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中野ブロードウェイ | 三浦展
Nakanobroadway | Atsushi Miura
掲載『10+1』 No.29 (新・東京の地誌学 都市を発見するために) pp.32-33

現在の東京の、いや日本のサブカルチャーを代表する空間のひとつが中野ブロードウェイであることは、おそらく誰しも認めるであろう。漫画、アニメ、ゲームについて言えば、秋葉原もそうした空間のひとつだし、イヴェントだがコミケもまたそうであることは論を待たない。もちろん音楽、ファッションなどでは、代官山、裏原宿、下北沢、高円寺などがサブカル的な街を代表していることも言うまでもないが、漫画、アニメ、ゲームといった、いわゆるおたく文化は、なにしろ日本のオリジナル度が高い。しかも中野ブロードウェイは、本来はマンションだ。そういう意味でも中野ブロードウェイを日本を代表する独特のサブカル拠点と呼びたい衝動に私は強く駆られるのである。
前々からこの中野ブロードウェイをディープに調査したいと思っていながら、なかなか機会がなかったのだが、このたび武蔵野美術大学の学生三人からなる「KYOZONE MEDIA(宮崎裕司+原田直+関谷康)」にブロードウェイの調査を提案したところ、大変関心を持ってもらい、彼らによって今まさにブロードウェイの全貌が明らかにされつつある。その成果の一部は私のホームページ(http:// www.culturestudies.com)に掲載されているが、最終的には何らかの出版物にする予定であるので今後の情報は同ホームページをチェックしていただきたい。
さて、中野ブロードウェイは一九六六年一一月に竣工した地下一階、地上一〇階のマンション。敷地面積は本館が六二五三平米、別館が一六二三平米。合計八〇〇〇平米近い広さ。総床面積は五六〇〇〇平米余。地下一階から地上四階までは店舗、五階以上は住居という構造で、当初は地下は食料品、一階がブティック中心。二階はすべて飲食店、三階はまたブティック街で、四階がまた飲食店という構成だったという。店舗数は全部で四四〇店、五階以上の住戸数は七〇〇戸という巨大な建築物だったので、大変話題になり、全国から見学者が来たらしい。青島幸男や沢田研二が住んでいたというから、いまで言えばテリー伊藤とキムタクが住んでいたようなものか。とにかくなにかと話題のマンションだった。
では、これだけ広大な敷地、ブロードウェイができる前は何だったのか、というと、中野駅北口のアーケードからブロードウェイ一階のショッピングストリートが、新井白石を祀った新井薬師までの参道で、まわりはただの野原、あるいは一般住宅と家庭菜園だったという。それが今やおたくの聖地「まんだらけ」までの参道になったわけで、実にゲニウス・ロキを感じさせる事実である。たしかにサンモールを歩いていると、知らず知らずのうちにブロードウェイの中に入り、そのまま何も考えずにエスカレーターに乗ると、なぜか一気に三階まで上り、そこに「まんだらけ」があるという演出(?)は誠に宗教的である。
中野と言えば、今のサンプラザのあたりに江戸時代には犬屋敷があった。将軍綱吉が「生類憐みの令」を出し「お犬様」を殺すことができなくなると、江戸中の野良犬が中野に集められたのである。犬屋敷の面積はなんと三〇万坪!(一〇〇万平米=一平方キロメートル)という広さだった。
そもそも中野は将軍家の鷹狩りの地であり、鷹見役場が置かれたのが高円寺。そして南口の丸井の裏あたりが将軍が陣取るお立場だった。そのお立場から周囲を見回した将軍吉宗が、ここに桃を植えれば美しかろうと桃の木を何千本も植え、以来この地は桃園と言われ、その名は今も学校などの名として残っている。
桃園川という川もあって、いまは暗渠だが、阿佐ケ谷から東中野のあたりまで流れている。川は最後は神田川に流れ込むが、この流れ込む場所に「神田川の碑」が立っている。四畳半フォークソングの大ヒット曲、南こうせつとかぐや姫の「神田川」の歌詞が書かれた碑である。その曲を作詞した喜多条忠が若い頃、そのあたりに住んでいたからだという。
