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文化財になったアメリカの未来住宅 | 松村秀一
The American Future House Registered as Cultural Properties | Matsumura Shuichi
掲載『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) pp.180-193

はじめに

今日は二〇世紀の「建築生産の工業化」という文脈の中で語られることの多い四つの住宅についてお話したいと思います。個人的な背景として、私自身の研究の主たる関心のひとつが工業化住宅で、これは二〇年ぐらい前から研究してきました。石山修武先生から「脱工業化の時代になんで工業化なんてやっているのか?」なんて言われながら研究してきたわけですね。
二〇世紀の工業化の流れの中で、新しい技術や材料を使って作られた住宅は、脱工業化の時代の現在、歴史的事物として保存対象になったり再建されたりしています。私自身は、それらの文化財として保存されたり再建されたりした建築を、できるだけ見るようにしています。好きなものですから。
二枚用意したプリントのうち一枚目は、《ガラスの家》と 《アルミネア》という二つの住宅をセットにしてあります。二枚目はバックミンスター・フラーの《ウィチタハウス》──ダイマキシオン・居住機械とも呼ばれているものです──とピエール・コーニッグがやった《ケーススタディハウスno.22 スタール邸》という非常に有名な住宅とを対でお話します。それから参考資料として、今日スライドで紹介できないものを用意しました。これは、一九九六年に隈研吾さんと再建中の《アルミネア》と《ウィチタハウス》を見に行ったときのもので、当時の写真が載っています。それを雑誌『Glass & Architecture』の特集にしたのですが、今日の写真とずいぶん違うものが出てきます。
僕がなぜ工業化に関心を持ってこういう建築を見ているかというと、工業化住宅のディテールや細かな技術がどうなっているかということよりも、この人はこの時代にどんな夢想をしながらこの建築を作ったのかということに関心があるからなんです。また、「こんなことやっていたの!」ということもありますが、元々建築のあり方やその生産のあり方についてどういう構想を持っていたのかについても知りたい。それから二〇世紀の工業化というと非常に一律的なもののように聞こえがちですが、いろいろな展開がその中にはあり、それがどう違うのかといったことを捉えたいというのが元々の研究動機でもあったわけです。

ピエール・シャローの《ガラスの家》

前置きが長くなりましたけれど、ちょっと個別に見ていただきます。最初はピエール・シャローの《ガラスの家》です。これ自体はずいぶん前から保存対象になっていました。なかなか見ることができなくて二〇〇三年一二月に初めて中に入りました。普段は一〇人ぐらいの規模の見学ツアーが不定期に行なわれています。写っているこの人(写真左)がマルク・ブルディエさん──東大の建築にしばらくいて、今はパリで建築を教えている──で、彼の段取りで大野秀敏さんたちと一緒に行きました[図1]。
建物はピエール・シャローが設計して一九三一年にでき上がっています。ピエール・シャローは一八八三年生まれですからグロピウスとかル・コルビュジエなんかよりも五、六歳上ですね。僕はシャローの研究者ではないので聞きかじりですが、彼は建築の教育を受けたけれども初期の頃はずっと家具とインテリアのデザインだけをやっていて、ほぼ生涯を通して家具、インテリアを中心に創作活動を展開しました。
この建築は独立した建築ではなくて、既存の建物の──通りから小さな門を開くと突然中庭みたいなところがあって、そこに建っている建物の、一─二階部分をぶち抜いて一番上の三階部分を残したまま挿入するようなかたちで作られている建築です。ですから丸ごと新築で更地に建ち上げたものではない。そういう意味では構造的に自立したものを作ったわけではなくて、構造の主たる役割はこの三階部分をいかに下から支えるか、つっかえ棒みたいに鉄骨を入れて支えているだけなのです。そこにガラスの家を入れている。ですから、ガラスの家ではそのファサードが有名ですが、実は内部空間をこそ作ろうとしていたわけで、光の入り方をうまくデザインすることがシャローのテーマだったと思います。

