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心の考古学へ向けて──都市的無意識のトポロジー | 田中純
Toward Archeology of the Mind: Topology of the Urban Unconscious | Tanaka Jun
掲載『10+1』 No.35 (建築の技法──19の建築的冒険) pp.2-11

1 ポリス成立のディアレクティカ

西洋における「政治」の成立は古代ギリシアにおける都市国家(ポリス)の創建と深く関わっている。文字通り『政治の成立』と題された木庭顕の著作は、紀元前八世紀後半のギリシアで生じ、ポリスと政治を生むこととなった社会変動の論理を緻密に再構成している★一。それによれば、「政治」なるものの概念(厳密に定義された木庭の用語で言えば「政治的パラデイクマ」)が成立するためには、「既存のパラデイクマへの直接的な準拠の拒否」を含む、相互に対抗する立場からの自由な議論に貫徹される思考様式が準備されなければならない。それを木庭は「ディアレクティカ」と呼ぶ。それ自体、ディアレクティックな木庭の議論は、準拠枠を厳密に構築するところから開始されており、簡単な要約を許さないが、ホメロスやヘシオドスのテクスト読解を通じて、ギリシア神話のなかにこのディアレクティカを読みとってゆくことになる。
ただし、ギリシア神話はそこで、他の神話と横並びに人類学的アプローチにゆだねられるのではない。ギリシア神話のテクストには、鮮明に対立する多様なヴァージョンが意識的に保存・蓄積されており、そのことによってディアレクティカを内包したパラデイクマの層をなしている。この点でそこには、素材である神話そのものに対するメタ・レベルからの抽象作用が働いている。読み解かれるべきはこの抽象作用の層なのである(それゆえ、そのテクストは他の神話と区別されて〈神話〉と表記される)。
そして、政治の成立を叙述するために利用できる史料の多くは実はそこにしかない。直接に政治システムの成立という事件を物語る伝承が残存しない(この点で「共和革命」をめぐる伝承をもつローマとは異なる)からである。巨大な社会変動の記憶はあたかも暗号化されたように〈神話〉のなかに眠っている。社会構造について報告する数少ない史料もまた、それが物語る出来事の正確な叙述としてではなく、むしろ歴史的なバイアスを孕んだパラデイクマとして、ほとんど〈神話〉分析のようにして解読されなければならない。
神々や英雄たちの演じる行為から読みとられたディアレクティカは精緻かつ霊妙であり、それを浮かび上がらせる木庭の手つきも水際立っているが、その仔細に触れることはここでの目的ではない。われわれにとって重要なのは、言語的史料と並ぶ一群の史料として木庭が取り上げる、「現実のパラデイクマP─Qが地表面に残した痕跡」★二、つまり、考古学的史料の分析である。それこそが「都市」の成立に直結するからだ。さらにこの種の史料は「政治の成立」についても特別の意味をもつ。なぜなら、政治の成立のメルクマールとなるのは、あるテリトリー上における人的組織の「分節(articulation)」だからである。「分節」が達成されている状態とは、テリトリーのすべての部分が複数の集団のどれかに一義的に帰属し、同時に複数の集団に帰属することがなく、なおかつ、これら諸集団がテリトリーを区分しつつ統合されていることをいう。したがって、それは共時的ないし通時的(系譜的)に何らかの頂点をもった関係性である「枝分節(segmentation)」とは異なり、その反対概念として定義される(この点を明確にするために木庭はそれを〈分節〉と表記している)。