行ってみるとたしかにいかにも七〇年代の若者映画にでてきそうな風景を見ることができる。ちなみに「神田川」の連作である「妹」が映画化されたときの舞台が高円寺で、私の記憶が確かなら(あまり自信はないが)桃園川の暗渠あたりも映っていたような気がするが、映画はビデオにもDVDにもなっていないので確認できない。ぜひDVD化してほしい!!
そういえば、犬小屋の後にできたサンプラザも、今のように誰でも武道館でコンサートができなかった一九七〇年代には、ロックやフォーク、ジャズのコンサートがたくさん開かれた。「四畳半フォーク」という言葉の命名者(もちろん蔑称として使った)ユーミンがデビュー当時の荒井由実時代だけの曲でコンサートをしたときも会場はサンプラザだった。それは絶対サンプラザでなくてはならなかったはずだ。貧乏くさい四畳半フォークが嫌いなユーミンですら、自分の若い時代を再現するにはサンプラザでなければならなかったのだ。なにしろサンプラザは労働省が作った勤労青少年のための施設だから、ビルの上のほうには職業適性検査ができるフロアもある。だから、ロックがゴミ音楽と言われて、神聖な武道館でコンサートをさせてもらえなかった時代でも、サンプラザではできたのである。
話がだいぶ逸れたが、言いたいのは、中央線の魔力のせいもあろうが、中野は歴史的に若者文化、サブカルチャーの拠点としての性格を持っていたということ。「お犬様」だって相当おかしなお触れで、なんだかすごくファンキー。今ならお笑い番組の企画としてしかありえない。桃園を作ったのも庶民の気軽な観光を振興するという一種の余暇経済政策だったことを思えば、結構サブカル的だ。だからこそ中野発祥の月賦屋さんだった丸井も今や若者に不可欠の店になれたのだろう。
そんな中野にブロードウェイはできた。一九六六年、トヨタカローラが発売され、マイカー元年と言われた高度経済成長の時代。ビートルズが来日した年。そして団塊世代の若者たちが、GSブームを起こし始める。人気ヴァラエティ番組「シャボン玉ホリデー」の作家青島幸男とGS最高の人気を誇るタイガースのジュリーがそこに住んだのはまさに時代の引き合わせであろう。今ならさしづめ汐留の超高層マンションに、一部上場したネット・ヴェンチャー企業の創業者が住むというような、時代の風を感じさせる。
だが、そんな時代の寵児ブロードウェイですら魔窟にしてしまうのが中央線のすごさか。おそらく七〇年代以降、都心の人口が減ったことがブロードウェイの衰退をもたらし、空いたテナントに入ったのが「まんだらけ」。一九七七年に入居した「まんだらけ」は今やブロードウェイ内だけでも二〇数区画を占拠し、ブロードウェイを「まんだらけ」ビル化して、それこそ店頭登録企業となった(社長はどこに住んでるのか? 汐留なら笑えるなあ)。
それに合わせて、おたく系のショップが増加。コスプレ、フィギュア、トレカ、ポスター、ビデオ、精神世界など、マニアックな店が軒を連ねることとなった。そうした怪しい店と並んで、古くからある寿司屋、とんかつ屋、洋品店などは、客層の激変のために息も絶え絶えで、ようやく生きながらえているというのが実状のようだ。まさに魔物にとりつかれたようなものであろう。

1──中野ブロードウェイ

1──中野ブロードウェイ

2──中野ブロードウェイ

2──中野ブロードウェイ

3──中野ブロードウェイ

3──中野ブロードウェイ

4──中野ブロードウェイ

4──中野ブロードウェイ

5──中野ブロードウェイ

5──中野ブロードウェイ

6──中野サンプラザ 撮影=KYOZONE MEDIA

6──中野サンプラザ
撮影=KYOZONE MEDIA

>三浦展(ミウラ・アツシ)

1958年生
カルチャースタディーズ研究所主宰。現代文化批評、マーケティング・アナリスト。

>『10+1』 No.29

特集=新・東京の地誌学 都市を発見するために