技術的に新しい点はすべてガラスブロックで外壁を作ったということです。構造的には荷重を支えることから完全に解放された壁で、今でいうと完全にカーテンウォールの発想で作られています。このガラスブロック自体はこの当時すでに市販されていたもので、サンゴバンのネバダというタイプのガラスブロックだと思いますが現在は売っていません。ル・コルビュジエなんかも同時期に使っています。このガラスブロックをただ積み上げたかたちの外壁、こればかりがよく写真で紹介されています。
当時の工事中の写真を見ると、先ほど言いましたように上を残して鉄骨で下で支えている。その中に今のガラスブロックの外壁を、これはガラスブロックを平たい場所で一枚のパネル状に固めてから立ち上げるという方法をとっていたようです。だからサイトプレハブというのでしょうか、そういうやり方で建ち上げたものです。
用途はお医者さんの病院兼住宅です。一階部分には診察室があって、比較的天井高が低い。そこから可動式の建具を開けて入っていくと、素晴らしい階段があって、それを上ると二階に大きな居間が──本棚に囲まれた空間─あって、さらに三階部分に浴室だとか寝室が並んでいます。
この《ガラスの家》のガラスの部分だけを先に終わらせておきますと、パネルとパネルの間の黒い鉄が表面に出ている、黒とガラスの対比みたいなファサードの写真をよく見かけるのですが、もとは全部上からモルタルを塗り付けていました。ですから、現在のようなグリッドパターンのはっきりしたものではなくて、白いモルタルでした。しかし、下地の鉄がどんどん錆びてしまってそこから雨漏りがするといったトラブルがあって、結局モルタルを全部落として、現在はかなりやり変えたファサードになっているようです。
ピエール・シャローはけっして工業化の文脈で捉えられる人ではなくて、職人的にものを作るということに精通していた人物です。彼の建築の姿が鉄骨とガラスブロックでできているから、二〇世紀の工業化の中のこのあたりにいるのではないかと思われがちですが、そうではなくて、ピエール・シャローは相当腕のよい職人と組んで作るというスタイルの人ですね。この角の、ピエール・シャロー一九三一と書いているところの下に主な職人の名前二人が書かれています[図2]。そのうちの一人が鉄関係、金属関係を全部やっていたダルベという人物です。ダルベは、彫金加工のアトリエを持っていて、一九二四年からこの家ができ上がる三一年までずっとシャローと組んで、例えば家具だとか内装のパネルを金属加工しています。ダルベがどこで修業を積んだのかというと、エミール・ロベールという人のアトリエで鍛冶職人として修業しているのです。なぜこの話をしているかというと、僕がこの手のものの中で一番好きな人物、ジャン・プルーヴェも実はこういう職人としての修業を十代の頃から積んで、のちに建築の設計までやるようになる人なのですが、そのジャン・プルーヴェが最初に弟子入りしたのがエミール・ロベールのアトリエだったのです。シャローの本を読んでいた時に同じ名前がでてきたので非常にびっくりして、印象深く覚えていますが、シャローと一緒にやっていたダルベもジャン・プルーヴェと同じようにデザインもしながら鉄を打ち出してものを作っていくというタイプの人なんですね。
シャローが自ら語っているところによると、例えばディテールのすべてをシャローが考えたわけではなくて、ダルベが現場でこうやったら納まるとか、こうやったら回転するとかやりながら作っていったようですね。ですから、これは完全な共同作業として捉えればいい仕事だと思います。
建物内部にある木製のパネルはスライドするようになっています。こういう可動式のパネルなどはダベルの仕事です。それからガラスブロックの壁は開口部が開きませんので、大きな温室用の開口部品を使った通気窓とか、いろいろなものを加工し鉄骨のフレームに取り付けていくというのがダルベの仕事だったのです。この温室の技術というのは当時進んでいました。例えばフランスではギュスターヴ・エッフェルが温室系の仕事をしています。それから東京理科大の山名善之さんに教えてもらったのですが、エッフェルとライバル関係にあったシュワルツ・オモンという会社──エッフェル社とシュワルツ・オモン社は初期の鉄骨の加工をやっていた──も、一九世紀中頃から温室業者として出てくる。だから、温室をやっていた人たちが鉄骨や金属を使った──もちろん骨組みもそうですし、ちょっとした仕掛けで動く開口部を得意としていたわけで、タルベは当時の温室のディテールをそのまま引っ張ってきています。
それから内装のパネルはジュラルミンでできています。ジュラルミンの薄い板を、ちょっとむくりをつけてピンと張ったようなパネルにして、動かないと思っていた壁がくるくる動くというのがこの家の大きな特徴です。案内されて三階までいくとまた回るのかと、いやになるほど執拗に金属加工した部品が可動式になっています。その典型的な例は、浴室の図面を見ればわかると思います。どの程度補修しているかわかりませんが今でもすべてきれいに動いていました。
木製の家具はダルベの仕事ではなくシャローがデザインし、別の職人が作った家具ですね。建物の内部は、家具も間仕切りもどれが建築的部位でどれがそうでないかという区別がなく、内部空間を構成するすべての道具立てがシャローの仕事であるというところに、もうひとつこの住宅の面白いところがあります。
ピエール・シャローについて確認したいのは、彼が基本的に工業化とは関係ない人だったということです。それはジャン・プルーヴェと似たような感じで、ジャン・プルーヴェ自身は工業的にものを作ろうとしていたのですが、シャローは非常に職人的で、なおかつ──これはシャロー自身の発言ですが──ビルダー、つまり作る人、具体的には職人のことなのですが、職人の革新性こそ評価されエンカレッジされるべきだと言っています。また、家具でも建築においても職人はデザイナーやプランナーが夢にも思わなかったようなアイディアを思いつくのだとも言ってます。これはダルベとの共同作業のなかでそう言えるようになってきたということですね。また、工業化と非常に対極的なのはパトロンがいることです。工業化というのは大衆社会のなかで、不特定多数の人のために作るという考え方が基本にあるのですが、あくまでもパトロンがいてそのために作るという姿勢が《ガラスの家》にも典型的に出ています。
それからもうひとつメモには「再生と固定性」と書きましたが、シャローはまさに建っている建物をぶち抜いてそこに《ガラスの家》をはめ込むわけです。普通工業化というのは、後にお話しますが、移築できるというのがひとつのパターンです。《クリスタルパレス》も移築しています。どこでも成立するというのが工業化のひとつの理想です。それとは対極的なところにある仕事です。