ディアレクティカを記録したホメロスやヘシオドスのテクストが成立する前八世紀ごろに、地表面に残された痕跡にも劇的な変化が生じている。そのポイントは、特殊な特徴をもつ神殿を基軸とした、特殊な構造を有する「都市」の痕跡が出現することにある。これに先立つ直前の時代には地表面には葬送儀礼の痕跡としての墓しかなかったのに対し、前八世紀にはいっせいに、かつ、非常に際だったかたちで神殿が痕跡を残し始めるのだ。
古代ギリシア世界に現われる最初の目立った考古学的痕跡は、青銅器時代中期である紀元前一七世紀にいたるまでのモニュメント的な石室墓やそれが集まった集合墳丘墓である。これらは首長制に対応するものと見られる。前一六〇〇年前後になると、ミューケナイなどにおいて、石室墓の地表面上に円形の境界による区切りが設けられ、モニュメントの性格が二重に強められることになる。続いて、さらにそうした性格を強調する墓形式として、ドーム状に石を積み上げた内部空間に複数の世代にわたって埋葬をおこなう構造物が造られるようになる。これは全体が墳丘状に土盛りをされて埋められた。
紀元前一四世紀に、ミューケナイのこうした墳墓は巨大な複合的建造物である王宮に組み込まれるようになる。そこにはさらに神殿も分かちがたく一体化する。こうした形式はオリエントやエジプトの影響を受けて生成したものと思われるが、神殿と王宮のいずれもが中途半端な規模で合体している点から、首長制から王制への移行が完全ではなかったことを示すものと解釈される。
こうした建造物群の発展と蓄積は紀元前一二世紀あたりから始まる否定と破壊の波にさらされることになる。そうした傾向が決定的になるのが前一〇五〇年ごろである。その後、紀元前八世紀にいたるこの時代は古代ギリシアの「暗黒時代」と呼ばれる。考古学上のその特徴は、ミューケナイ型王宮の意識的破壊の痕跡、モニュメント化された墳墓の否定と人一人のために質素な墓のみを作る習慣、さらにそもそもそうした単一墓以外の痕跡を遺さない傾向といった点である。この単一墓は集落地一帯に広くランダムに散開する傾向をもつ。この時代の陶器についてもまた、それまでの伝統を全否定して、あらゆる具象的な図像が放棄され、幾何学紋様が多用されている。これらの考古学的徴表から読み取れるのは、先行する時代の首長制や王制への対抗意識を強くもちながら、なかば意図的により原始的な部族制へ反動的に逆行するかのような社会の様態である。
暗黒時代に変化が訪れるのは前九世紀からである。しかし、その徴候は都市によってさまざまで、のちにたどることになる発展過程も多様である。木庭が中心的に取り上げているアテナイでは、前九世紀半ばにいったん首長制を回復したようなモニュメント化された墓の痕跡を遺したのち、前八世紀末までには再びそうした徴表の全体が破壊されて抹消されるといった、紆余曲折した揺り戻しや切り返しの動きがあったものと見られている。
古代ギリシア世界全体としての大きな社会・経済的変動は紀元前七五〇年ごろに位置づけられ、このころに「ポリス」が成立したものと考えられる。しかし、そののちの前七世紀にいたってもなおポリス的な社会構造をもたないスパルタのような「アルカイック」な国家と、すでにポリスに移行したコリントやアルゴスのような「モダン」な国家との発展過程の違いは存在した。そうしたなかで、アテナイはスムーズにポリスへと移行したわけではなく、前七〇〇年ごろに首長制的徴表の破壊といったかたちで現われたものはポリス理念の転覆でもあって、アテナイではこのころ暗黒時代に類似した社会体制への逆行が生じ、前六世紀になってようやくポリスへの完全な発展を成し遂げることになった、と解釈する説もある。つまり、アテナイはいわば一種の「反動的」国家であったということだ★三。
このように地域によって移行過程にずれがあるとはいえ、ネクロポリスに関して初期ポリスが示す考古学的徴表は、それ以前のものと鮮やかな対照をなす点で共通している。木庭はその特徴を次のようにまとめている。

