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音楽ジャンルとは何か?──サウンド・概念・権力のトポロジー | 増田聡
What is Musical Genre?: The Topology of Sounds, Concepts, and Power | Satoshi Masuda
掲載『10+1』 No.28 (現代住宅の条件) pp.27-30

ポップ・ミュージックの領域で「ジャンルを越える」という宣言はすでにクリシェとしてしか機能しない。「オレたちの音楽にジャンルは関係ないぜ」と主張することは、その実践の卓越化を彼らが志向している証──誰もがそのように主張するが故に、卓越化の「資格」のようなものとしてしか機能しないのだが──として受け取られる。「ジャンルを越える」というクリシェの存在が当のジャンル自体を特徴づけるという再帰性ゆえに、ロックやポップの諸ジャンルはモダニズムと無縁なままモダニズムを演じることが出来るのだが、それはまた別の話である(要するに彼らは、資本主義の揺籃の中で無自覚なポストモダンを生きているわけだ)。
音楽ジャンルはかように粗末に扱われ、誰にも尊重されることはない。それは誰もが安心して非難できる悪として攻撃されるばかりだ。だが、ジャンルを「越える」とは実際何を意味するのか。そもそも音楽ジャンルとは何なのか。

批評用語としての「ジャンルgenre」の原語はラテン語genusで、「共通の特質を有する存在もしくは対象の群」を意味し、そもそもは生物学・博物学における「属」に由来する。アリストテレスが『詩学』において、媒体・対象・方法の観点から諸芸術分野の優劣を論じて以降、西洋美学思想史は芸術の分類と類型に関する議論を展開してきたが、特に文芸の分野で盛んに行なわれてきたそれらの議論の過半は、叙情詩/叙事詩/劇の伝統的三分類を形而上学的に根拠づけようとする試みの域を出なかった(その典型はヘーゲルの『美学』に見られる)。一九世紀フランスのフェルディナン・ブリュンティエールは、ドイツ観念論哲学の演繹として論じられてきたこのような規範的ジャンル理論を排し、当時猛威をふるった進化論思想の影響下、生物学的な系統発生のアナロジーによって文芸ジャンルの展開を論じた。これ以降、文芸理論におけるジャンル分類は生物学における分類と同様の見地に立つものと考えられるようになり、単なる共時的分類なのではなく、「進化」を伴って不断に変容してゆくものである、と考えられるようになった★一。
芸術ジャンルは系統発生と分化、自然淘汰といったダーウィニズムの用語で理解される。生物学に比するべきジャンルの客観的分類法則を打ち立てようとしたブリュンティエールであるが、生物学上の分類と同様の、門─綱─目─科─属(genre)─類といった段階的秩序をジャンル理論にもたらすことはできなかった。彼は悲劇や叙情詩、小説をそれぞれジャンルとみなすと同時に、叙情詩的ロマンや風俗ロマンなど、これらのジャンル内の下位分類もまたひとつのジャンルとして扱っている。生物学上のジャンルのように、共有される特質の階層を明確に区分することができない芸術ジャンル理論は、それがどれほど厳密かつ体系的に見えようとも、作品群が持つさまざまな「共通の特質」のどれに着目するかによって、異なる分類がなされる余地を常に残す(ウィトゲンシュタインの「家族的類似性」に関する議論を想起せよ)。しかし一方で、文芸の伝統的三分類がその規範性を長い間保ってきたことに見られるように、人為的な手段によって容易に変えられるものでもなく、あたかも生物種の如き有機体性をも併せ持つ。芸術ジャンル理論の困難さとは、ジャンル観念のこの二面性、分類の恣意性と一旦成立した分類の生命力の強さとに起因している。