1──保存されているピエール・シャローの《ガラスの家》。既存建物の地上2階分が抜き取られ、そこに嵌め込まれた形になっている。

1──保存されているピエール・シャローの《ガラスの家》。既存建物の地上2階分が抜き取られ、そこに嵌め込まれた形になっている。

2──《ガラスの家》の表示。シャローの名に並んで、金属加工職人ダルベの名が刻まれている。

2──《ガラスの家》の表示。シャローの名に並んで、金属加工職人ダルベの名が刻まれている。

アルバート・フライ《アルミネア》

それでは、シャローの仕事の対極にあるものとして次の 《アルミネア》に移ります。《アルミネア》というのはアルバート・フライというスイス人の建築家が、アメリカに渡ってすぐ設計した建物です。できたのは一九三一年、 《ガラスの家》と同じ年だったと思います。なぜ並べているかというと両方が同じ年にできたから並べているのですが、《アルミネア》はニューヨークに建った建物で、「ザ・フューチャー」つまり「未来の家」という展示会用に作られたアルミ構造の家です。
アルバート・フライがどういう人物なのか説明しておきますと、今から四年くらい前に亡くなりました。お渡しした資料に死ぬまでアルバート・フライが住んでいた住宅が出てきます。この住宅はパームスプリングスという砂漠に建っています。われわれは一九九六年の夏に、この住宅を見に行きました。アルバート・フライに電話して「明日行ってもいいか」と聞くと、「いいよ、ただし朝八時をすぎると外には立っていられないから八時より前に来い」と言われて、行ってみたら、なんせ砂漠ですからものすごく暑い。その岩山に建っている軽い感じの住宅に、彼はずっと独りで暮らしていたんです。
アルバート・フライはスイス人で、ル・コルビュジエのアトリエで働いています。ちょうど前川國男が同じ時期にル・コルビュジエのアトリエにいました。ル・コルビュジエのアトリエで働いていたときに、彼はアメリカに行きたいとずっと言っていました。だから、ル・コルビュジエからフライは「アメリカン・ガイ」と呼ばれていた。「お前はスイス人なのに、毎日アメリカ、アメリカと何なんだ」と。なぜ彼がそんなにアメリカに憧れていたかについてエピソードがあります。そのころ彼は《サヴォワ邸》のサッシ廻りの図面をピエール・ジャンヌレ──ル・コルビュジエの従兄──と描いていたんですね。当時も、そして今でもありますが、アメリカに『スウィーツ』という何巻にもなる建材カタログがあります。このカタログは一九二〇年代当時まだ厚さが二・五から三センチぐらいのものだったらしいのですが、ル・コルビュジエのアトリエではそのカタログに載っているサッシのディテールを見て図面を描き、それを職人に作らせていたらしいんです。それで、そんなことならサッシを売っているアメリカに行ったほうがいいじゃないかと、若いフライは考えたようです。その後フライはアメリカに渡って結局西海岸に落ち着くのですが、東海岸ですぐ、当時の『アーキテクチャル・レコード』の編集長のコッヘルに、展示会をやるからアルミの家をやってみないかと誘われて設計したのがこの「未来住宅」です。
この《アルミネア》は今再建されています[図3─5]。知らない人にはなんの感動もない住宅なのですが、私はずっと前から気になっていたので、《アルミネア》が再建されると聞いただけで少々感動してしまいます。ニューヨーク工科大学のキャンパスに、今まさにこの状態で建っています。表面は全部アルミの波板です[図6]。トタンの納屋みたいな外壁です。ぺらぺらの外壁でキラキラ光っていました。しかし全体はまったくル・コルビュジエそのもの。ただ建材はアメリカ。ル・コルビュジエはこんな形を作っているけれど、壁一枚剥がすとモルタルの下からレンガとコンクリート・ブロックしか出てこない、つまり作り方の面では新時代のものではなかったのです。そこで、本当はル・コルビュジエはこうやりたかっただろうというのをフライがアメリカでやったという位置づけになるかと思います。これをニューヨーク工科大学が、学生の演習で十数年、徐々に徐々に組み立てて再建したのです。
  《アルミネア》はもともと展示会用に作られました。そのスポンサーのいくつかの名がお配りしたプリントにのっています。トラスコン社。鉄関係のシステムとか部品を売っていた会社ですね。日本にも相当いろんなものが輸入されています。例えば成蹊大学には、今でも昭和二〇年代のトラスコンのシステムで作られた非常に大きな空間の食堂が残っています。それからアルコア社。ピッツバーグにあったアルミの巨大なメーカーで、一九五三年頃に建った超高層のアルコアビルがピッツバーグにあります。学生の時に恩師の内田祥哉先生が、アルコアビルというのは君たち覚えておいたほうがよい、アルミ製パネル式の初めてのカーテンウォールだとおっしゃっていました。三年くらい前にNHKで「NPOの時代」という番組を見ていたら、冒頭の映像で突然アルコアビルがバーンと出てきたのです。ただ、アルコアはいつの間にかいなくなって、アメリカのさまざまなNPOの本部が超高層ビルの中に部屋をかまえ「NPOタワー」という名になっていました。時代を象徴する話なのですが、そのアルコア社、あるいはデュポン社、そういうところが建材を住宅分野に売ろうというので、フライに設計させ展示した住宅だったのです。
 《アルミネア》をある建築家がすごく安価に買い取って、自分の家にするために移築します。その後しばらくアパートとして運営されていて、一九八〇年代半ばに所有者が変わってしまうのですが、その新しい所有者が「なんだこれは、すぐつぶすぞ」ということになりました。その時点で《アルミネア》はかなり変更されていましたが、それを聞いたアメリカの建築界からあれはつぶしてはだめだという話がでて、ニューヨーク工科大学が予算を見つけてきて移築したわけです。元の所有者から「早く持っていけ」と言われながら学生が解体して、キャンパスにとりあえず部品だけ置いたんですね。
一九八七年から工事を始めて二〇年近く経った今でもまだ内装工事をやっています[図7]。外装の下は木製のパネル下地があって、その上にベコベコのアルミを張っているだけです。なんの雨仕舞もない、ツウツウの家、ちょっと重ねて留めているだけです。だけどアルミ外壁というのは新しい。スチールサッシも当時としては新しいものです[図8]。他にどこがアルミかというと柱です。柱は直径五インチのパイプで、梁は鉄でできています。一九九六年には、まだ外壁が取り付く前の現場に行ったのですが、両側からチャンネル鋼が柱を抱き込む形で、合わせ梁になっていました[図9]。そこに頬杖が差し込まれて建っている。今は内装が仕上がってしまっているのでなかなか見えにくい部分です[図10]。
内装を見ると基本的には枠材に穴を開け、ボルトで留めながら全体を構成していく、スチール製の組み立て家具とまったく同じです。あるピッチで穴が開いているアングルに差し込んで内装を構成しています。階段の横の壁も全部同じものでできています。床はデッキプレートです。アメリカでは工事をしていた一九三〇年当時から市販されていました。今日本にあるデッキプレートのようにある大きさをしているのではなくて、一つひとつの部品がサネになっていてそれを継ぎ足していく形式のデッキプレートです。
  《アルミネア》は《ガラスの家》とまったく同じ年にできたものなのですが、両者の違いを簡単に言うとアメリカかヨーロッパかということ。僕の中でもそういうまとめをしています。例えばフライがル・コルビュジエに出した手紙の一節を訳しているものですが「拝啓コルビュジエ様」というところから始まって「幸いにもここアメリカでは私たちの努力は寸法とか使用材料に関する規制によって邪魔されることはありません。こういった自由があるからこそ、アメリカの土地の一角一角は建築と材料の研究のための実験室のように見えるのです」と書いています。さらに、アメリカは「機械的、科学的そして技術的な進歩だけが躊躇なく受け入れられている。人々は技術者の言うことが絶対に確実だと強く信じている」、「非常に幸福な土地だ」とも書いています。ル・コルビュジエさん、あなたも来たらいいのにという調子の手紙なんです。フライは絶対ヨーロッパには帰らない。これはそもそも世代の違いが非常に大きいと思いますけれども志向性もかなり違います。
 《ガラスの家》もジュラルミンを使っていますが、同じようにアルミを使っていても位置づけとしてはまったく違うものだと思います。