第一に、テリトリーに散開していた墓の徴表が一掃されて一点に集中する。まさにそのことを強調するかのように、出現したばかりの近傍の顕著な集落や「王宮」が破壊されて高々孤立した神殿に変えられてしまう。しかし第二に、一点に集中するとは言っても、その形態は微妙な特徴を示す。住居と神殿の複合体の空間とネクロポリスが互いに入り組まないような態様で厳密に区分されるのである。端的に言えば前者の空間が一義的な線によって区切られ、そこからネクロポリスがその外へ掃き出される。この「掃き出し」は厳密なものであるが、ただし掃き出されたネクロポリスは住居と神殿の複合体の空間と必ず一線を隔てて接続し、決して再びテリトリー一般の中に散っていくということはない。そして第三に、個々の墓の占める空間はしばしばよく仕切られ、他の墓に遮られることなく(「公的」に)外からそれぞれの墓にアクセスしうるように道が構造化される★四。


ネクロポリスの「掃き出し」はポリス成立にあたっての最大のメルクマールである。前八世紀に市域内から墓は外部に排除され、同時に神々と人間、そして死者たちのあいだの境界は物体的にも思考上も、はっきり堅固なものとなっていった。つまり、ネクロポリスの「掃き出し」は神域の境界画定ともリンクしている。この点についての木庭の論理展開ははなはだ抽象化されているためにたどりにくいものとなっているが、要するに、死者が儀礼的に占拠するテリトリー(ネクロポリス)をポリスから切断し、両者間に枝分節関係が生じないようにする(つまり完全に〈分節〉する)にはどうすればよいか、という問いの答えが、「およそテリトリー占拠の関係が許されない空間」すなわちまったく誰にも帰属しえない空間の切除・創出である、という命題に集約される。「その空間は神々と人々がそれぞれ厳密に区分された区画を占拠しつつ互いに完全に開かれた関係を持つことを保障される、ことによって実現される」★五。ネクロポリスはこの空間との分節的関係においてのみ観念されるとともに、この空間がもつ、儀礼的テリトリー占拠の場という性格を補強する役割を果たす。
このような空間創出のためにポリスは宗教の利用を不可欠とした。しかし、その利用の仕方は宗教そのものを中和してしまうようなものだった。そこでは神々がきわめて特殊な仕方で距離をもって観念されており、人間とのあいだの関係は切断されている。ホメロスやヘシオドスのテクストが準備したディアレクティカによって、〈神話〉は神々に対するこの距離を作り出していたのである。問題なのは、このように〈神話〉化された神々の観念を空間的に再現実化(=再現表象)し、現実のテリトリーを実際に占拠させることだった。こうした神々に人間を支配する力はない。神々は儀礼という芝居のなかでのみ生き、人々の宗教的活動も、演技に過ぎない祭祀という形式のみの、信仰をまったく欠いたものになる。そこではいわば、宗教が完全に政治化されてしまうのである。
そのとき、神々は人間の姿に具象化され、しかも裸体にできるだけ近いかたちの写実的な肉体をもって、特定の限定された空間に「住む」ことを強いられる。神々は無限定な空間に遍在すること、神秘的な部分、隠された部分をもつことを禁じられるのだ。神域の空間的な限定性を明確化するために、境界が容易に曖昧にならない堅固な建造物が造られる。それが神々の「住まい」としてのギリシア・ポリスの神殿である。この建築物が備えるべき条件は次のようなものだ。

つまり、神殿は他の構造物から構造的に切り離された神々の住居であるが、単にそれであるばかりではない。それは開かれた空間のただ中に浮かぶそれ自体開かれた空間でなくてはならない。この二つの条件を満たすために、神殿は二組の平行線によって切られた平面に構築されねばならない。その線ないしその延長が閉じていると、少なくとも抽象的に一方の閉じた先端から他方の被支配空間へ延びる方向性の観念が生じうることになる。まずこれを避けるためには、二組の厳密な平行線を使う以外にない。もちろんその技法自体はオリエント等に先例を持つ陳腐なものである。しかしそれだけを使って或る構造物を全くの解放空間の中に無方向に浮かべるということは初期ポリスの独創である。そしてそうして切った平面の上に建造される構築物の内部の空間を解放する。ギリシャ・ポリスの神殿は、内部に人を集め閉ざすそういう空間ではない。内部に人が集まるということを予定せず、またそれを不可能とする。それは外から見られるものである。しかも特定の方向から見られるように意識してその図を設計されるということがない。すべての方向から等しく見られるよう、つまりはじめから立体的な空間として設計される。その空洞の容積(volume)が強調されるのである★六。