「音楽のジャンル(Gattung)とは、その作曲家自身の意図や様式の傾向と、社会的階層の要求や期待(これらを通して、ひとつの音楽のあり方が認められていく)との間を調停/仲介するような、伝統的な規範である。すなわち、ある作曲家はそれを回避することも突き破ることも出来るのだが、いずれにせよその作曲家にとっては、単なる歴史家たちの考える構成概念としてではなく、歴史的なリアリティとして迫ってくる、そのような規範である」★二。戦後ドイツ音楽学の泰斗、カール・ダールハウスによる「ジャンル」の定義である。ここに見られるのはブリュンティエールが逢着したのと同様の、ジャンルの二面性への意識である。
ジャンルは外から見るならば(「単なる歴史家たちの考え」によれば)恣意的な構成概念に過ぎない。あるジャンルに属する音楽はなんらかのルールに従うことによって一群を成すのだが、そのルールは論理カテゴリーの混乱や矛盾に満ちている。ロバート・ジョンソンの「Love in Vein」はブルースとされるが、それをローリング・ストーンズが演奏すればロックとしてカテゴライズされる。九四年に「Jポップ」というカテゴリーが出現するや否や、それまでの「歌謡曲」、「日本のロック」、「ニューミュージック」といった「ジャンルの壁」は崩壊し、進駐軍のクラブバンドから宇多田ヒカルに至る「Jポップ史」が新たに捏造される★三。「ロックとは何か」、「Jポップとは何か」といった定義論争はやむことがない。しかし、そのような議論は、恣意的であるジャンルという観念が、音楽家や聴衆に対してリアリティを持った実体的規範として機能するからこそ、真剣に戦わされる。ジャンルを巡る議論は決して「決定的な定義」に行き着くことはない。それは音楽から引き出される快楽と利益を賭金とした意味をめぐる闘争なのだ。

このような意味闘争についてサイモン・フリスが面白い例を挙げている★四。一九八〇年代のイギリス保守政権が新たに三つの民間ラジオ局に全国放送のライセンスを与えることを決定した際、うちひとつの内容を「ポップ以外のものother than pop」に限る、と告示した。ところが、コンサート・プロモーターとロック雑誌の共同会社が、ロック中心のプログラム計画でこのライセンスに入札してしまう。イギリス上院では「ロックはポップに含まれるか、あるいは別のジャンルか」が真面目に議論されることとなった。
政府のジャンル観念の上では、ロックはポップの中の一ジャンルであり、反復するビートと電気楽器の使用を特徴とした「音楽学的ジャンル」として認識されていた。しかしレコード産業の観点では、ロックとはポップ「以上のもの」、シングルチャートを目的とする使い捨て音楽ではなく、アルバムを中心に高い年齢層に的を絞った、別の音楽として考えられていた。
つまり議論の対立は、双方のジャンル・カテゴリーの分類規則が、別々の原理を前提していたことに起因している。その原理は、それぞれ、ジャンルをラベルとして用いるアクターの利害関心に基づいて選択されることになる。
この場合、政府にとっては、音楽学的な意味が関心の中心にあり、反復ビートと電気楽器の音楽を公共電波にこれ以上流入させないことが目的となっていた。それに対し産業側の関心は、イデオロギーとマーケットの側面にあり、ロックがポップと異なる聴衆を持っていることを論拠に、政府の立てたジャンル概念を流用し利用しようとする。
ここで双方のジャンル把握のどちらが「正しいか」を問うことは無意味だ。ジャンルとは恣意的な規範性であり、アクターの現実的な利害関心によって選択されたルールに基づいて、音楽の世界を分類し定義する権力の現われなのだから。
となれば、「正しいジャンル定義」を追い求めることの不毛さは明らかであろう★五。ジャンル理論にとって重要なのはジャンルの定義という権力を振り回すことではなく、歴史的に変化するジャンル分類のルールを観察し、そのメカニズムを明らかにすることである。

