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アウシュヴィッツからの頓呼法(アポストロフィ)──悪夢への目覚めをめぐって | 田中純
Apostrophe from Auschwitz : Awakening to A Nightmare | Tanaka Jun
掲載『10+1』 No.29 (新・東京の地誌学 都市を発見するために) pp.2-12

一、大虐殺の「イメージ」

「一九世紀の首都」パリを舞台に、近代の原史を回想過程で立ち現われるイメージに結晶化させようとした試みがヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ論』であったとすれば、都市表象分析が想起すべき「二〇世紀の首都」とはどこだろうか。いや、そもそも都市の記憶を通して歴史のイメージを浮かび上がらせようとするアプローチ自体が、この時代をめぐって/この時代においてなお、可能だろうか。一九四〇年に死んだベンヤミンが十分にはその拡がりを見極めることができなかった歴史の地滑りが、都市のみならず、人間の記憶と想起のあり方をも大きく変えてしまったのではないか。
「ホロコースト」とも「ショアー」とも呼ばれるナチス・ドイツによる大虐殺が★一、そんな歴史の地滑りにも似た変化を引き起こした世界史的な事件のひとつであったことは間違いあるまい。この出来事の表象可能性をめぐる議論は、歴史のイメージを探索する都市表象分析にとって、成否を左右する問いかけを含んでいる。さらに、「巨大な死の都市」としての絶滅収容所のシステムが、近代資本主義の機械論的なユートピア都市からかけ離れたものでなかったことはたしかだとしても★二、そこにはまた、生の都市/死の都市といった二項対立そのものの基盤を掘り崩してしまう何かがあったように思われる。
この点に関連してジョルジョ・アガンベンは、都市に代わる西欧の生政治学的パラダイムの端的な表われを強制・絶滅収容所に見ている★三。近代の生政治は、「国民」という政治的身体と「住民」という生物学的な身体との間に区切りをもうける。ナチの人種差別的な生政治においては、この「住民」がさらに「アーリア人」と「非アーリア人」に区分され、「非アーリア人」の内部でも、「純血ユダヤ人」が「混血」から分離される。

じっさい、生政治による区切りは本質的に可動的であり、生の連続体のなかで、さらにその先にある領域をそのつど切り離していく。そうしてできた領域は、しだいに推し進められていくおとしめと零落のプロセスに対応している。こうして、非アーリア人はユダヤ人に移行し、ユダヤ人は強制移住させられた者に移行し、強制移住者は囚人に移行し、ついには、収容所において、生政治による区切りはその最後の限界に達する。この限界が回教徒である★四。


回教徒ムーゼルマン」とは収容所の隠語で、肉体的・精神的衰弱のあまり、人間らしい感情や意志をまったく失ってしまったように見える、生ける屍のごとき囚人たちのことを指す。アガンベンはこの回教徒の状態に、生政治的区切りをもはや定めることができない「絶対的な生政治的実体」の出現を見て取り★五、ナチの生政治的システムにおいて収容所とはこの生政治的実体を生産する場であった、ととらえる。
膨大な屍体を日々機械的に生み出すばかりではなく、人間を生きながら非人間化する場としての収容所が、近代資本主義の都市の論理が行き着いたひとつの帰結であると同時に、都市という政治共同体に代わるあらたな生政治的パラダイムが切り開かれた場でもあったのだとしたら、そこは二重の意味における近代都市の臨界であったと言えるだろう。このような都市の臨界領域を通して見る二〇世紀という時代の夢は、もはやユートピアの契機を宿した集団の夢ではなく、殲滅の痕跡すら殲滅しようとする徹底的な破壊ののちのわずかな断片から再構成される、このうえない悪夢の光景であるに違いない。そのとき、都市の限界は表象の限界、イメージの限界と接することになるだろう。
たとえばここに、一枚の写真が残されている。暗い部屋。そこにくり抜かれた窓あるいは入り口らしきものを通して、斜交いに撮影された屋外。遠景の森。前景には無人の空き地。闇に縁取られたフレーム中央にたたずむ人々。その足元に横たわる、おびただしい何ものかのかたち(別の一枚では二人の人物がその何かを運んでいる)。彼らのすぐ先で朦々と立ち上る煙。その煙の狭間から見える、森と人々を分け隔てる背の高い柵。あるいはまた、もう少し見晴らしのいい木々を背景にして、ぼんやりと記録された人々の群れ。その群れの前を右から左へと横切って走る数人の人物、恐らく裸で。
撮影の失敗と思われる判読不能な一枚をここに加えた四枚の写真は、アウシュヴィッツII=ビルケナウ絶滅収容所の第五焼却場付近で、一九四四年八月に隠し撮りされたものとされている。強制収容所の収容者によって撮影された現存する写真はこれらだけと見られている。フィルムやカメラは、ポーランドの抵抗運動と連携し、収容所内に秘かに持ち込まれたのだろうという。
煙のなかにたたずむのは、男性収容者からなるゾンダーコマンド(特別労務班)であり、その足元に横たわり、燃やされているのはガス室で殺された人々の屍体らしい。他の写真にぼんやりと記録された人々の群れは、服を脱がされている女性の収容者たちで、裸になった数人がガス室へ向けて走らされているものと思われる。
特別労務班は、収容所の支配者であるSS(ナチ親衛隊)を助けるべく、ガス室の運営と屍体焼却を任された収容者グループだった。彼らは囚人たちの服を脱がせてガス室まで連れてゆき、殺戮が終わると屍体を焼却炉や屋外で燃やし、その灰を片づけ、ガス室を掃除しなければならなかった。特別労務班は他の収容者たちから隔離されており、大量殺戮の証人になることを避けるため、彼ら自身もまた定期的に同様の方法で殺された。
これらの写真の撮影者はポーランド系レジスタンスの一員だったユダヤ人収容者だと言われるが、もとより定かではない。だが、このような記録を残すことは、特別労務班のメンバーが協力し合わなければ不可能だっただろう。焼かれる屍体を取り囲む黒いフレームがガス室の闇であるとすれば、そこにカメラを持ち込むことができるのは特別労務班以外には考えられないからである。
多くの場合、一連の写真はいずれもトリミングされ(時には修正さえ加えられて)、黒いフレームを欠いた状態で流布してきた。二〇〇一年にパリで開催されたナチの強制・絶滅収容所の写真展は、オリジナルのネガから闇のフレームを復元したかたちでこれらの写真を展示し、そのフレームの意味作用をめぐる解釈を強く打ち出すことによって、撮影者の位置に始まり、そもそも強制収容所における殺戮行為を写真で表象することが可能かどうかをめぐる、激しい議論を呼び起こすことになった★六。
その論争の布置を取り上げた論文によれば、対立する論点は、展覧会カタログにこれら四枚のネガを中心にした「イメージ、是が非でも」と題する論考を寄せた哲学者・美術史家ジョルジュ・ディディ=ユベルマンと、映画『ショアー』の監督クロード・ランズマンおよびその代弁者であるラカン派精神分析家ジェラール・ヴァイクマンの主張にそれぞれ集約できる★七。
ディディ=ユベルマンは、一九四四年夏の絶滅収容所においてほかならぬ特別労務班のメンバーがこのような撮影をおこなうにいたった背景とその撮影行為を詳細に再構成しようとする。写真イメージのそうした解読にとっては、屍体と穴のヴィジョンを取り囲む黒い塊もまた、そこに映し出された光景に劣らず貴重な視覚的痕跡にほかならない。ディディ=ユベルマンは、撮影者が引きこもっていたこの暗闇をガス室の内部と同定する。その暗黒は危険に満ちた撮影行為自体の痕跡なのである。
写真をこのように読み、撮影過程を再構成して、いわばひとつの物語を語ることとは、虐殺の現場を想像すること、イメージとしてそれを取り戻そうとすることにほかならない。ディディ=ユベルマンは、こうした「想像」の必要性を強く主張する。