列柱の使用は空間をこのように厳密に限定しながら、人々を囲い込まず、開かれた状態を保つためのものであると同時に、どこからでもアクセスできるように、方向性を消す効果も発揮した。この神殿内部では祭祀はおこなわれない。たとえば犠牲式は、神殿の前に置かれた、神殿からは独立した祭壇でなされたのである。神殿という建造物は、他の建造物とのあいだに枝分節関係を決して作ることなく、神々の儀礼的テリトリー占拠のための、厳密に区分された空間を創出するための仕掛けである。その空間には誰もが自由にアクセス可能であり、他方、それは人々を抱え込んで閉じ込めることもない。
古代ギリシアの都市(ポリス)とは、こうした神殿をはじめから複数、多元的に備えていた。上述のような神殿の性格からして、これら複数の神殿は互いに関連しあうことはなく、完全に個別に独立している。人々はこのように〈分節〉的関係にある複数の神殿にまったく自由にアクセスできる。これが単一の神殿であれば、そこに流れてゆく一様な集団ができるだろうが、複数ある場合には、そうした流れは複数になり、順路を設定する規則がないという前提のもとでならば、そうした流れが自由に交差するスペースが成立するはずである。木庭は「広場(アゴラ)」の生成をこうした経緯に見ている。そこは複数の区別された集団が互いに併存する空間であり、何ものにも組み込まれてはおらず、保護されてもいない公共の空間、「多くの完全に〈分節〉的な構造物に独立に接する、非方向的でそれ自体独立の解放空間」★七である。「都市」とはこの広場のように、一定のテリトリーのすべての集団がアクセスしうる、ないし、しなければならない開かれた空間であり、ポリスの成立とはこうした空間のシステムが生まれるということにほかならない。そして、政治とは畢竟〈分節〉のことにほかならず、都市の外部において諸集団が排他的に占拠するテリトリーのことを「領域」と言いかえれば、政治成立のためのひとつの条件とは、テリトリーが都市中心と領域とに判然と区別されることである。
整然と再構成されたポリス形成の論理には目を見張らされるばかりである。古代ギリシアの都市とは空間化されたディアレクティカ、ないし、ディアレクティカによって生成した空間なのだ。木庭によるこうした再構成が浮かび上がらせているのは、明晰な自覚をもった人びとの計画に基づいて都市や政治が成立したと言うよりも、〈神話〉に埋め込まれたディアレクティカが神殿への空間化を通じて広場や都市を生み出すにいたり、その都市的ディアレクティカが政治的主体としての「市民」の母胎になるといった経緯である。ポリスは市民に論理的に先行するのである(エミール・バンヴェニストはギリシアの都市─市民のこうした関係とローマのそれとが逆転していることを指摘した)★八。
マッシモ・カッチャーリは古代ギリシアのこうした都市─市民関係に呼応する共同体観や─種の古典性をミース・ファン・デル・ローエの建築に認めていた★九。たとえばバルセロナ・パヴィリオンが漂わせる神殿にも似た気配には、たしかに木庭が叙述する「開かれた空間のただ中に浮かぶそれ自体開かれた空間」の性格がうかがえる。ミースの空間構成の意図が、平面的に空間を切り取り限定したうえで、そこを最大限に開かれたものにすることであったこともまた周知の通りだ。もとよりその背景となる〈神話〉が二〇世紀の建築家にあったわけではないし、この神殿に「住む」神はいない──その内陣でひとを迎え入れるのは一体の女性裸像だけだ。にもかかわらず、一九二九年バルセロナ万国博覧会ドイツ館というこのワイマール民主主義の象徴は、そのアナクロニズム的な、ポリス成立期につながる神殿の開放空間がもつ古典性によって、西洋の「政治」の根源に位置する空間表象を呼び覚ましていたのかもしれない。
木庭は都市の存在は政治の成立にとって不可欠であると言う。とはいえ、この再構成過程で想定されたさまざまな作用が非物質的な手段で代替できれば、それでももちろんかまわない。逆に言えば、そのような代替が可能であるからこそ、人間は都市国家以外のかたちでも政治をもつことが可能になったのである。だが、古代ギリシアについて利用しうる史料のなかで、都市の考古学的徴表が政治にとって格段に重要なパラデイクマを示していることは疑いないだろう(それがポリス成立の決定的なメルクマールにはなりえないとしても)。
ただし、このようなポリス成立過程の追跡からは抜け落ちている要素があることも認めなければならない。それは奴隷の存在である。アテナイが奴隷制社会であったことはよく知られているが、家内奴隷制と市民権が出現して支配的な社会関係となるのは、ポリスの成立と同時期であったとされている★一〇。住民の二極的な階層分化はすでに古来から存在していたとはいえ、それがおそらくは内部的闘争の結果として、奴隷と市民というかたちに変質するのは、ほかでもない「政治」の成立と相即的だったのである。
ポリスと政治の誕生がディアレクティカを通じて、ディアレクティカとして語られる以上、奴隷という「言葉なき者」の影がそこからまったく消失するのは当然である。それを方法的な限界とは言わない。しかし、木庭によって再構成された政治や都市が、あまりにもよくできたモデルの擬制的な性格を帯びてしまっていることは否みがたい。その緻密で明晰な観念構造に魅了されながらも、ディアレクティカが排除してしまうもの、政治がその起源から見失っていたものとは何なのかを問うことに関心が向かう。
そしてさらに、そもそも政治を発生させない思考、その発生を食い止め、回避する思考に固有のポテンシャルはなかったのか、という問いもまた頭をもたげる。ポリス的な都市でも、王宮や神殿を中心としたオリエント的ないしエジプト的都市でもない、共同体の空間構造が、「政治」や専制的支配体制に代わる秩序を維持することはありえなかっただろうか。

