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歌の意味とはなにか?──声・歌・歌詞の意味論に向けて | 増田聡
What is A Meaning of Song? : Toward Semantics of Voices, Songs, and the Lyrics | Satoshi Masuda
掲載『10+1』 No.29 (新・東京の地誌学 都市を発見するために, 2002年09月30日発行) pp.22-25

『AERA』誌の記者(当時)である鳥賀陽弘道と、日本人ロック・ミュージシャンのボニーピンクのあいだに起こった「論争」(というにはあまりにも一方的な、烏賀陽の「言い負かし」に終わったが)から話を始めよう。二〇〇〇年六月、『別冊宝島・音楽誌が書かないJポップ批評』誌(第七号)にて、烏賀陽は「Jポップ英検ランキング」と題し、Jポップに散見される英語詞表現の語法の誤りについて挑発的な論評を行なった。これに対し、当該記事のなかで批判を受けたボニーピンクが『Jポップ批評』第八号に反論を寄稿、さらに烏賀陽も追加論考を同号に掲載(ただし、烏賀陽はボニーピンクからの反論を読む前にこの追論を執筆している)し、さらに『Jポップ批評』第一〇号において烏賀陽による「総括」が行なわれた。以上がこの「論争」の経緯である。
最初の論評でボニーピンクを取り上げた烏賀陽は彼女の英語詞の語法の誤りを指摘し「高校生の英作文みたいな歌詞にどうしようもない語彙の貧しさを感じる」、「よくまあこんな粗悪な代物が商品として流通しているものだと呆れた」などと手厳しく非難する。これにボニーピンクは「ロックはルールを壊すことから始まります」と応え、ネイティヴの英語文法の観点から下される烏賀陽の断罪を回避しようとする。「ヒップホップなどに見受けられる、一つのスタイルとしてのグラマーの崩壊は許せるけど、日本人のそれはダメだというのは悲しいことです」と彼女は述べ、烏賀陽の文法批判が欧米コンプレックスの帰結ではないかと指摘しつつ、「大事なのは、私の中にあるものを吐き出すことで、誤解を恐れている暇などないのです」と自らの歌詞の文法的誤りをロマン主義的な語彙によって正当化する。
これに対し、烏賀陽はそもそもの批判の意図を追論において主張する。「表現上の必要性もないのに、日本人リスナーに英語で歌う日本人の表現者は二流である」、「しかも間違えだらけの稚拙な英詞を世に出すのはプロの表現者として三流以下である」という烏賀陽の「正論」にはしかし反論はなく、その後の「総括」において烏賀陽は「狙った通りの展開になった」と気炎をあげる。なんともかみ合っていないこの「論争」の背景には、おそらくJポップの、あるいはポップソング一般における「歌詞」の機能について、互いに相異なる了解が存立している現状が横たわっている。
烏賀陽にとって、ロックやポップとはそもそも英語の言語構造(強弱アクセント)にフィットする音楽であり、日本語をそれにうまく乗せることは原理的に困難だとする理解がある。それはかつての「日本語ロック論争」以来、検証を経ないままなし崩しに「定説」とされてきた論だが(そのことによって「日本語ロック」を洋楽よりも「劣った音楽」とする観点がずっと支配的となってきたわけだが)、九〇年代以降のJポップについて烏賀陽は「日本語詞をロックにうまく乗せた才能あるミュージシャンが多数出現している」との現状認識を示す。ゆえに彼は、日本人ミュージシャンで日本語詞に挑戦せず、安易に英語に逃げるのは非難されるべき振る舞いであり、しかも「その英語詞が文法的に誤っているとするなら、論外と言わざる得ない」との結論を導く。
一方でボニーピンクは、英語で歌う理由として「欧米の音楽からの影響」を挙げ、文法的に誤ったものであったとしても、それが音楽的に必要とされる言葉であれば用いる、とする。この彼女の立場は、歌詞の言語的コミュニケーションの論理よりも音楽的論理を優先させるスタンスだ。実際批判を受けた文法の誤りも、音楽的な必然性からあえて残したものであり、英語ネイティヴのスタッフからも理解されたという事実がある。歌詞はそもそも音楽に従属するものであって、それが文法的規範を無視する事態に至ることもやむをえない。もちろん自身の語学力の不足は彼女も認めているが、そのことは第一義に重要な問題ではなく、烏賀陽の批判は的をはずしている、とするのが彼女の主張である。
しかし、「厚顔無恥」、「誹謗中傷」といった冷静さを欠く言葉の応酬により、両者の対立は理論的深化を見ることはなく、単に「ボニーピンクの作品は良質か/悪質か」といった対立に回収されてしまった。これはポップ音楽をめぐる言説がしばしば陥る罠のひとつである。問題は質的評価の言説を性急に「勝ち負け」に帰着させることではなく(両者ともに「勝ち負けではない」とのエクスキューズは行なうものの、実際の論戦は「勝ち負け」のディスクールを超えることはない)、質的評価の言説のなかにある理論的契機をピックアップし、腑分けする作業である。

