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個室はどう集まるか | 西川祐子
How Do Private Rooms Collect | Nishikawa Yuko
掲載『10+1』 No.25 (都市の境界/建築の境界, 2001年10月発行) pp.23-24

以前に、ある老人福祉総合施設の部長さんから、入居者の衣食住の世話と身体介護の仕事以外に、多岐にわたる業務がある、これをまとめて呼ぶいい言葉はないか、とたずねられた。「住む」とは、「生きる」ことのほとんど全てを覆うほどの複雑な行為である。
まず、分類の難しい業務をリストアップしてみた。高齢の入所者にとって金銭管理は大問題である。職員は、ときには預かり金から諸費用徴収を支払い、小遣いの管理、さらには将来の行事などのための積み立て貯金までをまかされる。入居前に住んでいた家の家主から、家賃の滞納を言われたり、残った荷物の引き取りを要求されることもある。職員と、いっけん無駄話とみえる会話をしたいというのも切実な欲求である。職員は施設内での対人関係の難しい人を見守り、こじれたときには調整役をつとめる。内に閉じこもるタイプも、攻撃的なタイプもそれぞれの問題をもつ。近親者とのあいだに根深い軋轢がある場合、あいだに入る必要が生じる。親族の最後の生存者となった高齢の本人に代わり遺産相続を代行したこともある。施設外の医療機関他に通う付き添いをし、ときには本人に代わって交渉する。身寄りがない方の死後の葬送、法事のいっさいを執り行なう、等というお話であった。
リストを整理するうちに、自己決定がなしがたくなりゆくことこそ、老いにほかならないと、わたしにもわかってきた。「自己決定」には「意志決定」が難しい場合と「決定の実行」ができない場合、そして両方とも困難な場合とがある。「意志」が表現しがたくなっても、死ぬまでその人らしさは残る。代行は本人に寄り添ってプライヴァシーを守ると同時に、被介護者と介護者双方の思い込みをふせぐためにも、一定の公開性を保たなければならない。
部長さんは「見守り」というやさしい言葉を用いた。「身上監護」という、まさに監獄イメージの法律用語を嫌ってのことであった。部長さんと意見交換をしているうちに、すべてをひっくるめて「社会生活サポート」という言葉に落ち着いた。その後、介護保険制度の発足など、状況が大きく変わったので、用語探しが実際の役に立ったのかどうかはわからない。わたしにとっては、人間は老いた後も死にいたるまで、それぞれの社会生活をおくるのだ、ということをあらためて肝に銘じる機会であった。その人らしさは、現在のまわりとの諸関係のなかにまぎれようもなく現われる。
最近の新聞に「特養ホーム個室化へ、厚生省方針、新規着工制度化、室料は利用者負担」という見出しの記事を見つけた★一。数年のうちに新規着工される施設は全個室型に限定されると報道されている。また、新しい方針は、すべてを個室化したうえで「一〇室程度がオープンスペースを囲むように配置し、小グループで生活できるようにする」、そのかわり個室分の部屋代を入居者から徴収する仕組みだという。厚生省は全個室型は住宅に近い環境になるから、負担増の了解は得られると予想している。
個室型ホームが「住宅に近い」のだとすると、住宅概念そのものもまた変化したのではないだろうか。住宅の常識は、これまで、家族の容器ということではなかったか。家族という複数の人がいる前提であるのに、家族の容器である住宅の入り口から私領域がはじまる、とされていた。だから家族の成員一人ひとりの社会生活は、ひとくくりにされて、いわば住居のなかに封じ込められていた。問題もまた住宅から外へ出ることがなく、家族メンバーのあいだで解決された。
しかし現代の住宅のなかには個室がある。ほんとうの私領域は住宅ではなく、個室の部屋のドアの後ろであり、個人は個室から出発することがはっきりしてきた。個室が前提である世代が高齢化するのだから、特別養護老人ホームが個室型になるのは当然であろう。問題は、その私的空間、私領域がたがいにどう集まるか、である。