われわれは一九四四年夏にアウシュヴィッツの地獄がどのようなものであったのかを想像しようとつとめなければならない。想像できないものを引き合いにせずに。そのことを想像することは、いかなる方法でも──それは事実なのだから──できない、極限まで突きつめて想像することはできないだろうと語ることで、われわれの身を守ろうとせずに。それでもわれわれは想像しなければならない、この想像するにはあまりにも重いものを。贈るべき応答のように、収容所に送られた人々が彼らの経験の恐るべき現実からわれわれのために救い出したことばとイメージにたいしての負債を★八。


ディディ=ユベルマンがあらかじめ論敵として想定しているのは、ナチによる大虐殺が表象不可能であるとする立場、ランズマンが自作の『ショアー』をめぐって繰り返し展開してきたような立場である。ディディ=ユベルマンは、このような立場は、虐殺は想像不可能であると語ることで、みずからの身を「守ろうと」しているのだと言う。何から守ろうとするのか? それは、収容者たちが彼らの地獄のただなかから言葉とイメージを「救い出し」、われわれに残したという、担うには重すぎる「負債」からにほかならない。しかし、端的に言ってここで問題なのは写真であり、そのイメージなのだから、表象不可能性を言い立てる人々がそれから身を守ろうとしている脅威とは、救い出され生き延びたイメージそのものにほかなるまい。
これに対してランズマンは、基礎になる事実認定そのものを否定する。彼は、写真に映し出されたものがガス室の外で焼かれている屍体であり、撮影者がガス室の内部から撮影したという記述について、「彼らにそのことを確信させるものは何もない、誰も知りはしない」と断定する。ランズマンから見れば、ディディ=ユベルマンは一種のフェティシズムに取り憑かれているのだ★九。こうした一方的な非難(なぜ「誰も知りはしない」のかの理由は示されない)に対する一定の裏付けとして、ランズマンと同じ陣営のヴァイクマンは、撮影現場とされる第五焼却場に窓のあるガス室はなかったとする研究成果を引き合いに出している。
これらの批判がディディ=ユベルマンによる撮影行為の再構成をまったく無効にするに足るものであるかどうかの判断はここではできない。しかし、ランズマン/ヴァイクマンによる攻撃は、実はこのような事実認定それ自体にはそもそもあまり関心がないのである(ランズマンに言わせれば、問題はドキュメントという事実ではなく、大虐殺の「真理」だということになる)。たとえばヴァイクマンにとっては、撮影者の位置決定の問題は結局のところ虐殺の証拠探しに与することになってしまい、その点で拒否されるべきものだからだ。証拠探しの手続きに加わることで、イメージの不在は虐殺の証拠が存在しないことの明白な証拠と拡大解釈される恐れがあり、その結果、ガス室否定論者の論理に多少なりとも従うものになってしまうと言うのである。
イメージの不在を前提にしたこのような主張は議論をすれ違いに終わらせかねないが、さらにいっそう問題含みなのは、この論争にヴァイクマンが導入しているユダヤ教対キリスト教という宗教的な対立の図式である。彼はディディ=ユベルマンが四枚のネガに向けているまなざしにキリスト教的な「イメージへの情 熱パツション」を見いだす。

われわれの地域では、イメージにおけるキリスト教的受 難パツションあるいはイメージにたいするキリスト教的情 熱は、イメージにまつわるすべてのものに浸透し汚している★一〇。