3──再建されたアルバート・フライの《アルミネア》

3──再建されたアルバート・フライの《アルミネア》

4──再建されたアルバート・フライの《アルミネア》

4──再建されたアルバート・フライの《アルミネア》


5──再建されたアルバート・フライの《アルミネア》

5──再建されたアルバート・フライの《アルミネア》

6──《アルミネア》の外壁波板

6──《アルミネア》の外壁波板


7──内装は復元工事中、2003年11月現在

7──内装は復元工事中、2003年11月現在

8──オリジナル部品がそのまま使用された金属建具

8──オリジナル部品がそのまま使用された金属建具


9──アルミの柱と軽鉄部品で構成された骨組み

9──アルミの柱と軽鉄部品で構成された骨組み

10──柱を抱くように配置された鋼製合わせ梁と二次部材の納まり

10──柱を抱くように配置された鋼製合わせ梁と二次部材の納まり

バックミンスター・フラー《ウィチタハウス》

もうひとつ私が絶対に見たいと思っていたものが、バックミンスター・フラーの《ウィチタハウス》と呼ばれている、一九四七年のダイマキシオン・居住機械です[図11]。実際に住宅として建ったのか建っていないのかよくわからない建築ですね。
 《ウィチタハウス》はフラーを好きな人たちの間ではとにかくすごいと言われ、神話化されている住宅です。どんな神話が残っているかと言うと、上にフィンのついた丸い帽子のようなものが載っていますが、これが通気装置になっていて、下に当時のシボレーかキャデラックのベアリングが入っていて、風が吹くとくるくる回る。確かにそんなメカニズムを持っている。真ん中に柱があって、真ん中の柱からワイヤーで床から屋根から全部吊っている。実際は床は下から支えなくては保たないので少し支えているのですが、強い風が吹くと上に載っているフィンのついた巨大な帽子がブワーと回りながら一メートルぐらい宙に浮くと、誰も見ていないのにそんな話がまことしやかに語られています。
それからもうひとつ、これも本当かどうかわからないのですが、ここにシリンダーがありますが、この住宅のほとんどはアルミ合金でできていて、全重量は二・七トン、その全部の部品を畳むと──上の帽子は別として──すべてシリンダーの中に入る設計になっていたと言われています。だからこれは私の想像ですが、フラーは軍用機にこのシリンダーを積んで爆弾のように人里離れたところにボコボコ落としていくと、シリンダーから出したパーツでこの住宅ができ上がってくる、そんな夢想を抱いていたのではないかと思います。
  《ウィチタハウス》は実は一棟だけ、一九四七年に建てられたのです。なんでこんな不思議な住宅が建てられたか。フラーはその頃からいろいろ面白いことを考えていることで有名で、一九四四年に、彼は「軍需産業の平和利用」というテーマで講演します。内容は、戦争は終わった、軍用機を作っているところはこれからは住宅を作りなさいというもので、当時B29などの軍用機を作っていたビーチエアクラフトというカンザスの航空機メーカーが関心を持ったわけですね。そして、フラーはそれに応えて《ウィチタハウス》を設計し始めた。
そして、一九四七年、フラーは《ウィチタハウス》は技術的に未熟だから完成までにあと七、八年かかると言ったのですが、一棟できちゃったわけです。ビーチエアクラフト社は企業ですからすぐに公表しました。その結果全米から万オーダーの注文が届いたと言われています。しかし、フラーはこれはまだ開発途中で未完成だから売り出すわけにはいかない、と結局けんか別れしてしまった。
フラーはその後この住宅には一切関わらずに、また完成もさせていません。ですから、この時建てた一棟はひどいものでそこら中から雨が漏った。というのも屋根はアルミ合金でできていますが、目地が見えているところは全部ツウツウになっている。本当はその裏に樋がついていて、樋から水を回収するアイディアだったのです。しかしこの段階ではそれが完成していなくて、行き場のない雨水が漏ってくるような欠陥を持っていました。
その後、グラハムさんという人がこの試作品を買って、自分の家として住み始めました。住み始めたら雨が漏って仕方ないので屋根の目地のところをモルタルや何かで塞いで完全に固めてしまった。それからさっきの帽子は確かに風が吹くと回るのですが、風が吹く度にゴロゴロ音がしてうるさくて住めない。それでこれも止めてしまえというのでモルタルを埋め込んで止めてしまった。ですから、形は丸いけれど全く原型をとどめない状態です。グラハムさんは一九七〇年代に亡くなって、彼の遺族はこの住宅をもういらないからとヘンリー・フォード・ミュージアムに寄付したわけです。
ヘンリー・フォード・ミュージアムは解体した《ウィチタハウス》の部品をずっと保管していたのですが、一九九五年にフラー生誕一〇〇年に合わせて、これを復元しようとしたのです。準備はその数年前から始めたのですが、部品はボロボロで、完成はどんどん延期され、一九九六年私が訪ねた時にはまだ建物の姿はなくて、産業考古学のチームがすべての部品を、一人一部品の担当を決めて延々とナンバリングしたり、何のための部品か、どこに入っていたのかなどを研究している状態でした。ちゃんとした図面が残っていないので、何なのかわからない部品が出てくるんです。
私が訪ねた時には、日本でお金を出してくれるところはないかという相談を受けたんです。日本もバブルが終わっていたので、もう一〇年早かったらなあなんて言いながら帰ってきたので、きっと建たないだろうと思っていたら、今は完全に復元されています。私はオープニングの時期に行くつもりだったのですが、9・11のテロのあった年の一〇月で行けなくて、ようやく去年行ってきました。
ヘンリー・フォード・ミュージアムはフォード本社のあるディアボーンにあります。私はものすごく楽しみにして行ったのですが、《ウィチタハウス》はあまりにも見事に建っていて涙が出そうでした。案内してくれたチームのリーダーは、建築とは何の関係もない産業史をやっているカナダ人女性で、ミュージアムのある角のところで、左を見てごらんと言われて、見ると《ウィチタハウス》が奥にあって、足がすくむというのか、びっくりしました。だけど近寄ってみると《アルミネア》と似ていて、アルミ合金の薄板でできていますからペラペラなんです。窓はアクリルのはめ殺しで、どこから通気しているかというと、アクリル窓の腰壁が半分に分かれていて上下するようになっている。軽いアルミの板ですからクルクルと持ち上げると浮くようになっています。展示もなかなかしゃれていて、一九四七年頃の典型的なアメリカン・ファミリーの写真があってそこにタイムスリップする。今日ここでダイマキシオン・ハウスを見られますよという設定で、当時のビーチエアクラフト社の看板やポスターが張ってあるところを通って入るという展示になっています[図12]。
内部の写真です[図13・14]。復元した人が、一体断熱はどうなっていたのだろう、何もない、これが一番不思議だと言っていました。屋根は一枚ですから通風もない。多分寒いところに行ったらキンキンに冷えると思うのですが、フラーは空気が動いてすべてはうまくいくと考えていたようです。それは技術が完成していないから実現していないんです。真ん中にこういう柱があって吊っているという構造はそのものズバリです[図15]。パネルは高級な木材で、チーク等でできています。それから彼が発明したいろんな部品が、円形のプランの中に置かれています。例えばこれは一九三三年か三四年に彼が発明した、世界初と言われているバスユニットです[図16]。銅メーカーのフェルプスダッジ社に頼まれて作ったのでほとんど銅でできています。これは内部を写していないのですが、ものすごくかっこいいバスユニットです。小さいシャワーブースと便器があり、そこに洗面化粧台が付いています。全部金属を曲げて加工された一体式で、下のユニットと上のユニットのハーフユニットになっているのですね。女性が二人で組み立てて持てるというのが自慢のバスユニットですが、どこかのアパートに設置されていたらしくて、そのアパートからわざわざこのために持ってきたのです。
これが柱脚部分ですね[図17]。担当したエンジニアの方がわざわざ来て説明してくれたのですが、構造の話は主に構造の先生に聞いてもらっていて、僕はよそで写真を撮りまくっていました。多分床が大変だったのだと思います。昔の写真を見たら床が浮いているように見えるのですがどうしても浮くはずがない。どこかに支えの棒があって、どうやって梁を通すのかという点でなかなか苦労したようです。
それから、天井と屋根面の間に空間があるんです[図18]。そこにフラーは断熱的要素として、アルミ箔のようなものをめぐらせて、輻射で熱は全部自分にはね返ってくると言っていたようなのですが、よくわかりません。アクリルの窓の下の、外から見たら一体のパネルになっているように見えるところが二枚に分かれて、上半分が下がるようになっています[図19]。わりと小さいのですが、網のスクリーンがついていて虫除けのようになっている。そして、さっきも言いましたが、水を再利用していこうという発想、フラーの昔からの発想なのですが、それが完結していない。それから断熱も含めた熱的環境もフラーにとってはまったく未完の状態だった。こういういろいろなことがあってあと七年かかると言っていたのだと思います。