家族の時代には家族が国家の単位であり、個人を包括した。国家〉家族〉個人を貫徹する軸があり、それが単一のゆらぐことのないアイデンティティを形成していた。個人よりも家族が、家族よりも国家が大切にされることさえあった。だが、個人の時代に個人の社会生活をサポートするのは、宿命としての家族ではなくて、個人が自ら生涯かけて編む複数の人間関係であり、ひとりの人間のアイデンティティは複数である。公領域もまた上ではなく、下から編み上げた組織とならなければならない。これからは、従来の婚姻と血縁関係からなる家族は個人にとって大切で身近な親密圏のひとつではあるが全てではなく、個人は知恵をしぼって部屋のドアを開き、そこから複数の親密圏を開発してゆくだろう。コペルニクス的転換がはじまった。
だが、高齢になると、その複雑な親密圏の維持がしだいに困難になる。やむをえず親密圏を縮小し、やがて親密圏からだけでなく、公共圏からのサポートを受けることも必要になる。各個人が国家から直接に管理されるとき、管理の空間表現は、監獄のように一望監視型設計となりやすい。従来の個室型ホームといわれるものの多くは、廊下の両側に部屋が並ぶ病院式であり、一望監視あるいは巡視型設計に近かった。ところが個人化設計は、全個室型になることだけでなく、個室と個室の関係が新しいのである。約一〇室単位ずつでグループとなりオープンスペースをもつのだから、いわば大きな集合住宅のなかにいくつかのグループホームが入る形であると思われる。個人はプライヴェートゾーン、グループの共有空間、全館空間、建物の外の地域空間をどう使い分けるのだろう。
京都市伏見区のJR桃山駅に隣接するホーム「ももやま」は特別養護老人ホーム(定員八〇名)、ショートステイ(定員二〇名)、デイサービス、在宅介護支援センターなどをもつ高齢者福祉複合施設である。一階にはデイサービスセンターのほかに地域に開いたレストランと児童館が併設されている。二階と三階に特別養護施設とショートステイの八ユニットがある。ひとつのユニットは仕切りのある四人部屋と個室の組み合わせで、一二、三人の入居となっており、職員も特定ユニットの介護に専念できる仕組みである。職員とユニット居住者で大家族の規模となる。ユニットの西町一丁目、二丁目、東町一丁目、二丁目、横町一丁目、二丁目、中町一丁目、二丁目というネーミングはほのぼのラインであり、一見、家族とご近所の再生を目指すように見えるが、疑似家族、疑似地域を目指すのか、新しいコミュニティなのか。
「ももやま」の山田尋志園長は「主体的な一人ひとりの生活の実現をめざす『ユニットケア』が、施設を地域社会のなかの住居に連続させてゆく架け橋の役割をすればいいと考えています」と語る。つまり外から順番に閉じてゆくのではなく、個室からはじめて、自分をつぎつぎに外へ開いてゆくことが目指されている。利用者は私領域から親密圏へ出るとき着替えている、一階空間は公領域とみなし、一階に下りることを外出ととらえている、という挿話が面白い。高齢者は空間によって言葉遣いもまた、変えているにちがいない。ユニットのボス支配、追従、反抗、調整など、高齢者の社会生活はあいかわらず葛藤とトラブルに満ちている。だが、トラブルの捉え方がちがってきているように思われる。トラブルと調整こそが、集いをたえず新鮮にしている。外部を迎え入れるレストラン、次世代との交流が期待される児童館という装置も工夫されている。一泊させていただいて、駅のプラットホームを見下ろす立地条件が、孤独な想念をなぐさめることにも気づいた。想像力は線路をつたわって遠くまでゆくことができる。
この連載のあいだに個室化がすすめばすすむほど、個室は集合せざるをえないというパラドックスに気づいた。意志をもってプライヴェートゾーンを確保するには、閉じることよりも、開くための装置が必要である。個室はやっぱり海にむかって船出し、大海のなかでそのときそのときの隣人たちともやいながら、嵐をしのぐのである。

1──高齢者福祉総合施設「ももやま」 筆者撮影

1──高齢者福祉総合施設「ももやま」
筆者撮影

2──高齢者福祉総合施設「ももやま」 筆者撮影

2──高齢者福祉総合施設「ももやま」
筆者撮影

3──同平面図 社会福祉法人健光園パンフレットをもとに作成

3──同平面図 社会福祉法人健光園パンフレットをもとに作成


★一──『朝日新聞』関西版、二〇〇一年六月二三日、夕刊。

>西川祐子(ニシカワ・ユウコ)

1937年生
ジェンダー研究、日本とフランスの近・現代文学の研究、伝記作家。

>『10+1』 No.25

特集=都市の境界/建築の境界