このような受難=情熱パツションの根底に、ヴァイクマンはキリストの身体をイメージとして証明する「聖骸布」の存在を見る。オリジナル状態に復元された写真は、いわば、大虐殺の聖骸布として、本物の殺戮現場の断片であるかのように扱われ、一種の聖遺物崇拝の対象になっているというわけだ。さらに、大虐殺の表象不可能性あるいは表象の禁止に対するディディ=ユベルマンの批判は、イメージに対抗する教理としてのユダヤ教に向けた批判ではないかと暗示され、写真展の主催者たちは「よきイメージ」を公衆に告げ、彼らを犠牲者の受難と一体化させる「福音主義者」に見立てられる。公衆は、写真を見ている間、犠牲者と同一化するのだが、それはあくまでイメージが隔たりを作り上げているかぎりのことでしかない、とヴァイクマンは糾弾する。

イメージがわれわれに耐えがたいものを示せば示すほど、われわれはたしかにイメージを好むと言わざるをえないだろう。なぜならきっとわれわれは自らにイメージを見せれば見せるほど、それらがわれわれを耐えがたいものからどれだけ守ってくれているのかを感じるからだ★一一。


ディディ=ユベルマンの主張との間に明確な対称性のあることが見て取れるだろう。ヴァイクマンの場合、イメージが耐えがたいものからわれわれを守るのに対して、ディディ=ユベルマンにとっては、耐えがたい脅威とは生き延びたイメージそのものなのだ。「イメージ」なるものに与えられたこの正反対の定義──アビ・ヴァールブルクならば、それをイメージの「両極性」と呼ぶだろう──に、ユダヤ/キリスト教の神学的伝統が関わっていることはたしかだろう(この両者の対立の場でイメージについて思考したのが、ほかならないヴァールブルクだった)。論争の布置そのものに特殊な文化的バイアスがかかっているのである。ただしこの問題は、キリスト教内部のイコノクラスムなども視野に収めたうえで、歴史的な背景をより厳密に把握しておく必要がある。ヴァイクマンの立論では、論難の足がかりとしての図式性が先走っている印象は否定できない。このような図式化は論争を具体的な対象の分析から遠ざけるばかりか、ナチによる大虐殺をめぐる(少なくともそのイメージに関する)言説はユダヤ教的な思考が独占すべきである、という極端な結論(大虐殺の神学化)を導きかねない。
そもそもこの論争には既視感が伴う。ヴァイクマンはかつて同工異曲の批判をジャン=リュック・ゴダールに向けていた。それはゴダールによるランズマン批判に対する反批判めいたものだった。「イメージは復活の時に到来するだろう」という聖パウロの言葉を頻繁に引用し、表向きはカトリシズムに回帰したかのように、「イメージによる救済」をモチーフにするゴダールには、ヴァイクマンの図式がいかにも当てはまりそうに見える。
ゴダールは、ユダヤ人虐殺をめぐって、ランズマンやアドルノのように「禁止」を言い渡すことが問題なのではない、と言う。絶滅収容所は撮影不可能な場であるどころか、その映像は必ず存在するはずだ、と彼は断定する。

これから言うことの証拠はまったくないけれども、もし私が腕利きの調査担当記者と組んで取りかかれば、二〇年後にはガス室の映像を発見するだろうと思う。われわれは移送された人々が入っていくのを見て、どんな状態で出てくるか見るだろう★一二。


