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読み解かれる住宅/読み解く快楽 | 山中新太郎
Unraveling the Housing: the Pleasure of Analysis | Yamanaka Shintaro
掲載『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) pp.114-115

読み解けない住宅

かつて篠原一男は「住宅は芸術である」と言った。唐突に聞こえるこの言葉には、時代を背景にした彼独特の住宅観があった。戦後間もない頃、建築生産の主流であった〈住宅〉。急速に発展する日本経済のなかで、住宅生産を取り巻く環境は驚くほど早く整備された。「住宅は芸術である」という篠原の論考が『新建築』に発表された一九六二年頃には、大衆へ向けた良質な小住宅の供給という多くの建築家を駆り立ててきたテーマから、建築家は徐々に自分たちの居場所を失いつつあった。生産性を背景にした住宅の時代が終焉を迎えようとしていたのだ。同じ論考のなかにある「建築家の参加する住宅設計はたしかに現代建築生産の泡沫」という彼の言葉には、当時、住宅を主戦場にしていた彼が感じた疎外感と焦燥感が込められていると見てよいだろう。
篠原は「住宅は芸術である」と言った後に、これが「住宅は建築といわれている領土から離れて独立する」ことを意味していると述べている。また、別の論考では「住宅は美しくなければならない」と述べ、その後に「美しいということばはそのまま受けとって頂きたい。美学の問題をここで論じようと思わないからだ」と続けている。ここで、篠原が〈住宅〉の存立条件として「芸術」や「美学」を挙げながら、それらを説明されえぬものとして解釈を留保していることに注目したい。短絡的な機能主義や合理主義を痛烈に批判する一方で、日本的な空間様式や美学に対してある種の親近感を述べている篠原は、芸術性や美意識という非合理性のなかに他の建築とは異なる〈住宅〉のアイデンティティを確保しようとしたのではないかと思える。生産性を背景にした建築には、わかりやすさやでき上がるものの汎用性が求められる。しかし、この分野に住宅作家が輝くことのできる場所はもはやない。芸術性や美意識は、いわばわかりやすさや汎用性の対極にあるものだ。篠原は、あえて芸術とは何か、美しいとは何かということを問わないことで、〈住宅〉に込められた「読み解かれない部分」を残そうとしているようにも思える。おそらく、篠原にとっては、読み解けない部分が残るからこそ、あるいは、説明しきれない部分が残るからこそ〈住宅〉だったのだ。

1──篠原一男『住宅論』

1──篠原一男『住宅論』

読み解かれる住宅

その時から四〇余年。住宅を取り巻く状況は大きく様変わりしている。今や住宅はあちこちのメディアに取り上げられ、建築家の意図がそこかしこで読み解かれている。これは建築全般の現象であると言えるが、そのなかでも住宅の扱われ方は他のビルディング・タイプを圧倒している。住宅は、他よりも優れて読み解かれる対象となることによって、建築の領土から離れて独立しようとしているのかもしれない。
このこと自体を肯定しても否定しても意味はない。有象無象の読み解きを一緒くたにすることは危険である。しかし、大量に流布している住宅の読みのなかでも、優れた読みは新たな読みを誘発するし、新たな創造の引き金ともなる。読み解かれるという言葉には、作品が消費されるようなネガティヴな響きもあるが、批評の持つ創造性をポジティヴにとらえれば、住宅が読み解かれる時代は「読み解かれない部分」に自らの存在意義を託すような時代よりも、新しい創意が生まれやすい環境であるとも言える。こうした時代の書物として、ここでは植田実による『集合住宅物語』(みすず書房、二〇〇四)と、塚本由晴西沢大良による『現代住宅研究』(INAX出版、二〇〇四)を挙げたい。