そもそも、ポップソングにおける「歌詞」とはどのような機能を果たしているのか。
それは曲の「意味」の代理として、あるいは曲の意味(しばしば「メッセージ」と呼ばれるが)そのものとしてしばしば批評においては便利に用いられる。しかし実際、「ことば」と「音楽」が同時に聴かれる時、そこでは何が起こっているのか。それが厳密に問われることは少ない。
サイモン・フリスは、歌詞を持つポップソングが聴かれるとき、われわれは実際には同時に三つの意味の水準を聴いていると言う★一。ひとつはことばとしての「歌詞」である。それは読まれるものとしての詞であり、言語的な水準で意味作用を行なうことになる。次に「レトリック」であり、それは歌唱という言語行為が行なう、音楽的発話の特性に関わる。語調や修辞法、あるいは音楽とのマッチングや摩擦などが、単に歌詞を読むのとは異なる意味形成を生じさせる。最後に挙げられるのが「声」である。声はポップの文脈ではそれ自体が個人を指し示し、意味形成を行なう。このことはクラシックの歌唱と比較してみれば明瞭であろう。クラシックの歌手の声は楽器であり、取り替え可能なものであるが(異なる歌手が同じ歌曲を歌っても、その曲の「意味」はさほど変わらない)、ポップの歌手はその声自体が独自の意味をもつ。同じ歌を違う歌手が歌うとき、両者の意味は異なるのだ。
このような三つの水準でわれわれはポップソングの「歌」を聴く。それぞれのレヴェルは、各々独自の意味と質的評価を伴うだろう。このような複数の水準が関与する様態こそが、優れた「歌われる歌詞」が必ずしも優れた「読まれる詩」ではないことの要因となる。歌われる歌詞は歌詞自体とその言語行為、および声の質との関係の中で評価されるのだから。ゆえに、歌詞の意味や質をそれだけで評価することは可能であっても、どこか見当はずれな感は否めない。

歌詞の発話行為的な契機から生じるレトリックは、しばしばポップソングの意味生産を多重化する要因となる。そのひとつの例がCGP(Cross-Gendered Performance)、すなわち演歌などでしばしば見られる、「男唄」を歌う女性歌手などに代表されるような、歌詞の「語り手」と歌手自身とのジェンダー的交差現象だ。中河伸俊は現象学的社会学の観点から、この現象に精緻な分析を行なった★二。彼はゴフマンの上演理論を援用しつつ、ポピュラー音楽が表演されるときの、歌詞の言語行為を遂行する主体を、個人(person)—演者(performer)—登場人物(あるいは役柄 character)の三つの層へと分割する。
これはどんな歌唱についても言えるが、例として中河が挙げるのは「栗原清志と忌野清志郎と『この雨にやられてエンジンいかれちまった/おいらのポンコツとうとうつぶれちまった』と愛車の故障に焦る《雨上がりの夜空に》(忌野清志郎・詞)の洋風つっぱり兄ちゃん」の三つの層である。「彼」(栗原/忌野/つっぱり兄ちゃんのいずれか)の歌唱を聴く聴取者は、その歌唱が「誰」によるものと意識するかによって、異なる「意味」をくみ取るだろう(中河によるとこの三層は、あるひとつの層が認識されると別の層が後景に退く、「認知的トレードオフ」の関係にある)。
日本のポピュラー音楽、とりわけ演歌にCGPは特徴的に見られるが、これは日本語が性差に敏感なジェンダー化された言語であることと、個人と演者と登場人物との主体レヴェルの一致を求めない表演上の慣行が日本において根強かったことに起因する(中河はその歴史的経緯を、浪花節の表演慣行——女性も男性もナレーター的に、登場人物を「演じる」のが一般的であった——が戦後ポピュラー音楽に流入したことに見ている)。一方、英米のポピュラー音楽には個人—演者—登場人物の主体レヴェルでの一致が要請される傾向が強く、実際、英米のポップソングには特殊な例をのぞいてCGPがまれにしか見られない。
中河はこのような西洋的表演慣行を「素朴リアリズムのドラマツルギー」と呼ぶ。彼の議論はジェンダーの水準における主体レヴェルの食い違いに限定されるが、敷衍するならば日本におけるポップソングの表演における主体の位置は西洋的なそれに比べより複雑であり★三、単に「個人=演者からのメッセージ」として歌の言語行為を把握するだけでは、現実の「歌」が果たしている意味作用の構造を理解するには不完全であることは確かである。Jポップの「でたらめな」英語詞に対する「識者」の終わることのない批判が、英語を母語としない多くのJポップの聴衆に対してほとんど実質的な有効性を持たないのは、日本における「歌」の表演慣行における意味作用の複雑さをそのような批判が考慮していないことに一因をもつ。日本におけるポップソングはけっして「単一の主体による言語的コミュニケーション」ではない何かである。