2 心の縄文時代

たとえば、一見したところ、木庭の精緻な歴史学的検証とは対照的な「野放図」な仮説として、中沢新一による縄文環状集落の構造をめぐる指摘がある★一一。縄文中期の遺跡には、真ん中の広場のまわりに住居が配置される環状集落が多い。集会や祭りの場と推測される広場の地下には死者が埋葬されていた。つまり、生者の住居は死者の住む墓地を抱き込むように作られ、日常生活はつねに死の臨在のもとに繰り広げられていたように見える。
同様の集落構造はトロブリアンド諸島のオマラカナ族などにも存在する。同心円的構造それ自体だけであれば、中心/周辺、聖/俗、男/女、独身者/既婚者、生もの/火にかけたものといった二項対立からなる、双分制の論理的な帰結と見なすことができる。もとより、レヴィ=ストロースが説いているように、こうした一見したところの空間的配置の明快さは、ありのままの社会構造を示すものではなく、住民の意識にある、現実とは異なる空想的なモデルを表わしている。同心円的双分制を示す社会であっても、二元的構造ばかりでなく、三元的構造を内包している場合があるのだ★一二。レヴィ=ストロースがアマゾン河流域のボロロ族の集落に見いだしたのは、二元的な同心円的構造と直径的構造との共存状態が背後に隠している、そのような三元的構造だった(ボロロ族の集落に、埋葬場を中心とした縄文環状集落に近い構造があるとする中沢の指摘は、何らかの誤解に基づくものではないか)。
レヴィ=ストロースがたとえばボロロ族の集落構造に見るのは、原始的な社会構造の残存ではなく、きわめて複雑な構造が退化して表面的に歪んで表われた状態である。これに対して中沢は、環状集落と同様の構造が人類学的にある程度の拡がりをもって確認できることを踏まえつつも、先史時代へ向けて、集落の空間的配置が暗示する二元的構造そのもののトポロジカルな読みかえをおこなおうとする。そのために手がかりとされるのがひとつの縄文土器の造形である。
この人面付き深鉢は山梨県須玉町御所前から出土している。何か動物らしきものが土器を抱えるようにしていることが見て取れる。考古学者小林公明によれば、土器群に多く用いられる、蛙の眼を表わす二つの環の図像から、この動物は蛙であろうと推測できる。このことは、これと同じく取っ手部分に人面をもつ他の土器に、蛙の手を表わすと思われる三本指の図像の示されているものがあることからも裏づけられる★一三。
小林は縄文中期のおびただしい図像群を中国新石器時代の図像と比較対照しながら、そこに隠されたシンボリズムを読み解いている。蛙については、眼や胴部、三本指の手、屈曲した足といった身体部位が、さまざまな変形をともないながら単独ないし組み合わされて用いられることにより、いわば図像的な文字として意味作用をおこなっていることが確認できる。写実的に描かれた蛙ではなく、その特定の身体部位が蛙という観念を意味していることが、図像の反復的な使用から類推されるのである(小林はこのような図像を「写意」的な図像と呼ぶ)。写実的な形態から特徴的な身体部位が抽出され、単純化・変形されたうえで、「写意」的に用いられてゆく。その過程では人体形象との融合が起こり、半人半蛙的図像が生まれる。
縄文中期とほぼ対応する中国新石器文化の図像とこれらを比較してみると、蛙ないし半人半蛙図像の類似した表現が認められる。これは神話的世界観の共通性を示唆するものの、その内実については明らかにできない。そこで、中国後世の図像からの推測が試みられる。すると、殷・周文化の青銅器図像から漢の古代図像にいたるまで、蛙または半人半蛙の図像が依然として出現しており、これらの図像に対応する神話的世界像が文献によって確認できる。もちろん、その神話的世界像が新石器時代の図像が示す神話像と同一ではありえないにしても、一定の構造的特徴を備えた図像が時代的に継続して現われるならば、文献によって探りうる神話的世界像を新石器時代にまで遡行させて想定することに、ある程度の妥当性は与えられよう。
中国新石器時代の蛙図像と共通する特徴をもった図像は、たとえば長沙馬王堆漢墓出土の帛画におけるように、蛙が三日月のうえに載ったかたちで、さらに兎の図像もともなって、漢代の墓の壁画や出土帛画にいくつも見つかる。この月のなかにいる蛙は、蟾蜍せんじよと呼ばれる神話的なヒキガエルであるとされ、『淮南子』や『楚辞』によると、蟾蜍は月の陰気を、兎は陽気を示すのだという。馬王堆の帛画では、蟾蜍は陰月の暗い部分に棲まうように描かれ、兎は天翔けて月の陽気を増すものとして描かれているように見える。つまり、満ち欠けする月の作用を、蛙と兎という陰陽を表わす二つの動物図像によって示す神話的世界観が語られているのだ。
このような神話的観念が中国の新石器時代、ひいては日本の縄文中期の蛙図像に遡及的に想定することができるとすれば、土器における蛙図像と月のあいだに観念上の結びつきを推測できることになる。小林によれば、蛙の身体部位を表わす図像自体に陰月や三日月と同形的な要素があり、こうした月表象との関係性ゆえに、蛙の手や胴部だけが独立した図像記号となることも起こりえたものと解釈される。これによってたとえば、三つ指の手が形作る円弧のうえに蛙の胴部が載ったような奇妙な図像は、馬王堆帛画中の蟾蜍と三日月の関係に対応したものと理解できることになる。つまり、この場合には三日月が手に、蟾蜍が胴部のみに変形しているのである。
問題の縄文土器に戻れば、あたかも蛙の背中がぱっくりと割れて、そこから人面が出現しているように見える。蛙の胴にあたる部分が他の図像例では女陰を表わしていると思われる場合が多いことから、これを誕生の光景と見なすことが可能だろう。蛙の胴部が陰月をも多重的に表わすことを前提とすれば、この人面は陰月から生まれる新生児としての新月と見なしうる。新月や三日月を「眉月」と呼ぶことが暗示しているように、小林によれば、この人面における眉の表現も、これが新月であることを表わしている。なお、この点については、「眉=繭」(古語ではいずれも「まよ」)という言語的関係性から、眉は繭であり、かつ、月であって、眉から繭=新月が生まれる、といった表象の連鎖の可能性が別に指摘されている★一四。
いずれにしても、蛙から生まれようとしている人面は月の子であり、新月の光を表わすものと思われる。さらに、土器全体の構造を踏まえて、小林は次のように言う。