この発言とちょうど対称をなすように、かつてランズマンは、SSによって秘かに撮影されたガス室のフィルムを発見したならば、自分はそれを上映しないばかりか、破壊することだろう、と語った★一三。このような態度は彼の立場なりに真摯なものというよりも、傲慢さの表われにしか見えない。いかなるものであれ、証拠を破壊するのではなく、むしろ、それを逆撫でするように、撮影者の意図に逆らって、そのイメージを条件付けている権力関係こそを明るみに出すべきであることは言うまでもない。フィルムの破壊は、殲滅の痕跡の殲滅という、加害者の身ぶりを繰り返すことではなかろうか。
では一方、ゴダールはなぜ、ガス室の映像をめぐる信仰に近い信念をもつことができるのか。そこには「映画とは何か」という問いかけに対する彼の立場が関わっている。そして、この問いに彼が正面から、それを歴史の問題として、答えようとしたのが『映画史』にほかならない。堀潤之は、『映画史』とは先の問いに対するゴダールの二つの回答がせめぎ合う場である、と指摘している★一四。一つ目の回答は、映画を事物の科学的に厳密な記録装置としてとらえる考えである。この性格ゆえに、映画装置は歴史的な出来事に対して証言の力をもちうる。
二つ目の回答は、スクリーン上に展開される映像を「秘蹟」としてとらえ、そのほとんど呪術的な力に宗教的救済の機能を求める考えである。ゴダールによれば、イメージは「現実の贖罪の秩序」に属する。そして、それを可能にするものが、「誠実で世俗的なキリスト教」によるイメージへの「信」なのだ。
この二つの回答が交差するところに位置するイメージが聖骸布であり、ゴダールがしばしばスクリーンの譬えとして取り上げるヴェロニカの布である。堀がゴダールの発想の淵源であるとしているアンドレ・バザンは、写真や映画のイメージには、イエス・キリストを包んだ屍衣にその身体が「人の手を介さずにアケイロポイエートス」刻印されたのと同様、現実が無媒介的に刻印されている、という考えを展開している★一五。ゴダールにとって映画のイメージは、現実の持続そのものを媒介なしに保存する、特権的な歴史の証人なのである。厳密な科学的記録装置としての映画という考え方も、実のところ、このような宗教性を孕んだイメージ観に依拠しているととらえたほうがよかろう。そして、映画的イメージが聖骸布に似た痕跡であるからこそ、そこではイメージの神秘的な「復活」が問題となるのであり、イメージを通じた現実の救済が語られるにいたるのである。
それゆえに、もしナチによる大虐殺の映画的イメージという無媒介的痕跡が欠けていたならば、この歴史的な現実を映画によって救済することは困難である。この点からして、ガス室の映像はゴダールにとって、必ず存在しなければならない何ものかなのだ。だからこそ『映画史』では、収容所を表現できなかった映画に対して、ゴダール自身による有罪宣告が下されることになる。
堀が強調するように★一六、ゴダールの「世俗的で誠実なキリスト教」があくまで代替宗教であり、決して文字通りのキリスト教信仰を意味するものではないとしても、ヴァイクマンが指摘する、映画館を礼拝所とする奇妙な映像崇拝がそこにあることは否めない。さらに言えば、ゴダールにおけるようなイメージへの「信」が、いかに代替宗教的なものに過ぎないにせよ、キリスト教を中心とする文化的伝統のうちにあることもまた認めなければなるまい★一七。「ガス室の映像を見つけ出してみせる」というゴダールの唖然とするほどの強弁ぶりは、この点であまりにも無防備すぎる。
とはいえしかし、ナチによる大虐殺とはそもそも映像による伝達の不可能な出来事であり、その映像を作ることは、この出来事がもつ残虐性を懐柔し些末化してしまうとするヴァイクマンの主張もまた、「リアルなもの」と称する対象を彼が(あるいはランズマンが)占有するための、同程度に理不尽な強弁にほかならない。だが、何ゆえのこれほどまでの強弁なのか? ヴァイクマンはゴダールの先の発言について、「この考えは悪臭を放っている」、「私は好きになれない」、「私を不安にさせる」、「正当でない文章だ」と書く★一八。生理的な嫌悪(「悪臭」)から心理的動揺(「不安」)を経て倫理的な審判(「正当ではない」)にいたるこの記述の揺れのなかに、強弁とはちょうど裏返しの、抑えがたい恐れが透かし見える。ディディ=ユベルマンに言わせれば、それこそがイメージへの恐れなのだ。
一連の対立の構図は、アウシュヴィッツに象徴されるナチによる大虐殺を主題とした、歴史学における「知」の表象形式をめぐる議論と重なり合っている。その一方の極には、証拠を歴史的事実の透明な媒体と見なす素朴な歴史実証主義があり、他方には、歴史叙述は言語によって強いられる修辞形式に応じて何らかの特殊なプロット化、説明モデル、イデオロギー的姿勢を選択せざるをえず、そこから生じる歴史的事件についての解釈の違いを評定する客観的基準は存在しないとする、ヘイドン・ホワイトによって理論化された相対主義的懐疑論がある★一九。映画を科学的記録装置ととらえる考えは前者に対応すると言えようし、ランズマン/ヴァイクマンの立場は、それが大虐殺をめぐる不可知論の気味を帯びているかぎりで、一見したところとは逆に、実は後者に近い(それは特定の「プロット化」を絶対視することで、事実よりもプロットを優先するにいたる)。
だが、映画にしろ写真にしろ、そこに物質的に残されたイメージは、カルロ・ギンズブルグが歴史資料を譬えて次のように語るときの「歪んだガラス」ではなかろうか。この文の「資料」を「イメージ」に置き換えて読んでもらいたい。

資料は実証主義者たちが信じているように開かれた窓でもなければ、懐疑論者が主張するように視界をさまたげる壁でもない。いってみれば、それらは歪んだガラスにたとえることができるのだ。ひとつひとつの個別的な資料の個別的な歪みを分析することは、すでにそれ自体構築的な要素をふくんでいる。しかしながら、(…中略…)構築とはいってもそれは立証と両立不可能であるわけではない。また、欲望の投射なしに研究はありえないが、それは現実原則が課す拒絶と両立不可能であるわけでもないのである。知識は(歴史的知識もまた)可能なのだ★二〇。


あの一連の写真をディディ=ユベルマンは──ヴァイクマンが信じているように──虐殺の現場に向けて開いた「窓」と見なしているのではない。このイメージの「歪み」は闇のフレームにあり、だからこそ、それは復元される必要があった。屍体のヴィジョンを囲む何もない暗闇は、撮影者という証言者の存在を証言している。多くの場合、写真がトリミングされていたことで、われわれはいわば、この暗闇を目にすることから守られてきたのである。耐えがたいものはこの闇のなかにある。あるいは、この「暗い部屋カメラ・オブスキユーラ」と屋外の光景との隔たりにある。なぜならばそれこそが、この悲惨な残虐行為に加害者の一部として荷担することをSSに強いられたユダヤ人特別労務班の疎外された立場と、彼の深く禁じられたまなざしを表象しているからだ。そこには撮影者を抑圧していた権力関係が刻印されている。この闇は見る者に撮影者との同一化をうながすどころか、感情移入を困難にするものだろう。問題なのは大虐殺の神学的「真理」ではなく、不完全で断片的なイメージの歪みであり、それを通して読み解かれるべき歴史の「証言」である。

1──アウシュヴィッツII=ビルケナウ絶滅収容所、 1944年?

1──アウシュヴィッツII=ビルケナウ絶滅収容所、
1944年?