11──再建されたバックミンスター・フラーのダイマキシオン・居住機械

11──再建されたバックミンスター・フラーのダイマキシオン・居住機械

12──展示ブースでは1947年当時の展示会の様子が再現されている

12──展示ブースでは1947年当時の展示会の様子が再現されている

13──アクリル製の嵌め殺し窓とアルミ合金外壁

13──アクリル製の嵌め殺し窓とアルミ合金外壁

14──円形プランの室内

14──円形プランの室内


15──中央の柱と曲面を構成する間仕切壁

15──中央の柱と曲面を構成する間仕切壁

16──オリジナルが運び込まれたダイマキシオンバスユニット

16──オリジナルが運び込まれたダイマキシオンバスユニット

17──柱脚部分の納まり

17──柱脚部分の納まり

18──天井仕上げの裏の構造

18──天井仕上げの裏の構造


19──腰壁部分がスライドする換気機構

19──腰壁部分がスライドする換気機構

ピエール・コーニッグ《ケーススタディハウスno.22》

私は以前からフラーと対比する形でイームズの話をしていたのですが、今日はイームズよりもっと若い建築家のピエール・コーニッグについてです。最近、日産のティファナという車のCMの中にピエール・コーニッグの名前がでていたことがあります。かなりマイナーな建築家のはずですけども、彼を一躍有名にしたのはこの住宅の写真です。この写真は建築写真のなかでもきわめて有名な部類に属します。これを撮影したのがシュールマンという写真家で、彼は「ケーススタディハウス」を随分撮っていますが、この写真は彼の代表作でありまたコーニッグの代表作でもあります。
コーニッグをフラーと対比的に考えているのには理由があります。フラーの時代、アメリカではまだ革新的なものとして金属を使っているのですが、それらはすべてオリジナルに開発したものなんですね。それに対してイームズ、そしてコーニッグに代表される世代では、金属製の建築部品も既製品として売っていて彼等はそれらをアセンブルするだけでよかったのです。コーニッグの住宅は、ヨーロッパからものすごく遠いカリフォルニアという地域の特性もあるのだと思いますけども、気負いのない、肩に力の入らない、そういう位置づけにある代表的な住宅のひとつだと思います。
コーニッグは一九二五年生まれで、ついこの間までは南カリフォルニアで建築を教えていました。「ケーススタディハウス」についてちょっとだけ説明します。一九四〇年代、カリフォルニアに『カリフォルニア・アーツ・アンド・アーキテクチャー』という雑誌がありました。後にカリフォルニアがとれて『アーツ・アンド・アーキテクチャー』という雑誌に名前が変わるのですが、そのオーナー兼編集長だったジョン・エンテンザが一種のパトロンになって、西海岸の若い建築家に『アーツ・アンド・アーキテクチャー』で発表するチャンスを与えていくのです。基本的には若い建築家が自分で仕事をとってくるのです。それを「ケーススタディハウス」のシリーズにしてほしければいつでも話をもってこいと。それで、エンテンザがいいと思ったら、これは「ケーススタディハウス」だというので、雑誌に大々的に発表してくれたわけです。そのなかで今日お話しするのは、「22」とナンバーが付いている「ケーススタディハウス」です。
コーニッグは二〇代からカリフォルニアで独立して設計していますので、一九五九年当時はまだ三〇代前半くらいでしょう。はじめの頃は、フランク・ロイド・ライトのところにいたラファエル・ソリアノという、西海岸ではちょっとした大物建築家のところで鉄骨住宅の作り方を学んでいます。この《ケーススタディハウスno.22》もまさに鉄骨だけの住宅です[図20]。もちろん基礎はコンクリートですが既製品の鉄骨を使っています。現在《ケーススタディハウスno.22》は、ロサンジェルスの歴史的建造物に指定されて、スタールさんという当時の施主がそのまま住んでいます。当時新婚でこの家を建てたのですけど、今はもう完全な高齢者の夫妻です。
これを見てわかるようにスチールサッシの大きな開口部です[図21]。彼が大スパンでどれだけスパンをとばすと一番経済的かということを追求していた時期のものです。コーニッグの設計手法で彼が究めていったものは、鉄骨の最適スパンということだけかもしれない。屋根はデッキプレートですけど、こういうふうにかけると一番安くできると。このあたりがフラーとは全然違うんです。フラーは安くできるかどうかなんて全然関係ない。しかし同じアメリカでもコーニッグの時代になると、一般向けの住宅を提案するさいに、どれだけ安くできるかという地に足の付いた攻め方に変わってきます。インダストリアライズド・ヴァナキュラーというのはそういう意味です。カリフォルニアらしいという意味でヴァナキュラーと言っているのですが、カリフォルニアの経済スパン、それから標準的部品、例えばサッシなどは売っているものをそのまま使うということが割り付けの基準になっているわけです。
しかもコーニッグはずっと工事を直営でやっていて、ゼネコンを間に入れず、全部サブコンに直に分離発注で流しています。なぜかというと、鉄骨をまともにやれる業者がいなかったかららしいです。鉄骨の住宅はまだ始まったばかりですから全部自分で面倒をみる。ゼネコンにまかせても結局は自分でやらなくてはいけないので直営でやったわけです。彼は二〇代の頃から、鉄骨の工場やサッシの工場に出入りして、仕事を覚えたと言われています。もうひとつはゼネコンと施主がくっついて建築家がやろうとしていることができなくなることに対する不信感があって、ゼネコンを外したいという気持ちが強くあったようです。
 《ケーススタディハウスno.22》は現在こういう状態です[図22]。すごくきれいな状態ですよね。当時施主は二七〇度ビュー、つまり開放された家が欲しいといって、当時のカリフォルニアのいろんな建築家に電話をして、コーニッグの持ってきた模型が一番気に入った案だったという話です。《ケーススタディハウスno.22》は丘の上の、非常に気持ちよいところに建っている住宅です。
プリントの下から四行目ぐらいに「脱ヒロイズム」と書いてありますが、これは私が言っていることではなくて、レイナー・バンハムの言葉です。ケーススタディハウスと同じ時期にミース・ファン・デル・ローエは《ファンズワース邸》を作っている。《ファンズワース邸》というのは高級の極地にある鉄骨です。溶接ひとつとってもものすごく丁寧にグラインダーをかけて仕上げているとバンハムは言っています。それに対して、コーニッグやクレイグ・エルウッドあるいはチャールズ・イームズなどの「ケーススタディハウス一派」の鉄骨は、溶接部はだらっとしたまま残っていますし、基礎との取り合いも基本的には鉄骨のフレームを基礎の型枠を組んだ中に埋め込んでいく。後でコンクリートを打ってしまえば建ちもでるし簡単じゃないかというのです。今回は構造の人と一緒に《ケーススタディハウスno.22》を見に行ったので見たこともない柱脚部分に急に焦点を合わせた見学になってしまいましたが、全部フレームは完結していて基礎の中に打込んで固めてしまっていました。現場でのパッチワーク的なノリですね。だからミースとは決定的に違っている。コーニッグたちは大衆向け、ミースの鉄骨は貴族、大金持ち向けです。
もうひとつバンハムが言っていることは、当時の──一九六〇年頃──イギリスではどの事務所に行ってもアメリカの『アーツ・アンド・アーキテクチャー』の切り抜きをピンナップして、こういうふうに作れたらなあと考えていたようです。また、当時確かスミッソン夫妻がケーススタディハウスの建築家を呼んでイギリスでシンポジウムをやったみたいです。その時にイギリス人から出た質問が、なぜボルト接合じゃなくて溶接なのかというものです。それは私にとってはなるほどと思わせられる逸話です。つまりヨーロッパで工業化を目指していた人たちは、あくまでも概念的なものですから、機械のように納まっているとか、鉄骨と鉄骨の取り合いというのは必ず乾式で、ボルトでメカニカルに納まっていくというわけですね。ところがアメリカで、工業化をバリバリやっているケーススタディハウスを見ると、みんな現場で溶接している。なぜかという質問をすると、ケーススタディハウスの連中は笑って、安いからに決まっているじゃないか、それ以外に理由なんかないよ、と言ったといいます。このあたりは非常に面白いところです。
 《ケーススタディハウスno.22》のスタール邸に戻りますが、これは大衆販売されて、どんどんこの家が建っていくのではなくて、工業化の結果としての建築材料を用いながら現場でパッチワーク的に作っていくという姿勢の表われ、ロケーションに合わせて作っていくというスタイルですね。少し時代が前のフラーは世界中に《ウィチタハウス》が建つという発想です。どんな地面でも柱一本建てて、ちょっと床を浮かせれば傾斜地でも建つ、場所を選ばないというコンセプトです。そういう違いも含めて、せっかく歴史的建造物に指定されているのだから、これを見ながら、いろいろ違いがあることを多くの人に確認していただけるといいなと思っています。