そして、前後どちらから見ても、この蛙の頭上に人面が戴かれているわけである。すると、これもやはり蛙、つまりは朔月に属する人物であって、月の子に対して母というべき存在、すなわち月母神の姿であろうと解釈するほかない。土器全体としては、月神の体が蛙であり、ふっくらとした器体がその胎内に擬せられているのである★一五。


小林の推理は歴史的・地域的な比較に基づいた図像分析として一定の説得力をもっている。中沢はその知見のうえに、蛙が神話でになう意味についての人類学的な知識を加えて、さらに踏み込んだ解釈をおこなう。多くの神話において、蛙は死の領域に近いところに棲息する両義的な動物と見なされている。蛙は陰月に住まい、あるいは、蛙そのものが「月の隈」であり、口から水を吐いて貴重な火を消してしまう。
このように死の要素を孕んだ蛙という動物の背中から新生児が生まれ出てくる図像に、中沢は、生と死がメビウスの帯のように(あるいはクラインの壺のように)ひとつながりになり、目に見えない生と死がまだ一つである領域からエネルギーが立ち上がり、新しい生命を生み出そうとする瞬間、生と死が分かれた世界への変化の瞬間の表現を見る。そして、縄文環状集落の構造には、ちょうどこれを逆転させた、生者の住む空間の「背中を割って」死者の世界への通路が開かれたような、いわばメビウスの帯がねじれて反転を起こす場所としての広場=墓地のあり方を見いだすのである。
それは双分的な構造の論理以前へ遡行し、そこに別の論理的「構造」を見いだそうとする思考の身ぶりである。人類学とは異なり、同時代の言語的史料をともなわず、図像や遺跡の空間配置から過去を復元するしかない考古学にとって、「思考」や「精神」、「心」といった対象へのアプローチには多大な困難がある。しかし、プロセス考古学とポスト・プロセス考古学の論争をへて、現在では「認知考古学」というかたちで「心の考古学」の方法論が模索されている★一六。中沢の議論は、冒険的にその「心」のモデルを提示しようとする試みだから、実証的に精緻な方法に基づくものとは必ずしも言えないかもしれない。だが、土器の造形に認められる世界認識と同型的な構造を環状集落に見いだすアナロジー思考は、「メビウスの帯(あるいはクラインの壺)」というトポロジーモデルとともに、発見的な価値をもつものになりえているように思われる。
たとえばこのような縄文人の心の世界において、葬送儀礼はどのようなものでありえただろうか。葬送儀礼一般についての原理的考察としてはロベール・エルツの論考があり、そこでは屍体と魂の二元論に基づく二重葬儀がその基本的な認識枠組みとされている。木庭はその枠組みから出発して、ホメロスのテクストに依拠した、つまり、政治の成立を前提にした古代ギリシア的な人類学の視点からする一般的定式化をおこなっている。それによれば、ひとの死は系譜をなすパラデイクマの変更であり、テリトリー占拠関係のドラスティックな変化を呼び起こすから、社会関係全体の配置はいったん解消され、再形成されなければならない。その過程をなす葬送儀礼において、死者は神話的パラデイクマの領域に入る。