2─4──同、部分拡大図 出典=Mémoire des camps. Photographies des camps de concentration et d'extermination nazis (1933-1999). Paris: Marval, 2001

2─4──同、部分拡大図
出典=Mémoire des camps. Photographies des camps de concentration et d'extermination nazis (1933-1999). Paris: Marval, 2001


5──クロード・ランズマン『ショアー』(1985)

5──クロード・ランズマン『ショアー』(1985)

6──ジャン=リュック・ゴダール『映画史』4B

6──ジャン=リュック・ゴダール『映画史』4B

二、語るゴルゴンの首

たとえ大虐殺の映像が実在しなかったとしても、収容所生活のイメージが繰り返し回帰する場は確実に存在している。その場とは収容所から生還した者たちの記憶である。この記憶に頼ることなしには『ショアー』もまた製作できなかったはずだ。もちろん生還者たちが収容所のすべてを見たわけではない。そこに忘却や抑圧、無意識の検閲があるばかりか、死者の経験を生還者は語りえないという意味における証言不可能性がつきまとうこともまたたしかだろう。しかし、彼らの記憶、彼らの身体という媒体に記録されたイメージとそれらが姿を変えて立ち現われる夢のイメージは、言葉によるあらゆる証言に先立つ絶滅収容所の表象であり、まぎれもなく実在している。「わたしは言葉では説明しようのないあそこでの体験について目と耳の記憶を保持しています」とアウシュヴィッツからの生還者プリーモ・レーヴィは言う★二一。「わたしの収容所時代の記憶は、その前後の他のあらゆる記憶よりはっきりと詳細に残っているのです」★二二。われわれにとって真に恐ろしいのは、彼ら生還者という他者の記憶、他者の夢を共有してしまうことだろう。なるほどそれは文字通りには不可能だ。だが、『ショアー』九時間半はこのありえないイメージとの(起こりえない)遭遇のために費やされたのではなかっただろうか。ランズマン/ヴァイクマンが言い立てるショアーの表象不可能性は、生還者におけるイメージ(「目と耳の記憶」)の過剰のネガなのである。収容所の記憶は、たとえばレーヴィが見る夢のなかの「フスターヴァチ(起きろ)」という夜明けの号令のように、終わりなく反復される。

夢のなかに、またもうひとつの夢がある。細部は多様だが、実体は同一だ。わたしは家族もしくは友人たちとテーブルについていたり、仕事をしていたり、緑の田園のなかにいる。要するに、平穏で広々とした環境にいる。表面的には、緊張と苦痛はない。それでも、わたしは微かながらも深い苦悩を感じている。脅威が迫っているという、はっきりとした感覚だ。じっさい、夢が進んでいくにつれて、少しずつ、あるいは一気に、そのつど異なった仕方で、わたしの周囲のすべてが倒れ、解体する。風景も、壁も、人間も。そして、苦悩はどんどん強まり、はっきりとしてくる。もうすべてがカオスに変わっている。わたしはただひとり灰色で濁った無の中心にいる。そうだ、わたしは、これがなにを意味するのかを知っている。自分がずっとそれを知っていたことも知っている。わたしはふたたび収容所ラーガーにいるのだ。収容所ラーガーの外にあるものは、どれも本当のものではなかった。外のことは、短い休暇だったのだ。あるいは、感覚のあざむき、夢だったのだ。家族も、花咲く自然も、家も。もうこの内側の夢、平和な夢は終わった。そして、まだ凍りついたように続いている外側の夢のなかで、わたしはひとつの声が響きわたるのを聞く。周知のものだ。もったいぶってはおらず、それどころか短くて抑えた一語だ。それはアウシュヴイッツでの夜明けの号令で、外国語の言葉だ。恐れられると同時に待ち望まれるものでもあった。「フスターヴァチ」、起きろ、というのだ★二三。


しかし、レーヴィはどこへ向けて目覚めるようとするのか? 夢のなかの夢、崩壊してゆく平和な夢から「外側の夢」、収容所の夢へ向けて、だけではあるまい。この夢をさらに入れ子状に包み込む夢がある。それは収容所から生還したのちの現実という夢である。なぜなら、「収容所の外にあるものは、どれも本当のものではなかった」のだから。そしてこの現実という夢から目覚める先は、その内部にあるはずの収容所の夢なのだ。夢の入れ子構造はねじれて、内部の夢が外部の夢=現実を包摂しているのである。
収容所の夢の内部から、その外にいるはずの夢見る主体に呼びかけている「フスターヴァチ」という号令は、物語の作者が話を中断して登場人物や読者に向かって直接語りかける修辞法である「頓呼法アポストロフイ」のようなものと言えるかもしれない。或る研究によると、古代ギリシアの頓呼法は、壺絵におけるゴルゴンの頭の正面性との間に平行関係をもつのだという★二四。図像作成法上の決まりとして、壺絵で人間は基本的に横向きに描かれるのだが、ゴルゴンについてはつねに、三次元的な奥行きを欠いた正面像として、見つめ合うことが避けられないように描かれた(この正面性自体は聖骸布やヴェロニカの布と共通する)。ギリシア語の「顔」は、「目の前に見えるようにあるもの」を意味する。したがって、見た者に死をもたらすがゆえに見つめることが不可能な、禁じられたゴルゴンの顔は、いわば非─顔、反─顔にほかならない。にもかかわらず、この非─顔はこれ見よがしの正面像で無数に描き出された。見ることの不可能性を表わすゴルゴンの頭は同時に、見ることを避けられない、見ないではいられない何ものかなのである。「フスターヴァチ」という、耳をふさいで身をかわすことのできない呼び声が、「恐れられると同時に待ち望まれるものでもあった」ように。そして、ゴルゴンの頭のこうした二重性はイメージの両極性にほかならない。その致死的な非─顔とは、極めつけのイメージなのだ。
レーヴィは収容所の回教徒を「ゴルゴンを見てしまった者」と呼んでいる。アガンベンは、回教徒が見たゴルゴンとは収容所内のあれこれの出来事ではなく、回教徒自身における「見ることの不可能性」を指すのだと言う。「回教徒は、なにも見ておらず、なにも知らないのだ──知ることの不可能性、見ることの不可能性のほかには」★二五。ここで言われている「見ることの不可能性」とは、人間的なものの零落の果てに位置する「絶対的な生政治的実体」の、正視するに耐えない何かであろう。回教徒はそのとき、この耐えがたいものを体現した、ただ一方的に見られるだけの存在として、彼ら自身がゴルゴンめいたイメージになる。アガンベンは、回教徒に目を向けることの不可能性をめぐる証言をいくつか挙げている★二六。回教徒たちの光景は、屍体の山とは性質を異にするまったく新しい何ものかだった。レーヴィは書いている。