20──ピエール・コーニッグの《ケーススタディハウスno.22》

20──ピエール・コーニッグの《ケーススタディハウスno.22》

21──折板天井と大きなスチール・サッシ

21──折板天井と大きなスチール・サッシ

22──内装は居住後改装された部分も少なくない

22──内装は居住後改装された部分も少なくない

二〇〇四年一月一六日   東京大学工学部にて

質疑応答

難波──時代の潮流としては、工業生産化はオープン部品化の方向には向かわないという結論ですね。僕としては標準化・量産化の方向をめざしている立場なので、松村さんの結論は耳が痛いのですが、お話は大変興味深かった。
松村──一九六〇年頃のカリフォルニアではすでに建築部品はオープンに売られています。ここにいらっしゃる皆さんがご存知かどうか、日本では一九六七年に剣持伶さんが規格構成材建築方式で《秦邸》をつくっています。これは鉄骨を組んでALCをつけるというすごくピュアなコンセプトですが、現在は鉄骨でALCというとそこら中にあります。工夫しないでほっとくとみんなそうなる。だから、オープンな部品を組み合わせてものを作るというのはテーマとしてはとっくの昔に終わっていると僕は思います。そうではない工業的なポテンシャルの使い方はないのかという話になると、どうしてもクラフトとか、先ほどのダルベみたいに工場をやっている人と直結してものを作っていく世界、つまり、もう一回一〇〇年前に戻るようなストーリーがなければいけないかなというのが僕の考えです。個人的には《ガラスの家》のようなアプローチが好きで、その方向でジャン・プルーヴェを取り上げたわけです。
難波──二〇〇三年末に石山修武さんと一緒に上海に行ったんですが、上海の状況はそれとはまったく違うような感じがします。中国はこれから本当にオープン部品によってシステム建築をつくる時代に突入するような方向だと思いますが、どうでしょうか。
松村──そうかも知れないですが、中国中全部が鉄骨+ALCになったらどうしますか?  ALCの工場も、上海の工場は日本で見たことのない巨大な工場ですよね。ただ、中国でも鉄はまだだめでしよう。この間、上海で住宅のディベロッパーをやっている研究室の元学生が、日本のものを買いたいと言ってきたんですが、買いたいのは三種類しかない。ひとつは鉄骨です。鉄の品質は中国だとばらつきがあってどうにもならない。それからアルミサッシ。中国は八大都市で法律上レンガの使用が禁止されましたから外壁材がサイディングみたいなものになっていく。しかし、乾式外壁材になった時に納まるサッシのディテールが中国にはない。レンガのところにぽこっとはめて周りをモルタルで埋めちゃうような感じの納まりしかないわけですね。だからアルミサッシは欲しい。それと乾式外壁材だと。
中川──フラーはル・コルビュジエを、「技術の可能性を美学的なもので阻害している」と批判していますね。技術的な可能性という時、ある総合的なテーマに対する技術的なチャレンジがあって、その可能性が現実化していくものといかないものがあります。カリフォルニア的なケーススタディハウスは初めからある部分しかオープン化していかないと思うのですが。
つまりトータルな意味での技術的チャレンジではなくて、あらかじめ断念しているものがすごくある。経済的な事情や時代の違いがあると同時に、そこに通俗性としての実現の範囲内に選択肢が限られているように思います。
そこで問わなくてはいけないのは、なにが切り捨てられて、なにが固執されていったのかが問題じゃないかと思います。シャローの《ガラスの家》は、松村さんが言われたのとは少し違う夢みたいなものがあって、それはフラー的なものではない、もう少し長い伝統のなかから出てきたものという感じがするのです。
松村──確かにそうですね。
鈴木──カリフォルニアが溶接だというのはすごく面白い。イギリスでは鉄と言っても、キャストアイアン。これは結局溶接できないですからね。《ダルザス邸》は鍛鉄でしょう。だからそれと溶接できる鉄、鉄もかなり違うのかなと思います。
松村──そうですね。彼らはアイアンブリッジからやっていますから鉄の歴史が違うんでしょうね。
石山──シャローの窓を動かす装置のハンドルは、今の日本のメーカーのと全く同じですね。
難波──石山さんの家にもありますね。回転ハンドルの窓が。
鈴木──グロピウスが設計したデッサウの
 《バウハウス校舎》もやっています。キューガーデンをはじめとして、温室にも多いですね。
松村──一九世紀の温室の建築というのは先端的な技術ですからね。《ガラスの家》を見に行ったとき、ついでに同じ一九世紀に建てられた、ブリュッセルのそばにあるベルギー王家の温室──ロイヤルガーデン──も見てきましたが、構造技術だけじゃなくて、温室の空調なんかもすごいと思いました。
佐々木──鉄骨については、一九一〇年代にアメリカのエンジニア・アーキテクトのアルバート・カーンが、それまでの鉄骨建築の歴史を変えた建物を大量生産方式のH形鋼を使って工場建築を中心にずいぶんやっています。でも、ヨーロッパにいたミースはその頃はまだアングルをボルトで留めるようなことしかやっていなかった。だから、建築生産を支える工業技術のポテンシャル自体がアメリカとヨーロッパとではその当時から全然違っていたんじゃないですか。
松村──超高層があったかなかったかというのが決定的な違いだったと思います。デッキプレートにしても、超高層の現場用に出てきたもので、その生産量が余ったからよそにも売ってあげるよといって広がった部材ですね。だけどヨーロッパには超高層がなかった。
中川──石山さんはよくロールスロイスとかベンツは職人が作っているといってますが、自動車の場合の工業化・近代化と、建築のそれとは違いがあるような気がします。ただそれをどうやって言い当てるか。例えば超高層というのは、スケールの問題なのか生産方法の問題なのか。建築は土地という問題がありますから、生産方法の改善はあまりプレッシャーが大きくないですよね。
松村──そうですね。あと建築という分野は国際競争してないというのが決定的だと思います。例えば、一番アメリカ的な製造方式がヨーロッパにインパクトを与えたのは銃ですね。それこそロンドンの万博の水晶宮の中で展示されたアメリカのコルト銃は、アメリカの生産方式では、圧倒的に安く早く大量にできる。銃の生産は典型的な例ですがこれではヨーロッパは負けます。自動車もはじめのうちはドメスティックなマーケットでやっていても、市場での戦争になったらすぐに、それこそトヨタの看板方式でもなんでも取り入れて国際競争せざるを得ない。フォードにしてもそうでしょう。でも、建築は西海岸と東海岸では全く競争をしていないですから互いに影響すらない。
鈴木──フォードの話で面白いなと思ったことがあります。鉄鋼王カーネギーとかアメリカの金持というのはだいたい美術館を建てますよね。でもフォードは全然そういう趣味はなかったらしいんです。金持ちだというので、アメリカ中の画商が連合軍を組んで、自分たちの絵を特別印刷のものすごい画集に作って、それでフォードのところに行って、こういう絵はどうですかって見せたというんです。フォードは大変喜んで、お母さん来なさいよ、すばらしい「本」が来たと(笑)。画商たちは困ってしまってフォードに、この絵の本物を買いませんかって言ったら、いらないよこの本があるんだから、と。だから、車屋さんの持っている、モノに対する意識というのが全然違うのではないかと思います。
伊藤──《ガラスの家》と《アルミネア》、 《ウィチタハウス》と《ケーススタディハウスno.22 スタール邸》の二つずつのセットはそれぞれ近い時代で対比的なものでしたが、全体のストーリーを聞くと、最初の《ガラスの家》はヨーロッパでつくられ、次いで
 《アルミネア》はヨーロッパ人であるスイス人がアメリカにやってきてつくった。フラーはアメリカではかなり特異な存在で、最後のコーニッグは現在のアメリカ大衆化社会そのものである、そういうストーリーに読めるのです。工業化の歴史を考えた時、このストーリーは一種の消費経済に展開していってしまったということになるのですが、松村さんは、最初のヨーロッパ発のところにこそ可能性があると見ておられるのではないか。あるいはそこに戻るチャンネルというのか。そこにこの研究会のひとつの狙いがあるのだろうと思うのですが。
