルな劇場と化しているのである。
蓋し、屋上というのは、居場所そのものであるというよりも、居場所の喪失を喪失として生きなおすための「舞台」なのかもしれない。室井の小説は、そんなことを考えさせるが、翻って、その地点から「脱力」の問題を見直すと、こんな感想が浮かんでくる。「脱力」の一断面は、やはり、この喪失の反復に関わっているのではないか。つまり、社会的な眼差しからの解放というだけではなく、それは、社会的な死の積極的な擬態なのではないか。近代的な管理の眼差しに貫かれて社会的な仮死状態にある自己を、無の空間でまさに廃墟的なるものとして反復・擬態することによって、受動の極から能動の極へと自己の位置を反転させる可能性が手探られているのではないだろうか。屋上で昼寝をする、横たわる、座る、凭れる、寄りかかる、そしてセックスをする。こういった行為はすべて、直立する人間がしっかりとした輪郭を失い、重力の圧力に負けて水平面へと融解し、あるいは他の人格と一体化することによって自失し、モノ化または液状化して停滞するという死への方向性を内包している。このドラマにおいて、水平面そのものが露呈した屋上はまさに格好の舞台になる。しかも地面から垂直に立ち上がるビルの頂上面であり、誰にも見られないけれども無人称の眼差しに「曝されて」いる場であることは、その死の擬態を自然であると同時に演劇的でもある行為として成立させているのではないだろうか。そしてその時に擬態される「喪失」は、それまで屋上が支えてきた多くの幻想──恋愛幻想や上昇幻想や逃避幻想──の喪失でもあるだろう。たしかに屋上は、いまだに、このような幻想を育む場であり続けている。しかし、そういった幻想の蓄積には、どうやら大きな罅割れが生じつつあるようだ。もはや屋上も「あてのない世界」に飲み込まれてしまいつつあるのだろう。廃墟化しつつある幻想の残滓を──あるいは飛ぶ前にもぎ取られた「白くてやわらかい翼」の残骸を──白日に曝し、手元に残されたそれらの断片を使って世界をつくりかえることから、屋上の人は始めなくてはならないのかもしれない。認識の力が求められている。勝ち続けるあてはないのだけれど。

1──埼玉県新座市野火止団地、2001年10月 階下を見下ろす 公園、その中の壁打ち場、駐車場、駐車場、中学生、自転車 撮影=友政麻理子

1──埼玉県新座市野火止団地、2001年10月 階下を見下ろす
公園、その中の壁打ち場、駐車場、駐車場、中学生、自転車
撮影=友政麻理子

2──あのとき私はここでやっと外者になれた。 今ここでやっとここの人になれた気がする。 いつものようにあたたかく、 ほっといていてくれるここ。 撮影=友政麻理子

2──あのとき私はここでやっと外者になれた。
今ここでやっとここの人になれた気がする。
いつものようにあたたかく、
ほっといていてくれるここ。
撮影=友政麻理子

3──幸せの場所 撮影=友政麻理子

3──幸せの場所
撮影=友政麻理子

4──松本大洋『GO GO モンスター』 (小学館、2000)

4──松本大洋『GO GO モンスター』
(小学館、2000)



★一──宮台真司『世紀末の作法──終ワリナキ日常ヲ生キル知恵』(メディアファクトリー、一九九七)所収。インターネット上においても屋上に関するサイトがかなりあるが、一例として以下のサイトに挙げておく。
「屋上の二人」=http://www.intergor.jp/monkey/okujo/
★二──ひとつだけ例を挙げておく。椹木野衣の『平坦な戦場でぼくらが生きのびること──岡崎京子論』では、一章の『ジオラマボーイ パノラマガール』で屋上がキーワードになった分析が展開されている。
★三──屋上開発研究会については、以下のサイトを参照のこと。http://www.sky-front.gr.jp/
★四──たとえば、渋谷区役所の神南文庁舎では、屋上へ入るのに、事前の職員への声かけと指定用紙への記帳を実施しているという。明らかにそこには、不審者排除の意図が働いている。このことを私は、武蔵大学社会学部の田中会理さんの卒業研究の草稿「都市のエアポケット──『屋上』考察」で知った。未発表段階での閲読をさせてくれた同氏に記して感謝の意を表わす。
★五──正確に言えば、それは「空き地」とも違う。空き地の原型的なイメージは、たとえば、小津安二郎の『生まれてはみたけれど』や藤子・F・不二雄の『ドラえもん』などに登場するものだろうが、ああいう近隣住人たちの自由な出会い、交流は、当然のことだが屋上イメージにおいては起こらない。
★六──萩原朔太郎詩集『氷島』(第一書房、初版一九三四)所収。
★七──徳岡秀雄『社会病理を考える』(世界思想社、一九九七)一二六─一四七頁参照。
★八──鶴見済『完全自殺マニュアル』(太田出版、一九九三)所収の「自殺データ」(一八七─一九三頁)参照。
★九──この歌の二番の歌詞は、「ベイエリアから、リバプールから/このアンテナがキャッチしたナンバー」と続く。
★一〇──松本大洋『GOGO モンスター』(小学館、二〇〇〇)。
★一一──Donald M. Lowe, History of Bourgeois Perception , University of Chicago Press, 1981. とくにその一章を参照のこと。
★一二──室井佑月『熱帯植物園』(新潮社、一九九八)所収。

>林道郎(ハヤシ・ミチオ)

1959年生
上智大学教授。西洋近現代美術史、美術評論。

>『10+1』 No.26

特集=都市集住スタディ

>団地

一般的には集合住宅の集合体を指す場合が多いが、都市計画上工業地域に建設された工場...

>椹木野衣(サワラギ・ノイ)

1962年 -
美術評論。多摩美術大学美術学部准教授。