顔のない彼らがわたしの記憶に満ちあふれている。もし現代の悪をすべてひとつのイメージに押しこめるとしたら、わたしはなじみ深いこの姿を選ぶだろう。頭を垂れ、肩をすぼめ、顔にも目にも思考の影さえ読み取れない、やせこけた男★二七。


レーヴィもまたこのゴルゴンを見たのだ。正視しえない回教徒のイメージや聴くに耐えない「フスターヴァチ」という号令こそが、見ることをレーヴィに容赦なく求め、耳をふさぐことを彼に許さない。アガンベンが言うように、死者や回教徒に代わって証言することをレーヴィのような生還者たちに強いていたものが、人間的なものへと呼びかける、この避けることのできない生々しい頓呼法だったのだとすれば★二八、彼らの証言に接する者にもまた、その耐えがたいイメージや声という頓呼法の呼びかけを聞き取ることが求められているのではないだろうか。ドグマティックにショアーの表象不可能性やイメージによる陳腐化を言い立てることは無益だ。同時にしかし、ガス室の映像がただそれだけで頓呼法の呼びかけになるわけでもない。ほかならぬ証言の映画『ショアー』において問われるべきなのは、この頓呼法の所在と様態であり、それがどのように映像化されていたかであろう。
ヴァイクマンは『ショアー』はいかなる映像も見せることのできないものを見せる映画であり、その意味において、「リアルなもの」あるいは見るべき「無」を本当に見せようとする映画なのだと言う★二九。いささかレトリカルに過ぎるこの表現をあえて厳密にとるならば、それは映像というイメージのただなかに、いわばその裂け目として、「無」が現われるということでなければならない。だが、単に「無」と言うだけではやはり足りない。『ショアー』が映画である以上、問題なのは「無」(ゴルゴンの首、見ることの不可能性)の呼びかけが、どのようにイメージへともたらされているかなのだから。
ディディ=ユベルマンは、『ショアー』の映像における「無」の条件を「場所」に見ている(「場所、是が非でも」)。もはやそこには何も残されていなくとも、収容所の跡地に立ち戻ること、その場所を見せること、それがランズマンには必要だった。

そこにはもう何も存在せず、見るべきものもないという状況にもかかわらず、この是が非でもの帰還、映像を撮影しつつ映像に記録されたこの帰還あるいは頼みの綱は、わたしが是が非でもの場所と名付けようとするものの暴力に接近する道を開く。たとえランズマン自身はかつてこうしたすべてに「非場所」という言葉しか見つけられなかったとしても。なぜ絶滅行為のこれらの場所は「是が非でもの場所」、極めつけの場所、絶対的な場所なのか? なぜなら──詳細な分析に値する妥協なき規則に従って──この映画を撮影したランズマンはここで、これらの場所がもつ、彼が初めに思い描いていたあの「極めつけの空想」をはるかに超えた、恐ろしい堅固さを発見しているからだ。すなわち、破壊され歪められてはいても、動いていないものの堅固さである★三〇。


『ショアー』のなかで、殲滅の場所トレブリンカはいまだ変わらずそこにある。殲滅の痕跡がぬぐい去られ、かたちを変えられていても、場所そのものは動かずじっと残り、虐殺の記憶をとどめ続けている。『ショアー』の映像に力を与えているのは、遠い過去における殲滅のすべてが、失われているにもかかわらず堅固に保存されたまま、われわれの間近に現前しているという、遠さと近さの共存である。過去のドキュメンタリー映像をまったく使うことなく、ひたすら現在の問題としてユダヤ人虐殺を見据えようとする『ショアー』は、こうした「場所」に与えられた過去と現在の弁証法的な緊張において、ベンヤミンの言う「弁証法的イメージ」の性格を帯びている、とディディ=ユベルマンは指摘する。それが典型的に表われているのは、ヘウムノ絶滅収容所からの生還者シモン・スレブニクが収容所の跡地を再訪する場面である。

なかなか見分けられませんが、ここでしたね。
そう、ここですよ、人を焼いたのは。
大勢の人がここで焼かれました。
そう、まさにこの場所です★三一。


スレブニクは建物の輪郭を残してほかは跡形もない空漠とした土地に立って、「ここでした」「この場所です」と証言する。そこにはもはや何もない。焼かれた人々の痕跡は消え去っている。にもかかわらず、この場所そのものは動かず、その徹底した沈黙とともに依然としてここにある。

ここにいるのが、信じられません。
そうです、戻って来たことが、信じられないのです。
いつでもここは、静かでした。いつだって。
毎日、二〇〇〇人を、二〇〇〇人のユダヤ人を焼いたときも、やはり静まりかえってました。