2──植田実『集合住宅物語』

2──植田実『集合住宅物語』

3──塚本由晴+西沢大良『現代住宅研究』

3──塚本由晴+西沢大良『現代住宅研究』

読み解く快楽

『集合住宅物語』は同潤会アパートから代官山ヒルサイドテラスまで、首都圏の代表的な集合住宅三九作品に対して、丹念な取材をもとにそれぞれの建物が歩んできた歴史を読み解いている。『都市住宅』から『住まい学体系』へ、編集者として四〇年にわたって住宅を見続けてきた植田は、集合住宅には「戸建てにおけるのとはまったく違う可能性を示唆する集合住宅生活の根付き」があり、「住まわれてきた歳月から建築が見えてくるもの」を拾い集めながら、「集まって住むことの命脈」を語ろうとする。取り上げた集合住宅が一九八〇年代初期までに完成したものに限定されているのは、経過した歳月から建築が見えてくるものにしたいという思いからだ。この本には、取り上げられた作品の往年の前衛性を再び明らかにする視点と、そこに重ねあわされた時間や実際の生活を観察するという視点の両方がある。同潤会アパートを「日本の集合住宅史上、ある意味ではもっとも恵まれた時代背景のもとに計画され、もっとも長い住体験を内包した、もっともラディカルで豊かな知恵を蓄積した遺産」と見る言説に、著者の集合住宅を読み込む射程が示されている。他にも荒廃した外装の裏に土浦亀城の設計によるカーテンウォールの凛とした佇まいが隠されている《旧徳田ビル》(一九三二)や、普通の団地に見える一三階建ての建築群が、一・五キロにわたるメガロマニアックな連続高層防火壁であることを示した「白鬚東地区防災拠点」(一九七八—八二)の記述など、本書では、日常の風景の中に埋没してもおかしくないような集合住宅に、興味深い前衛の痕跡があることを教えてくれる。登場した集合住宅たちは、植田に読み解かれることによって往年の輝きを取り戻し、新しい物語を紡ぎはじめる。
一方、『現代住宅研究』では、二〇世紀後半に建築雑誌に発表された建築家の設計による住宅作品を、二人の建築家がそれぞれの視点から読み取っている。戸建て住宅を中心に取り上げられた住宅数は三〇〇余点、掲載された図面は一〇〇〇枚を超える。「ハイブリッド」、「配置」、「斜面」、「小さな建物」、「増改築」、「アウトドア」……。目次を見るとミシェル・フーコーが引用した「シナのある百科事典」★一のように聞き覚えのあるタームが脈絡もなく並んでいるように見える。塚本+西沢はこれら特別な知識を必要としない、日常的に生活の中や住宅の中にある事や物を「アイテム」と呼び、現代住宅を批評する切り口としている。そして、アイテムごとに現代住宅を並べ、その取り扱い方の違いや共通点などを読み取ることで、各作品のあり方や作家の意図を読み取っている。一見強引にも思えるが、著名な住宅作品が思いもよらないアイテムによって、隣り合わされ、料理されていくのを読むのは、実に痛快だ。著者が「ほとんどの『現代住宅』は雑誌を通して経験されたものに過ぎない」と告白するように、過度の思い入れを排して、作品との一定の距離感を保ちながら「現代住宅」を材料として扱いきっているところが潔い。まるで自分たちのアイテムを使って「現代住宅」の見取り図をデザインし直しているかのようだ。「現代住宅」は彼らのアイテムによって新しい居場所を見つけたとも言える。
一方は取材をもとに集合住宅を読み解き、他方は雑誌を通して経験した住宅を読み解く。対象も手法も書き手の世代も異なる二冊であるが、〈住宅〉がさまざまなメディアで読解されつつある時代にあって、両書ともその空気を敏感に察知している点では共通している。いずれも住宅が読み解かれる時代にあって、〈住宅〉を読み解く快楽に満ちた二冊であると言えよう。


★一──ミシェル・フーコー『言葉と物──人文科学の考古学』(渡辺一民+佐々木明訳、新潮社、一九七四)。

>山中新太郎(ヤマナカ・シンタロウ)

1968年生
山中新太郎建築設計事務所主宰、日本大学理工学部助教。建築家。

>『10+1』 No.38

特集=建築と書物──読むこと、書くこと、つくること

>篠原一男(シノハラ・カズオ)

1925年 - 2006年
建築家。東京工業大学名誉教授。

>植田実(ウエダ・マコト)

1935年 -
エディター・建築批評。住まいの図書館出版局編集長。

>集合住宅物語

2004年3月1日

>塚本由晴(ツカモト・ヨシハル)

1965年 -
建築家。アトリエ・ワン共同主宰、東京工業大学大学院准教授、UCLA客員准教授。

>西沢大良(ニシザワ・タイラ)

1964年 -
建築家。西沢大良建築設計事務所主宰、東京芸術大学非常勤講師、東京理科大学非常勤講師。

>現代住宅研究

2004年2月1日

>団地

一般的には集合住宅の集合体を指す場合が多いが、都市計画上工業地域に建設された工場...

>言葉と物

1974年