フランコ・ファブリの整理★六によれば、音楽のジャンルとは「社会的に受け入れられた、一定のルールの集合によって統御される(実際の、あるいは可能な)音楽的出来事の集合」ととりあえず定義される。それらのルール、社会的に受け入れられ、恣意的かつ規範的に成立するさまざまなジャンルを構成する諸ルールを、彼は大きく五つに分類する★七。
1 形式的・技術的なルール/音楽的形式、楽器、演奏法などに関する規則。
2 記号論的ルール/その音楽のレトリカルな意味に関する規則。
3 行動のルール/演奏者、アーティスト、ファンの行動に関する規則。
4 社会的・イデオロギー的ルール/階級、エスニシティ、ジェンダーなどに関する規則。
5 経済的・法的ルール/マーケットや著作権、レコード会社やコンサート、プロモーションの仕方などに関する規則。
先述のイギリス政府とロック産業との対立点は、この1、2のルールと4、5のルールの対立であることが分かる。これらの諸ルールは諸々のアクターによって利用され、自らのジャンル定義の正統性を主張する際の根拠として機能する。
これら諸ルールは、音楽実践の諸領域で用いられ諸々のジャンルを形成していく。あるいは形成されたジャンルが、今度は逆に音楽実践自体を組織化する。音楽実践とジャンル概念とは互いに互いを規定する解釈学的関係にあり、ジャンルは「どの地点で」、「誰が」主題化するかによって異なる姿を見せることになる。

フリスはジャンルと音楽実践とが相互に結びつく三つのプロセスを検討している★八。販売のプロセスでは、ジャンルは音楽とマーケットを結びつける契機として捉えられる。レコード店やラジオ番組はジャンルを単位として組織化され、また新たな音楽の誕生はジャンルの分類に影響を与える。演奏のプロセスでは、プレイヤーの特定の音楽的知識や経験がジャンル観念により構造化されることになる。ジャンルは手っ取り早い音楽的知識の交換のための手段だ。「ブルース弾いてみる?」、「そこはファンクっぽく」等など、ジャンル概念をインデックスとして演奏者は音楽を産み出す。聴取のプロセスでは、ジャンル・ラベルは比較と批評の手段となっている。新しい音楽は常に過去のジャンルとの比較によって判断される。既成のジャンルに「当てはまらない」というリスナーの判断は、DJや批評家といったゲートキーパーの手によって概念化されていくうちに、新たな「ジャンル」を形成するかもしれない。ジャンルはまた、ファンのアイデンティティのよすがともなる。「ロック・ファン」、「ヒップホッパー」はトライブを構成し、音楽ジャンルの垣根を防衛することに努めるだろう。美的判断は倫理的判断と重ね合わされるだろう。ジャンルは、ポップの快楽の中心に位置することになるだろう。

このように、音楽実践の諸領域には深くジャンル観念が関与している。ジャンルは音楽を分類し、既成の枠組みにはめ込んでしまう言説の牢獄なのかもしれないが、同時にわれわれが音楽から意味を引き出す際の不可避の視座ともなっている。その役割は事物と言語の関係にも比べられよう。言語の恣意性と分節構造がわれわれの世界認識の土台を形作っているように、ジャンルの恣意性と構造こそが音楽の意味を産み出している。ジャンルに属さない音楽は存在しない(言語の外部が存在しないように)。「クロスオーバー」が固有の「ジャンル」となってしまったように、既成のジャンルを外れる音楽が出現するやいなや、そこには新たなジャンル概念がすぐさま発生するだろう★九。われわれはこのような、ジャンル概念と音楽実践との弁証法の狭間にある。
「ジャンルの規則は、いかにして音楽形式の意味や価値が伝えられるかを決定し、さまざまに異なった種類の判断の傾向を決定し、さらに異なった人々に評価させる力を決定する。われわれが音楽とそれをとりまく諸関係を経験し、美的なものと倫理的なものとを一致させるのは、ジャンルにおいてなのである」★一〇。
ジャンルの恣意性と規範性の狭間で音楽は概念と接触する。「ジャンルは関係ないぜ」という勇ましい宣言だけでその枠組みを超えることはおそらく不可能である。音楽と言説の接触点を可視化する緻密な批評の試みにおいてのみ、次の瞬間には言語の網目が再び音楽を覆ってしまうにせよ、「ジャンル」の牢獄は一瞬その空隙を垣間見せるのである。