しかし、歌詞のリテラルな意味を「歌の意味=単一の主体による言述」と同一視する観点は根強い。おそらくそれは音楽の意味を言語に変換する際の難点を回避する思考のエコノミーに発するものであろう。だが、ポップソングの「まともな」批評を目指すならば、そのようなエコノミーに頼るばかりにはいかないだろう。
歌詞の意味を歌の意味と同一視する立場は、モラリストがしばしば行なう「過激な」ヘヴィメタやパンク、ヒップホップなどへの道徳的批判の底流をなしている。また、「放送禁止曲」のロジックも同様だ★四。この立場が仮定するのは、歌詞に現われる歌の「意味」が、他のどんなリスナーにとっても等しく受け取られる、という前提である。しかし、多くの実証研究の試みにもかかわらず、そのような社会心理学的事実はいまだ確証されるに至らないのが現実である。
フリスが正しく指摘するように★五、実際、歌は歌詞によって言い表わされる観念内容やメッセージとして受け取られるよりも、スローガン的なレトリックとして機能することのほうが圧倒的に多い。そのことは、多くのプロテスト・ソングがどのような「意味」を持ったかについて考えてみることで明らかになろう。
例えばブルース・スプリングスティーンは、「ボーン・イン・ザ・USA」において、労働者階級に生まれベトナム戦争に従軍し、帰国してすべてを失った男について歌った。これは明らかに体制批判的なプロテストを目指した歌詞であり、コーラスで繰り返される力強いメBorn in the USAモというフレーズは、歌詞全体の「メッセージ」を念頭におくならば明らかにシニカルなものである。しかし、このコーラス部分は、八四年の米大統領選挙において、共和党のレーガン陣営によって愛国主義的な感情をかき立てるテーマとしてさかんに用いられた。レトリックの意味は送り手と受け手の間の説得的な状況に依存する。「誰が聴くのか」を踏まえず歌詞を云々したところで、歌のリアリティを捉えることは困難だ。
歌は理念や言明を説明するというよりも、感覚を作りだし聴衆に接合することに奉仕する。メッセージ・ソングの有効性はこのためにしばしば阻害される。歌において実際に聴衆に向かって提示される「意味」とは、完全に言語的なものに還元できるわけではないし、あるいは逆に完全に音楽的なものでもない。言語と音楽が声によって融合され、聴衆の耳に提示されるその「出来事」が、言語行為的にいかに機能するかによって、歌の意味は多様なありかたをなすのである。

烏賀陽とボニーピンクの論争に見られるすれ違いは、歌と聴衆とが状況依存的に取り結ぶレトリカルな関係抜きで、「歌の意味」を同定し評価(あるいは断罪)することが可能である、と見なすポップ・ミュージックの言説編制に起因する。「歌は世につれ、世は歌につれ」とはいいながら、われわれは「声と歌詞と歌」を同時に聴くとき、そこで何が起こっているのか、まだ何もわかっていないに等しいのだ。
声による歌は身体のサウンドである。それは言語と音楽を同時に運び、言語と音楽の意味作用を越えた「第三の意味」★六、意味形成性を派生させる実践だ。「歌」という出来事を性急に切りつめ価値判断を下す前にわれわれがなすべきことはおそらく、その出来事に関わる多様なファクターを詳細に見据え位置づける作業であり、けっして同定の容易な「言語的メッセージ」をその出来事全体の意味と取り違えることではない。


★一──S. Frith, Performing Rites: On The Value of Popular Music, Harvard University Press, 1996, p.159.
★二──中河伸俊「転身歌唱の近代──流行歌のクロス=ジェンダード・パフォーマンスを考える」(北川純子編『鳴り響く性──日本のポピュラー音楽とジェンダー』、勁草書房、一九九九、二三七─二七〇頁)。
★三──おそらく、英米圏で「作詞者—演者—歌詞の語り手」が一致する「シンガーソングライター」が正統的なアーティスト像となってきたのはそのような「素朴リアリズム」の帰結であるように思う。一方、一般的に自分で作詞曲を行なわない演歌歌手やアイドル歌手に寛容な日本のポップの現状は、そのようなリアリズムの観点から批判されてきたが、むしろ複数の「発話主体」による輻輳的な意味作用を楽しむ慣行に日本の聴衆は親しんできた、と理解するべきであろう。
★四──これらの「ポップソングの規制」はほとんどいつも歌詞に原因が帰せられる。「音楽それ自体」に照準を定めたポップソングの規制(イスラエル国内でのワーグナー作品の演奏禁止のような)はきわめてまれである。フォーク・クルセダーズ「イムジン河」の発売中止のケース(一九六八)などはそれに当たるかもしれない。
★五──Frith, ibid., pp.165-166.
★六──ロラン・バルト『第三の意味──映像と演劇と音楽と』(沢崎浩平訳、みすず書房、一九八四)。

>増田聡(マスダ サトシ)

1971年生
大阪市立大学文学研究科。大阪市立大学大学院文学研究科准教授/メディア論・音楽学。

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特集=新・東京の地誌学 都市を発見するために