松村──一九九二年頃にMITの経済学者が書いた『第二の産業分水嶺』(The Second Divide of the Industry)という本があります。アメリカが自信を失って「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われていた──デトロイトでは日本車がぶち壊されていた──頃の経済の本なのですが、この経済学者が当時注目していたエリアが、サードイタリアという、イタリア北部のヴェネツィアからミラノにかけてのゾーンです。彼の説の該当部分だけ抜きだすと、そのゾーンは世界で一番成長していると書かれています。実際に九〇年代の終わり頃の『日経ビジネス』なんかを開いてみると、なぜ彼らは豊かで成長しているのかという「サードイタリア特集」が組まれていたりもしました。
この経済学者のストーリーはすごく面白くて、二〇世紀初頭、モノの生産にはクラフトマンシップとマスプロダクションという二つの可能性があった。例えば自転車は、一九世紀の終わりにマスプロダクションに向かいます。その時点でクラフトマンシップだけの時代が終焉を迎える。さらにフォードのモデルTの登場によって、決着が着いたかにみえます。つまりそこで、勝者はマスプロダクションでクラフトマンシップは敗者として地下に潜ったというのです。しかし、二〇世紀にはいって、表面はマスプロダクションの水が流れてみんなマスプロでやっているように見えたけれども、地下水脈は一〇〇年間ずっと流れ続けていて、いま、サードイタリアからその水脈が湧き出てきているというのです。例えばアンコナという町に行くと靴しか作ってないけれども、そのかわりアンコナの靴は世界でそこにしかできない靴を作っている。あるいはカラーラの大理石も、ミケランジェロの時代からカラーラです、石と言ったらいまでもカラーラだ、世界中が言っている。そこにはけっして大企業がない。中小企業で彼らが仕事をまわすシステムを持っていて町の中で分業しているのです。染めはあそこの誰々さんが得意、切るのはなんといってもあそこだと、職人がグループを組んでいる。
伊藤──かつての京都の西陣みたいな感じですね。
松村──みんなで基金を出し合っているわけですね。それが結局世界の中で競争力を持てるものを作るモデルであると『第二の産業分水嶺』の著者は言うわけです。アメリカは日本の車なんか潰すのではなく、サードイタリアのようにものを作らなくてはだめよという本なのです。ちょうど僕はジャン・プルーヴェを位置づけようとしていたときと重なっていたのですが、これだっていう気がしました。ジャン・プルーヴェこそまさに一九世紀的クラフトマンシップに体の芯まで染まっていて、地下水脈が吹き出るようにプルーヴェ的モデルが新しい可能性を持ち始めるのじゃないかなと思ったわけです。
伊藤──それが生かされる地域とか社会が必要ですね。
石山──フェラーリなんて車は今でも完全に地域産業ですよね。
松村──あれはすごく面白いですよね。北部イタリアは謎です。
伊藤──稲垣栄三先生の息子さんがイタリア経済史をやっていて、あそこの経済というのは難しい、地域で成り立っている経済ですから、仕組みがぜんぜん違っていて、アメリカのグローバリズムとは全然違う、と言ってますね。
嘉納──生産の方法に、プレアッセンブルというのがありますよね。今日話されたものでは、部品は工場だけれど、住宅はある程度プレアッセンブル的に作ったりしているのでしょうか?
松村──今日お話したものはほとんどプレアッセンブルしていないです。ただ、シャローの《ガラスの家》もそうですけど、サイトでガラスブロックを一枚のパネルにしてから、ティルトアップするというようなことはしています。
ケーススタディハウスの鉄骨なんかも門型に組んで立ち上げるという程度だと思います。京呂組みたいに。僕はアメリカでツーバイフォーの歴史を追いかけようとしていたことがありました。アメリカの住宅はプレハブがことごとく敗北していくのですが、それは在来工法であるツーバイフォーが決定的な強さを持っていたからですね。現場でプラットフォームを作ってはそこで壁を寝かして壁をみんなで立ち上げるという、ツーバイフォーのプラットフォーム工法の生産性には、下手に工場投資なんかしても勝てないわけです。しかもそれは、僕の調べたところでは職人の職の字もないような西海岸から出ている工法なんです。いまでもそうですが、例えばカーテンウォールの作り方にしても、東海岸ではコンクリートに石を打ち込むのに、カリフォルニアでは鉄のフレームに石を貼付けたりしています。なんでこんなことができているかというと、東海岸ではユニオンが強くて工法が変わると利権が絡んでえらいことになるからできないんです。
嘉納──部品だけは工業化なのだけど、作り方は現場合わせ的につくっている部分があるわけですね?
松村──ケーススタディハウスはそうです。別に工場があるわけでもなく、ただ材料を買ってきて、現場合わせ的な作り方をする。フラーのダイマキシオン・居住機械は航空機産業で作っていますから、極めて精巧な加工機械で、ものすごく緻密な設計をしている。だからきれいにカットされて加工されたものをあとは組み立てるだけという状態にフラーの方はなっていたはずです。
鈴木──今日の話は割合インダストリアル・ヴァナキュラーの持っている魅力と可能性を評価されているのではないかという気がしました。例えば、スミッソンがケーススタディハウスの連中を呼んだというエピソードを紹介していますが、バンハムとスミッソンは五〇年代に一緒につるんでいます。その当時──戦後すぐのイギリス──は、ハーバード・リードがリーダーシップを握っていて、その理念としてのモダニズム、モダンデザインが主流だった。それに対して彼らはインディペンデント・グループを作って、もうちょっと工業を重視しろ、アメリカイメージを追っかけろとやったわけです。スミッソンは社会派のほうへ行っちゃうのですが、バンハムはインダストリアル・ヴァナキュラーを追っかけていた。六〇年代にアーキグラムが出てきて、バンハムは一生懸命アーキグラムの方に肩入れします。そしてアーキグラムに影響されちゃうところがあるのです。アーキグラムには機械のイメージというのがあるのですが、それはボルト締め、部品で作って機械でやるというものですね。その少しあとの世代にノーマン・フォスターらがでてきて、それで彼らがまたフラーの影響を受ける。その意味ではイギリスのほうがヴァナキュラーじゃなくて機械部品でやりたい。
松村──西海岸の典型的なのはフランク・O・ゲーリーで、彼は今日の文脈でもまったくケーススタディハウス的な建築家です。自邸がそうですけど、パッチワーク的。ロスのディズニーホールも見てきましたが、あれも決まりも何もない。システムもイメージ的なものはなくてただそれでできちゃう。
今の航空機産業が使っているCADCAMのシステムを使えば、こんなものはできるのだからということで、理念的な「システム」とは関係なく、使える最先端の工業技術を使って自由にやっちゃう。こういうのを見ますと西海岸にはそういう独特の土壌というのがあるのではないでしょうか。
難波──『第一機械時代の理論とデザイン』を書いたレイナー・バンハムは、最初の頃はテクノロジカルな視点で建築を見ていましたが、『ポップカルチャー建築』をまとめた頃には、ロサンジェルスに移って映画やイメージのほうへ視点を移行させ、イギリスのハイテクから離れていきましたね。彼はなんとか両者を繋ごうとしていたような気もします。結局、テクノロジーが世界を覆い尽くしポピュラー・カルチャーに浸透していったら、ロスみたいな都市になると考えていたのではないでしょうか。これは岸和郎さんから聞いた話ですが、イギリスは特に階級社会で、ハーバード・リードやニコラス・ペヴスナーといった連中はハイクラスで、バンハムはワーキングクラスだったから、そういうコンプレックスからポピュラー・カルチャーに惹かれていったのではないか。アートとしての建築によりも、テクノロジーの普遍性と国際性に期待したのも、そこに遠因があるんじゃないかという話しです。