叫ぶ人はだれもいず、皆、それぞれ自分の仕事をこなしていました。
ひっそりとしていた。静まりかえってたんです。
ちょうど、今と同じように★三二。


「それはここだった」──それ自体としてはなんら特定の意味内容をもたないこの一文によって、スレブニクが或る場所を指し示すとき、「それは〜だった」という過去と「ここ」の現在との緊張が、場所のイメージに裂け目を刻み込む。そこに生まれるのが無を孕んだ弁証法的イメージにほかならない。そして、あまりにも異なる過去と現在のこの遭遇を支えているのは、無慈悲なまでの「場所」の堅固さなのである。スレブニクの「それはここだった」は、映像内部の発言でありながら、『ショアー』の観客に向かって呼びかける頓呼法のように響く。観客はスレブニクの「それ」の記憶を決して共有できるわけではない。しかし、たしかにそこでわれわれは、不可視の「それ」を目にするのだ──「ここ」の不動性によって。カメラによって凝視された風景がその下に埋もれた惨劇の地層を浮かび上がらせている点で、こうした部分における『ショアー』の映像は、ストローブ=ユイレのそれを思い起こさせる。
ディディ=ユベルマンとランズマンとの隔たりは、前者が「是が非でもの場所」と名付けたものを、後者が「記憶の非場所(les non-lieux de la mémoire)」と呼んだ点にも表われている。この差異は、イメージが「是が非でも」必要であるとする立場と、「記憶の非イメージ性」に固執する立場との対立にいたるだろう。ディディ=ユベルマンにとって、あの四枚の写真とは「是が非でもの場所」にほかならない。そのイメージがたとえどんなに曖昧であり不確かであっても、ネガのもつ物質的な堅固さに「是が非でも」立ち戻り、「それはこれだった」という頓呼法を響かせなければならない。しかし、そこにスレブニクのような証人はいないのだ。
写真そのものから発する頓呼法めいたもの、この写真を撮影した死者に代わって証言することを強いる呼びかけがそこにはある。その応答のために、証人の所在を示す闇のフレームが取り戻されなければならなかった。それによって、イメージには深い亀裂が走ることになった。この写真はわれわれを「リアルなもの」から守るヴェールなどではない。それは決して聖骸布ではなく、特別労務班員の耐えがたいまなざしを孕んだゴルゴンの首なのである。
こうしたゴルゴンの首、あるいは「フスターヴァチ」、起きろという号令は、われわれに悪夢のなかへと目覚めることを求める。それは収容所における「非常事態」が、われわれの現在にとってもまた通常の現実であるという認識への目覚めであり、破局のイメージとアクチュアリティとが遭遇する瞬間にほかならない(ナチによる大虐殺を表象不可能性の名目のもとに囲い込むことは、このような遭遇の回避に帰着してしまう)。『映画史』4Bでゴダールが並置してみせたように、収容所における「回教徒」の屍体が引きずられてゆく映像(「ドイツのユダヤ人」のイメージ)に文字通りの「イスラム教徒」の意味が重ね合わされるとき、イスラエル占領下に置かれたパレスチナ人たちの経験している抑圧が、現在の「非常事態」としてあらわにされる。『映画史』で駆使されているモンタージュは、イメージを引き裂き、このようにアクチュアリティへと開くための技法である。つまり、「それはこれである」という頓呼法なのだ。「弁証法的に叙述されたあらゆる歴史状況は分極化されて、そうした状況の前史と後史のあいだに生ずる対決の力の場となる」というベンヤミンの言葉にならえば★三三、イスラエル国家を取り巻く歴史状況は、前史としての「回教徒」と後史としての「イスラム教徒」に分極化した緊張を孕む、引き裂かれたイメージに凝結されたのである。
不完全できれぎれの記憶、破砕された過去のかけらのなかに、われわれのアクチュアリティを見据えるゴルゴンの首が発掘されなければならない。それによって、回教徒を生む収容所という近代都市の臨界が、都市空間のただなかにあぶり出されなければならない。「それはここ(これ)だった」を語るのが証人(生き残り)であるのに対し、歴史の記述者は「それはここ(これ)である」という断言によって進む。アウシュヴィッツからの頓呼法は、時間の連続を打ち砕いた想起という夢への目覚めをそんな歴史家たちに、執拗に呼びかけているのである。