タワーレコード渋谷店、店内案内図

タワーレコード渋谷店、店内案内図


★一──竹内敏雄『文藝のジャンル』(弘文堂新社、一九六七)二三─三〇頁。
★二──C. Dahlhaus. Artikel Gattung, in: Brockhaus-Riemann Musiklexikon. 2 Bde. 1978/79.
★三──例えば田家秀樹『読むJ-POP──一九四五─一九九九私的全史』(徳間書店、一九九九)、恩蔵茂『ニッポンPOPの黄金時代──九ちゃんの登場からGSブーム終焉』(ベスト新書、二〇〇一)など。逆に言えば、「Jポップ」というジャンル概念が成立して初めて、演歌やニューミュージックといった区分が成立する以前、全てが「流行歌」として扱われていた時代の大衆音楽史を描ける視点をわれわれは獲得したとも言える。
★四──S. Frith, Performing Rites: On The Value of Popular Music, Harvard University Press, 1996, pp.81-84.
★五──故に、音楽ジャンルの定義を試みる言説は、そのような不毛さについての言い訳を必ず携えることになる。「音楽のジャンルって一体何だろう? この素朴な疑問に明快な答えを与えるのは、そう簡単なことではない。何が難しいのか。それは、ジャンル分けをする、つまり区分けをする基準そのものに絶対的な基準値が存在しないからだ(…中略…)私がこの著書の中で行う定義と解釈は、あくまで一般的なガイダンスとして書いているわけで、異論反論はあって当然だと私は考えている」(みつとみ俊郎『音楽ジャンルって何だろう』[新潮選書、一九九九]一〇─一五頁)。このようなエクスキューズが避けられないのにもかかわらず、ジャンルの確定的定義を試みる言説が後を絶たないのは、ジャンルの(定義を試みる主体における)規範性が、音楽の快楽のひとつ──音楽を支配すること──と密接に結びついているためである。そのような言説編制を離れてジャンルの一般理論を求めるならば、ジャンルの恣意性と規範性を同時に視野に入れた思考がなされなければならない。
★六──F.Fabbri, "A Theory of Musical Genres: Two Applications," in David Horn and Philip Tagg, eds., Popular Music Perspectives, IASPM, 1982, pp.52-81.
★七──Fabbri, ibid., pp.54-59.
★八──キース・ニーガスもフリスと同様の視点から、ジャンルをミュージシャンやファン、批評家の間で行なわれる美学的な議論に限定するのではなく、より広い歴史的・社会的・文化的過程の中で、音楽産業と創作プロセスとの相互交渉に関与する契機として捉える。ジャンルは単なる美学的な分類にとどまらず、音楽実践を組織する「ジャンル文化」として把握され、「商業的組織の構造とプロモーションのラベルとの間の複雑な交錯や交渉、ファン、リスナー、聴衆の行動、ミュージシャンのネットワーク、広範な社会編制の中からもたらされる歴史的遺産などから生じるもの」として分析される。K. Negus, Music Genres And Corporate Cultures, Routledge, 1999, pp.29-30.
★九──新たなジャンル概念の発生は、クラブ・ミュージックのような現在活発な音楽文化に顕著だ。「─ハウス」、「─テクノ」といった「新たなジャンル名」の洪水は、音楽分類というよりもむしろ新たなサウンドに対する形容詞として機能している。それは音楽と概念、そしてマーケットとの不断の交渉過程の産物である。
★一〇──Frith, ibid, p.95.
※三井徹氏と吉田寛氏に資料提供と示唆を受けた。謝意を記したい。

>増田聡(マスダ サトシ)

1971年生
大阪市立大学文学研究科。大阪市立大学大学院文学研究科准教授/メディア論・音楽学。

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