その儀礼の内部においては、死者に「別の」テリトリーを実際に占拠させることがしばしば行なわれる。死者がそれまで占拠していたテリトリーを生者が新しく占拠しなければならず、死者が彼を通じて占拠し続けるのでないということを明確にするためには死者にあえて「別の」テリトリーを占拠させておくことが区別を明確にするゆえんである。つまりrite de passage[通過儀礼]としての葬送儀礼の中心的な内容は通常まさに死者に「別の」テリトリーを占拠させるということを現実に演じて見せることに存する。このようにして儀礼的な空間としての墓の観念が生ずる。それは通常のテリトリーでないにもかかわらずしかし現実の地表面の上を占拠する★一七。


最後の一文から明らかなように、「別の」テリトリーは「現実の地表面」上になければならない。そこを死者に占拠させることによって葬送儀礼が成り立つのである。ただし、木庭は古代ギリシアの例を念頭に、火葬による葬送は、極端な場合には墓をもつことなく、まったくの記号によって「別の」テリトリーを占拠する可能性を与えることを指摘している。
いずれにしても葬送儀礼の問題はこの「別の」テリトリーをどのように形成するかにある。すでに見たように、都市と政治の成立にあたっては、墓地の「掃き出し」というかたちで、「別の」テリトリーが市域外へと集中させられたのだった。このような分離それ自体は古代ギリシア特有のものでは、もちろん、ない。中沢も触れているように、縄文後期から弥生の集落では、同様に墓地が集落の外部へと「掃き出」されていることが確認できる。
縄文環状集落においては明らかに、屍体を火葬して抹消するなどの方法によって、「別の」テリトリーとしての墓が現実に地表面を占拠することが回避されているわけではない。屍体は集落の中央に埋葬された。では、そこは「別の」テリトリーとしての「墓」なのか。中沢がなかば直観したような縄文人の「心」を仮定すれば、そこに通過儀礼としての葬送儀礼の必要はあっただろうか。「別の」テリトリーといった観念がそこに想定しうるとしても、そのテリトリーのトポロジカルな配置関係は、単純に地表面(平面)上の〈分節〉には限られないのではなかろうか。さらに言えば、二重の占有に耐えうる空間がそこに観念されていたとしたらどうか。
「同一の空間は二重の占有に耐ええない」ゆえに、「歴史的隣接を空間的に表わそうとすれば、それは空間における隣接によってしかおこなわれえない」★一八と語ったフロイトの言葉が思い出される。あらゆる歴史的痕跡を同一の空間に保存し続ける空想上のローマ(現実にはありえない都市)を、彼はそのとき、無意識的記憶の隠喩としたのだった。
そのように「ありえない」空間を死者たちと生者たちが共有していたのだとしたら、テリトリー占拠の関係も、〈分節〉的なディアレクティカとはまったく異なるものでありえたはずであろう。こうした思考が、ひとつ間違えば単なる夢想にすぎないものに陥る危険は承知している。直接には神話を語らない図像や集落構造から、縄文人の思考を抽出するためには、周辺地域における図像との綿密な比較や文献資料に基づく神話的世界観の遡及可能性の検討が必要であろう。さらにより広範な地域に及ぶ神話素に関する人類学的な知見も不可欠であるにちがいない。しかし、そのうえで「心の考古学」に何よりも求められるのは、さまざまなレベルの同型性を見抜くことのできるアナロジー思考の能力であるように思われてならない。「認知」考古学は、この能力をめぐる認知科学的な解明にも関わることになろう。
そして、それは「心」そのものの考古学として、人間のあらゆる記憶を保存した無意識のなかに、自分の内部の縄文人を探し求める営みになるだろう。いまだ知られていない思考の可能性を過去に求めるために、危険だが、いや危険であるがゆえにスリリングな、アナロジー思考の冒険が求められるのである。