本稿は第一回「技術と歴史研究会」(講師:松村秀一)のレクチャー、ディスカッションを採録したものである。

「技術と歴史研究会」設立主旨

・この研究会の目的は、建築・都市に関する技術を歴史的にとらえると同時に、建築・都市に関する歴史認識の方法を一種の技術=工学としてとらえ直すことにあります。
・技術=工学は、時代の歴史的制約を大きく受けているにもかかわらず、これまでは歴史的にとらえられてきませんでした。現代の工学的研究においては、依然として歴史的な視点が排除されています。
・他方で、建築史学は工学とは独立したジャンルと考えられてきたために、建築・都市を現実につくり上げている技術を、歴史的にとらえる視点を持ちませんでした。
・しかしながら一九世紀から二〇世紀にかけて展開した近代建築は、その根底においては近代技術の進展によって推進されてきたことは明らかです。したがって近代建築を歴史的に位置づけるには、技術的=工学的な視点が不可欠なはずです。
・近代建築は技術の進展にともなって、その表現と質を変えてきました。したがって近代的な技術の進展も歴史的にとらえ直される必要があります。
・近代建築と同様に、二一世紀初頭に勃興しようとしているサステイナブルな建築は、今まで以上に進展した科学技術によって支えられています。
・さらにサステイナブルな建築の現実化には、歴史的視点が不可欠です。なぜならサステイナブルな建築は、既存の建築・都市の上に、それを取り込む形で構築されるからです。
・したがってサステイナブルな建築の展開には技術と歴史を結びつける横断的な視点が不可欠です。
このような視点から、本研究会では、技術と歴史を横断する、新たな建築学的視点を提案したいと考えています。
文責:難波和彦   二〇〇四年一月

設立メンバー(五〇音順)

石山修武(早稲田大学)、嘉納成男(早稲田大学)、佐々木睦朗(法政大学)、鈴木博之(東京大学)、中川武(早稲田大学)、難波和彦(東京大学)、松村秀一(東京大学)、安田幸一(東京工業大学)

>松村秀一(マツムラ・シュウイチ)

1957年生
東京大学大学院工学系研究科建築学専攻教授。建築構法、建築生産。

>『10+1』 No.38

特集=建築と書物──読むこと、書くこと、つくること

>石山修武(イシヤマ・オサム)

1944年 -
建築家。早稲田大学理工学術院教授。

>隈研吾(クマ・ケンゴ)

1954年 -
建築家。東京大学教授。

>大野秀敏(オオノ・ヒデトシ)

1949年 -
建築科。東京大学新領域創成科学研究科社会文化環境学専攻教授。

>ル・コルビュジエ

1887年 - 1965年
建築家。

>山名善之(ヤマナヨシユキ)

1966年 -
建築設計・意匠/フランス政府公認建築家/博士(パリ大学I)/東京理科大学助教授。ワイ・アーキテクツ主宰。

>前川國男(マエカワ・クニオ)

1905年 - 1986年
建築家。前川國男建築設計事務所設立。

>建築写真

通常は、建築物の外観・内観を水平や垂直に配慮しつつ正確に撮った写真をさす。建物以...

>フランク・ロイド・ライト

1867年 - 1959年
建築家。

>レイナー・バンハム

1922年 - 1988年
建築史。ロンドン大学教授。

>ミース・ファン・デル・ローエ

1886年 - 1969年
建築家。

>ファンズワース邸

アメリカ、イリノイ 住宅 1950年

>チャールズ・イームズ

1907年 - 1978年
デザイナー、建築家。チャールズ&レイ・イームズ事務所主宰。

>バウハウス

1919年、ドイツのワイマール市に開校された、芸術学校。初代校長は建築家のW・グ...

>アーキグラム

イギリスの建築家集団。

>ノーマン・フォスター

1935年 -
建築家。フォスター+パートナーズ代表。

>フランク・O・ゲーリー(フランク・オーウェン・ゲーリー)

1929年 -
建築家。コロンビア大学教授。

>ニコラス・ペヴスナー

1902年 - 1983年
美術批評、美術史。ケンブリッジ大学教授。

>サステイナブル

現在の環境を維持すると同時に、人や環境に対する負荷を押さえ、将来の環境や次世代の...

>難波和彦(ナンバ・カズヒコ)

1947年 -
建築家。東京大学名誉教授。(株)難波和彦・界工作舍主宰。

>佐々木睦朗(ササキ・ムツロウ)

1946年 -
構造家。法政大学工学部建築学科教授。

>鈴木博之(スズキ・ヒロユキ)

1945年 -
建築史。東京大学大学院名誉教授、青山学院大学教授。