★一──炎で焼いた犠牲の意味をもつギリシア語起源の「ホロコースト」が、ナチによるユダヤ人ほかの大虐殺に対する適切な表現ではない、という指摘は多くなされている。これに代えて、ヘブライ語の「ショアー」を用いる例も見られるが、ここで問題とする事態はユダヤ人の絶滅に限定されないため、本論では「大虐殺」などの言い方を基本とする。
★二──多木浩二『都市の政治学』(岩波新書、一九九四)一二一─一二三頁。
★三──Giorgio Agamben: Homo sacer: Il potere sovrano e la nuda vita. Giulio Einaudi, 1995. 英訳=Giorgio Agamben: Homo Sacer: Sovereign Power and Bare Life. Trans. by Daniel Heller-Roazen. Stanford, California: Stanford University Press, 1998, p.181.
★四──ジョルジョ・アガンベン『アウシュヴィッツの残りのもの──アルシーヴと証人』(上村忠男・廣石正和訳、月曜社、二〇〇一)一一二頁。
★五──同。
★六──展覧会の名称はM?oire des camps. Photographies des camps de concentration et d'extermination nazis(1933-1999)。二〇〇一年一月一一日─三月二五日にHotel de Sullyで開かれ、スイス、イタリア、スペインに巡回した。SSが撮影した収容者の記録、本論で取り上げた隠し撮りされた写真、連合軍による解放時の写真、そして、収容所を題材にした現代の写真家による作品をすべてほとんど同列に扱う、この展覧会の企画そのものには、多くの批判を招きかねない要素があることは否めない。
★七──ジャック・ヴァルテル「証言としての写真──ナチス強制収容所および絶滅収容所をめぐる今日の論争の争点」(中村隆之訳、『現代思想』二〇〇二年七月号、青土社、二〇〇二)二四二─二五三頁参照。
★八──Georges Didi-Huberman: Images malgr tout. In: Clément Chéroux(ed.): Mémoire des camps. Photographies des camps de concentration et d'extermination nazis(1933-1999). Paris: Marval, p.219。訳文はヴァルテル「証言としての写真」二四四頁による。
★九──Claude Lanzmann: 《La question n'est pas celle du document, mais celle de la vérité 》In: Le Monde, 19 Janvier 2001.
★一〇──Gerard Wajcman: De la croyance photographique. In: Les Temps modernes, 613, p.64。訳文はヴァルテル「証言としての写真」二四九頁による。
★一一──ibid., p.59。訳文はヴァルテル「証言としての写真」二五〇頁による。
★一二──ジャン=リュック・ゴダール「世紀の伝説」(四方田犬彦・堀潤之編『ゴダール・映像・歴史──『映画史』を読む』、産業図書、二〇〇一、一〇六頁)。
★一三──クロード・ランズマン「ホロコースト、不可能な表象」(鵜飼哲・高橋哲哉編『「ショアー」の衝撃』、未來社、一九九五)参照。
★一四──堀潤之「映画的イマージュと世紀の痕跡──『映画史』の歴史叙述をめぐって」(『ゴダール・映像・歴史』、産業図書、二〇〇一、六六─七〇頁)参照。
★一五──同、七二─七四頁参照。
★一六──同、六九頁参照。
★一七──この点については、マリ=ジョゼ・モンザン「歴史とパッション」(『ゴダール・映像・歴史』、五五頁)参照。
★一八──ジェラール・ヴァイクマン「《聖パウロ》ゴダール対《モーゼ》ランズマンの試合」(『ゴダール・映像・歴史』、一〇八頁)。
★一九──この対立についてはソール・フリードランダー編『アウシュヴィッツと表象の限界』(上村忠男・小沢弘明・岩崎稔訳、未來社、一九九四)参照。
★二〇──カルロ・ギンズブルグ『歴史・レトリック・立証』(上村忠男訳、みすず書房、二〇〇一)四八頁。
★二一──マルコ・ベルポリーティ編『プリーモ・レーヴィは語る──言葉・記憶・希望』(多木陽介訳、青土社、二〇〇二)二三二頁。ただし、アガンベン『アウシュヴィッツの残りのもの』三〇頁を参考に訳を変更した。
★二二──同、二四一頁。
★二三──Primo Levi: Ad ora incerta. In: Primo Levi: Opere. Vol.2. Torino: Einaudi, 1988, p.254-255。訳文はアガンベン『アウシュヴィッツの残りのもの』一三五頁による。
★二四──Françoise Frontisi-Ducroux: Du masque au visage. Aspects de l'identite en grece ancienne. Paris: Flammarion, 1995, p.68参照。
★二五──アガンベン『アウシュヴィッツの残りのもの』六九頁。
★二六──同、六四─六五頁参照。
★二七──プリーモ・レーヴィ『アウシュヴィッツは終わらない──あるイタリア人生存者の考察』(竹山博英訳、朝日選書、一九八〇)一〇七頁。
★二八──アガンベン『アウシュヴィッツの残りのもの』六九頁参照。
★二九──ヴァイクマン「《聖パウロ》ゴダール対《モーゼ》ランズマンの試合」一一七頁参照。これを「見るものは何もない(イメージはない)」という形で言い換えるから、見えないもの、表象不可能性の絶対化が生じ、さらにはそれに呼応して、ユダヤ人虐殺の際限ない特権化と歴史の政治的な利用(政治的効果のための歴史のプロット化)がもたらされてしまうことになる。この点については、収容所における叛乱・脱走の証言を映画化したランズマンの近作『ソビボール、一九四三年一〇月一四日』が、「ユダヤ人による力と暴力の取り戻し」を主題化することにより、イスラエル国家正当化の意図を露骨に臭わせている、という堀の指摘がある。堀潤之「映画・歴史・記憶──九〇年代ゴダールをめぐって」(『ユリイカ』二〇〇二年五月号、二七〇頁)参照。
★三〇──Georges Didi-Huberman: Le lieu malgr tout. In: Georges Didi-Huberman: Phasmes. Essais sur l'apparition. Paris: Minuit, 1998, p.230.
★三一──クロード・ランズマン『SHOAH(ショアー)』(高橋武智訳、作品社、一九九五)三四─三五頁。
★三二──同、三五─三六頁。
★三三──ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論IV』(三島憲一ほか訳、岩波書店、一九九三)三六頁、断片番号N7a, 1。

*この原稿は加筆訂正を施し、『死者たちの都市へ』として単行本化されています。

>田中純(タナカ・ジュン)

1960年生
東京大学大学院総合文化研究科教授。表象文化論、思想史。

>『10+1』 No.29

特集=新・東京の地誌学 都市を発見するために

>ヴァルター・ベンヤミン

1892年 - 1940年
ドイツの文芸評論家。思想家。

>パサージュ

Passages。路地や横丁、街路、小路など表わすフランス語。「通過」する「以降...

>堀潤之(ホリジュンジ)

1976年 -
映画研究・表象文化論。関西大学文学部准教授。

>多木浩二(タキ・コウジ)

1928年 -
美術評論家。

>岩崎稔(イワサキ・ミノル)

1956年 -
哲学、政治思想。東京外国語大学助教授。