1──縄文環状集落 出典=冨樫泰時「縄文集落の変遷=東北」『季刊考古学』44

1──縄文環状集落
出典=冨樫泰時「縄文集落の変遷=東北」『季刊考古学』44

2──顔面把手付深鉢(山梨県須玉町御所前遺跡 縄文中期、須玉町教育委員会所蔵) ともに出典=中沢新一『精霊の王』

2──顔面把手付深鉢(山梨県須玉町御所前遺跡
縄文中期、須玉町教育委員会所蔵)
ともに出典=中沢新一『精霊の王』

3──顔面把手付深鉢(山梨県須玉町御所前遺跡 縄文中期、須玉町教育委員会所蔵) ともに出典=中沢新一『精霊の王』

3──顔面把手付深鉢(山梨県須玉町御所前遺跡
縄文中期、須玉町教育委員会所蔵)
ともに出典=中沢新一『精霊の王』

4──蛙の胴部(女陰)と手の組み合わせ図像、 富士見町九兵衛尾根2号住居址

4──蛙の胴部(女陰)と手の組み合わせ図像、
富士見町九兵衛尾根2号住居址

5──長沙馬王堆漢墓出土帛画(部分)、蟾蜍と兎 ともに出典=縄文造形研究会編『縄文図像学II』

5──長沙馬王堆漢墓出土帛画(部分)、蟾蜍と兎
ともに出典=縄文造形研究会編『縄文図像学II』


★一──木庭顕『政治の成立』(東京大学出版会、一九九七)参照。
★二──同、三一四頁。
★三──Ian Morris, Burial and Ancient Society; The Rise of the Greek City-state Cambridge, Cabridge University Press, 1987, p. 205参照。
★四──木庭、前掲書、三二八─三二九頁。
★五──同、三二九頁。
★六──同、三三五頁。
★七──同、三三九頁。
★八──Émile Benveniste: Problémes de linguistique générale, 2, Paris, Gallimard, 1974, chapitre xx: Deux modéles linguistiques de la cité,  pp.272-280.
★九──Massimo Cacciari, Res aedificatoria: Il "classico" di Mies van der Rohe, in Casabella, vol. 629, 1995, pp. 3-7.
★一〇──Morris, op.cit.参照。
★一一──中沢新一『神の発明  カイエ・ソバージュIV』(講談社、二〇〇三)九八─一〇三頁。
★一二──クロード・レヴィ=ストロース『構造人類学』(荒川幾男ほか訳、みすず書房、一九七二)三二〇頁、および一四八─一七九頁参照。
★一三──以下、小林の分析については次の論文による紹介に従う。島亨「〈土器身体〉の論理像:縄文論(一)」(縄文造形研究会編著『縄文図像学II  仮面と身体像』[言叢社、一九八九]所収)二七〇─二九四頁参照。
★一四──同、二八四─二八五頁における島の指摘。
★一五──富士見町編『富士見町史』(富士見町教育委員会、一九九一)より。なお、引用は中沢新一『精霊の王』(講談社、二〇〇三)二九六─二九七頁による。
★一六──松本直子『認知考古学の理論と実践的研究──縄文から弥生への社会・文化変化のプロセス』(九州大学出版会、二〇〇〇)第一部、三─六八頁参照。
★一七──木庭、前掲書、三一六頁。
★一八──ジークムント・フロイト「文化への不満」(『フロイト著作集』[井村恒郎ほか編、浜川祥枝訳、第三巻、人文書院、一九六九]、四三六頁)。

*この原稿は加筆訂正を施し、『都市の詩学──場所の記憶と徴候』として単行本化されています。

>田中純(タナカ・ジュン)

1960年生
東京大学大学院総合文化研究科教授。表象文化論、思想史。

>『10+1』 No.35

特集=建築の技法──19の建築的冒険

>ミース・ファン・デル・ローエ

1886年 - 1969年
建築家。